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四章 礎
三十五.告白
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赤や黄色の曼珠沙華が土手や道端に咲き誇る十月。
一成が家臣となってから一月。
以前よりも明るくなり、話をするようにもなった。忠長以外とは、馴染んでくれたようだ。
翔隆は義成に頼んで、河原で一成に修行を付けさせていた。
翔隆は出仕である。
体力も備わっているし、基本もなっているので後は剣技…。
義成は、似推里と一成の指南役をする。
二人を腰の辺りまで川に浸からせて雪孝に石や枝を投げさせて、それを剣で弾かせていく。
「戦いに水も泥も関係無いぞ! 足をすくわれれば溺れて流される!」
「はい!」
返事はいいが、似推里は少し流され掛けている。
それでも雪孝は容赦なく正確に物を投げ付けていく。
それを見て、義成は微笑した。
〈光征同様に、かなり鍛えられているな…忍術も仕込まれているか…〉
そう思い、ふと空を見る。
〈睦月……。無事で、いるといいが――――〉
「何をしているのだ?」
ふいに後ろから声がして、義成はハッと我に返り驚愕する。
そして、出し掛けた声を飲み込んだ。
そこに、陽炎が立っていたからだ。
「お主…!」
「手出しはせん。お前に会いに来ただけだ…槍も置いてきた」
そう言い陽炎は戸惑う義成をよそに、ごく自然に隣りに腰掛けた。
敵意も何も無い…義成は溜め息を吐いて座った。
「ここに居るのは翔隆の家臣だぞ?」
「奴自身ではない」
それはそうなのだが……。
義成が微苦笑を浮かべて一成達を見ると、陽炎もその修行風景を見つめた。
「…子供を、な…」
陽炎が呟くように言う。
「女が生まれたが………近江に捨ててきた」
「捨てた?!」
義成が驚いて陽炎を見た。
陽炎は、川を見つめたまま淡々と喋る。
「疾風が…奴に付いたであろう。疾風の妻子と共に送ったが………死んだ事にした」
「………」
義成はすぐには、言葉が出なかった。
今川に居た間、疾風にも剣技を指南していた事がある。
陽炎や疾風と寝食を共にした事もある。
それ故に、陽炎がどれ程疾風を大切にしていたかが分かるのだ…。
だから、何と言っていいのか分からなかった。
義成は眉をひそめて陽炎を見つめる。
陽炎は、じっと翔隆の家臣達を見たまま話し続ける。
「それとな、信濃で子供を拾った」
「拾った…?」
「うむ。…男で年は七つ。〝しん〟と言っていたが記憶を無くしているらしく、それ以上は覚えていないと言ったので育ててやる事にした」
「お前が?!」
意外な言葉に義成は驚く。
陽炎は静かに頷いて、続ける。
「…面倒だから、名前はそのまま〝しん〟にしようとしたら、梓が怒り出してな。仕方がないので風月昌艶と名付けた」
「……良い名だな…」
義成は苦笑して一成達の方を見る。
〔狭霧〕は時に大名との外交で武将のような名を使う。
…それを考えて、付けてやったのだろう…と思うと、義成は複雑な心境になった。
〈…女子は近江に送って、見知らぬ子供を拾って育てるなどと…陽炎らしくないな……〉
子供に愛情が無い筈はない。現に長男は京羅に仕えているのだ。
…では何故?
