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第3話 薄焼き卵のオムライス
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「あれ、もう起きたの?仕事、休むんだろ」
あちこちに跳ねる前髪の寝癖を押さえ付けながら洗面所から出ると、父さんが居間のガラス戸を開けたところだった。
「行く」
「持病もあるから、不安な症状があるうちは休んだ方が良いって医者も言ってただろ」
麻痺のある右半身をかばいながら自分の座布団に座り、テレビを点けた。
昨夜から降り続いた雨は日中は一度上がり、晴れ間も見えますが、夕方には再び弱い雨が降りだすでしょう――。
画面越しに毎朝顔を合わせるお天気お姉さんだ。
画用紙で作ったキャラクター調の傘の絵を、眉をハの字にしながら困り顔で掲げていた。
「具合が悪い人に車の運転なんてさせられないって」
「電車がある。俺の事は良い。さっさと仕事に行け」
ぶっきらぼうな口調に、胸裏で「なんだよ」と呟きながら「朝ごはん、準備するから」と、たった今父さんが閉めたガラス戸を開けた。
「俺の事は良い。さっさと行け」
さっきと同じことを、更に声を張って強調する。
「……わかった。行ってきます」
用意していたグレーのステンカラーコートを羽織り、リュックを背負って玄関で靴を履く。
家を出る間際「気をつけてな」と聞こえたが、俺はそれに返事をしないまま、曇天に嘆息しながらドアを閉めた。
「おはよう。敦士君、走って来たのかい? 遅刻って時間でも無いのに」
「お、はようございます。えっと、その……犬に追いかけられちゃって」
今どき、そう野良犬も見かけない。
いくら何でも苦しかったかと顔が強張ったが、シンさんは疑う事も無く「そうかい。大変だったね」と労ってくれた。
「着替えてきます。それと、部屋のドライヤーお借りします」
十一月。雨の寒空の下。
公園の傍まで来た時だった。
背後に気配を感じで振り返ると、近頃見かけなくなって油断していたあの女が立っていたのだ。
相変わらず前髪をだらりと顔の前に垂れさせ、挙句の果てには低く唸るように何かをぶつぶつと不気味に呟いていた。
傘まで放り出して全速力で逃げてきた俺の額は、汗か雨かの見分けもつかないほど濡れて、塊となった前髪がべっとりと張り付いていた。
「あー、もう。くそっ……」
爪を立てて掻きむしったせいで髪が抜け落ち、束になって指の間に絡みついた。
どうして俺に纏わりつくんだ。どうしてあんなものが見えるんだよ――
振り返らずに公園に駆け込み、店の前まで来た時には姿は見当たらなかった。
鼻を啜って、瞼を擦る。
棚の上に置かれていた手鏡で浮腫んだ酷い顔を確認し、洗面所へと向かった。
「すみません、遅くなりました」
思ったよりもドライヤーに時間が掛かってしまった。
「あらあら、敦士君。おはよう」
「おはようございます。いらっしゃいませ、ミヤコさん」
開店から十分も過ぎてしまっていた。
菊池ミヤコさんが、杖をソファに立てかけていたところだった。
綺麗なグレイカラーをうなじでお団子にして、黄色いかんざしを挿した八十五歳の女性だ。
旦那さんは昨年他界し、現在は昔ながらの連棟平屋に独り暮らしをしているらしい。
息子さんは結婚しており、大阪にいる小学生と幼稚園児の孫の話をよくしてくれる。
「丁度良かった。ミヤコさんの珈琲を淹れてくれる?」
「はい、わかりました」
エプロンを腰に巻き、棚からサイフォンと、深入りのブラジル産珈琲豆のキャニスターを用意する。
「敦士君が淹れてくれるの? 嬉しいねえ」
テーブルで待つミヤコさんが、目じりに皺を沢山刻みながら無邪気な笑顔で俺の動きひとつひとつを目で追いかける。
ミルで挽いた豆を、いかにも理科の実験道具のようなサイフォンでゆっくりと抽出していく。
見ているだけで童心に戻れるのだと、ミヤコさんお気に入りなのだ。
彼女の珈琲はいつもこうして淹れている。
下のフラスコにお湯を入れ、火の付いたアルコールランプにセットする。
くつくつと湧いてきたら、ロートにろ過用の布を入れ、挽いた珈琲を入れていく。
そうしているうちに、フラスコ内がぐつぐつと大きな気泡を立て始めた。
上にロートをセットし暫く待つと、ロートに上がって来たお湯に押されて珈琲粉がぐいぐいと上がっていくのだ。
へらで珈琲をしっかりお湯に浸しながら、懐中時計を確認する。
「あぁ、良い香り」
芳醇な珈琲の香りが漂い始め、ロート内を一度確認してから火を消す。
へらで混ぜ、少しするとロートに溜まった珈琲がフラスコに落ちてくる。
それをカップに移せば完成だ。
「お待たせしました」
「慣れたものねえ。頼もしいわね、シンさん」
「えぇ、本当に。彼になら、安心して任せられそうです」
「そんな。分からない事ばかりです」
筋を違えそうなくらい、力強く首を左右に振った。
「ああ、美味しい。しっかりこの店の味を習得してるじゃない」
「いえ……まだまだです」
「長年ここの珈琲を飲ませて頂いているからね。私、結構味にはうるさいのよ。そんなお婆さんが美味しいって言うんだから、自信持って良いのよ」
「ありがとうございます」
拭いたばかりのロートを赤面しながらもう一度拭く俺に、ミヤコさんが満足気に深く頷いた。
「今日は翼さんはいらっしゃらないんですね」
沈黙が恥ずかしくて、特に気になっている訳でも無い話題をシンさんに振る。
シンさんは珈琲豆を袋からキャニスターに移しながら「そうだね」と短く答えて蓋を閉めた。
「授業が大変みたいだよ」
「へぇ……大学で何の勉強をしてるんでしょう?」
俺は高卒だ。大学がどういうものかを全く知らない。
「栄養士だよ」
「そうなんですか」
意外です――。
失礼なその言葉を飲み込んで、サイフォンを棚に仕舞った。
カラン コロン
「いらっしゃい。小野さん」
「あぁ、どうも」
「いらっしゃいませ」
前回に会った時も何となく感じていたが、会うたびに小野さんが小さくなっていく。
久しぶりにやって来た彼は、また前回よりも一回り小さくなった気がする。
元は長年の自信を感じられるような背筋と大きな肩幅。
立派なお腹をせり出しながら入って来たのに、今は酷い猫背だ。
本人としてはいつも通りに笑顔で入って来たつもりなのだろうが、笑顔を浮かべても、目元に全く覇気がない。
普段は仕事の休憩で来ることが多い為、スーツが多い。
