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六章 決別
三十二.小言と賭け
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翔隆は家康の好意に甘えて、暫く岡崎城に居る事にした。
遠江ならば自分の配下の者に守らせている国であるし、修隆が家康を守ってくれているので安心出来るからである。
本多忠勝や榊原康政達とも親しくなってきた二月。
翔隆は子供達の訓練をする為に竹刀と縄を借りてくる。そして、樟美と叶龍之介の体を縄で繋いで、塀の上に乗せる。
「さて、これから塀の上を走って貰う。樟美はいいが…龍之介、走れるか?」
「う、くっ…」
龍之介も少しの事なら自信はあった。
先頭を歩いてみるが、いきなり向こう脛を翔隆に竹刀で叩かれて蹲る。
「いっ!」
「誰が歩けと言った! 私は走れと言った筈だ!!」
「す、すみません!! でも…」
「口答えはいらん! 走れ!!」
今まで優しかった主君に怒鳴られて、龍之介はビクッとして走り出す。
が、均衡が取れずに落ち掛けて必死に捕まるも、敢えなく落ちて樟美を巻き込んだ。
「お前が落ちたら当然、樟美も落ちる! 巻き沿いにせぬように走れ!」
そう怒鳴られ龍之介は申し訳なさげに樟美を見る。
樟美は真顔で立ち上がり、龍之介を見た。
「さ、行くぞ。折角与えられた修行…やらぬのは勿体ない」
そう言うと、手を伸ばす。
龍之介はこくりと頷き、その手を取って立ち上がると二人で塀によじ登った。
それを見て頷き、翔隆は浅葱と叶千景を見る。
「お前達には、木登りをして貰う。自信はあるか?」
問うと、浅葱は首を横に振り、千景は俯いた。
「…足腰の訓練だと思え」
そう言って、浅葱の体に縄を括り付け、少し高い木の枝に反対の縄の端を結ぶ。
「落ちても、さ程怪我はしない」
「あい!」
答えて浅葱は勢いよく登って落ちた。
それを横目に、千景も同じように縛る。
「一からの修行になるが…落ちてもあのように、ちゃんと足が着く。案ずるな」
「…はい」
千景はおずおずと木に手を掛けて、少しずつ登っていく。
…手足の力は普通よりあるようだ。
それらを見つめながら、翔隆は考える。
〈…義成…いや、焔羅の事を言わなくてはならない…〉
早く家臣達に知らせておかなければならないが、尾張には帰れない…。
しかし、こればかりはきちんとしなければならない。
〈…一度、戻るしかないが……いつ行くか……〉
呼び寄せる訳にはいかないので、行くしかないのだが…。
そう考えていると、榊原康政が近寄ってくる。
「酷ではないか?」
「…榊原殿」
「女子にまでそんな事をやらせるなど…」
「いいえ、優しい方ですよ」
そう答えると後ろから
「優し過ぎる程だ」
と、服部半蔵正成が腕組みをしながら言ってきた。
「拙者がやりましょうか? 貴殿は心ここに在らず、と見受けられる」
「服部殿…」
見抜かれて戸惑っていると、半蔵正成が翔隆の横に立つ。
「見ています故、行かれるが良い」
「……かたじけないが、お頼みする」
翔隆は一礼して子供達を見る。
「少し出掛けてくる。服部殿の言う事をよく聞いて励め」
「はい!」
それぞれの返事を聞いて頷き、翔隆は竹刀を服部正成に渡すと歩き出す。
陣笠を被って無心に駆け抜けていくと、二刻程で尾張の清洲に着いた。
が、ここにきてハッとする。
〈そういえば小牧山に移られたんだったな…では疾風達もそちらか…? いや、ここの邸にも誰か居るだろう…〉
気を巡らせて、翔隆は驚愕して辺りを見回す。
