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11・ラベンダーの夜
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河村がフォギーナイトに顔を出したのは15時を少し回った頃だった。
河村の定刻である。
「ブレンド。」
つぶやきオーダーを聞き終わる前に伝票に書きつける。
起きたままの寝癖で、背中を丸めてのそのそとノートパソコンを開いている河村の横を素通りし、カウンター裏へ回ると、奥さんがひょこっと顔を出して、
「先生、お引越しいつ?」
と河村に声をかけた。
香子の心臓が大きく波打つ。
ああ、
と河村が奥さんの方を振り向かずに声だけで返事する。
「もう終わりました。一週間前かな。」
「え!?引っ越すって…結局町内?」
「はい。この人の家に。」
と河村が指差した先に、香子はいなかった。
え?香子ちゃんち!?
奥さんの甲高い声を背に、香子はトイレのドアをバタンと閉めた。
…言うなよ…。
頬が驚くべきスピードで熱くなる。
「いや、それは…大丈夫ですよ。」
初め、河村は静かに、穏やかに、ピシャリと断ってきた。
「僕を憐れんでくれてるのかもしれないですが、大丈夫です。前も言いましたけど、どこでも…」
「わたしが」
被せるように香子はまくしたてた。
「わたしがうちに住んで欲しいんです。家賃とか、別にいらないんです。子供の面倒も見なくて大丈夫です。ただ…」
「ただ?」
先生が首をかしげる。
「これから、寒くなります。」
途切れ途切れ、言葉を紡ぐ。
わかりやすく要点をまとめて話すのが苦手なのだ。よく夫に怒られていた。
話しているうちに相手が聞いてくれなくなってしまうことが多々あるから、焦ってしまう。
「わたしは冬の薪ストーブの使い方を知らないし、だから教えて欲しいし」
目を逸らさずに話そうと思ってたのに、途端に視線が河村の足下をさまよう。
コンバース、ハイカット、黒。
「これからの季節、車中泊なんて寒くて無理だし、先生炊き立てのご飯食べられなくなるし、」
ふうっと息を吸う。
「先生は…ほんとに何にもしなくていいんです。ただ、わたし1人だと本当に…本当に心細い日があって。夜があって。不安に押しつぶされそうな日ってあるんです。胸のね、ヘドロがじわっと。あ、ヘドロっていうのは本当ほあのヘドロじゃないんです、イメージが似てるというか。こうどろっとした。あ、そしたらどろっとか。まあいいんですけど。」
我ながら、話せば話すほど迷宮入りしてしまう。
だめだこりゃ。
気を緩めると涙が出そうになる。
まつげを伏せ、震える手で胡桃を抱き直すと、先生が
「そしたら今年はみんなで薪割りしましょうか。」
と、なんでもないように言うので最初スルーしてしまった。
時間差で、河村の顔を見上げる。
「緋色くんも楽しめるんじゃないかな。」
薄い笑みを浮かべる河村。
相変わらず、目はよく見えないけど。
風邪はとっくに治ったのに、一瞬意識が遠のいたような気がした。
果たして河村は、翌日本当に引っ越してきた。
と言っても、ボストンバッグと、軽バンとカブだけで。
「都会に住んでた時からずっと相棒だったから、こっちきてもなかなか処分できんくて」
と、カブを隣家から手押しで移動させてきた河村は言う。今回、意を決して処分するつもりだったらしい。
「都会…て、東京?大阪ですか?」
「言うても広島です」
ああ。納得する。
知らないイントネーションが含まれてるような気がしてたんだ。
部屋は、二階の一部屋をあてがうことになった。
まだ開けていない段ボール箱の山をとりあえず納戸に仕舞う作業を河村に手伝ってもらう。
「…これ全部必要なものが入ってるんですか」
「多分ほとんど不要なんですけどね…。」
多分ほとんど不要なんだけど、どうする気にもなれない。と言うのが本当のところだ。
開けて処分するか、とっておくかの検討をする気力がわかない。
「そっか。」
呟くように言って、河村は段ボールを軽々運んで行く。
深く追及されないのも批判も、無論バカにもされないのが心底楽に感じる。
他人だからこそなのだろう。
「あ、先生その箱は」
河村が手にかけたひとつの段ボールを受け取り、自分の寝室に置いた。
「それは必要なんや。」
先生はまた呟くように言って、他の段ボールをおさめた。
河村はいわゆる店子という形で香子の家に住み着いたので、本当に家庭に入り込むことをしない。
最初の2日ほど、朝食を共にした。
そして3日目、降りてこないのでどうしたのか問うと、どうやら普段寝ている時間にに起きてきたら寝込んでしまったようだ。
