鸞翔鬼伝 〜らんしょうきでん〜

紗々置 遼嘉

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一章 天命

九.真実〔二〕

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 翔隆の目の前には、見知らぬ男が立っていた。

黒い髪、黒い瞳…都人の様な装束に侍烏帽子えぼし………何処か、雰囲気が――義成と似ている。

「…あの………」
声を掛けると、男はにこりと微笑んだ。
「お初にお目に掛かる。私の名は義羽よしば景凌かげしの
 と言って、地面に名を書く。
「あ…俺は翔隆。あの……助けてくれて、どうも、ありがとうございます…」
「いや。しかし、余り無茶な事をするものではないぞ。たった一人で〝導師〟と…いや、狭霧と戦おうなどと…」
「あなたも…―――〔一族〕…?」
翔隆は、呆然としながらも聞く。
「そう…〝だった〟。今や追放された身だ」
「〝掟〟を…破ったんですか…?」
静かに、聞いた。
すると景凌と名乗る男は、切なげに笑みを浮かべる。
「…それより、一族の事はむやみやたらと話すものではない。話せばそれだけ〔一族〕の事が、世に知れ渡る事となり、危機に晒されるのだ…。――――気を付けろ」
「はい……。あの…それで、ここは?」
「甲斐」

  甲斐?!
  随分、遠くまで来たものだ…

〈…これじゃあ、尾張に帰るには山越えして…二日は掛かるなぁ〉
考えて、ふと景凌と目が合った。
その瞳が余りにも悲涼に見えたものだから、翔隆は思わずじっと食い入る様に見つめる。
「翔隆―――――今ならば、まだ間に合う」
「え…?」
「主君は持ってはならんのだ。…決して」
 ドキッ…
突然の言葉に、心臓が高鳴る。
何故、初めて会った人がそんな事を知っている?!
いや、それより何故この人は急にそんな事を…
「な、なん、で…そんな事………」
翔隆は動揺を押さえつつ、反論しようとした。
「主君を持てば、必ず後悔する…」
グサリと、胸に刺さる言葉だ。
「〔一族〕が、〝主君〟を持つという事がどういう事に繋がるか。……主君と臣下との関係。そして一族と主君を両立する事を、よく考えてみるのだ。――――よく」
  そんな事を言われる筋合いは無い!
…そう、反論しようと思った。
だが、景凌の目を見て口籠もる。
彼の表情がとても…これ以上ない程、真剣で…悲愴に満ちていたからだ。
「忘れるな。心に、しかと刻み込め」
そう言い残し彼は森の中へと消えてしまった。まだ聞きたい事があったのに…。
〈主君を持つ………一族と…戦う………〉
彼の言葉は充分に、翔隆の胸に刻まれていた。
〈後悔する? 〝掟〟を破る事だからか…? いや―――…それより、あの人は〝何か〟を知っている様な口振りだった。…知っている………? いや、もしかして自分の事を………?〉
翔隆は考えながら、歩く。
〈だが…俺は――――……俺は、信長様に、仕えていたい!〉
この想いだけは、誰が何と言おうとも変えられない…。