町や城に、〔不知火〕の気配が全く無いのだ。
いつ何があってもいいように、配置していたのだが…誰も居ないのだ。
〈…そこまで激怒されたか………当然、だな〉
路地裏に身を伏せながら、邸を〝気〟で探るが誰か居る気配は無い。
〈仕方が無い…小牧山に行こう〉
誰かに見付かっても困るが、家臣の誰にも会えないのはもっと困る。
翔隆は怪しまれないよう慎重に北へ向かった。
小牧山に来た翔隆は、取り敢えず城に潜む。
〈…家臣の姿は無い…か。せめて疾風が居ればと思ったのだが…〉
静かに溜め息を吐いて、翔隆は周囲を見渡す。
〈利家達は…どうしているだろうか……?〉
つい、そう思って探してみるが、やめる。
恐らくは信長の側に居る…それでは近付けない。
そう考え、翔隆は再び清洲に向かった。
〝ここへ戻るのは、解任を解かれた時〟―――。
そんな言葉も忘れて、裏道からそっと邸に入ってみると、丁度通り掛かった疾風(二十八歳)と会った。
疾風は目を丸くして駆け寄ってくる。
「兄者!?」
「…久しいな、疾風」
「どうして…もしや再士官…」
「いや、まだ解かれていない。それより…」
「とにかく何処か違う場所へ。忠長が帰ってきたら大騒ぎだ」
翔隆の言葉を遮って、疾風は強引に翔隆を押して邸を出る。
疾風に連れられて来た所は、三河との国境にある崩れ掛けた寺の中。
疾風は翔隆を見て渋い顔をする。
「信長公は相当お怒りですよ。人を惑わす〝鬼〟はいらぬ、と仰せられて不知火の者を置くのを禁ぜられ、私は解任です」
「…それで?」
「忠長と光征は、なんとか馬の世話や台所で働かせて貰い、睦月様は薬師となられております。…私も、お情けで奇妙丸様のお世話をさせて頂かせていますが…」
「そう、か……」
それを聞いて、落ち込んだ心が少し晴れた。それ程激怒しているにも関わらず、部下は雇ってくれているのだから、望みが無い訳ではない、という事だ。
「兄者、やはり信長公一人に絞られては…」
「それは無理だ」
翔隆はきっぱりと即答してから続ける。
「北条にも士官となってしまったし、それに…」
「兄者は欲張り過ぎです! ……と言った所で聞くような性格では無いですね」
疾風は深く溜め息を吐いてから、翔隆を真顔で見つめる。
「兄者、一つお願いがあります」
「何だ、改まって…」
「どうか、女子を娶って下され!」
「なっ…」
驚く翔隆に、疾風は真剣に言う。
「一代で戦を無くす、という志は大いに結構です。しかし、その後の事もお考え下され」
「その後…」
「一族を滅ぼせばいい、といった単純なものではありません。その後も、ずっとこの地を守っていかなければならないのです。兄者は不死に在らず。何十年、何百年先も見据えて頂かなくてはなりませぬ」
「それは…」
「娶らずともいいので、せめて〝嫡子〟を儲けて下され。皆への示しも付きませぬし、何より…皆を安堵させられます」
〈…安堵……〉
翔隆は何も反論出来ず、目を瞑ってじっと思案する。
その間にも、疾風は喋り続けた。
「何故こんな戦いを続けなければならないのかと思い悩むのは、兄者だけではありません。多くの者がそう思い、矛盾を抱えているのです。それでも戦うのは、不知火を思えばこそ…兄者を思えばこそ! 兄者に惚れ、天下を治めて欲しいと願えばこそ、身を挺して…」
「…疾風」
「何ですか」
「それは…分かるが……急には無理だ。…せめて、四・五年…待ってはくれぬか?」
「篠姫を、想っての事ですか?」
「……ああ…――」
それもあるので頷いて言うと、疾風に睨まれる。
「貴方は只の人間ではないんですよ!? 一族の長たる自覚を持って…」