考えてハッと気付く。
〈疾風の妻子と共に送った………その子供を、〔不知火〕として育てさせる為か…!〉
そう考え至って陽炎を見ると、陽炎は一成達を見たままで
「…疾風は、何故ここに妻子を連れてこなかった?」
ふいにそう聞いた。
義成は戸惑いながらも、顎に手を当てて話す。
「…疾風は―――翔隆を、殺そうとして邸に来たが……その時は、翔隆が高熱で生死の境を彷徨っていた。好機を逃したのは……緋炎に止められたからだそうだ。それで、翔隆を救い…味方に付いた……と、言っていた」
義成が疾風に聞いた事を話すと、陽炎は微笑した。
「…そう、か…」
そう言い、納得したような笑みを浮かべる陽炎を見て、義成は眉をひそめた。
「いい、のか? それで…」
義成はつい、そう聞いてしまう。
「ん?」
「私が言うのもおかしいと思うが…あんなに大事にしていた弟ではないか。その弟が〝敵〟となっても、お主は…」
言い掛けて、義成は口を噤む。
陽炎が…切なげな表情でこちらを見たからだ。
一方。
修行を受けながら似推里は目の端に見覚えのある者を見て、驚愕して義成の方を見ていた。
〈あれは……確か陽炎!! 何故ここにっ?!〉
何年も前に見ただけだが、それでも覚えている。
…自分が一度は死んだのだから…。
僧侶のような男と共に現れて、あの時は河原で足手まといとなって翔隆を窮地に陥らせてしまったから…。
悔しくて、自分が腹立たしくて余計に覚えていたのだ。
〈確か敵だと……―――〉
けれど、隣りに座っている義成の表情はとても穏やかで…。
〈翔隆にとっては敵なのだけれど、もしや義成様にとっては……〉
などと考えていると、雪孝の投げた石が似推里の喉を直撃した。
「ぐぅっ!!」
ザバァン と似推里は後ろに倒れて、そのまま流され掛けるも、必死で岩に掴まって両足を踏ん張り、水面に顔を出して息をする。
「はっ、ぶふっ」
水が容赦なく顔面に流れてきて、息をするのもやっとだ。
「…あの女、流れるぞ」
冷静に陽炎が言う。義成はそれを見て感心していた。
〈…流れないとは、大したものだ〉
そう思う間に、一成が助けようとじりじりと近付いて手を伸ばす。
「似推里殿、手を…!!」
〈……無理っ!!〉
左手で必死に岩に抱き付き、右手では刀を持っているので、その手を取れない。
―――その時。
「今助ける!!」
そう雪孝が叫んで、川を一気に凍り付かせた。二人はその体勢のまま、固まってしまう。
似推里は溺れ掛けた体勢、一成は後ろ向きのまま…。
それを見て、陽炎が今頃気付いて言う。
「椎名の双子の片割れ、生きていたのだな」
「ああ…。睦月が連れ帰ったのだ。殺すのに忍びない、と…」
その義成の言葉に、陽炎は僅かに頷いただけだった。
雪孝は手を翳したまま、二人に言う。
「似推里殿! 今溶かすから、一度岸に上がりなされ」
そう言うと、似推里の体の周りの氷だけを溶かした。
〈…!! 氷が水に…!!〉
流れの無い水に代わり、似推里は楽に体を起こして岸に上がる事が出来た。
「あ、ありがとう…」
似推里は驚嘆して雪孝に言う。
《術》で殺された事はあっても、実際に目の当たりにしたのは初めてで、改めて《霊術》の恐ろしさを思い知った。
〈もしも、合戦でこんなものを使われたら…あたし達人間には、どうにも出来ないわ…!!〉
恐ろしくもあり、それは使い方によっては、頼もしくもなるだろう…。
似推里がそう考えている間に、雪孝は一成を見る。
「溶かして良いか?」
「う、うむ…」
この体勢で今、川を元に戻されたら今度は自分が流されるだろう。
そんな不安を読み取って、雪孝はクスリと笑う。
「周りを溶かすので、体勢を整えて下され。準備がよろしければ戻します」
「す、済まぬ」
一成は少し顔を赤らめながらも、水に戻された己の周囲を見極めてから、足と腰で踏ん張る。
それを見て頷くと、雪孝は川を元に戻した。
流れは先程よりも強くなっている。
「では、続けましょう!」
「ええ!」
似推里も川に入り直して、修行を再開した。
その頃、邸では昼餉の準備をしていた。篠姫が麦の握り飯を作って笹に包む。