その日から、朝階下に降りてくることすらしなくなった。
昼過ぎに起きて、自分の洗濯物をコインランドリーに放り込んでからフォギーナイトに来ている。
夕食は共に摂る。4日は香子の作るおかずを食べていたのだが、5日目にお腹を壊してしまった。
曰く、「食べられるものしか食べられない」のだそうだ。
白いご飯と納豆、豆腐、味噌汁。
野菜も食べなきゃ、肉魚も食べないのだ。
緋色より酷い偏食。
そりゃ痩せているわけだ。
というわけで、夕食の席にはつくが、香子が河村のために用意するものは何もない。
ただ、白いご飯にはこだわりが強く、持参の羽釜で炊かせて欲しいというので、炊飯だけは河村の担当となった。
7日目の夜。
子供たちが寝静まった深い夜、ソファーでまどろんでいた香子の鼻先を、知った香りがくすぐる。
今日は…ユーカリ。
「あ、起こしちゃいました?」
河村がコーヒー用の湯を沸かしていた。
「あ…いえ…」
河村が静かに手前の小さなテーブルにコーヒーを置いた。
湯気がほわほわと生まれては消える。
じんわり、あったかい。
「先生、無理してないですか?」
ずっと気になっていたことだった。
「先生1人がお好きそうですし、本当は見知らぬ他人と同居なんて嫌なんじゃないかと。」
香子がおずおずと切り出すと、河村はコーヒーカップを薄い唇から少し離した。
「俺、決めてることがあるんです。自分はすごくマイペースで、色々気づかない人間だから、誰かの厚意に気づいたときは、出来る範囲で返すって。朝ごはんも夕食のおかずも、とりあえずトライしてみて、無理だったのでやめたのです。」
と笑ってまたコーヒーを口に含む。
「だから、現状無理なことはしていないです。と言うかできない人間なので。できることだけしている分には、自分は大丈夫です。」
そうか。
なら安心…していいのか?
「あ、あと。眠れないって言ってたっけ。」
「あ、はい。」
「これ、ラベンダーのオイル。」
と茶色い小さな小瓶と、袋に入った石を渡された。
「このストーンに垂らすと安眠できるかも。」
アロマテラピー男子…。
前の彼女にでも教えてもらったのかしら。
言われた通り、枕元で数滴、石にアロマを吸い込ませる。
ふわっとトップノートが鼻をくすぐる。
東京にいた頃、付き合いで幼稚園のアロマテラピー講座に行ったことがあるけど、結局家で実践はできなかったのだ。
確かに、いいな…いい…。
花の香りに包まれてまどろむ。
少なくともこの一年で、一番よく寝めた。
河村の定刻である。
「ブレンド。」
つぶやきオーダーを聞き終わる前に伝票に書きつける。
起きたままの寝癖で、背中を丸めてのそのそとノートパソコンを開いている河村の横を素通りし、カウンター裏へ回ると、奥さんがひょこっと顔を出して、
「先生、お引越しいつ?」
と河村に声をかけた。
香子の心臓が大きく波打つ。
ああ、
と河村が奥さんの方を振り向かずに声だけで返事する。
「もう終わりました。一週間前かな。」
「え!?引っ越すって…結局町内?」
「はい。この人の家に。」
と河村が指差した先に、香子はいなかった。
え?香子ちゃんち!?
奥さんの甲高い声を背に、香子はトイレのドアをバタンと閉めた。
…言うなよ…。
頬が驚くべきスピードで熱くなる。
「いや、それは…大丈夫ですよ。」
初め、河村は静かに、穏やかに、ピシャリと断ってきた。
「僕を憐れんでくれてるのかもしれないですが、大丈夫です。前も言いましたけど、どこでも…」
「わたしが」
被せるように香子はまくしたてた。
「わたしがうちに住んで欲しいんです。家賃とか、別にいらないんです。子供の面倒も見なくて大丈夫です。ただ…」
「ただ?」
先生が首をかしげる。
「これから、寒くなります。」
途切れ途切れ、言葉を紡ぐ。
わかりやすく要点をまとめて話すのが苦手なのだ。よく夫に怒られていた。
話しているうちに相手が聞いてくれなくなってしまうことが多々あるから、焦ってしまう。
「わたしは冬の薪ストーブの使い方を知らないし、だから教えて欲しいし」
目を逸らさずに話そうと思ってたのに、途端に視線が河村の足下をさまよう。
コンバース、ハイカット、黒。
「これからの季節、車中泊なんて寒くて無理だし、先生炊き立てのご飯食べられなくなるし、」
ふうっと息を吸う。
「先生は…ほんとに何にもしなくていいんです。ただ、わたし1人だと本当に…本当に心細い日があって。夜があって。不安に押しつぶされそうな日ってあるんです。胸のね、ヘドロがじわっと。あ、ヘドロっていうのは本当ほあのヘドロじゃないんです、イメージが似てるというか。こうどろっとした。あ、そしたらどろっとか。まあいいんですけど。」