「あー…分かったから。出仕に遅らせて済まんが、どの城に誰がいるか、利家達はどこに邸を構えているのか教えてくれぬか?」
「…仕方が無いですねぇ…」
疾風は深く溜め息を吐いてから、事細かに教えてくれた。
〈あれではまだ焔羅の事を話せぬな……〉
疾風が去った後、翔隆は取り敢えず一旦帰る事にした。
岡崎城に戻ると、庭から喧騒が聞こえてきた。
覗いてみると、家康や家臣達が手を振り翳して大声を出して塀を見ている。
〈? 何が…〉
塀を見ると、縄で体を結んだ樟美と龍之介が走っている。
走れるまでになったか、と感心していると、その後から小姓二人が真似をして同じく走っていたのだ。
「それ追い越せ!!」
「意地を見せろ!」
そう小姓に言って急かせている…。
〈…まさか、賭け事か!?〉
皆の応援や檄からして、甲斐での甲虫の賭けに似ていた。
翔隆はそっと近付いて、庭の隅に居る修隆に声を掛ける。
「修隆」
「ん? 帰ったのか」
「この騒ぎは…」
「見て分かるだろう」
そう答え、修隆はにやりとして塀を見つめる。
翔隆が塀を見ると、小姓二人が樟美達を追い越そうとして瓦を走り、足を滑らせてしがみついた。
その間に、樟美と龍之介が門の上に到着して喜んで手を叩き合う。
「またおれ達の勝ちだ!!」
「くそっ! また負けた!」
「負けるなと言っただろうが!!」
と、周りが悔しがって怒って言う。
…やはり、どちらが勝つかを賭けていたようだ。
いつから門が最終地点になったのかは分からないが…。
「またわしの勝ちだ!!」
そう言って家康が膝を叩いて大喜びして、家臣達から銭を取っていく。
翔隆は苦笑しながら家康に近寄る。
「家康様」
「おお、帰ったか。見ろ! お主の居ない間に、こんなに勝ったぞ!」
家康は子供のような満面の笑みで、翔隆に銭を見せる。
一人から幾ら取ったのかは分からないが…家臣から銭を取って何に使うのだろうか?
「…良かったですね」
「ほれ、女子も負けておらんぞ」
そう言って指を差した先には、木登りをする浅葱と千景の姿と共に、同じように木登りをする侍女の姿があった。
「えっ?! 何故…」
「あっちは中々、続けて勝てないのだがな」
家康はそう言って、今度は木登りを応援し始める。
「そこに足を掛けろ!」
「童に負けるな!!」
それを唖然として見ていると、傷だらけの樟美と龍之介がやってくる。
「父上! お帰りなさいませ」
「お帰りなさいませ!」
「あ、ああ……もう陽も暮れる。縄を解くか」
翔隆は二人の縄を解いてやる。
「大した怪我は負っていないな…昼飯は食ったのか?」
「塀の上で食べました。その後に家康様がやってきて、競う事になって…」
樟美の返事に翔隆は苦笑する。
「そうか…。お前達も、夕餉まで浅葱達の応援をしてあげるといい」
「はい」
答えて龍之介が走っていき、樟美は修隆の下に行く翔隆の後に付いていった。
「…修隆」
「何だ?」
「その…あの事なんだが……言えなかった」
「あの事? ああ…」
修隆は真顔で翔隆を見る。
「それで?」
「…改めて、二日後に伝えに行こうと思ってな。その…目を覚まさせてくれて、ありがとう」
「……いや」
修隆は照れ隠しをしながら、家康の側に行く。
その後ろ姿を見つめながら、翔隆は一礼する。
そんな父を見て、樟美は小首を傾げて考えてから、すぐに一つの事を思い出す。
〈もしや、義成殿の事か?!〉
春日山城で、人質となったせいで翔隆は重傷を負った…。
義成が、敵族の〝長〟だと認めるのに苦しんでいた…。
〈やっと、皆に伝える決心が付かれたのか…〉
しかし、今言った所で何か出来るのだろうか?
