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三章 廻転
十七.褒美
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まだ暑さの残る九月。
重陽の節句の後でも菊を愛でるようで、作業をする部屋に花入れがあり、菊が飾ってあった。
今日は、今年仕えた森三左衛門尉可成(三十ニ歳)と共に木簡の整理をしていた。
木簡とは、木札に文字を書いた物の事だ。
古代中国で使われていて、日本にも広まった。
その、中国から伝わったという木簡の束がバラけてしまったので、一巻に纏める作業をしているのだが…これがまた難しい。
何しろ、文字が分からない。
同じ漢字はあるものの、意味も読み方も分からないのだからどうにもならない。
二人で悪戦苦闘していると、通り掛かった福富 平左衛門尉 秀勝(二十四歳)が入ってくる。
「いかがなされ…あー……」
状態を見て、自分にもどうにも出来ないとは思いながらもしゃがんで手に取って手伝う。
「これは、何を書いてある物で?」
福富秀勝が聞くと、森可成が答える。
「確か、兵法の木簡だと聞き申したが、不明瞭で…」
「もしかして、巻物に書き写してはいませんか?」
翔隆がふと言うと、二人は「ああ!」と気が付き、巻物を探してみる事にした。
三人が巻物の束から、兵法に関わる物を取り出して見ていると、廊下を通り掛かった佐々内蔵助が覗いて聞く。
「良ければ、手伝いますか?」
「ああ、助かる」
福富秀勝が答えると、佐々内蔵助も加わった。
「何の書を探しているんですか?」
「兵法書だ」
森可成が答える。
「何の兵法書ですか?」
「何…うん、分かれば苦労は無いのだが、その木簡と同じ物が無いかを探しているのだ」
「えー…」
何やら大変な事に首を突っ込んだ気がしながらも、探す。
〈まずいな…〉
翔隆は途中から気付いた。
これは、孫子の兵法だと。
木簡の最初の文字に掠れているが〝孫子曰〟と書いてあるからだが…。
集落を無くしたあの日に読み始めた兵法書なので、出だししか覚えていない。
そう思っていると、森可成が呟く。
「これは…孫子…?」
「読めるのですか?!」
福富秀勝と佐々内蔵助が振り向くと、森可成は焦る。
「い、いや、孫子という文字しか分からないんだ! まだ、少し読んだだけで内容は…」
「孫子という兵法書を探そう!」
福富秀勝が言い、皆で巻物を探した。
ーーーが、出て来なかった。
仕方が無いので、その木簡は裏や横を綺麗に拭いて端に置く事にした。
巻物をしまって、他の木簡を新しい糸で結び直していく。
そこに綴じ本が運ばれてくる。
「これも頼むとの仰せだ。糸を替えて…表紙も変えて欲しいと濃姫さまが仰有られていた」
そう簗田広正が侍女と共に本を持ってきて言う。
「え? 濃姫さま?」
佐々内蔵助がぽかんとした顔で尋ねる。
「左様、では」
簗田広正は行ってしまい、侍女二人が本を丁寧にバラけさせていく。
「あの、何故我らに…?」
森可成がそーっと尋ねると、侍女の一人が微笑んで言う。
「〝翔隆どのならば、手先が器用なので美しい本が作れるだろう〟と…」
「美しい?」
思わず翔隆が聞く。
「色付けの道具や着物の切れ端などもございますので。中に表紙に使える紙もございます」
そう言って葛籠箱を持った侍女も来た。
「…その、今日中には無理なのですが…」
言い辛そうに翔隆が言うと、侍女達は微笑する。
「半年程お待ちになられるとの仰せです。糸張りなどは、わたくし共もお手伝いしますので」
「ならば、先に木簡をやってからだ」
そう森可成が言い、皆が頷く。
侍女達は綴じ本の整理、男達は木簡の整理をして数日経った。
途中、翔隆は信長に付いて鷹狩りや遠駆けに行ったので、中々作業が進まなかった。
厩の掃除の後に、一人で綴じ本の表紙を作っていると、森可成がやってきて手伝う。