だが、今日は紺のニットに黒いコート。
綺麗に整髪料で整えていた髪も、今日は櫛を適当に通しただけなのがわかる。
そんな彼のソファに向かう後姿は、道端に捨てられた、しょぼくれた犬みたいだった。
席についても暫く心ここにあらずで、虚ろな目で窓の向こうを眺めるばかりだった。
新聞紙を広げるわけでも無く、勿論、普段通り威勢よく声を掛けてくれる事も無い。
ミヤコさんがカップをソーサーに置く音がやけに大きく聞こえてしまう。
「シンさん……大丈夫でしょうか」
窓辺の丸椅子に座っていたシンさんに肩が当たりそうなくらい近付いて囁いた。
だがシンさんは頷くだけで
「敦士君も、ゆっくり座ってなさい」
なだめるように、同じ丸椅子をもうひとつキッチンの隅に置いた。
そういえば父さん、仕事に行ったんだろうか。大丈夫かな。
ふと気が緩むと、ついそんな事が頭を過る。
結局、あれから引っ越しは一旦中止となり、実家暮らしが続いていた。
何軒か候補を見て回り、実家のある駅から少し外れた築四十数年、家賃二万円のアパートを見つけた。
手続きを進めるようとしていた朝、父さんが頭が痛いと言ったのだ。
普段から自分の不調を見せない人が顔をしかめるのだから、余程の事だろう。
嫌がるのを無理矢理説得し、小言を言われながらも病院に連れて行ったが、その時には頭痛も消えてしまい、担当医もとりあえず様子を見ようと言う事だった。
まぁ、父さんは出て行ってほしいみたいだけど――。
病院の帰り道に引っ越しを延期すると伝えた時の、呆れた顔が忘れられない。
ふぅ、と重く嘆息した。窓の向こうはすっかりセピア色だ。
今日は、指定席の紳士は来ないのかな。
特にこれと言って交わす会話も無いが、あの人があの席に座っている風景が絵になるのだ。
とてもこの店に馴染んでいて、いつも静かに座っているだけのお客さん。
ベルベットのカーテンが雨上がりの景色を額縁のように彩る。
冬の足音が聞こえる、どこかセンチメンタルになる季節。
茶色や黄土色が目立ち、樹々は寒々しく、茎の先端だけでかろうじてぶら下がる湿った虫食いの葉を、ゆらりゆらりと躍らせていた。
レシピノートを一ページ目から順に確認していると
「あの……」
とようやく小野さんが声を掛けてくれた。
声には力が無いものの、口元だけは何とか口角を上げて精一杯の笑顔を作ろうとしていた。
「珈琲ひとつ。温かいのを頼むよ」
シンさんが俺に目配せした。
「はい」
小野さんの珈琲豆を棚から取り出し、細口のケトルをコンロに乗せる。
「かみさんがね」
顔を窓の外に向けたままの小野さんが、おもむろに口を開いた。
「もう長くないんだよ」
長くない。
一瞬何のことかわからず訊ねそうになったが、シンさんの言葉と口ぶりに何となく察してしまって口を噤んだ。
「……そうか。奥さんも小野さんも、よく頑張ってきたよね」
「あと一か月だ。俺の為に無理矢理命を繋がせて悪かったと思ってるよ。そろそろ、ゆっくり休ませてやろうと思ってる」
後半にかけて弱弱しくなる声色に、俺は視線を手元に移してコンロからケトルを下ろした。
「俺が定年退職したら二人で旅行でもしようって言ってたんだ。結局、かみさんが行きたいって言ってた海外にだって、人生で一度も行かせてやれなかった」
スイスに行ってみたいって言ってたんだ――大きく肩を上下させてため息を吐いた小野さんは、変わらず顔を背けたままお絞りに手を伸ばした。
「行くチャンスなんて、いくらだってあったのになあ」
その声は語尾にかけて掠れてしまう。
「後悔だらけだよ」
目元を拭いながら、小さく、声を震わせていた。
「ごちそうさまでした。シンさん、お会計お願いします」
静かに珈琲を飲んでいたミヤコさんが、よいしょ、と杖を付きながら立ち上がってレジへと向かった。
斜めに掛けた藍染めのポシェットに結びつけられた鈴が、彼女が歩くたびに、リン、と囁く。
「いつもありがとうございます」
「いいえ。ここの珈琲は私の元気の源なの」
小銭入れを出し、がま口を開けて中を確認しながら言う。
「それに死んだ主人とのデートは、いつもここでしたから」
ふふっ、と肩をすくめながらお茶目に笑ったミヤコさんは「はい、ぴったりね」と、シンさんの手のひらに小銭を乗せた。
「ご主人が亡くなって、どれくらい経ちますか」
ミヤコさんが小野さんを振り返り、リン、リン、と鳴らしながら彼のテーブルまで歩いた。
小野さんはいつになく思いつめたような面持ちで、唇を血が滲みそうなほど噛みしめている。
「来週が命日ですよ。一年経つのよねぇ」
頬に手を当てながら懐かしむミヤコさんに、小野さんは「そうですか」と表情を変えない。
「そうだ、みなさん。私、もう少ししたら息子のいる大阪に引っ越すんですよ」
「そうでしたか。寂しくなりますねぇ」
「シンさんとも付き合いが長いですからね。ここは主人との想い出の場所でもあるし、離れる前に、思う存分、来させて頂きますね」
「えぇ、お待ちしております」
「小野さん」
ミヤコさんがポシェットから出したパイナップル味の飴をひとつ、小野さんの手のひらに握らせた。
「どうにもならないような悲しい事も、もどかしい事もあるけれどね。そればかりじゃない。その出来事の裏にも必ず、大切な事が隠れているものなの」
皺だらけの手で包み込んでいた小野さんの手を放し、ゆっくりと背中に左手を当てた。
「大丈夫とは言わない。大丈夫じゃないかもしれない。でもね、あなたにはここがあるから。ひとりじゃないの」
そして「それに」と、いつもより更にゆっくりと柔らかい口調で続けた。
「後悔の無い人生なんて無いわ。小野さんの後悔は相手を想うからこそ。連れ添った相手が、死の間際まで自分を想ってくれるんだもの。そんな相手と人生の中で出会えた事って、とても幸せだと思うの」
ミヤコさんは「ね」と言うと「さて、私は帰りましょうかね」と再び玄関へ向かった。
「最期の時まで、たくさん、たくさん、言葉を掛けてあげると良いと思う。人間は最後まで聴覚は残るって、主人の時にお医者様から教えてもらったから。奥様も、きっと安心すると思うわよ」
「はい……そうですね。ありがとうございます」
カラン、コロン
ミヤコさんが店を出ていく。
小野さんは、震える唇を真一文字に結んだまま見送っていた。
お天気お姉さんの予想は外れた。
夕方には降ると言っていたので折り畳み傘を持って店を出てみたが、雨は降っていなかった。