皆、義成の弟子だ。その事実は受け入れ難いだろう。
〈…解任が解かれれば、策も講じられる……〉
逆に言えば、解任されたままでは何も出来ないという事だ。
〈…二日後………〉
樟美は一人、何かを思い付いたかのように手を顎に当てて思案していた。
遠江ならば自分の配下の者に守らせている国であるし、修隆が家康を守ってくれているので安心出来るからである。
本多忠勝や榊原康政達とも親しくなってきた二月。
翔隆は子供達の訓練をする為に竹刀と縄を借りてくる。そして、樟美と叶龍之介の体を縄で繋いで、塀の上に乗せる。
「さて、これから塀の上を走って貰う。樟美はいいが…龍之介、走れるか?」
「う、くっ…」
龍之介も少しの事なら自信はあった。
先頭を歩いてみるが、いきなり向こう脛を翔隆に竹刀で叩かれて蹲る。
「いっ!」
「誰が歩けと言った! 私は走れと言った筈だ!!」
「す、すみません!! でも…」
「口答えはいらん! 走れ!!」
今まで優しかった主君に怒鳴られて、龍之介はビクッとして走り出す。
が、均衡が取れずに落ち掛けて必死に捕まるも、敢えなく落ちて樟美を巻き込んだ。
「お前が落ちたら当然、樟美も落ちる! 巻き沿いにせぬように走れ!」
そう怒鳴られ龍之介は申し訳なさげに樟美を見る。
樟美は真顔で立ち上がり、龍之介を見た。
「さ、行くぞ。折角与えられた修行…やらぬのは勿体ない」
そう言うと、手を伸ばす。
龍之介はこくりと頷き、その手を取って立ち上がると二人で塀によじ登った。
それを見て頷き、翔隆は浅葱と叶千景を見る。
「お前達には、木登りをして貰う。自信はあるか?」
問うと、浅葱は首を横に振り、千景は俯いた。
「…足腰の訓練だと思え」
そう言って、浅葱の体に縄を括り付け、少し高い木の枝に反対の縄の端を結ぶ。
「落ちても、さ程怪我はしない」
「あい!」
答えて浅葱は勢いよく登って落ちた。
それを横目に、千景も同じように縛る。
「一からの修行になるが…落ちてもあのように、ちゃんと足が着く。案ずるな」
「…はい」
千景はおずおずと木に手を掛けて、少しずつ登っていく。
…手足の力は普通よりあるようだ。
それらを見つめながら、翔隆は考える。
〈…義成…いや、焔羅の事を言わなくてはならない…〉
早く家臣達に知らせておかなければならないが、尾張には帰れない…。
しかし、こればかりはきちんとしなければならない。
〈…一度、戻るしかないが……いつ行くか……〉
呼び寄せる訳にはいかないので、行くしかないのだが…。
そう考えていると、榊原康政が近寄ってくる。
「酷ではないか?」
「…榊原殿」
「女子にまでそんな事をやらせるなど…」
「いいえ、優しい方ですよ」
そう答えると後ろから
「優し過ぎる程だ」
と、服部半蔵正成が腕組みをしながら言ってきた。
「拙者がやりましょうか? 貴殿は心ここに在らず、と見受けられる」
「服部殿…」
見抜かれて戸惑っていると、半蔵正成が翔隆の横に立つ。
「見ています故、行かれるが良い」
「……かたじけないが、お頼みする」
翔隆は一礼して子供達を見る。
「少し出掛けてくる。服部殿の言う事をよく聞いて励め」
「はい!」
それぞれの返事を聞いて頷き、翔隆は竹刀を服部正成に渡すと歩き出す。
陣笠を被って無心に駆け抜けていくと、二刻程で尾張の清洲に着いた。
が、ここにきてハッとする。
〈そういえば小牧山に移られたんだったな…では疾風達もそちらか…? いや、ここの邸にも誰か居るだろう…〉
気を巡らせて、翔隆は驚愕して辺りを見回す。
町や城に、〔不知火〕の気配が全く無いのだ。
いつ何があってもいいように、配置していたのだが…誰も居ないのだ。
〈…そこまで激怒されたか………当然、だな〉