「森様」
「私もやろう」
そう言い手伝う。
紙を貼り合わせながら、ふと森可成が言う。
「気になったのだが、何故皆はお主の諱を呼ぶのだ?」
「え、と…俺は元々〝鬼〟なので…名字も字も無かったもので…」
「三郎兵衛、は?」
「の…お屋形さまに戴きました。仕える事になった時に、篠蔦三郎兵衛、と…」
「なんと、羨ましい話だな。それで、お屋形さまの事も諱を呼んでいるのか」
「はい。同じ〝三郎〟だったので、諱を呼んでいいと言われたので、皆の事も…許してくれる人だけ呼ばせて貰っています」
「では、私も翔隆と呼んで構わないか?」
「いいですよ」
翔隆はにっこり笑って言う。
暫くして、糸で綴りながら翔隆が言う。
「森様、その書の中身を取って頂けますか?」
「ん? …ああ」
森可成はふと首を傾げながらも、中身の書を取って渡す。
確かにさっき、〝親しくなろう〟という意味で諱を呼ばせてくれと言った筈なのだが、苗字に様を付けたまま…。
〈おや…?〉
きっとハッキリ言わなかったので、伝わらなかったのだろうと思い、可成はもう一度言う。
「翔隆? 私の事も、可成で構わないのだが…」
「え? 年上の方ですし…では可成殿、で宜しいですか?」
「うむ…」
何だか、押し付けてしまったような言い方に可成は自分で苦笑する。
そんな中に丹羽長秀と佐々内蔵助がやってくる。
「内蔵助から聞いたぞ。私も手伝おう」
そう長秀が言い、四人で談笑しながら本を作った。
笑っていると、今度は声を聞き付けた信長が顔を覗かせる。
「なんだ、楽しげだな」
「お屋形さま」
三人が手を止めて一礼するが、翔隆は続けながら言う。
「七月に、内蔵助と犬千代が相撲をしてて俺が巻き込まれた話をしてたんです。そこに信長様が交ざったからきりがなくなったって」
「きりがないとはなんだ。…お濃が言ってた本か」
信長は松のような絵の描いてある本を手にする。
それは、絵の具ではなく紙を貼って絵のようにしてあった。
「ほお、誰が作った?」
「俺が、そこの松を見ながら貼りました。…変ですか?」
翔隆がおずおずと聞くと、信長はニッとする。
「これを、寝所の隣の襖にもやっておけ」
「えっ!?」
「来月までにな」
そう言い行こうとするので、翔隆が追い掛ける。
「待って下さい! 帰蝶様の綴じ本もやっていて、まだ」
「お前ならば、出来るであろう?」
ニヤリとして言うと、信長はそのまま行ってしまう。
〈…あ! まさか、睦月を使えと…〉
幾ら何でも、そんな頼みは出来ない…。
昔ーー姉の楓と共に、母の弥生から千切り絵など習ってしまったのが悪かったか?
燃やさなくてはならない紙の端で、母が桜の花のようにして本の表紙に貼ったのを、姉が羨ましがったのが切っ掛けだ。
母は、昔〝比丘尼〟さまから教えて貰ったのだ、と言っていた。
比丘尼とは、出家した女性の事だ。
あれはあれでいい思い出なのだから良しとしよう。
その日、長屋に帰った翔隆は早々に寝て朝も明けぬ内から林の中で刀を振っていた。
修行の為でもあるし、どうしたらいいか分からないからでもある。
そこに、嵩美が来る。
「翔隆様、共に参りましょう」
「え?」
「丑の刻です。さ」
「え? いや、嵩美?!」
「早くしなくては、導師様に叱られます故」
そう言い嵩美は無理矢理に翔隆を連れて行く。
信長から命じられた襖の飾りの事を知っているから、睦月に頼れるようにと連れ出したのだ。
嵩美は、翔隆を小屋に残してさっさと修行場へ行ってしまった。
小屋の中ではまだ睦月と雪乃宮が眠っている。
そっと覗くと、睦月が少し苦しげだったので中に入って上がる。
そして、水桶と布を用意して睦月の側に座る。
〈…熱があるな……〉
睦月のうなじに手を当てて熱を確認すると、翔隆は看病に当たる。
そして、朝ご飯の支度もしておいた。
「翔隆…来ていたのか…」
咳込みながら睦月が起き上がる。