灰色の空は相変わらずだが、流れの早い雲の合間から、時折太陽が顔を覗かせている。
湿った砂地をじゃりじゃりと踏みしめながら歩く。
木のトンネル小道には、ツンと鼻を衝く濃厚な緑と土の匂いが充満していた。
「おーい。敦士君」
「あ、高塚さん。こんにちは」
「久しぶりだね。僕、暫くお店に行けてないから」
ガラス工房の前で片付けをしていたらしい。
敷地にロープを張り終えたところだったようだ。
脇には筒状に丸めたポスターの束を抱えている。これからどこかに貼りにいくのだろうか。
「イベントですか?」
「もうすぐ冬休みだから、また子供向けイベントでもやろうかなって。真弓は子供が大好きだったから。喜んでくれるんじゃないかって思って。ねぇ、どう思う?」
「どう、とは?」
高塚さんは「んーと」と、青いペイズリー柄のバンダナ越しにこめかみを掻いた。
「端的に言うと、見える人だよねってこと」
見える人――。
「いわゆる霊感ってやつ。真弓の事、君は見えてるんだろう?」
「えっと……」
いつもの癖で言い訳となるような言葉を頭の中に巡らせて、気が付いた。
フレンチトーストを食べて貰うために、バレる覚悟で言ったんだ。
真弓さんとの想い出の食べ物を前にする勇気が無かった高塚さんを説得するために言った。
――あなたを気に掛けている人のために。
ずっとこのベンチから彼を見守っていた真弓さんの眼差しが忘れられない。
「正直、羨ましいよ。僕、そういうの全然だから」
「羨ましい、ですか」
そんな風に思われる事があるなんて、考えたことも無かった。
高塚さんは「そりゃあそうでしょ」と桂の樹を見上げた。
夏場は鮮やかな緑に色付き、真弓さんが消えた頃は黄葉していた葉もすっかり落ち、灰色の無数の枝を寒空に伸ばしている。
「お化け屋敷みたいな幽霊は怖いけどさ。大切な人に会えるなんて、正直羨ましい」
不気味。呪われる。
そんな言葉ばかり浴びせられて来た俺の人生。
人から羨ましがられる時が来るなんて、一番生き辛かった子供の頃の俺が聞いたら、どう思うだろう。
「このベンチで敦士君が誰かと喋ってるように見えたんだ」
「誰かとですか」
「そのあとに、フレンチトーストを食べて欲しいって言っただろう。僕を気に掛ける人の為にって。そんな人、真弓しかいないからね」
そう言って「だから、すぐに気が付いたよ」と片方の唇を上げて得意気に笑みを浮かべた。
「ん、どうかした?」
突然目の前にしゃがみこみリュックを漁り出した俺に、高塚さんが不思議そうに訊ねる。
スケッチブックを取り出した俺は、その場でページを一枚切り離し、しゃがんだまま差し出した。
「絵、かな」
胸ポケットに差し込んでいた細い黒縁の眼鏡をかけると
「これ……」
高塚さんは目を見開き、指先で紙の表面をざらりと撫でた。
「真弓……真弓だ。この場所って、このベンチだよね」
「そうです。彼女はずっとここに――」
「今もいるの? そこに」
ベンチに大きく一歩踏み出す高塚さんに、俺はゆっくりと首を横に振った。
「いえ、彼女はもうここにはいません」
「……そう」
「ずっと心配していました。だから真弓さんはここからあなたを見ていたんです」
「真弓が俺を」
紙の端を持つ指先にわずかに力が入る。
神妙な面持ちで、絵の中の真弓さんに視線を落としていた。
「真弓との想い出のあるフレンチトーストを食べて、思い切り泣いてから、少しずつ食欲も戻るくらい元気にはなったんだ。でも……」
顔を上げ、裸の桂の樹を見上げた。
さあっと冷たい抜けた風が、高塚さんの前髪をふわりと持ち上げて額を露わにする。
「俺が代われたら良かったって、今でも思うんだ」
ベンチに腰掛け、両足を伸ばす。
湿ったベンチで濡れないよう、ポスターは膝の上に抱えたままだ。
「酷いって言ってましたよ」
「え?」
「それは酷いって。私は雄介さんを失くす苦しみに耐えられないって。あの事故は、誰も悪くなんてなかったんだって、最後に言ってました」
高塚さんは一瞬きょとんとしたが、すぐに表情がほころぶ。
「ははっ、そっか。うん。真弓なら、そう言うだろうなあ」
画用紙を空に掲げて、ベンチにもたれて仰ぎ見る。
尊いものを見るように、眩しそうに目を細めながら、ゆっくりとため息を吐いた。
「敦士君、高塚さん! こんにちはー」
「あ、翼ちゃん」
憩いの広場を出たところからこちらに大きく両手を振る翼さんに、高塚さんも手を振り返す。
俺は会釈だけを愛想も無く返した。
「敦士君、悪いね引き留めて。僕もそろそろ行くよ」
ポスターを抱きかかえた高塚さんが「それと」と言いにくそうに続けた。
「この絵、貰えないかな。敦士君が一生懸命描いた物だから、無理には言えないけど」
「え――」
「あ、やっぱり駄目だよね。ごめん。やっぱり返すよ」
俺は「違うんです」と差し出された画用紙を断るように、胸の前で両手を振った。
「貰ってくれたら嬉しいと思ってたんです。でも、こういうの信じて貰えないんじゃないかって心配してたから。今まで、気味悪がられる事の方が多かったっていうか。嘘つきって言われる事が大半だったから」
「嘘つき?」
高塚さんは、不快そうに眉をひそめて首を傾げた。
「敦士君は嘘つきじゃないよ。この絵が無くたって、そんな事はあの店に通っていたらわかる。ちゃんと君を見ていたらわかるよ。それに――」
翼さんが、自転車を押しながらこちらに歩いてくる。
高塚さんは絵を大切そうに両手で持ったまま微笑んだ。
「僕はこの絵でとても幸せな気持ちになってるよ。世界一良い絵だ」
再び風が吹いた。
足元の枯れ葉がカラカラと音を立てながら、転がるように渦を巻いて、ふわりと散る。
「君の才能は、人を救うものだよ」
雲の切れ間から輪郭の淡いレモン色の光の筋が、水蒸気を纏って静穏な森に降り注いでいた。
「あれ、シンさんの所に行くんじゃなかったんですか」
何故か俺と一緒に公園の出口へと向かう翼さんに訊ねた。
ずしりと重そうな白いリュックが自転車の籠に乗せられている。
「ううん。君に会いに来たのだよ」
「僕に?」
「今朝、見ちゃったんだよね」
「何をですか」
今朝か。久しぶりにあいつに会ったんだったな。
思い出すだけで、こうして歩いていても落ち着かなくなってくる。
顔は真っ直ぐ前を向いたまま、辺りに視線を巡らせる。
憩いの広場にはチワワの散歩に来ている女性が一人と、幼い兄妹を連れた母親。
ちょうど道の先、出入り口から入って来たのは高齢の男性。美術館の方へと歩いていった。
