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14・深夜の体温
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最近河村は忙しい様子だ。
「先生、連載決まったんだってね。」
奥さんに言われてそれを知り、カウンター越しにそれでも黙って仕事している河村を振り返った。
香子は河村が忙しそうでも、なんで忙しいのか、と言うことまで頭が回らない。
そうか、忙しいならごはん代わりに炊いて、お部屋に届けてあげようかな。
と言うところで止まってしまい、理由を問うことはしないのだ。
そしてもちろん、河村が自らその理由を言ってくることはない。
「とは言え、ネットの連載ですよ。」
河村はいつもの通り、こともなげに、無表情で言う。
「でもすごいじゃないですか。」
香子の方がテンションが上がってしまう。
「どんな内容なんですか?というか、小説なんですか?エッセイ?ルポ?」
河村はいつになく身を乗り出してくる香子を見て、
「黙秘します。」
とパソコンに目を落として沈黙した。
さすがに河村の素っ気ない対応には慣れたが、
なんで教えてくれないのか。
「そいや先生、あの美人の編集さん来るの?」
とマスターが弾んだ声で河村に聞いている。
ほほう。そんな人がいるのね。
たまに東京から出版社の人が来ると言ってはいたが…。
河村は答えず、黙々と作業に没頭している。
香子はその背中を、じっと見るしかない。
坂本とは、あれから何度か食事した。
とは言え休日に子供を預けて行くのは多方面に気を使いすぎて香子の精神がもたないので、もっぱら仕事の休憩を利用している。
坂本は優しく、気が利いて、常に楽しい話題を提供してくれる。
学生の頃の友達の話、東京時代行きつけだったお店、好きなアーティストのライブに足繁く通っていた話。
眼鏡に最初に気づいたのも坂本だった。
「香子さん、最近眼鏡だね。」
「そうなんです。わたし、ズボラだから眼鏡の方が楽で。」
眼鏡も似合ってる。
と坂本は目を細めて笑った後、釜焼のピザを頬張った。
コンタクトレンズをやめたのは経済的な理由だった。
毎月のバイト代は、緋色の療育や胡桃の体調不良で安定せず、
各種手当は貯金しておきたいと思いつつも、
手をつけてしまうことも多々。
河村が入れてくれる家賃兼生活費は、こちらが頼み込んで同居してもらってる手前、多くは取れない。
困窮…一歩手前といったところか。
とにかく今は、自分の消耗品に割く余裕はない。
なるべく早く正社員の職にありつきたいが、
緋色が小学校に上がるこの半年はこのままパートして、各方面の状態を整えてからにしようと決めた。
でも、そんなことは坂本には関係ない。
曖昧に笑って、ピザの端のカリカリの部分を口に運ぶ。
この部分、緋色が好きなんだよな。
わずかな罪悪感とともに、飲み下した。
ここ数日、河村はほぼ階下に降りてこない。
河村の部屋は施錠できるようにしたため、緋色や胡桃が勝手に入るようなこともなく、
一時的に四人家族に錯覚したこともあったが、一瞬にして三人家族に戻った感がある。
それでも、少し前まで顕著だった緋色の癇癪やパニックは落ち着きを見せ、胡桃もようやく保育園に慣れ、比較的穏やかな日々が過ごせている。
余計な刺激がないこの環境が香子にも、子供たちにも合っているのだ。
思えば東京時代は、子供のためにとせっせとイベントやら遊べる場所に通ったり、習い事を掛け持ちしたりしていたが全て徒労に終わった。
緋色や胡桃は毎日同じ環境の中で、ルーティンの中でこそ、安心して楽しみや喜びを見出せる。
ということに、あまり贅沢をさせてやれないこの状況になって初めて気づいた。
深夜。
コーヒーと塩にぎりを河村の部屋の前にそっと置き、メールする。
温かいうちに受け取って欲しいからだ。
10月も下旬となり、夜半はだいぶ冷え込むようになってきた。
暖房の効かない階段は肌寒い。厚手のフリースガウンの前を手で合わせ直し、二段降りた時ギイッとドアが開いて、のっそりと河村が出てきた。
久々に見る河村は想像より大きく見えて、香子は少し後ずさってしまった。
「あ、いつもありがとうございます。」
河村はいつも以上にボソボソと礼を言った。
目も合わない。
あら?こんな人だったっけ?