「無理しなくていいよ、ほら白湯」
翔隆が湯呑みを側に置いて、起き出した四歳の雪乃宮の手を引いて裏の厠に向かう。
〈よく寝起きには睦月に厠に連れてきて貰ってたけど…でかい蛾が怖かったな…〉
そう考えていると雪乃宮が泣きながら出てきた。
「どうした」
「あそこの目ん玉…」
「あー…」
丁度、目線の所に目玉模様の翅の蛾が居たので追い払って用を足す。
二人で小屋に戻る時に今度は大きなヤママユガが飛んできたので
「うわあ!」
と、二人で驚いて帰っていくとクスクスと睦月に笑われた。
「なんて声で…あは、はははゲホッゲホッ」
「睦月…そんなに笑ったら熱が上がるよ」
翔隆は恥ずかしく思いながら、背をさすってあげる。
雪乃宮はまだ眠そうにゴロゴロしているので、翔隆は睦月の笑いが収まってから囲炉裏に行く。
「この雑炊でいいんだよね?」
「ああ…ゲホッ。拓須が鮭を取って来たから、それも…」
もそもそと動こうとするので、翔隆が睦月に掻巻を掛ける。
「ほら寝て。この綿の入った掻巻だって、わざわざ拓須が仕入れた物だろう?」
「…これは、私が拓須に頼んで綿を仕入れて貰って、お前の為にと私が作った物だ」
何故かムスッとしながら睦月が言う。
「そ、そうか…ありがとう。でも、今は寒くないから使ってくれ」
そう言うと、睦月は大人しく寝る。
数刻もすると、睦月と雪乃宮が再び眠ったので翔隆は火を見ながら外に出る。
〈そろそろ拓須が戻ってくるだろう〉
空が白む前に出仕しておきたい。
そう思っていると、突然《風の刃》が顔目掛けて放たれたので咄嗟に打ち消した。
すると、チッという舌打ちが聞こえ拓須と嵩美が戻ってくる。
「お帰り、雑炊は作ってあるから。睦月の熱は下がったみたいだから…」
「ふん…さっさと去ね」
その言葉に苦笑で応えて、翔隆は城に向かった。
朝早くに出仕する事で、襖と表紙作りを両立させて、何とか冬が来る前には完成した。
気が付けばもう十一月だ。
小姓仲間や塙直政、森可成などが手伝ってくれたお陰で、良い表紙と襖絵が出来た。
襖は、松、梅、竹に分けたら、信長にも褒められた。
表紙も一つずつ異なる色合いや千切り絵を貼った事で帰蝶に褒められた。
二人揃って、翔隆を呼び出す。
「此度はご苦労だったな。褒美は何が良い」
信長が聞くと、翔隆は考える。
…褒美が欲しくてやったのではない。
ただ命じられたからやっただけで、何も考えていなかったのだ。
かと言って、〝何も要らない〟と言うと何故か怒られる…。
〈…な、何にしよう…〉
翔隆は懸命に考えて言う。
「う、ウナギが欲しいです」
「ウナギ…?」
信長と帰蝶が揃って聞き返した。
「は、はい、あの…師匠が……睦月が病なので、精の付く物をと思い…まして…」
言っている側から信長が眉間にシワを寄せたので、翔隆は俯く。
溜め息を吐きながら信長が聞く。
「他は」
「ーーー木綿が、欲しいです!」
翔隆は顔を上げて言う。
「木綿?」
「はい、掻巻を作りたくて…」
「……あの薬師にか」
「あ…はぃ…」
小さく答えた。
睦月が自分に作ってくれたと言っていたから、今度は自分が睦月の為に作ってあげたいと思ったのだ。
またしても俯くと、クスクスと帰蝶が笑う。
「ほんに…あの薬師が好きなのですね。殿も嫉妬していないで、ウナギなり鯛なり木綿なり絹なり、褒美をあげてはいかがです?」
「誰もやらんとは言っとらん。…では、そのように手配しろ」
そう信長が言うと、奥に居た簗田広正が「はっ」と答えて早歩きで去る。
木綿は朝鮮や明朝からの輸入なので、主に堺に買い付けに行くのだ。
「あ、あの…木綿とは何処で手に入るのでしょうか…?」
恐る恐る尋ねてみると、信長が答える。
「明朝だったか? 堺ならばあろう」
「えっーーー」
行ってしまった後なので、今更要らないとは言えない。
翔隆がソワソワしているのを見て笑い、今度は帰蝶が聞く。
「さて、妾からの褒美だが反物で良いようじゃの」