路地裏に身を伏せながら、邸を〝気〟で探るが誰か居る気配は無い。
〈仕方が無い…小牧山に行こう〉
誰かに見付かっても困るが、家臣の誰にも会えないのはもっと困る。
翔隆は怪しまれないよう慎重に北へ向かった。
小牧山に来た翔隆は、取り敢えず城に潜む。
〈…家臣の姿は無い…か。せめて疾風が居ればと思ったのだが…〉
静かに溜め息を吐いて、翔隆は周囲を見渡す。
〈利家達は…どうしているだろうか……?〉
つい、そう思って探してみるが、やめる。
恐らくは信長の側に居る…それでは近付けない。
そう考え、翔隆は再び清洲に向かった。
〝ここへ戻るのは、解任を解かれた時〟―――。
そんな言葉も忘れて、裏道からそっと邸に入ってみると、丁度通り掛かった疾風(二十八歳)と会った。
疾風は目を丸くして駆け寄ってくる。
「兄者!?」
「…久しいな、疾風」
「どうして…もしや再士官…」
「いや、まだ解かれていない。それより…」
「とにかく何処か違う場所へ。忠長が帰ってきたら大騒ぎだ」
翔隆の言葉を遮って、疾風は強引に翔隆を押して邸を出る。
疾風に連れられて来た所は、三河との国境にある崩れ掛けた寺の中。
疾風は翔隆を見て渋い顔をする。
「信長公は相当お怒りですよ。人を惑わす〝鬼〟はいらぬ、と仰せられて不知火の者を置くのを禁ぜられ、私は解任です」
「…それで?」
「忠長と光征は、なんとか馬の世話や台所で働かせて貰い、睦月様は薬師となられております。…私も、お情けで奇妙丸様のお世話をさせて頂かせていますが…」
「そう、か……」
それを聞いて、落ち込んだ心が少し晴れた。それ程激怒しているにも関わらず、部下は雇ってくれているのだから、望みが無い訳ではない、という事だ。
「兄者、やはり信長公一人に絞られては…」
「それは無理だ」
翔隆はきっぱりと即答してから続ける。
「北条にも士官となってしまったし、それに…」
「兄者は欲張り過ぎです! ……と言った所で聞くような性格では無いですね」
疾風は深く溜め息を吐いてから、翔隆を真顔で見つめる。
「兄者、一つお願いがあります」
「何だ、改まって…」
「どうか、女子を娶って下され!」
「なっ…」
驚く翔隆に、疾風は真剣に言う。
「一代で戦を無くす、という志は大いに結構です。しかし、その後の事もお考え下され」
「その後…」
「一族を滅ぼせばいい、といった単純なものではありません。その後も、ずっとこの地を守っていかなければならないのです。兄者は不死に在らず。何十年、何百年先も見据えて頂かなくてはなりませぬ」
「それは…」
「娶らずともいいので、せめて〝嫡子〟を儲けて下され。皆への示しも付きませぬし、何より…皆を安堵させられます」
〈…安堵……〉
翔隆は何も反論出来ず、目を瞑ってじっと思案する。
その間にも、疾風は喋り続けた。
「何故こんな戦いを続けなければならないのかと思い悩むのは、兄者だけではありません。多くの者がそう思い、矛盾を抱えているのです。それでも戦うのは、不知火を思えばこそ…兄者を思えばこそ! 兄者に惚れ、天下を治めて欲しいと願えばこそ、身を挺して…」
「…疾風」
「何ですか」
「それは…分かるが……急には無理だ。…せめて、四・五年…待ってはくれぬか?」
「篠姫を、想っての事ですか?」
「……ああ…――」
それもあるので頷いて言うと、疾風に睨まれる。
「貴方は只の人間ではないんですよ!? 一族の長たる自覚を持って…」
「あー…分かったから。出仕に遅らせて済まんが、どの城に誰がいるか、利家達はどこに邸を構えているのか教えてくれぬか?」
「…仕方が無いですねぇ…」
疾風は深く溜め息を吐いてから、事細かに教えてくれた。