逆にジロジロ見てしまう。
「先生もしかして人見知ってますか?久々だから?」
「んなことはありません。」
青白い肌が赤みを帯びている。
それを見た香子の手は、気がついたら上に伸びていて、河村の頬をすうっと撫でていた。
うっすら生えた無精髭の質感が指にざらつく。
冷たい、少しカサついた肌。
河村の大きくて筋張った手が、香子の手に重なった途端、心臓が跳ね上がる。
触った
触った
頬は冷たいのに
手は驚くほど熱を帯びている。
河村の体温が伝染るように、
香子も自分の頬が熱くなるのがわかる。
わたしは…
河村は、静かに香子の手を自分から外して、手を離した。
「今度、坂本さんと会うんでしょ?緋色くんと、胡桃ちゃんも。」
さっきとは違う、表情の無い目。
いつもの、河村。
踵を返して、階段を駆け降りた。
息が上がる。と同時に、身体中の血の気が引いた気がした。
こころに冷たいしみが、じわじわ拡がる。
なんで、わたしは、
あんなことを。
数秒前の自分を、殺したい。
「先生、連載決まったんだってね。」
奥さんに言われてそれを知り、カウンター越しにそれでも黙って仕事している河村を振り返った。
香子は河村が忙しそうでも、なんで忙しいのか、と言うことまで頭が回らない。
そうか、忙しいならごはん代わりに炊いて、お部屋に届けてあげようかな。
と言うところで止まってしまい、理由を問うことはしないのだ。
そしてもちろん、河村が自らその理由を言ってくることはない。
「とは言え、ネットの連載ですよ。」
河村はいつもの通り、こともなげに、無表情で言う。
「でもすごいじゃないですか。」
香子の方がテンションが上がってしまう。
「どんな内容なんですか?というか、小説なんですか?エッセイ?ルポ?」
河村はいつになく身を乗り出してくる香子を見て、
「黙秘します。」
とパソコンに目を落として沈黙した。
さすがに河村の素っ気ない対応には慣れたが、
なんで教えてくれないのか。
「そいや先生、あの美人の編集さん来るの?」
とマスターが弾んだ声で河村に聞いている。
ほほう。そんな人がいるのね。
たまに東京から出版社の人が来ると言ってはいたが…。
河村は答えず、黙々と作業に没頭している。
香子はその背中を、じっと見るしかない。
坂本とは、あれから何度か食事した。
とは言え休日に子供を預けて行くのは多方面に気を使いすぎて香子の精神がもたないので、もっぱら仕事の休憩を利用している。
坂本は優しく、気が利いて、常に楽しい話題を提供してくれる。
学生の頃の友達の話、東京時代行きつけだったお店、好きなアーティストのライブに足繁く通っていた話。
眼鏡に最初に気づいたのも坂本だった。
「香子さん、最近眼鏡だね。」
「そうなんです。わたし、ズボラだから眼鏡の方が楽で。」
眼鏡も似合ってる。
と坂本は目を細めて笑った後、釜焼のピザを頬張った。
コンタクトレンズをやめたのは経済的な理由だった。
毎月のバイト代は、緋色の療育や胡桃の体調不良で安定せず、
各種手当は貯金しておきたいと思いつつも、
手をつけてしまうことも多々。
河村が入れてくれる家賃兼生活費は、こちらが頼み込んで同居してもらってる手前、多くは取れない。
困窮…一歩手前といったところか。
とにかく今は、自分の消耗品に割く余裕はない。
なるべく早く正社員の職にありつきたいが、
緋色が小学校に上がるこの半年はこのままパートして、各方面の状態を整えてからにしようと決めた。
でも、そんなことは坂本には関係ない。
曖昧に笑って、ピザの端のカリカリの部分を口に運ぶ。
この部分、緋色が好きなんだよな。
わずかな罪悪感とともに、飲み下した。
ここ数日、河村はほぼ階下に降りてこない。
河村の部屋は施錠できるようにしたため、緋色や胡桃が勝手に入るようなこともなく、
一時的に四人家族に錯覚したこともあったが、一瞬にして三人家族に戻った感がある。
それでも、少し前まで顕著だった緋色の癇癪やパニックは落ち着きを見せ、胡桃もようやく保育園に慣れ、比較的穏やかな日々が過ごせている。
余計な刺激がないこの環境が香子にも、子供たちにも合っているのだ。
思えば東京時代は、子供のためにとせっせとイベントやら遊べる場所に通ったり、習い事を掛け持ちしたりしていたが全て徒労に終わった。
緋色や胡桃は毎日同じ環境の中で、ルーティンの中でこそ、安心して楽しみや喜びを見出せる。
ということに、あまり贅沢をさせてやれないこの状況になって初めて気づいた。
深夜。
コーヒーと塩にぎりを河村の部屋の前にそっと置き、メールする。
温かいうちに受け取って欲しいからだ。
10月も下旬となり、夜半はだいぶ冷え込むようになってきた。
暖房の効かない階段は肌寒い。厚手のフリースガウンの前を手で合わせ直し、二段降りた時ギイッとドアが開いて、のっそりと河村が出てきた。
久々に見る河村は想像より大きく見えて、香子は少し後ずさってしまった。
「あ、いつもありがとうございます。」
河村はいつも以上にボソボソと礼を言った。
目も合わない。
あら?こんな人だったっけ?
逆にジロジロ見てしまう。
「先生もしかして人見知ってますか?久々だから?」
「んなことはありません。」
青白い肌が赤みを帯びている。
それを見た香子の手は、気がついたら上に伸びていて、河村の頬をすうっと撫でていた。
うっすら生えた無精髭の質感が指にざらつく。
冷たい、少しカサついた肌。
河村の大きくて筋張った手が、香子の手に重なった途端、心臓が跳ね上がる。
触った
触った
頬は冷たいのに
手は驚くほど熱を帯びている。
河村の体温が伝染るように、
香子も自分の頬が熱くなるのがわかる。
わたしは…
河村は、静かに香子の手を自分から外して、手を離した。
「今度、坂本さんと会うんでしょ?緋色くんと、胡桃ちゃんも。」
さっきとは違う、表情の無い目。
いつもの、河村。
踵を返して、階段を駆け降りた。
息が上がる。と同時に、身体中の血の気が引いた気がした。
こころに冷たいしみが、じわじわ拡がる。
なんで、わたしは、
あんなことを。
数秒前の自分を、殺したい。
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