「えっ?! さ、さっき木綿を…」
「それらは殿からの褒美。聞けば、お主は着物すら買わぬ故、出仕に着る物以外は継ぎ接ぎだらけのままで過ごすとか。民草とは違うのですよ。武士として、身なりは整えなされ」
「はっ…申し訳ございませぬ…」
嵩美が告げ口をしたのか…そう思っていると、その場に次々と反物が運ばれてくる。
「え? えっ?」
侍女達が、掛盤に六疋置いて運んできてズラリと並べた。
「さ、好きになさい。嵩美の分と、そなたの姉君の養い子の分と、師匠二人の分です」
帰蝶がニコリとして言った。
「あ…ありがとう存じまする…!」
そう言い頭を下げてから、翔隆はそのまま喋る。
「ですが、長屋に入りませぬ…!」
そう事実を言うと、信長と帰蝶は楽しげに笑う。
「ほ、ほほ。そうですね…では、嵩美の使う部屋に置きましょうか。後で、何に仕立てるかを嵩美か似推里に言いなさい。仕立てさせる故。これ、持って行きなされ」
「はい」
答えて嵩美や似推里達が、反物を運んでいく。
「あの…過分に頂き過ぎるのでは…」
翔隆がそっと言うと、信長が鼻で笑う。
「四年居て、何も褒美を貰おうとしないからだろうが。お市やお犬の世話もして、侍女達に指南もしておいて〝褒美は〟と聞くと要らぬと申す。こうしなければ受け取るまい」
「あの、俸禄を頂いて…」
「誰でも貰う物だろうが」
「…は、ありがたく頂戴致します」
そう言うと、信長の気も収まったらしい。
その後、翔隆は帰蝶に千切り絵のやり方を教えるのを頼まれたので、翌日から共にまた表紙作りをする事となった。
重陽の節句の後でも菊を愛でるようで、作業をする部屋に花入れがあり、菊が飾ってあった。
今日は、今年仕えた森三左衛門尉可成(三十ニ歳)と共に木簡の整理をしていた。
木簡とは、木札に文字を書いた物の事だ。
古代中国で使われていて、日本にも広まった。
その、中国から伝わったという木簡の束がバラけてしまったので、一巻に纏める作業をしているのだが…これがまた難しい。
何しろ、文字が分からない。
同じ漢字はあるものの、意味も読み方も分からないのだからどうにもならない。
二人で悪戦苦闘していると、通り掛かった福富 平左衛門尉 秀勝(二十四歳)が入ってくる。
「いかがなされ…あー……」
状態を見て、自分にもどうにも出来ないとは思いながらもしゃがんで手に取って手伝う。
「これは、何を書いてある物で?」
福富秀勝が聞くと、森可成が答える。
「確か、兵法の木簡だと聞き申したが、不明瞭で…」
「もしかして、巻物に書き写してはいませんか?」
翔隆がふと言うと、二人は「ああ!」と気が付き、巻物を探してみる事にした。
三人が巻物の束から、兵法に関わる物を取り出して見ていると、廊下を通り掛かった佐々内蔵助が覗いて聞く。
「良ければ、手伝いますか?」
「ああ、助かる」
福富秀勝が答えると、佐々内蔵助も加わった。
「何の書を探しているんですか?」
「兵法書だ」
森可成が答える。
「何の兵法書ですか?」
「何…うん、分かれば苦労は無いのだが、その木簡と同じ物が無いかを探しているのだ」
「えー…」
何やら大変な事に首を突っ込んだ気がしながらも、探す。
〈まずいな…〉
翔隆は途中から気付いた。
これは、孫子の兵法だと。
木簡の最初の文字に掠れているが〝孫子曰〟と書いてあるからだが…。
集落を無くしたあの日に読み始めた兵法書なので、出だししか覚えていない。
そう思っていると、森可成が呟く。
「これは…孫子…?」
「読めるのですか?!」
福富秀勝と佐々内蔵助が振り向くと、森可成は焦る。
「い、いや、孫子という文字しか分からないんだ! まだ、少し読んだだけで内容は…」
「孫子という兵法書を探そう!」
福富秀勝が言い、皆で巻物を探した。
ーーーが、出て来なかった。
仕方が無いので、その木簡は裏や横を綺麗に拭いて端に置く事にした。