譲れない!!
〈これだけは……!!〉

  ドンッ
 突然野兎がぶつかってきて、こてっと倒れた。
「?! おい、大丈夫か?」
拾い上げた時、ヒョーッと威嚇するように鳴きながら鷹が舞い降りてきた。
続いて、ドドッと騎馬の一団が現れる。
弓を持つ若者を先頭に、鷹師やら前髪立ちの少年達が…。
〈鷹狩りだ!〉
…と、いう事は相当身分の高い者……
〈ここは甲斐の国…確か武田晴信が大名で……〉
翔隆が茫然と立ち尽くしていると、若武者が馬上から声を掛けてきた。
「お主! 南蛮人か?!」
「いえ、尾張の者です」
 思わず、素直にそう答えてしまった。
「尾張…とな?」
若武者は、不可解げに翔隆を見つめた。
灰色の髪、藍の目に体中傷だらけ…これ以上怪しい者はいまい。
「尾張といえば、うつけと評判の奴がいる国。主のような者が居たとて、不思議では無いやもしれぬ………が、もしや〔透破すっぱ〕ではあるまいな…?」
透破とは、晴信の〔忍〕の呼称である。
「いえ! 断じて違います!」
「……名は?」
〝翔隆〟と言おうとした。
…だが、信長より折角元服名を頂いたのだから、そちらの方がいいだろう。
「篠蔦三郎兵衛翔隆、にござりまする」
「しのつた? …聞いた事も無い名じゃ。しかし酷い身なりじゃな…共に参れ。手当てをしてやろう」
そう言うと、共に馬を駆っていた凛々しい若者が前に進み出た。
「成りませぬお屋形さま! 得体の知れぬ族を〝お館〟に入れるなど!」
…お屋形…やはり晴信本人か。
そう悟ると翔隆は片膝をいた。
「武田晴信様…にござりまするな?」
改まって言うと、その人は眉をひそめる。
諱を言われた事に対して、気に障ったのだが、翔隆は気が付いていない。
「いかにも、晴信だが」
「ご好意、ありがたくお受けしたいのですが俺は尾張、織田信長が臣にござりますれば…それは出来ませぬ」
包み隠さずそう告げると、晴信は沈黙した。
「俺は透破すっぱではありません。故あって他国へ参り、その帰りなのです。…決して、ご迷惑を掛ける様なやからではござりませぬ。物の怪でもありませぬ故、どうかお見逃しを」
「しのつた………と申したな」
晴信は、静かに言う。
「はっ」
「その様な事を申せば、尚更怪しむとは思わぬのか? 余りにも異形な出で立ちの上、丁寧過ぎる言葉遣い…そして、堂々と諱を口にして。〝斬られる〟やもしれぬというのを、覚悟の上か?」
言われてみれば、その通りだ…。
周りを見れば近習達は皆、刀の柄に手を掛けている。
翔隆はにこりとして、
「…いえ、斬られたくはありませぬ。いざとなれば…逃げるまでです」
と、自信ありげに言った。
そこに、〔透破〕が現れ晴信を守る様に立つ。
「おのれ妖怪めがっ! この影優かげゆう義深よしみが相手になろうぞ!」
「!」
 義深(十九歳)は有無をも言わさず、斬り掛かってきた。
それを紙一重で避けながら、翔隆は懸命に話し掛ける。
「待て! 俺は戦う気は無い! 晴信様に危害を加える気は無いんだ!」
「何をほざくか細作が! 白々しい言い訳をするな!」
全く話を聞こうとしない。
〈ええいっ仕方の無い!〉
翔隆は背の小刀を抜く。
「話を―――――――聞け!!」
そう怒鳴り、総て峰打ちで義深を追い立てる。
義深は見る間に、呆気なくのされてしまった。
一同が唖然として見守る中、翔隆は何事も無かったかの様に小刀をしまい、晴信を返り見る。
「失礼至しました」
晴信はじっと翔隆の、澄んだ瞳を見据えた。
「くっ、あっはっはっはっ!」
急に晴信が大声で笑う。
〈こんな邪気の無い目をした奴が、細作であろう筈もない〉
その証拠に、これだけの腕を持ちながら何もしてこない事。
そして、義深に対して〝刃〟を向けていないという事。
「そうか、お主は織田家臣か」
「はい」
爽やかに答える。
「ふふ、参れ。躑躅ヶ崎つづじがさき館に案内致そう」
「………そこまで、仰有られるのでしたら」
翔隆は微笑んで、義深を担いで歩き出した。