大丈夫。あの女の姿は無い。
「っていうか、実は今日だけじゃないんだよね」
「だから、何がですか」
勿体付けたような言い方にうんざりしながらも、できるだけ平静を装った。
翼さんは様子を伺うように横目で俺をちらりと見ると、二回頷いて足を止めた。
「敦士君が誰もいないのにやたらと焦った様子で、逃げるようにこの公園に走って来るところ。あと――」
背筋がひやりとした。
それは今、俺たちの間を隔てるように割って入った冷えきった木枯らしのせいだけではない。
「誰もいない工房の前で、まるで誰かがそこにいるみたいに、ひとりで喋って、笑ってるところ」
その時の翼さんの俺を見る目は、その夜、夢にまで出るほど冷たい物だった。
それは、これまで俺に向けられてきた目とも似ていて、その中でもひと際、嫌悪感を滲ませた目だったように思う。
答えられなかった。
返事をしない俺を翼さんは責めなかったが、駅が見えると足早に改札に向かおうとする俺の背に投げかけた。
「幽霊なんているわけないじゃん」
吐き捨てるような乱暴な口ぶりに、思わず立ち止まってしまった。
「イマジナリーフレンドだっけ。心の中の友達みたいな。そういうのがいるの?」
背を向けたまま呆然と立ち尽くしていた俺は、語尾が疑問形になっていることにようやく気付いて、小刻みに数回頭を横に振った。
「じゃあ酷い妄想癖があるんだよ」
何なんだ急に――。
「人間、死んだら終わり。そうでしょ」
構内アナウンスが鳴り響く。振り返るのが怖い。
「電車が来るから……」
それ以上は言葉にならなかった。
喉が締め付けられているみたいに苦しい。
その苦しみの正体が絶望からくる悲しみだと気づいたのは、真夜中。
ひとりで布団に潜ってからだった。
翌週の月曜日。
今朝は急遽シンさんが午前中だけ出かけなくてはならなくなった。
勿論、俺ひとりでは心細いだろうと店を臨時休業にしようと言ってくれたが、俺だってここの店員なのだ。
午前の数時間の店番くらいできるようにならなきゃいけないだろう。
レシピノートを立てかけ、わずかに残る不安でそわそわとカウンターの中を右往左往していると、一番乗りで翼さんがやって来た。
よりによって、先日の事があってからの二人きりの空間。
胸裏でシンさんの助けを求めなかったと言えば噓になる。
「あー、寒かった。お祖父ちゃんは?」
レジ横の階段を覗き、店内を見回した。
今日は朝から分厚い雲が空を覆っているというのに、顔の面積の半分くらいを埋めるようなサングラスをかけている。
「急用みたいです。要件はわからないですけど、お昼には戻って来るって言ってました」
翼さんは「ふうん」と真正面に座り、何事も無かったかのように「ミルクティー。温かいのね」と俺の後ろの棚に視線を投げると、そのまま突っ伏してしまった。
ジャンナッツの缶を取り、お湯を沸かす。
鮮やかな青いハイネックのセーター越しの背中が、次第にゆっくり、規則的に上下していく。
寝てる。サングラス掛けっぱなしで……。
壊れないだろうか。
心配になって声を掛けようかと迷っていると、ふと視界の端に映り込んだものに、咄嗟に翼さんから視線を剥がした。
あの紳士がいた。
指定席に座って、いつものように窓の向こうに目を向けている。
「あ、あの」
いや、そんなはずはない。
店はさっき開店して、シンさんが出て行って。
最初の客は翼さんだ。
一度だってドアベルは鳴っていない。
紳士はおもむろにこちらを向くと、ゆっくりと右手で俺を指さした。
わけがわからず狼狽える俺を見て、今度は微笑しながら指先を少し下へと傾けた。
「お湯」
シンさんよりも低く、しわがれた声の中にも確かな温もりを感じる。
優しくて包み込むような。どこか懐かしくもなるような声だ。
「沸騰してるよ」
「あ――」
慌てて火を止めた。翼さんはまだ起きていない。
紳士はじっと俺を見たかと思うと「ブラックの珈琲をひとつ、頂けますか」と言った。
翼さんは微かにいびきまでかき始めた。
ううん、と唸ったかと思うと、机の上で交差した腕の上で顔の向きを変えて、また寝息を立てる。
ミルクティーを淹れるつもりだったお湯は、珈琲用に代えさせてもらうことにした。
そっとカウンターを出て、翼さんの後ろを静かに通る。
紳士はマグカップに鼻を寄せ「良い香りだ」と白い眉毛を垂れさせた。
俺も笑顔を作って応えた。
だがすぐに表情がふっと冷えていく。
よくもまあ、こんなにも俺の周りにはこの世に存在しない者が集まるものだ。
こんなところを翼さんに見られたらと思うとぞっとする。
「この珈琲、シンに教えてもらったの?」
「えぇ、まあ」
人間だと思っていた相手がそうじゃないと知ってしまったからには、お客さんに向けるような穏やかな笑顔を作る事は出来なかった。
正直、うんざりするという表現の方が合っているだろう。
シンさんは指定席にこの人がいると言ったら、どんな顔をするだろう。
というか、そもそもこの指定席は誰の為のものなのか――。
「へえ、シンも立派になったなあ」
珈琲と俺と、そしてしみじみと店内を見回す。
「お知り合いですか」
抑揚の無い声で訊ねる。別に嫌味のつもりはない。
ただ、幽霊だと気づいてしまってからの落胆は自分でコントロールできそうにもない。
「そうだね。僕は三森賢治。ケンさん、って呼んでよ」
ケンさんねぇ。
胸裏で独り言ちて、表情は苦笑した。
「珈琲の淹れ方を教えたのは……というか、あれ」
ケンさんが無骨な指でさしたのはカウンターで突っ伏して規則的に背中を上下させている翼さん――ではなく、その奥。
「君がさっきから使ってるレシピノートあるでしょ」
「はい」
「あれ、僕が書いた物だよ」
「……は?」
「シンに珈琲の淹れ方を教えたのも、僕なんだ」
「どういう、ことですか」
「バッハのプレリュード一番」
今度は店の隅にある蓄音機に視線を移す。
「相変わらずこの店で流す曲は、僕が用意したものばかりだね」
「何を言ってるんですか」
ケンさんはゆっくりと俺を見上げると、テーブルの上で指を組む。
やんわりと口角を上げ、目を細め、何度か小さく頷く。
まるで心の中で自分の気持ちに整理を付けてから告白するように。
「この店は僕が始めたんだ。シンは二代目なんだよ」
それに――と一度大きく息を吸って、吐き出すように言葉を続けた。
「僕は君に会ったことがある。覚えていないかな」
会ったことがある? 俺が、この人に?