巻物をしまって、他の木簡を新しい糸で結び直していく。
そこに綴じ本が運ばれてくる。
「これも頼むとの仰せだ。糸を替えて…表紙も変えて欲しいと濃姫さまが仰有られていた」
そう簗田広正が侍女と共に本を持ってきて言う。
「え? 濃姫さま?」
佐々内蔵助がぽかんとした顔で尋ねる。
「左様、では」
簗田広正は行ってしまい、侍女二人が本を丁寧にバラけさせていく。
「あの、何故我らに…?」
森可成がそーっと尋ねると、侍女の一人が微笑んで言う。
「〝翔隆どのならば、手先が器用なので美しい本が作れるだろう〟と…」
「美しい?」
思わず翔隆が聞く。
「色付けの道具や着物の切れ端などもございますので。中に表紙に使える紙もございます」
そう言って葛籠箱を持った侍女も来た。
「…その、今日中には無理なのですが…」
言い辛そうに翔隆が言うと、侍女達は微笑する。
「半年程お待ちになられるとの仰せです。糸張りなどは、わたくし共もお手伝いしますので」
「ならば、先に木簡をやってからだ」
そう森可成が言い、皆が頷く。
侍女達は綴じ本の整理、男達は木簡の整理をして数日経った。
途中、翔隆は信長に付いて鷹狩りや遠駆けに行ったので、中々作業が進まなかった。
厩の掃除の後に、一人で綴じ本の表紙を作っていると、森可成がやってきて手伝う。
「森様」
「私もやろう」
そう言い手伝う。
紙を貼り合わせながら、ふと森可成が言う。
「気になったのだが、何故皆はお主の諱を呼ぶのだ?」
「え、と…俺は元々〝鬼〟なので…名字も字も無かったもので…」
「三郎兵衛、は?」
「の…お屋形さまに戴きました。仕える事になった時に、篠蔦三郎兵衛、と…」
「なんと、羨ましい話だな。それで、お屋形さまの事も諱を呼んでいるのか」
「はい。同じ〝三郎〟だったので、諱を呼んでいいと言われたので、皆の事も…許してくれる人だけ呼ばせて貰っています」
「では、私も翔隆と呼んで構わないか?」
「いいですよ」
翔隆はにっこり笑って言う。
暫くして、糸で綴りながら翔隆が言う。
「森様、その書の中身を取って頂けますか?」
「ん? …ああ」
森可成はふと首を傾げながらも、中身の書を取って渡す。
確かにさっき、〝親しくなろう〟という意味で諱を呼ばせてくれと言った筈なのだが、苗字に様を付けたまま…。
〈おや…?〉
きっとハッキリ言わなかったので、伝わらなかったのだろうと思い、可成はもう一度言う。
「翔隆? 私の事も、可成で構わないのだが…」
「え? 年上の方ですし…では可成殿、で宜しいですか?」
「うむ…」
何だか、押し付けてしまったような言い方に可成は自分で苦笑する。
そんな中に丹羽長秀と佐々内蔵助がやってくる。
「内蔵助から聞いたぞ。私も手伝おう」
そう長秀が言い、四人で談笑しながら本を作った。
笑っていると、今度は声を聞き付けた信長が顔を覗かせる。
「なんだ、楽しげだな」
「お屋形さま」
三人が手を止めて一礼するが、翔隆は続けながら言う。
「七月に、内蔵助と犬千代が相撲をしてて俺が巻き込まれた話をしてたんです。そこに信長様が交ざったからきりがなくなったって」
「きりがないとはなんだ。…お濃が言ってた本か」
信長は松のような絵の描いてある本を手にする。
それは、絵の具ではなく紙を貼って絵のようにしてあった。
「ほお、誰が作った?」
「俺が、そこの松を見ながら貼りました。…変ですか?」
翔隆がおずおずと聞くと、信長はニッとする。
「これを、寝所の隣の襖にもやっておけ」
「えっ!?」
「来月までにな」
そう言い行こうとするので、翔隆が追い掛ける。
「待って下さい! 帰蝶様の綴じ本もやっていて、まだ」
「お前ならば、出来るであろう?」
ニヤリとして言うと、信長はそのまま行ってしまう。
〈…あ! まさか、睦月を使えと…〉
幾ら何でも、そんな頼みは出来ない…。
昔ーー姉の楓と共に、母の弥生から千切り絵など習ってしまったのが悪かったか?
