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二章 変転
二十三.諏訪御料人
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時が過ぎるのは、早いものだ。
気が付けば、もう十一月となっていた。
そろそろ、こことも別れなければならない。
別れは辛いが、やっと尾張に帰れるのだという事を思うと嬉しくなってくる。
雑用をしながら尾張に思いを馳せていると、いつものように四郎が駆けてきた。
「翔隆!」
「四郎様…」
四郎は無邪気な笑みを満面に浮かべながら、翔隆の背中に抱きつく。
四郎のお守りは、既に日課となっていた。
「今日は、何をなさいますか?」
「馬に乗りたい!」
「………」
明るく言われて、翔隆は一瞬言葉を失った。
「…翔隆! 妙な顔をしてないで、厩に行こう!」
「し、しかしまだ四郎様には無理かと…」
「! お主まで同じ事を言う! ならば一人で乗るから良い!」
そう言って拗ねたように行こうとしたので、翔隆は慌てて引き止める。
「お待ち下され! …分かりました、少しだけですぞ?」
溜め息交じりに言うと、四郎はにこっとする。
「早く行こう!」
…何だか騙されたような気がする…。
翔隆は四郎に手を引かれて、厩に行った。
そして葦毛の馬を出して、鞍と轡を取り付けると、四郎を乗せる。
翔隆は片手で四郎を支えて、轡を掴みながらゆっくりと歩かせる。
「わっ、あっ!」
「しっかり手綱を握って、背を正して! 両膝で体を支えるようにするのです」
まだ体が小さい四郎は、鐙に足が届かない為、ゆさゆさと揺れてとても不安定だった。見ている番兵達も、心配そうにしている。だが、当の本人はとても嬉しそうに乗っている…。
ぐるぐると回って慣れたのか、段々と様になってきた。
「…一人で、乗っても良いか?」
四郎は逸る気持ちを抑え切れずに、言った。
「…まだ操れぬかと…」
「少しでいい!」
幼いとはいえ、四郎も武士の子。
早く戦場で馬を駆け号令を掛けたい、と願う気持ちが強いのだろう。
はたから見れば、ただの我が儘としか思えないのだが…。
翔隆は、仕方なくそっと手を離す。
すると四郎は緊張しながらも、馬を歩かせた。
―――と、そこへ運悪く忍頭であり伝令奉行でもある山本勘助春幸(五十八歳)と、四郎の母であり側室の諏訪御料人…〝由布姫〟(二十歳)が別の方向から通り掛かった。
「四郎?!」
「!」
四郎はビクッとして、手綱を引いてしまう。途端に馬が驚いて嘶き、前足を上げた。
「危ない!」
山本勘助が駆け寄ろうとするが、足が不自由な為 間に合わない。
咄嗟に、翔隆が振り落とされた四郎を受け止める。
―――と同時に、馬に背中と足を踏み付けられてしまった。
「どう、どう!!」
勘助が馬を静め、諏訪御料人が四郎の元へ駆け寄った。
「四郎!」
「だ、大丈夫です母上…」
言った後で、下敷きになっている翔隆に気付く。
「翔隆っ!」
「大事…ありませぬか……?」
翔隆が辛そうに聞くと、四郎は立ち上がって頷き、心配そうに見つめる。
すると諏訪御料人が、いきなり四郎の頬を叩く。
「母上……」
「なんて事をするのです! また我が儘を言って篠蔦どのを連れ出したのでしょう!!」
「…っごめんなさい…」
諏訪御料人は、すぐに翔隆の側に駆け寄り、様子を見る。
「すぐに、薬師を!」
「はっ」と、勘助が行こうとするのを、翔隆が呼び止めた。
「大事ありませぬ! 何処か、人の居ない所で休んでいれば治ります故、どうかこの事は…」
そう言うと勘助が義深を呼んで翔隆を運ぶように指示し、一礼して行ってしまう。
「済まん、義深…」
「いえ。何処で休まれますか?」
答えようとした時、諏訪御料人が喋る。
「妾の曲輪に」
「…はっ」
座敷に着くと、翔隆は用意された布団に寝かされた。
「背と足を折っておられますな…。本当に、薬師を呼ばなくて宜しいのですか?」
「いい、必要は無い。…俺が〝鬼〟だというのを、忘れたのか?」