記憶の川を遡る。
いつ、どこでだろう。
ケンさんは、俺の事を試すかのようにじっと目を見てくる。
白い髪、深い皺。どれをとっても記憶にはない。
だとすれば、もっと昔の事だろうか。
遡れば遡るほど、川の色は濁っていく。
やがて、鉛色のどろりとした記憶の水たまりに辿り着いた。
銀のトレーを握る手に、じわりと生ぬるい汗が滲む。
別人と化した母の冷たい顔と、蔑むような男の目が、心の奥深くを乱暴に鷲掴みにする。
俺を見上げるケンさんの目と視線がぶつかる。
この人は……
「どうかな」
ケンさんが訊ねたその言葉、というより声に聞き覚えがあった。
「もしかして……」
そうだ。確かに俺は、この人に会っている。
「大きくなったね。敦士君」
その陽だまりのような声に、記憶の時間の針は、ぐるぐるともの凄い速さで二十四年前に巻き戻される。
朧げな記憶が、くっきりと輪郭を持って蘇った。
完璧にしているつもりだった。
同級生の子たちと変わらない、普通の子供として馴染めていたはずだった。
母さんの家から追い出されて、父さんの元に戻った年の夏。
幸い一連の事は入学前の事だったのもあり、入学式もみんなと一緒に参加することができた。
とは言え、入学初日から右頬に大きなガーゼを当てていたせいで、一年生の悪意のない、隠しきれない好奇の眼差しを注がれるのは無理もない。
「どうしたんだ」「ガーゼの下、どうなってるの」と、席の周りに四・五人の男女が集まり、矢継ぎ早に問い詰められる。
だが誰一人として、まさか大人に殴られたものだなんて想像もしていなかった。
「転んで、テーブルの角でぶつけたんだ」
前日の夜に考えてきた理由を躊躇うことなく言った俺を、誰も疑ったりもしなかった。
桜が散り、梅雨が来て、蝉が鳴き始める。
小学校はプールが始まり、生まれて初めての大きなプールで、友人たちとふざけて、はしゃぐ。
普通だ。自分は、普通の子供。
視界の隅に〈この世に存在しない者〉が映っていたとしても、気が付きもしなかった。
だからこそ油断していたのだろう。
自分が人と違うという事を忘れかけていた。
「敦士! 一緒に帰ろう」
学校からの帰り道。
校門を出てすぐの古い住宅街を歩いている俺を追いかけてきたのは当時一番仲の良かったクラスのお調子者的立場の男子だった。
お笑いが好きで、先週の土曜には、両親と一緒に吉本新喜劇の舞台を大阪まで見に行ったと嬉しそうに話していた。
「え、あぁ、うん」
この時の事は、あまりはっきり覚えていない。
ただ、その日、俺はひとりで帰っている訳ではなかった。
ここまで来る途中の公園から、一緒に帰っていた人がいた。
確か、その男子に「この人も一緒に良いかな」と言ったのは覚えている。
ただ、それがどんな人だったのかまでは、この後の展開があまりにショックで、記憶から消し去ってしまった。
「この人って、誰だよ」
頭の中が真っ白になった。言葉すら出なかった。
しまった――。
俺は固まったまま、じりじりと視線を落として右横にいるその人を見た。
俺の右腕に触れそうな細い腕は、さっきまでよりも青白く、色味が無い。
だらりと垂れ下がったままの指先が、不気味なほどまでに微動だにしない。
「あの噂、本当だったのかよ」
「う、わさ?」
喉の奥から無理矢理引っ張り上げた声は、掠れてひっくり返る。
「あれ、敦士。先に帰ったと思ってたのに」
「なになに、喧嘩でもしてんの」
タイミング悪く、他のクラスメイトまでもが集まってきてしまった。
「俺はそんなの嘘だって思ってたけど。敦士が中庭で喋ってたの見たやつがいるんだ。でも、そこには他に誰もいなかったって」
後から来た男子たちが「俺も聞いた」「っていうか私その瞬間見たよ」そして、面白おかしそうに、ひとりの女子が言った。
「ねぇ、もしかして幽霊?」
それを皮切りに
「えー、まじかよ。こわっ」
「幽霊の話なんかしたら寄って来るんでしょ」
「敦士君のそばにいたら、いっぱい寄って来るんじゃない?」
そしてその中の誰かが口にした。
三十歳になるまで、その言葉は俺の心に深くざらついた傷を残している。
「こいつといたら呪われんじゃね」
体中から血の気が引いた。
胸が苦しい。
気道に蓋をされたのかと思うくらい、息が入ってこない。
俯いたままの俺の視界に映る友人たちのスニーカー。
青白い手と、黒いスカートと生気の無い二本の足。
冷たい手が俺の右肩に乗るのが分かった。
耳元に顔を寄せたそいつの長い黒髪が、はらりと俺の胸元に落ちる。
その瞬間、俺は振り払うように一気に走り出した。
信号に引っ掛からない道を選んで、商店街は通らずに人通りの少ない路地裏を抜ける。
硫黄臭い寂れた銭湯から出てきた湯上りの中年男性とぶつかりそうになるのを寸前で避けながら。
通学路でも何でもなかったけれど、がむしゃらに走り抜けた。
ランドセルの中で、教科書が鈍い音を立てながら暴れる。
田んぼ沿いの道は、夏の太陽を遮るものが何一つなく、ぎらついた光と熱風が容赦なく吹きつける。
誰も追いかけて来ないのを確認して、ランドセルをその場に下ろした。
背中の素肌を、つつつ、とぬるい汗が流れ落ちていくのがわかる。
家から随分遠い所まで来てしまった。どこかで一度涼みたい。
その後も一本道をぐんぐん進んでいると、青い空を背景としたキャンバスに、こんもりとした巨大なブロッコリーみたいな森が見えてきた。
「……? のもり、こう……えん、かな。なんとかの、森公園」
入り口の石柱に掘られた漢字が読めない。
ふと左に視線をずらすと、敷地内の地図が描かれた看板には読み仮名が書いてある。
「あやせのもり、こうえん」
読み上げて気が付いた。中が妙に騒がしい。