 躑躅ヶ崎館は、武田晴信(三十歳)の居城である。
その中に、異形な者が入って来たとなれば、武将達が黙ってはいまい。
そう考え、晴信は人払いをして誰にも見られぬ様、翔隆を火焼間に入れた。
 そして先程の凛々しい若者、春日源五郎虎綱(二十四歳。後の高坂昌信)と乱破の〝頭〟である影優義深のみが、その場に居合わせる。
「これをくれてやる故、着ると良い」
そう言い、晴信は紺色の小袖を渡す。
「はあ…その、どこか着替える場所を……」
「〝ここ〟で良かろう?」
晴信は、ニヤニヤしながら言った。
 御前で着替えるのは、失礼かと思って言ったのだが…。
翔隆は、少しためらいながら着物を脱ぎ始めた。
〝また悪い癖が〟――――。
春日虎綱も、影優義深も思った。
そう…この時代〝衆道しゅどう〟は武士の嗜み…翔隆は〝美童〟だ。
元服したての年頃………の、割りにはかなり鍛練を積んだ肉体である。
よく見れば、背や腹の傷からまだ血が滲んでいる。
「おお、その前に手当てをせねばな」
「あ…いえ、大した傷では…あ、折角のお着物が汚れるか…」
 その言葉に晴信は、クッと笑う。
「これ、手当てを」
 晴信が虎綱に言う…。
〈どうしよう…手当てなんて必要ないし…。怪しまれるかもしれないが、元々怪しまれているんだ。この際…〉
 翔隆は考えた上、苦笑して言う。
「あの、冶せますから手当は……」
「治せる?」
「はい…」
「はっはっはっ! 面白い事を言う。では治して見せよ」
晴信としては冗談のつもりであったが、翔隆は真顔でコクリと頷き、《印》を結んで〝気〟を集中し始めた。

   トクン…トクン……ドクン………。

広間に、鼓動が響く。
「…?!」
まさか…と思いつつも翔隆を見つめていると、あれだけ酷かった傷が消えていったのだ!

  目の錯覚ではない!

あれ程、腫れ上がっていた傷が、確かに〝消えた〟のだ!
「おおっ!!」
思わず、驚嘆の声を上げる。
翔隆は何事も無かったかの様に体の血を脱いだ着物で拭い取り、頂いた着物を着る。

 神業……誰もが思った。

いや、ただ一人…義深だけが蒼冷めている。
〈如何な〔忍〕や修験者とてこの様な〝技〟を持つ者など居ない! …いや、有り得る…。この者があの〔伝承の一族〕であるのならば!!〉
まさか…。
義深は、一人黙って自分を打ち負かした少年を見つめた。
「すごい!」
突然、物陰から幼子おさなごが現れた。
「すごいなおぬし! 気に入ったぞ!」
そう言い、翔隆の手を握る。
「は………?」
「これ、四郎!」
晴信がとろける様な笑みで、その子を見た。
「父上! この者つれ出していいですか?」
「それはならん」
「だってえ…こんな〝きれい〟な者、いないんだもの! 共に遊びたい!」
「四郎…この者はなぁ」
「俺なら、構いませぬ」
翔隆が言う。
「しかし、お主は…」
「着物を戴いたお礼として、お相手させて頂くのでしたら」
にこりとして言うと、四郎は嬉しそうにして翔隆に抱きついた。
晴信は、溜め息を吐いて苦笑した。
「…では、相手を頼もう」
「はい。…時に、四郎様は…」
「諏訪の由布ゆう姫の子じゃ。まだ五つでな」
「よろしいのですか? お屋形さま、四郎さまをこの様な者に…」
春日虎綱が言った。
「大事あるまい。今日だけじゃ」
そう制して、翔隆を見て頷いた。
翔隆はにこりとして頷き返し、四郎と共にその場で遊び始めた。

 〝乗馬ごっこ〟や〝ちゃんばらごっこ〟の相手をして、翌日帰る事となった。

四郎は、寂しげに翔隆を見つめる。
「また…来るのだぞ…?」
「………」
苦笑で返すと四郎は懐から、四隅に武田紋の入った藍色の布を手渡してきた。
「やる! 〝友好の証〟だ!」
「…ありがとう、ございます…」
何とも微笑ましい。
翔隆は晴信らに深々と一礼して、立ち去った。
それを見送りながら、晴信が呟く。
「何とも変わった者よ」
「はっ。…忠臣故に我が軍門に降せば、さぞや頼もしいでしょうな」
春日虎綱が、真剣に言った。

 その通りだろう―――。

 それは、甲斐にとって…久方振りに起こった旋風であった…。
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