「葵、これを義成どのの下へ届けてきなされ」
「はい!」
葵がそれを受け取り風呂敷包みに入れて出掛けようと門を潜ると、睦月捜索から戻った光征と会う。
「あ…光征さま、お帰りなさいませ」
「ん…何処かに行くのか?」
「はい。昼餉の握り飯を義成さま達の下へ届けに行きます」
微笑んで答える葵を見て、光征は愛しく想った。
その気持ちが確かな愛だと確信し、光征はその包みを持つ。
「共に行こう。一人では危ない」
「…はい」
葵は頬を紅潮させて答え、共に歩き出した。
…いつからか、互いに意識するようになっていた。
光征も、葵も、共に好き合っているのに気付いたのは、今年になってからだろうか。
二人は、付かず離れず歩いて行く。
「……今日は、天気が良いな」
「はい」
「義成様は何処に?」
「矢月さまと似推里どのの稽古を付けに、椎名さまと共に川へ…」
「そうか」
会話が途切れた…葵は俯いて歩いていた。
「葵」
「はい?」
「…お前が好きだ」
唐突に光征が前を向いたまま言った。
葵は驚いて光征を見つめる。
すると、光征が振り向いた。
「私と、添い遂げてくれぬか?」
光征は頬を紅潮させながらも、真剣に言う。
「は、はい!」
葵は真っ赤になりながら、嬉しそうに返事をする。
「…ありがとう。後で、翔隆様と篠姫様に許しを得よう…」
「はい…」
互いに見つめ合い微笑むと、また歩き出した。
川では、厳しい修行が続けられていた。
その傍らに座っている義成と……陽炎。
「…長居をしたな」
そう言い、陽炎は立ち上がる。
「何故、俺にそんな話をした?」
そう聞くと、陽炎は苦笑した。
「…お前は、友…だろう?」
言われて義成は、遠い昔を思い出す。
―――幼少の頃に、誰かに手を引かれてやってきた一つ年上の陽炎…。
確かに、友として紹介された。
〝遊び相手〟ではなく、〝友垣〟として…。
しかし、途中で旅に出て居なくなったのは陽炎であり…独り取り残された義成は、裏切られた、とさえ感じたのだ。
だが、陽炎にとってはいつまで経っても、何処に居ても、敵であっても…〝友〟に変わりはないのだ。
義成は言葉を失い、陽炎を見上げた。
「そんな顔をするな。…こうして逢いに来るのは……やはりおかしい、か?」
おかしいというか、変だと思うのか……奇妙な気分なのは確かだ。
何と言っていいか分からずにいると、陽炎はクスリと笑って明るく言う。
「お前が会いたくないというのならば、もう来ない」
「そういう…訳では……」
会いたくない訳ではない。
しかし、いつもは会えば戦っていた相手だ…。
複雑な表情をしていると、背中をポンと叩かれる。
「深く考えるな。では、な――――」
そう言い陽炎は微笑んでその場を立ち去った。その直後、
「義成様!」
と叫んで、明智光征が駆け寄ってきた。
「今のは陽炎ではありませんか!? 何かありましたか!?」
「…いや」
そういえば光征は今川義元との合戦の折りに、陽炎達と刃を交えて見知っていたのだった。
義成は苦笑して立ち上がる。
「何もないから案ずるな。…その包みは?」
聞かれて光征はハッとして後ろを見た。
後ろからは、葵が息を切って走ってきているのが見える。
「あ、あの…葵と共に握り飯を届けに参りまして…。修行と聞いたので、わたくしもと思ったのですが…」
「そうか…」
話している所に、ヨロヨロと葵がやってくる。
「はあ…はあ……な、何か…あったのですか? 急に走り出されて……」
「す、済まぬ。何でもないのだ…大丈夫か?」
「は、はい…」
そう答えるが、葵はまだハアハアと苦しそうに息をしている。
心配した光征が葵を岩に座らせた。
〈…ほう。そうか…〉
その様子で二人の関係を察した義成は、川の方に行く。
「雪孝、止めていいぞ。一成、似推里、飯の差し入れだ」
「はい!」
答えて似推里が足を滑らせて転んだので、それを一成が助け起こした。
「気を付けて下され」
「あ、ありがとう矢月どの…」
「一成、で結構。さ…」
一成は手を握ったまま、力強く似推里を岸まで連れていく。