背伸びをしながら、密集する樹々の隙間から見えるのぼりを覗く。
風に裏、表、とはためくそこには、ポップな青い文字で【夏の手作り祭り】と書かれていた。
地図を見上げる。
あの広場がここから一番近い、憩いの広場だということがわかる。
この森の中には広場が三つあるらしい。
俺は賑やかな憩いの広場を通らないよう、入って左の道を進んだ。
ガラス張りの美術館があり、その中もちらほらと人影が見える。
美術館を左手に見ながら道なりに進むと、道が二手に分かれた。
右はガラス工房らしい。
コモレビと書かれた看板の矢印が右の道を指している。
楽しそうな母親と子供の笑い声。
赤ん坊を抱いた父親と仲睦まじく体を寄せて歩く母親の後姿。
それらが母親から捨てられた六歳の子供の心をえぐるのは容易い物だった。
勿論、俺の足ははそちらに向くはずもなく、真っ直ぐ進んだ。
巨大な銀色の知恵の輪がある広場は、子供連れの親子や、肩を並べて歩く男女が数組いた。
ここも駄目だ。
俺はそれを横目に、三つ目の時計塔広場に出た。
時計塔の正面にある二つのベンチの内のひとつに、父さんよりもひと回りは年上だろう男性が座っていた。
いつも作業着の父さんと違って、小学生の俺にもわかる落ち着いた雰囲気。
清潔感のある白いポロシャツの半袖から覗く腕は、すらりと細く白い。
ベージュのチノパンの長い足を悠然と組み替える。
髪は七割ほどが灰色に染まり、前髪は綺麗に斜めに流れるように整えられていた。
父さんみたいに、汗を乱暴に拭き上げた後のような荒っぽい髪型とは対照的だ――その人の視線が空からすっと降りてきて、真っ直ぐ俺をとらえた。
柔らかい笑顔を向けられて慌てた俺は、男性からは死角になる時計塔の裏に逃げ込んだ。
ランドセルを下ろし、三角座りで時計塔に背中を預けた。
ちょうど日陰になっていて、背中がひやりと気持ち良い。
羊の群れが背を見せて昼寝でもしているみたいな雲がゆったりと流れていく。
吸い込まれそうな青い青い空を、ざわ、ざわ、と樹々が鮮やかな緑を閃かせていた。
あんなものが見えていなければ、俺は今頃あの子たちと一緒に並んで帰っていただろうか。
放課後に遊ぶ約束でもして、時間も忘れて走り回っていただろうか。
みんなと同じものを見て笑う。そういう生活がしたいだけだ。
同じ世界にいるのに、まるで別の次元を見ているみたいな人生。
声を掛けられて、意気投合して。
一緒に帰っていた人が実は生きていない人間だったと知ってしまった時の絶望感。
それがばれてしまった時に一気に襲い掛かる孤独感は、俺の脆い心には耐えられないものだ。
これからどうすれば良いのだろう。明日、学校に行くのが怖い。
既に噂になっていたのだから、今までもきっと不気味なものを見るような目を向けられていたのだろう。
呑気な俺が気が付かなかったと言うだけの話で。
明日も、明後日も、その先も、ずっと学校はある。
つらい。
「良いな」
足元を歩く蟻の行列も、鬱蒼とした森から飛び立ったカラスさえも羨ましい。
「みんな、学校に行かなくても良いんだもんな」
考えるだけで苦しい。虚しい。もう全部から逃げてしまいたい。
そんな勇気や度胸があるなら、殴られる前に母さんと恋人の家からもさっさと逃げていただろうけれど。
「あ、あれ――」
視界が白く濁って、たぷん、と左右に揺れた。
生ぬるい雫が溢れ出し、つつ、と頬を伝い落ちた。
ひとつ、涙が落ちたと自覚すると、せき止めていたダムが溢れ出したように、筋状の涙がとめどなく流れていく。
悔しい。苦しい。
ただ見えるだけで、殴られ、母親には捨てられ、友人には呪われるという言葉を投げつけられる。
気付けばしゃくりあげていた。
まともに息を吸おうとしても、ひっく、ひひっ、と声がひっくり返るばかりだ。
鼻水でずるずると音を鳴らし、くたびれたシャツの首元で目元を雑に拭った。
「大丈夫だよ」
頭を大きな手のひらが包み込んだ。
温かいその手は、確かに生きている人の体温。
顔を上げようとする俺に「そのままで良いよ」と、赤子をあやすような甘く優しい声で囁く。
手はそのまま背中に降りて、ゆっくりと、俺の呼吸に合わせるように上下した。
「君は独りじゃない」
違う、俺は独りだ。どこへ行っても独りぼっちで、不気味なんだ。
「周りをよく見てごらん。君を大切に想ってくれる人がひとりはいるはずだ」
右手は俺の背中をさすったまま、左手はランドセルの肩ベルトに手を伸ばした。
親指の腹で黒いベルトを撫でながら「綺麗に使ってるんだね」と呟く。
「これ、誰が買ってくれたの?」
「……父さん」
男性は「そう」と満足気に俺の背中に乗せた手を上下させた。
わかっている。父さんはきっと味方だ。
痣を作って帰った俺に、心配の言葉一つ掛けてくれなかったけれど。
すると男性は自分の中で何か決心でもしたように長い息を吐き、俺の背中を軽くトン、とひとつ叩いた。
「必ず居場所はある。本当だよ。それだけは、忘れないで覚えていて」
「ここは、君の居場所になれたのかな」
二十四年前の記憶と、目の前のケンさんが重なって、思わず俺は声を漏らした。
「ケンさんって……」
ケンさんは眉を少し持ち上げながら「そうだよ」とにっこり笑顔になる。
あの頃よりも真っ白な髪、深い無数の皺も、あの時ベンチで空を見上げていた男性の横顔と重なる。
あの時の、あの人。泣いていた幼い俺に、寄り添ってくれた人。
「敦士君だったね。君はここが好きかい」
「はい」
ケンさんは「そう」とゆったりと頷く。
「僕がこの店を始めた意味もあったんだね。嬉しいよ」
「それってどういう――」
「この店を始めるきっかけになったのは、敦士君。きみなんだよ」
すぐに状況が飲み込めなかった。
俺がきっかけ?