燃やさなくてはならない紙の端で、母が桜の花のようにして本の表紙に貼ったのを、姉が羨ましがったのが切っ掛けだ。
母は、昔〝比丘尼〟さまから教えて貰ったのだ、と言っていた。
比丘尼とは、出家した女性の事だ。
あれはあれでいい思い出なのだから良しとしよう。
その日、長屋に帰った翔隆は早々に寝て朝も明けぬ内から林の中で刀を振っていた。
修行の為でもあるし、どうしたらいいか分からないからでもある。
そこに、嵩美が来る。
「翔隆様、共に参りましょう」
「え?」
「丑の刻です。さ」
「え? いや、嵩美?!」
「早くしなくては、導師様に叱られます故」
そう言い嵩美は無理矢理に翔隆を連れて行く。
信長から命じられた襖の飾りの事を知っているから、睦月に頼れるようにと連れ出したのだ。
嵩美は、翔隆を小屋に残してさっさと修行場へ行ってしまった。
小屋の中ではまだ睦月と雪乃宮が眠っている。
そっと覗くと、睦月が少し苦しげだったので中に入って上がる。
そして、水桶と布を用意して睦月の側に座る。
〈…熱があるな……〉
睦月のうなじに手を当てて熱を確認すると、翔隆は看病に当たる。
そして、朝ご飯の支度もしておいた。
「翔隆…来ていたのか…」
咳込みながら睦月が起き上がる。
「無理しなくていいよ、ほら白湯」
翔隆が湯呑みを側に置いて、起き出した四歳の雪乃宮の手を引いて裏の厠に向かう。
〈よく寝起きには睦月に厠に連れてきて貰ってたけど…でかい蛾が怖かったな…〉
そう考えていると雪乃宮が泣きながら出てきた。
「どうした」
「あそこの目ん玉…」
「あー…」
丁度、目線の所に目玉模様の翅の蛾が居たので追い払って用を足す。
二人で小屋に戻る時に今度は大きなヤママユガが飛んできたので
「うわあ!」
と、二人で驚いて帰っていくとクスクスと睦月に笑われた。
「なんて声で…あは、はははゲホッゲホッ」
「睦月…そんなに笑ったら熱が上がるよ」
翔隆は恥ずかしく思いながら、背をさすってあげる。
雪乃宮はまだ眠そうにゴロゴロしているので、翔隆は睦月の笑いが収まってから囲炉裏に行く。
「この雑炊でいいんだよね?」
「ああ…ゲホッ。拓須が鮭を取って来たから、それも…」
もそもそと動こうとするので、翔隆が睦月に掻巻を掛ける。
「ほら寝て。この綿の入った掻巻だって、わざわざ拓須が仕入れた物だろう?」
「…これは、私が拓須に頼んで綿を仕入れて貰って、お前の為にと私が作った物だ」
何故かムスッとしながら睦月が言う。
「そ、そうか…ありがとう。でも、今は寒くないから使ってくれ」
そう言うと、睦月は大人しく寝る。
数刻もすると、睦月と雪乃宮が再び眠ったので翔隆は火を見ながら外に出る。
〈そろそろ拓須が戻ってくるだろう〉
空が白む前に出仕しておきたい。
そう思っていると、突然《風の刃》が顔目掛けて放たれたので咄嗟に打ち消した。
すると、チッという舌打ちが聞こえ拓須と嵩美が戻ってくる。
「お帰り、雑炊は作ってあるから。睦月の熱は下がったみたいだから…」
「ふん…さっさと去ね」
その言葉に苦笑で応えて、翔隆は城に向かった。
朝早くに出仕する事で、襖と表紙作りを両立させて、何とか冬が来る前には完成した。
気が付けばもう十一月だ。
小姓仲間や塙直政、森可成などが手伝ってくれたお陰で、良い表紙と襖絵が出来た。
襖は、松、梅、竹に分けたら、信長にも褒められた。
表紙も一つずつ異なる色合いや千切り絵を貼った事で帰蝶に褒められた。