そう言うと義深は初めて会った時の事を思い出して、やっと安堵したように微笑む。
「では、私はこれで」
一礼して義深が下がると、四郎が泣きそうな顔をして近寄ってきた。
「本当に大丈夫か…?」
「はい。以前、傷を治してみせた事は覚えていらっしゃいませんか?」
「……」
勿論、覚えている。
馬に乗りたいと駄々を捏ねて、怪我を負わせてしまったというのに、翔隆は自分を叱らない…。
四郎は、そんな翔隆を頼もしくさえ感じていた。
〝気〟を集中して半刻も経つと、すっかり回復したので起き上がる。
それを見て、母子はほっと安堵の息を吐いた。
「由布姫様、ありがとう存じまする」
そう言うと、諏訪御料人は楽しそうに笑う。
「ふふ…妾を姫と呼ぶのは、お屋形と貴方だけですわ」
「あっ! も、申し訳ありませんっ」
「いえ、構いませぬ。それより…いつも四郎の我が儘に付き合うて下さって、ありがとう」
「いいえ。我が儘だなんて思った事は、一度もありませぬ。…四郎様はとても優しく、賢いお方です」
「まあ。…貴方はほんに、真っすぐな方なのですね。四郎がいつも、自慢げに話してくれる通りの人…」
どんな話しだろう…そう思い、ふと、翔隆は前に四郎が〝母上と似ている〟と、言った事を思い出し、じっと諏訪御料人を見つめた。
……確かに、似てるような気がする…。
諏訪御料人も、それに気が付いたかのように、驚いた顔をした。
「まあ! なんだか兄弟を見ているよう…あっ」
「はは…そう、ですか?」
それ以外、返す言葉がなかった。
「ごめんなさい、妾に似ているなんて…」
何やら気まずい雰囲気が流れ、二人共黙ってしまう。
すると、四郎が翔隆に抱き付いた。
「翔隆、いつ…ここを出て行くのじゃ?」
「そうですね………そろそろ…」
「次はいつ来る?!」
答えに、詰まった。いつ、とは断言出来ない…。
「武田の戦には、出来る限り参陣至します」
「そうか! ならばわたしも、早う元服して初陣せねばならんな!」
「まあ、楽しみです事…」
「母上、邪魔をしないで下され。わたしは翔隆と話しているのです!」
翔隆を独り占めするような格好で言うと、諏訪御料人も翔隆も笑った。
気が付けば、もう十一月となっていた。
そろそろ、こことも別れなければならない。
別れは辛いが、やっと尾張に帰れるのだという事を思うと嬉しくなってくる。
雑用をしながら尾張に思いを馳せていると、いつものように四郎が駆けてきた。
「翔隆!」
「四郎様…」
四郎は無邪気な笑みを満面に浮かべながら、翔隆の背中に抱きつく。
四郎のお守りは、既に日課となっていた。
「今日は、何をなさいますか?」
「馬に乗りたい!」
「………」
明るく言われて、翔隆は一瞬言葉を失った。
「…翔隆! 妙な顔をしてないで、厩に行こう!」
「し、しかしまだ四郎様には無理かと…」
「! お主まで同じ事を言う! ならば一人で乗るから良い!」
そう言って拗ねたように行こうとしたので、翔隆は慌てて引き止める。
「お待ち下され! …分かりました、少しだけですぞ?」
溜め息交じりに言うと、四郎はにこっとする。
「早く行こう!」
…何だか騙されたような気がする…。
翔隆は四郎に手を引かれて、厩に行った。
そして葦毛の馬を出して、鞍と轡を取り付けると、四郎を乗せる。
翔隆は片手で四郎を支えて、轡を掴みながらゆっくりと歩かせる。
「わっ、あっ!」
「しっかり手綱を握って、背を正して! 両膝で体を支えるようにするのです」
まだ体が小さい四郎は、鐙に足が届かない為、ゆさゆさと揺れてとても不安定だった。見ている番兵達も、心配そうにしている。だが、当の本人はとても嬉しそうに乗っている…。
ぐるぐると回って慣れたのか、段々と様になってきた。
「…一人で、乗っても良いか?」
四郎は逸る気持ちを抑え切れずに、言った。
「…まだ操れぬかと…」
「少しでいい!」
幼いとはいえ、四郎も武士の子。
早く戦場で馬を駆け号令を掛けたい、と願う気持ちが強いのだろう。