子供の俺と、ケンさんの出会いがこの店の始まりだと言うのだ。
「この店の名前。お客さんがつい、うたたねしちゃうくらい落ち着ける店を作りたかったんだ。敦士君のような、独りで悲しむ人の居場所になれるような場所」
そういえば、以前シンさんがそう教えてくれた事を思い出した。
そして、まるで他人が付けた名前だというような言い方をしていた事も。
「生きていると悲しい事も沢山ある。孤独を感じる事も。僕はとても貧しい家に生まれてね。片親である母は朝から晩まで働き通しだった」
遠い過去を懐かしむように、でもどこか悲しみと寂しさを抱いた眼差しを、珈琲カップに落とす。
「周りの人に助けられて生きてきた。近所の子供食堂が僕にとっての居場所だった」
この店は、ケンさんにとっての恩返しなのだろうか。
独りで泣いていた少年がきっかけで始めた店。
結果として、その店でこうして働かせて貰っている。
目の前にいるこの人もまた、俺にとっての恩人だ。
「孤独な人が集まると、そこはもう独りぼっちじゃないだろう。生きる事の痛みを知る人たちが集まる場所は、きっと温かくて、優しい場所になる」
「そう……ですね」
ここにいる時、俺は独りじゃない。
シンさんも、お客さんも、俺の事を受け入れてくれる。
ガラス工房の高塚さんだって、俺の絵を見て喜んでくれた人。
俺の話を信じてくれた人だ。
翼さんは――今は何とも言えないけれど。
「君は優しいね」
「そんなこと、無いです」
「優しいよ。ずっと君の事を見ていたからわかる。生きている時にはわからなかった、他人の心もよくわかるんだ。まぁそんなのも、喜ばしい事ばかりじゃないけどね」
ケンさんは俺が淹れた珈琲に鼻を近づけて「良い香りだ」とカップを顔の前で掲げた。
「君は相手のことを心から想える人だ。お父さんの事も、ずっとこの公園で泣いていた少女の事も、ガラス工房のお嬢さんの事も」
「ふたりを知ってるんですか」
ケンさんは頷いて「でも」と付け加える。
「見ているだけならね。でも互いに干渉することはできない」
「でも、小鈴ちゃんは男性の幽霊と話したことがあるようなことを――」
その時、熟睡していた翼さんの背中と後頭部がもそもそと動いた。
「これ、下げて。ごめんね、飲めないのに頼んでしまって。でも香りはとても良かった」
「いえ。ありがとうございます」
ケンさんに促され、慌てて珈琲カップをトレーで隠しながら流しまで運んだ。
ふと顔を上げた時には、ケンさんは既に姿を消そうとしているところだった。
「さっきの事だけど」
ケンさんの体のシルエットがぼやけ始める。
「おそらくその少女が話したのは幽霊じゃない」
「え?」
「本当はどこかで生きている人。意識が身体から離れてしまっている人だ。所謂、生霊というものだよ」
生霊……。この森にはそんなのまでいるのか。
「あれ、敦士君。あたしのミルクティーは?」
斜めにずれたサングラスを指先で押し戻す。
やっぱりまだ外すつもりは無いらしい。
「あ、えっと……寝ちゃったので後にしようと。すぐ淹れますね」
ケトルに水を入れコンロに掛ける。
体が透け、原形を留めないほど霞となっていくケンさんに、翼さんにばれないように軽く会釈をした。
――敦士君。
頭の中に語り掛けてくる声に、うっかり返事をしそうになって翼さんと目が合った。
「どうかした?」
「い、いえ何も。えっと、時計っと」
誤魔化すようにエプロンのポケットから懐中時計を取り出して、紅茶の蒸らし時間を計る。
――シンの事も、少しだけ気に掛けてやってほしい。
どういうことですか?と顔を上げそうになって、慌てて止めた。
これ以上妙な動きをしたら翼さんに問い詰められそうだ。
今は彼女と幽霊がどうだとかの話をしたくない。
――詳しい事は解らない。でもシンは多分、店の事となると限界まで無理をするから。僕はそれが心配で、ここから離れられないんだ。
ケンさんはそう言うと、すうっと窓の向こうの風景に溶けるように消えてしまった。
シンさんが帰って来たのはお昼前。
翼さんのお腹の虫が鳴いた頃合いだった。
「悪かったね。何か困ったことは無かったかい」
「はい、大丈夫です。今のところ、翼さんだけでしたから」
「そうか」
二階で着替えを済ませたシンさんは、ちらりと時計を見てから、年季の入った黒いエプロンを身に着けた。
様子はいつもと変わらない。
「そうだ。申し訳ないんだけど、来週の金曜日、お店を休もうと思っていてね。急でごめんね」
「どうかしたんですか?」
シンさんは「いや」と、僅かにため息交じらせながら苦笑した。
「大した用事じゃないんだけどね」
言いながら珈琲豆の減り具合を確認し、メモにペンを走らせる。
棚に向かうシンさんの後ろ姿を見ていると、気のせいだろうか。
元々細身で小柄なシンさんではあるが、身体の厚みが薄くなったというか、全体が一回りくらいサイズダウンしたような。
よく見たら左手の薬指の指輪が無い。
シンさんから奥さんの話は聞いたことが無いが、あの指にはいつもシルバーの指輪が嵌められていたはずだ。
「シンさん、指輪着けて無いんですね」
もし失くしていることに気付いていないなら一大事だ――という理由をこじつけて聞いてみた。
「あぁ、うん。最近緩くなってね。洗い物もするし、失くしたら大変だから仕舞ってあるんだ。歳をとるってこういう事もあるんだろうね」
棚のガラス戸を閉めて、メモ帳とペンをエプロンのポケットに滑り込ませた。
「そういえば翼。今日は学校は休みだったのか」
話題を変えたのが不満なのか、話題を変えるために話を振られたのが不満なのか。
翼さんは、ふん、と鼻を鳴らしてサングラスのブリッジを中指で持ち上げた。
「休んだの。あたしも色々あるんだから。敦士君とも話したいと思ってたし」
俺はそんなの無いです。
心の中で呟きながら、翼さんから離れるように、さりげなく窓際へと一歩引いた。
カランコロン カラン
気まずい雰囲気が漂うなか「どうも」と上品な風と共にやって来たのはミヤコさんだ。
「いらっしゃいませ」
「小野さんは来ていらっしゃらないのね」
「えぇ、今日はまだですね。あれから一度もですよ」
ミヤコさんから黒いコートを受け取り、入り口横のコートハンガーに掛ける。
ミヤコさんをソファ席に案内した俺は、キッチンに戻って水とお絞りを準備する。
「もうすっかり慣れちゃって」
翼さんが軽口を叩く。俺はぎこちない会釈を返すしかできない。
それにしても、イマジナリーフレンドだとか思い込みだとか、翼さんからそんな言葉が出てくるとは思っていなかった。
シンさんの孫だからきっと受け入れてくれるはず、なんて甘い考えを持っていたのかもしれない。