我ながら、話せば話すほど迷宮入りしてしまう。
だめだこりゃ。
気を緩めると涙が出そうになる。
まつげを伏せ、震える手で胡桃を抱き直すと、先生が
「そしたら今年はみんなで薪割りしましょうか。」
と、なんでもないように言うので最初スルーしてしまった。
時間差で、河村の顔を見上げる。
「緋色くんも楽しめるんじゃないかな。」
薄い笑みを浮かべる河村。
相変わらず、目はよく見えないけど。
風邪はとっくに治ったのに、一瞬意識が遠のいたような気がした。
果たして河村は、翌日本当に引っ越してきた。
と言っても、ボストンバッグと、軽バンとカブだけで。
「都会に住んでた時からずっと相棒だったから、こっちきてもなかなか処分できんくて」
と、カブを隣家から手押しで移動させてきた河村は言う。今回、意を決して処分するつもりだったらしい。
「都会…て、東京?大阪ですか?」
「言うても広島です」
ああ。納得する。
知らないイントネーションが含まれてるような気がしてたんだ。
部屋は、二階の一部屋をあてがうことになった。
まだ開けていない段ボール箱の山をとりあえず納戸に仕舞う作業を河村に手伝ってもらう。
「…これ全部必要なものが入ってるんですか」
「多分ほとんど不要なんですけどね…。」
多分ほとんど不要なんだけど、どうする気にもなれない。と言うのが本当のところだ。
開けて処分するか、とっておくかの検討をする気力がわかない。
「そっか。」
呟くように言って、河村は段ボールを軽々運んで行く。
深く追及されないのも批判も、無論バカにもされないのが心底楽に感じる。
他人だからこそなのだろう。
「あ、先生その箱は」
河村が手にかけたひとつの段ボールを受け取り、自分の寝室に置いた。
「それは必要なんや。」
先生はまた呟くように言って、他の段ボールをおさめた。
河村はいわゆる店子という形で香子の家に住み着いたので、本当に家庭に入り込むことをしない。
最初の2日ほど、朝食を共にした。
そして3日目、降りてこないのでどうしたのか問うと、どうやら普段寝ている時間にに起きてきたら寝込んでしまったようだ。
その日から、朝階下に降りてくることすらしなくなった。
昼過ぎに起きて、自分の洗濯物をコインランドリーに放り込んでからフォギーナイトに来ている。
夕食は共に摂る。4日は香子の作るおかずを食べていたのだが、5日目にお腹を壊してしまった。
曰く、「食べられるものしか食べられない」のだそうだ。
白いご飯と納豆、豆腐、味噌汁。
野菜も食べなきゃ、肉魚も食べないのだ。
緋色より酷い偏食。
そりゃ痩せているわけだ。
というわけで、夕食の席にはつくが、香子が河村のために用意するものは何もない。
ただ、白いご飯にはこだわりが強く、持参の羽釜で炊かせて欲しいというので、炊飯だけは河村の担当となった。
7日目の夜。
子供たちが寝静まった深い夜、ソファーでまどろんでいた香子の鼻先を、知った香りがくすぐる。
今日は…ユーカリ。
「あ、起こしちゃいました?」
河村がコーヒー用の湯を沸かしていた。
「あ…いえ…」
河村が静かに手前の小さなテーブルにコーヒーを置いた。
湯気がほわほわと生まれては消える。
じんわり、あったかい。
「先生、無理してないですか?」
ずっと気になっていたことだった。
「先生1人がお好きそうですし、本当は見知らぬ他人と同居なんて嫌なんじゃないかと。」
香子がおずおずと切り出すと、河村はコーヒーカップを薄い唇から少し離した。
「俺、決めてることがあるんです。自分はすごくマイペースで、色々気づかない人間だから、誰かの厚意に気づいたときは、出来る範囲で返すって。朝ごはんも夕食のおかずも、とりあえずトライしてみて、無理だったのでやめたのです。」
と笑ってまたコーヒーを口に含む。
「だから、現状無理なことはしていないです。と言うかできない人間なので。できることだけしている分には、自分は大丈夫です。」
そうか。
なら安心…していいのか?
「あ、あと。眠れないって言ってたっけ。」
「あ、はい。」
「これ、ラベンダーのオイル。」
と茶色い小さな小瓶と、袋に入った石を渡された。
「このストーンに垂らすと安眠できるかも。」
アロマテラピー男子…。
前の彼女にでも教えてもらったのかしら。
言われた通り、枕元で数滴、石にアロマを吸い込ませる。
ふわっとトップノートが鼻をくすぐる。
東京にいた頃、付き合いで幼稚園のアロマテラピー講座に行ったことがあるけど、結局家で実践はできなかったのだ。
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