〈あれではまだ焔羅の事を話せぬな……〉
疾風が去った後、翔隆は取り敢えず一旦帰る事にした。
岡崎城に戻ると、庭から喧騒が聞こえてきた。
覗いてみると、家康や家臣達が手を振り翳して大声を出して塀を見ている。
〈? 何が…〉
塀を見ると、縄で体を結んだ樟美と龍之介が走っている。
走れるまでになったか、と感心していると、その後から小姓二人が真似をして同じく走っていたのだ。
「それ追い越せ!!」
「意地を見せろ!」
そう小姓に言って急かせている…。
〈…まさか、賭け事か!?〉
皆の応援や檄からして、甲斐での甲虫の賭けに似ていた。
翔隆はそっと近付いて、庭の隅に居る修隆に声を掛ける。
「修隆」
「ん? 帰ったのか」
「この騒ぎは…」
「見て分かるだろう」
そう答え、修隆はにやりとして塀を見つめる。
翔隆が塀を見ると、小姓二人が樟美達を追い越そうとして瓦を走り、足を滑らせてしがみついた。
その間に、樟美と龍之介が門の上に到着して喜んで手を叩き合う。
「またおれ達の勝ちだ!!」
「くそっ! また負けた!」
「負けるなと言っただろうが!!」
と、周りが悔しがって怒って言う。
…やはり、どちらが勝つかを賭けていたようだ。
いつから門が最終地点になったのかは分からないが…。
「またわしの勝ちだ!!」
そう言って家康が膝を叩いて大喜びして、家臣達から銭を取っていく。
翔隆は苦笑しながら家康に近寄る。
「家康様」
「おお、帰ったか。見ろ! お主の居ない間に、こんなに勝ったぞ!」
家康は子供のような満面の笑みで、翔隆に銭を見せる。
一人から幾ら取ったのかは分からないが…家臣から銭を取って何に使うのだろうか?
「…良かったですね」
「ほれ、女子も負けておらんぞ」
そう言って指を差した先には、木登りをする浅葱と千景の姿と共に、同じように木登りをする侍女の姿があった。
「えっ?! 何故…」
「あっちは中々、続けて勝てないのだがな」
家康はそう言って、今度は木登りを応援し始める。
「そこに足を掛けろ!」
「童に負けるな!!」
それを唖然として見ていると、傷だらけの樟美と龍之介がやってくる。
「父上! お帰りなさいませ」
「お帰りなさいませ!」
「あ、ああ……もう陽も暮れる。縄を解くか」
翔隆は二人の縄を解いてやる。
「大した怪我は負っていないな…昼飯は食ったのか?」
「塀の上で食べました。その後に家康様がやってきて、競う事になって…」
樟美の返事に翔隆は苦笑する。
「そうか…。お前達も、夕餉まで浅葱達の応援をしてあげるといい」
「はい」
答えて龍之介が走っていき、樟美は修隆の下に行く翔隆の後に付いていった。
「…修隆」
「何だ?」
「その…あの事なんだが……言えなかった」
「あの事? ああ…」
修隆は真顔で翔隆を見る。
「それで?」
「…改めて、二日後に伝えに行こうと思ってな。その…目を覚まさせてくれて、ありがとう」
「……いや」
修隆は照れ隠しをしながら、家康の側に行く。
その後ろ姿を見つめながら、翔隆は一礼する。
そんな父を見て、樟美は小首を傾げて考えてから、すぐに一つの事を思い出す。
〈もしや、義成殿の事か?!〉
春日山城で、人質となったせいで翔隆は重傷を負った…。
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〈やっと、皆に伝える決心が付かれたのか…〉
しかし、今言った所で何か出来るのだろうか?
皆、義成の弟子だ。その事実は受け入れ難いだろう。
〈…解任が解かれれば、策も講じられる……〉
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