はたから見れば、ただの我が儘としか思えないのだが…。
翔隆は、仕方なくそっと手を離す。
すると四郎は緊張しながらも、馬を歩かせた。
―――と、そこへ運悪く忍頭であり伝令奉行でもある山本勘助春幸(五十八歳)と、四郎の母であり側室の諏訪御料人…〝由布姫〟(二十歳)が別の方向から通り掛かった。
「四郎?!」
「!」
四郎はビクッとして、手綱を引いてしまう。途端に馬が驚いて嘶き、前足を上げた。
「危ない!」
山本勘助が駆け寄ろうとするが、足が不自由な為 間に合わない。
咄嗟に、翔隆が振り落とされた四郎を受け止める。
―――と同時に、馬に背中と足を踏み付けられてしまった。
「どう、どう!!」
勘助が馬を静め、諏訪御料人が四郎の元へ駆け寄った。
「四郎!」
「だ、大丈夫です母上…」
言った後で、下敷きになっている翔隆に気付く。
「翔隆っ!」
「大事…ありませぬか……?」
翔隆が辛そうに聞くと、四郎は立ち上がって頷き、心配そうに見つめる。
すると諏訪御料人が、いきなり四郎の頬を叩く。
「母上……」
「なんて事をするのです! また我が儘を言って篠蔦どのを連れ出したのでしょう!!」
「…っごめんなさい…」
諏訪御料人は、すぐに翔隆の側に駆け寄り、様子を見る。
「すぐに、薬師を!」
「はっ」と、勘助が行こうとするのを、翔隆が呼び止めた。
「大事ありませぬ! 何処か、人の居ない所で休んでいれば治ります故、どうかこの事は…」
そう言うと勘助が義深を呼んで翔隆を運ぶように指示し、一礼して行ってしまう。
「済まん、義深…」
「いえ。何処で休まれますか?」
答えようとした時、諏訪御料人が喋る。
「妾の曲輪に」
「…はっ」
座敷に着くと、翔隆は用意された布団に寝かされた。
「背と足を折っておられますな…。本当に、薬師を呼ばなくて宜しいのですか?」
「いい、必要は無い。…俺が〝鬼〟だというのを、忘れたのか?」
そう言うと義深は初めて会った時の事を思い出して、やっと安堵したように微笑む。
「では、私はこれで」
一礼して義深が下がると、四郎が泣きそうな顔をして近寄ってきた。
「本当に大丈夫か…?」
「はい。以前、傷を治してみせた事は覚えていらっしゃいませんか?」
「……」
勿論、覚えている。
馬に乗りたいと駄々を捏ねて、怪我を負わせてしまったというのに、翔隆は自分を叱らない…。
四郎は、そんな翔隆を頼もしくさえ感じていた。
〝気〟を集中して半刻も経つと、すっかり回復したので起き上がる。
それを見て、母子はほっと安堵の息を吐いた。
「由布姫様、ありがとう存じまする」
そう言うと、諏訪御料人は楽しそうに笑う。
「ふふ…妾を姫と呼ぶのは、お屋形と貴方だけですわ」
「あっ! も、申し訳ありませんっ」
「いえ、構いませぬ。それより…いつも四郎の我が儘に付き合うて下さって、ありがとう」
「いいえ。我が儘だなんて思った事は、一度もありませぬ。…四郎様はとても優しく、賢いお方です」
「まあ。…貴方はほんに、真っすぐな方なのですね。四郎がいつも、自慢げに話してくれる通りの人…」
どんな話しだろう…そう思い、ふと、翔隆は前に四郎が〝母上と似ている〟と、言った事を思い出し、じっと諏訪御料人を見つめた。
……確かに、似てるような気がする…。
諏訪御料人も、それに気が付いたかのように、驚いた顔をした。
「まあ! なんだか兄弟を見ているよう…あっ」
「はは…そう、ですか?」
それ以外、返す言葉がなかった。
「ごめんなさい、妾に似ているなんて…」
何やら気まずい雰囲気が流れ、二人共黙ってしまう。
すると、四郎が翔隆に抱き付いた。
「翔隆、いつ…ここを出て行くのじゃ?」
「そうですね………そろそろ…」
「次はいつ来る?!」
答えに、詰まった。いつ、とは断言出来ない…。
「武田の戦には、出来る限り参陣至します」
「そうか! ならばわたしも、早う元服して初陣せねばならんな!」
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