それを見て、義成は何か違和感を感じる。
〈ほう…華奢に見えるのに、意外と足腰が強いな…。普通に戦に駆り出されていたとしても、あんなに強い訳がない〉
そう思い、似推里と雪孝を光征達の下に行かせて川から上がった一成の側に立つ。
「一成」
「はい」
「何か、特別な訓練をしていたか?」
「………少々…」
一成はためらいがちに答えた。
その様子から、余り聞かれたくない事だと判断して、義成は微笑する。
「そうか。いい事だ」
そう言って光征達の下に行く。
その義成の後ろ姿を見ながら、一成は申し訳なさそうな顔をする。
…本当は、小さな頃に〔一族の子〕として訓練を受けていたのだ。
物心付いた頃から十三歳まで、信濃の集落に居た。
しかし、そこが狭霧一族の攻撃を受けたので、一成は言われるがままに逃げた。
…翔隆と同じ様に。
戦う大人達に庇われて唯一人、子供である自分だけが逃げたのだ…。
その負い目が、今も忘れられず…〔一族〕だという事を打ち明けられずにいたのだ。
〈申し訳ありません…〉
一成は心で詫びて、後に続いた…。
一成が家臣となってから一月。
以前よりも明るくなり、話をするようにもなった。忠長以外とは、馴染んでくれたようだ。
翔隆は義成に頼んで、河原で一成に修行を付けさせていた。
翔隆は出仕である。
体力も備わっているし、基本もなっているので後は剣技…。
義成は、似推里と一成の指南役をする。
二人を腰の辺りまで川に浸からせて雪孝に石や枝を投げさせて、それを剣で弾かせていく。
「戦いに水も泥も関係無いぞ! 足をすくわれれば溺れて流される!」
「はい!」
返事はいいが、似推里は少し流され掛けている。
それでも雪孝は容赦なく正確に物を投げ付けていく。
それを見て、義成は微笑した。
〈光征同様に、かなり鍛えられているな…忍術も仕込まれているか…〉
そう思い、ふと空を見る。
〈睦月……。無事で、いるといいが――――〉
「何をしているのだ?」
ふいに後ろから声がして、義成はハッと我に返り驚愕する。
そして、出し掛けた声を飲み込んだ。
そこに、陽炎が立っていたからだ。
「お主…!」
「手出しはせん。お前に会いに来ただけだ…槍も置いてきた」
そう言い陽炎は戸惑う義成をよそに、ごく自然に隣りに腰掛けた。
敵意も何も無い…義成は溜め息を吐いて座った。
「ここに居るのは翔隆の家臣だぞ?」
「奴自身ではない」
それはそうなのだが……。
義成が微苦笑を浮かべて一成達を見ると、陽炎もその修行風景を見つめた。
「…子供を、な…」
陽炎が呟くように言う。
「女が生まれたが………近江に捨ててきた」
「捨てた?!」
義成が驚いて陽炎を見た。
陽炎は、川を見つめたまま淡々と喋る。
「疾風が…奴に付いたであろう。疾風の妻子と共に送ったが………死んだ事にした」
「………」
義成はすぐには、言葉が出なかった。
今川に居た間、疾風にも剣技を指南していた事がある。
陽炎や疾風と寝食を共にした事もある。
それ故に、陽炎がどれ程疾風を大切にしていたかが分かるのだ…。
だから、何と言っていいのか分からなかった。
義成は眉をひそめて陽炎を見つめる。
陽炎は、じっと翔隆の家臣達を見たまま話し続ける。
「それとな、信濃で子供を拾った」
「拾った…?」
「うむ。…男で年は七つ。〝しん〟と言っていたが記憶を無くしているらしく、それ以上は覚えていないと言ったので育ててやる事にした」
「お前が?!」
意外な言葉に義成は驚く。
陽炎は静かに頷いて、続ける。
「…面倒だから、名前はそのまま〝しん〟にしようとしたら、梓が怒り出してな。仕方がないので風月昌艶と名付けた」
「……良い名だな…」
義成は苦笑して一成達の方を見る。
〔狭霧〕は時に大名との外交で武将のような名を使う。
…それを考えて、付けてやったのだろう…と思うと、義成は複雑な心境になった。
〈…女子は近江に送って、見知らぬ子供を拾って育てるなどと…陽炎らしくないな……〉
子供に愛情が無い筈はない。現に長男は京羅に仕えているのだ。
…では何故?