二人揃って、翔隆を呼び出す。
「此度はご苦労だったな。褒美は何が良い」
信長が聞くと、翔隆は考える。
…褒美が欲しくてやったのではない。
ただ命じられたからやっただけで、何も考えていなかったのだ。
かと言って、〝何も要らない〟と言うと何故か怒られる…。
〈…な、何にしよう…〉
翔隆は懸命に考えて言う。
「う、ウナギが欲しいです」
「ウナギ…?」
信長と帰蝶が揃って聞き返した。
「は、はい、あの…師匠が……睦月が病なので、精の付く物をと思い…まして…」
言っている側から信長が眉間にシワを寄せたので、翔隆は俯く。
溜め息を吐きながら信長が聞く。
「他は」
「ーーー木綿が、欲しいです!」
翔隆は顔を上げて言う。
「木綿?」
「はい、掻巻を作りたくて…」
「……あの薬師にか」
「あ…はぃ…」
小さく答えた。
睦月が自分に作ってくれたと言っていたから、今度は自分が睦月の為に作ってあげたいと思ったのだ。
またしても俯くと、クスクスと帰蝶が笑う。
「ほんに…あの薬師が好きなのですね。殿も嫉妬していないで、ウナギなり鯛なり木綿なり絹なり、褒美をあげてはいかがです?」
「誰もやらんとは言っとらん。…では、そのように手配しろ」
そう信長が言うと、奥に居た簗田広正が「はっ」と答えて早歩きで去る。
木綿は朝鮮や明朝からの輸入なので、主に堺に買い付けに行くのだ。
「あ、あの…木綿とは何処で手に入るのでしょうか…?」
恐る恐る尋ねてみると、信長が答える。
「明朝だったか? 堺ならばあろう」
「えっーーー」
行ってしまった後なので、今更要らないとは言えない。
翔隆がソワソワしているのを見て笑い、今度は帰蝶が聞く。
「さて、妾からの褒美だが反物で良いようじゃの」
「えっ?! さ、さっき木綿を…」
「それらは殿からの褒美。聞けば、お主は着物すら買わぬ故、出仕に着る物以外は継ぎ接ぎだらけのままで過ごすとか。民草とは違うのですよ。武士として、身なりは整えなされ」
「はっ…申し訳ございませぬ…」
嵩美が告げ口をしたのか…そう思っていると、その場に次々と反物が運ばれてくる。
「え? えっ?」
侍女達が、掛盤に六疋置いて運んできてズラリと並べた。
「さ、好きになさい。嵩美の分と、そなたの姉君の養い子の分と、師匠二人の分です」
帰蝶がニコリとして言った。
「あ…ありがとう存じまする…!」
そう言い頭を下げてから、翔隆はそのまま喋る。
「ですが、長屋に入りませぬ…!」
そう事実を言うと、信長と帰蝶は楽しげに笑う。
「ほ、ほほ。そうですね…では、嵩美の使う部屋に置きましょうか。後で、何に仕立てるかを嵩美か似推里に言いなさい。仕立てさせる故。これ、持って行きなされ」
「はい」
答えて嵩美や似推里達が、反物を運んでいく。
「あの…過分に頂き過ぎるのでは…」
翔隆がそっと言うと、信長が鼻で笑う。
「四年居て、何も褒美を貰おうとしないからだろうが。お市やお犬の世話もして、侍女達に指南もしておいて〝褒美は〟と聞くと要らぬと申す。こうしなければ受け取るまい」
「あの、俸禄を頂いて…」
「誰でも貰う物だろうが」
「…は、ありがたく頂戴致します」
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bekichi
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