考えてハッと気付く。
〈疾風の妻子と共に送った………その子供を、〔不知火〕として育てさせる為か…!〉
そう考え至って陽炎を見ると、陽炎は一成達を見たままで
「…疾風は、何故ここに妻子を連れてこなかった?」
ふいにそう聞いた。
義成は戸惑いながらも、顎に手を当てて話す。
「…疾風は―――翔隆を、殺そうとして邸に来たが……その時は、翔隆が高熱で生死の境を彷徨っていた。好機を逃したのは……緋炎に止められたからだそうだ。それで、翔隆を救い…味方に付いた……と、言っていた」
義成が疾風に聞いた事を話すと、陽炎は微笑した。
「…そう、か…」
そう言い、納得したような笑みを浮かべる陽炎を見て、義成は眉をひそめた。
「いい、のか? それで…」
義成はつい、そう聞いてしまう。
「ん?」
「私が言うのもおかしいと思うが…あんなに大事にしていた弟ではないか。その弟が〝敵〟となっても、お主は…」
言い掛けて、義成は口を噤む。
陽炎が…切なげな表情でこちらを見たからだ。
一方。
修行を受けながら似推里は目の端に見覚えのある者を見て、驚愕して義成の方を見ていた。
〈あれは……確か陽炎!! 何故ここにっ?!〉
何年も前に見ただけだが、それでも覚えている。
…自分が一度は死んだのだから…。
僧侶のような男と共に現れて、あの時は河原で足手まといとなって翔隆を窮地に陥らせてしまったから…。
悔しくて、自分が腹立たしくて余計に覚えていたのだ。
〈確か敵だと……―――〉
けれど、隣りに座っている義成の表情はとても穏やかで…。
〈翔隆にとっては敵なのだけれど、もしや義成様にとっては……〉
などと考えていると、雪孝の投げた石が似推里の喉を直撃した。
「ぐぅっ!!」
ザバァン と似推里は後ろに倒れて、そのまま流され掛けるも、必死で岩に掴まって両足を踏ん張り、水面に顔を出して息をする。
「はっ、ぶふっ」
水が容赦なく顔面に流れてきて、息をするのもやっとだ。
「…あの女、流れるぞ」
冷静に陽炎が言う。義成はそれを見て感心していた。
〈…流れないとは、大したものだ〉
そう思う間に、一成が助けようとじりじりと近付いて手を伸ばす。
「似推里殿、手を…!!」
〈……無理っ!!〉
左手で必死に岩に抱き付き、右手では刀を持っているので、その手を取れない。
―――その時。
「今助ける!!」
そう雪孝が叫んで、川を一気に凍り付かせた。二人はその体勢のまま、固まってしまう。
似推里は溺れ掛けた体勢、一成は後ろ向きのまま…。
それを見て、陽炎が今頃気付いて言う。
「椎名の双子の片割れ、生きていたのだな」
「ああ…。睦月が連れ帰ったのだ。殺すのに忍びない、と…」
その義成の言葉に、陽炎は僅かに頷いただけだった。
雪孝は手を翳したまま、二人に言う。
「似推里殿! 今溶かすから、一度岸に上がりなされ」
そう言うと、似推里の体の周りの氷だけを溶かした。
〈…!! 氷が水に…!!〉
流れの無い水に代わり、似推里は楽に体を起こして岸に上がる事が出来た。
「あ、ありがとう…」
似推里は驚嘆して雪孝に言う。
《術》で殺された事はあっても、実際に目の当たりにしたのは初めてで、改めて《霊術》の恐ろしさを思い知った。
〈もしも、合戦でこんなものを使われたら…あたし達人間には、どうにも出来ないわ…!!〉
恐ろしくもあり、それは使い方によっては、頼もしくもなるだろう…。
似推里がそう考えている間に、雪孝は一成を見る。
「溶かして良いか?」
「う、うむ…」
この体勢で今、川を元に戻されたら今度は自分が流されるだろう。
そんな不安を読み取って、雪孝はクスリと笑う。
「周りを溶かすので、体勢を整えて下され。準備がよろしければ戻します」
「す、済まぬ」
一成は少し顔を赤らめながらも、水に戻された己の周囲を見極めてから、足と腰で踏ん張る。
それを見て頷くと、雪孝は川を元に戻した。
流れは先程よりも強くなっている。
「では、続けましょう!」
「ええ!」
似推里も川に入り直して、修行を再開した。
その頃、邸では昼餉の準備をしていた。篠姫が麦の握り飯を作って笹に包む。
「葵、これを義成どのの下へ届けてきなされ」
「はい!」
葵がそれを受け取り風呂敷包みに入れて出掛けようと門を潜ると、睦月捜索から戻った光征と会う。
「あ…光征さま、お帰りなさいませ」
「ん…何処かに行くのか?」
「はい。昼餉の握り飯を義成さま達の下へ届けに行きます」
微笑んで答える葵を見て、光征は愛しく想った。
その気持ちが確かな愛だと確信し、光征はその包みを持つ。
「共に行こう。一人では危ない」
「…はい」
葵は頬を紅潮させて答え、共に歩き出した。
…いつからか、互いに意識するようになっていた。
光征も、葵も、共に好き合っているのに気付いたのは、今年になってからだろうか。
二人は、付かず離れず歩いて行く。
「……今日は、天気が良いな」
「はい」
「義成様は何処に?」
「矢月さまと似推里どのの稽古を付けに、椎名さまと共に川へ…」
「そうか」
会話が途切れた…葵は俯いて歩いていた。
「葵」
「はい?」
「…お前が好きだ」
唐突に光征が前を向いたまま言った。
葵は驚いて光征を見つめる。
すると、光征が振り向いた。
「私と、添い遂げてくれぬか?」
光征は頬を紅潮させながらも、真剣に言う。
「は、はい!」
葵は真っ赤になりながら、嬉しそうに返事をする。
「…ありがとう。後で、翔隆様と篠姫様に許しを得よう…」
「はい…」
互いに見つめ合い微笑むと、また歩き出した。
川では、厳しい修行が続けられていた。
その傍らに座っている義成と……陽炎。
「…長居をしたな」
そう言い、陽炎は立ち上がる。
「何故、俺にそんな話をした?」
そう聞くと、陽炎は苦笑した。
「…お前は、友…だろう?」
言われて義成は、遠い昔を思い出す。
―――幼少の頃に、誰かに手を引かれてやってきた一つ年上の陽炎…。
確かに、友として紹介された。
〝遊び相手〟ではなく、〝友垣〟として…。
しかし、途中で旅に出て居なくなったのは陽炎であり…独り取り残された義成は、裏切られた、とさえ感じたのだ。
だが、陽炎にとってはいつまで経っても、何処に居ても、敵であっても…〝友〟に変わりはないのだ。
義成は言葉を失い、陽炎を見上げた。
「そんな顔をするな。…こうして逢いに来るのは……やはりおかしい、か?」
おかしいというか、変だと思うのか……奇妙な気分なのは確かだ。
何と言っていいか分からずにいると、陽炎はクスリと笑って明るく言う。
「お前が会いたくないというのならば、もう来ない」
「そういう…訳では……」
会いたくない訳ではない。
しかし、いつもは会えば戦っていた相手だ…。
複雑な表情をしていると、背中をポンと叩かれる。
「深く考えるな。では、な――――」
そう言い陽炎は微笑んでその場を立ち去った。その直後、
「義成様!」
と叫んで、明智光征が駆け寄ってきた。
「今のは陽炎ではありませんか!? 何かありましたか!?」
「…いや」
そういえば光征は今川義元との合戦の折りに、陽炎達と刃を交えて見知っていたのだった。
義成は苦笑して立ち上がる。
「何もないから案ずるな。…その包みは?」
聞かれて光征はハッとして後ろを見た。
後ろからは、葵が息を切って走ってきているのが見える。
「あ、あの…葵と共に握り飯を届けに参りまして…。修行と聞いたので、わたくしもと思ったのですが…」
「そうか…」
話している所に、ヨロヨロと葵がやってくる。
「はあ…はあ……な、何か…あったのですか? 急に走り出されて……」
「す、済まぬ。何でもないのだ…大丈夫か?」
「は、はい…」
そう答えるが、葵はまだハアハアと苦しそうに息をしている。
心配した光征が葵を岩に座らせた。
〈…ほう。そうか…〉
その様子で二人の関係を察した義成は、川の方に行く。
「雪孝、止めていいぞ。一成、似推里、飯の差し入れだ」
「はい!」
答えて似推里が足を滑らせて転んだので、それを一成が助け起こした。
「気を付けて下され」
「あ、ありがとう矢月どの…」
「一成、で結構。さ…」
一成は手を握ったまま、力強く似推里を岸まで連れていく。
それを見て、義成は何か違和感を感じる。
〈ほう…華奢に見えるのに、意外と足腰が強いな…。普通に戦に駆り出されていたとしても、あんなに強い訳がない〉
そう思い、似推里と雪孝を光征達の下に行かせて川から上がった一成の側に立つ。
「一成」
「はい」
「何か、特別な訓練をしていたか?」
「………少々…」
一成はためらいがちに答えた。
その様子から、余り聞かれたくない事だと判断して、義成は微笑する。
「そうか。いい事だ」
そう言って光征達の下に行く。
その義成の後ろ姿を見ながら、一成は申し訳なさそうな顔をする。
…本当は、小さな頃に〔一族の子〕として訓練を受けていたのだ。
物心付いた頃から十三歳まで、信濃の集落に居た。
しかし、そこが狭霧一族の攻撃を受けたので、一成は言われるがままに逃げた。
…翔隆と同じ様に。
戦う大人達に庇われて唯一人、子供である自分だけが逃げたのだ…。
その負い目が、今も忘れられず…〔一族〕だという事を打ち明けられずにいたのだ。
〈申し訳ありません…〉
一成は心で詫びて、後に続いた…。
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