「今日はまだお昼も食べてなくてね。せっかくだから何か頂こうかねぇ。引っ越しちゃうと、もうここに来られないなんて寂しくなるわ」
ミヤコさんはメニューの文字を指さしながら、下へ、下へ、とずらしていく。
「そうねぇ。とりあえず、いつもの珈琲は頼むとして……」
独り言ちるミヤコさんのテーブルに水とお絞りを置いて離れようとした時、ドアベルが囁くように鳴った。
随分と重たそうに、ゆっくりとドアが開いたからだろう。
「いらっしゃい」
「小野さんだ。こんにちは」
「ああ。こんにちは」
どっしりとした体格で、いつも豪快な笑い声が特徴的だった小野さんの見る影もない。
枝にぶら下がった枯れ葉の如く今にも消えてしまいそうな存在感だ。
以前にも増して力のない声で短く挨拶した彼は、背中に漬物石でも乗っているのかと思うような酷い猫背になっている。
前回は何とか櫛は通していたような髪も、今日は黒いキャップを目深にかぶって押さえてきたらしい。
キャップを脱いで現われた頭頂部を中心とした乱れ放題な髪が、小野さんの心境を表しているようだ。
「お水とお絞りです」
「あぁ、ありがとう」
決壊寸前の涙のダムを必死でせき止めているような悲痛な表情。
そこに無理に笑顔を浮かべようとするものだから余計に痛々しくて、俺はどう言葉を掛けて良いのかわからず、キッチンに引っ込んでしまう。
「敦士君、ミヤコさんの珈琲お願いできるかな」
「はい。わかりました」
珈琲豆をミルで挽いていると、ミヤコさんが「注文良いかしら」と手を挙げた。
「オムライスをお願いします。珈琲と一緒に持ってきてもらって良いから。やっぱりこの店の一番古いお料理を、最後に食べておきたくなっちゃって」
「かしこまりました。すぐに用意しますね」
シンさんが手を洗い、冷蔵庫から玉ねぎと鶏もも肉を取り出す。
「お祖父ちゃん、あたしもオムライス食べたい」
冷蔵庫の扉を閉められる前に、翼さんがすかさず言う。
「はいはい」
シンさんは追加で材料を多めに取り出し、扉を閉めた。
「オムライスが一番古い料理なんですか?」
シンさんは鶏もも肉をひと口大に切りながら「そうだよ」と答える。
「レシピノートにも、一番最初に書いてあるでしょ」
そう言って、俺の前に立てかけてあるノートを顎で指した。
確かにそうだ。このノートはオムライスを一ページ目にして始まっている。
次のページはナポリタン。
その次にフレンチトーストやホットケーキ、サンドイッチは卵とポテトサラダの二種類とフルーツサンド。
キーマカレー。ホワイトソースとハムを食パンでサンドした上に、ホワイトソースとチーズを乗せて焼いたクロックムッシュや、更にそこに卵黄を落としたクロックマダム。
他にもプリン、フルーツをトッピングした豪華なプリンアラモード。クリームソーダ。
ひとりで切り盛りする店にしては、十分すぎるほどメニューは充実していると思う。
「このレシピって、シンさんが書いたんじゃないんですよね」
「あぁ。そうだよ」
知ってたの? という表情を一瞬見せたものの、シンさんは手を止めずにフライパンでチキンライスを作っていく。
あっという間にケチャップの焼ける匂いが店内を満たしていく。
「敦士君、手が止まってるよ」
「す、すみません」
「良いのよ、焦らなくて。まだまだ時間もあるから」
「ありがとうございます」
ミヤコさんに気を使わせてしまった。
レシピノートの隣に置いた手のひらサイズの自分のメモ帳を確認しながら、サイフォンで珈琲を淹れる。
まだ完全に覚えるまでは、細かい時間など、きちんとチェックしながらでないと落ち着かない。
「良いわよねぇ、サイフォン。火も、音も、なんだか落ち着くの。昔を思い出すしね」
「以前は、ご夫婦で一緒に楽しんでくださっていましたよね」
シンさんは卵を溶いて、フライパンに流し込んだ。卵の縁からちりちりと焼けて固まっていく。
「えぇ。でもこれも見納めね。ケンさんが亡くなってもシンさんがしっかり継いでくださったから、私も主人も寂しく無かったけど。引っ越したら寂しくなるねぇ」
「本当に、寂しくなるわ」とミヤコさんがサイフォンを見つめながらしみじみ言った。
「お待たせしました。オムライスと珈琲です」
「ありがとう」
にっこりと目じりに皺を溜めるミヤコさんに、思わず自分の顔も筋肉がほころぶ。
この店で働くまで、こういう感覚を味わった事なんて無かったな。
心に温かいものがじわりと滲むのを感じながら「ごゆっくり」とキッチンに戻った。
「はい、翼。お待たせ」
「わあい、いただきまーす」
艶のある薄焼き卵が綺麗に巻かれたオムライス。
仕上げのケチャップはトマトピューレと合わせたものだ。
これがまた、甘みと酸味のなかに新鮮なトマトのコクがプラスされてとても美味しい。
「敦士君。これお願いしても良いかな」
「あれ、余ったんですか」
バットの上には、さっきオムライスに使った鶏肉と玉ねぎが乗せられている。
俺の手から仕舞おうとしていたサイフォンを受け取ると「こっちは僕がやるから」と、小野さんにちらりと視線を向けた。
「えっと……」
小野さんは、ぼんやりと窓の向こうに目を向けるばかりだ。
あれ――?
ソファの向かいに白い靄が見える。
気のせいだろうか。目を擦ってみるが、やっぱりまだ靄は消えない。
小野さんの向かいのソファの上に留まったまま動く気配はないが、なんだかとても不安定な靄だ。
今にも消えてしまいそうに時折薄くなっては、まだ消えたくないとでも言うように、色濃くなってみたりを繰り返している。
「どうふぁしはの?」
口の中をオムライスでパンパンにしながら、リスみたいな顔の翼さんが俺を見ていた。
「いえ、なんでも……」
翼さんは「ふうん」と間髪入れずに次のオムライスを頬張る。
「小野さん。オムライス、食べませんか」
え?と俺を見た小野さんが「あぁ、いや」と顔の前で手を振った。
「珈琲だけお願いするよ。実は、仕事を退職しちゃってね。これから節約していかないといけないんだ」
「でも、その。サービスなんです」
シンさんに「そうですよね」と視線を送る。
シンさんも勿論だよと、小野さん用の珈琲豆を手に頷いた。
「良かったら食べてよ。材料、切り過ぎちゃってね」
「そ、そうなんです。助けると思ってお願いします」
シンさんと俺を交互に見た小野さんは「わかったよ」と、表情を緩めた。
「あまり食欲が無かったんだけど、さっきからの良い匂いで美味しそうだなって思ってたところだったんだ」
食欲が無い。
小野さんのあまりの変わりようが、その言葉が事実であることを示している。
食べないせいで痩せたという様子ではない。
顔色が悪く、やつれたという表現がしっくりくる。
それくらい精神的に追い込まれているのだろう。
フライパンに油を引き、材料を炒めていく。
これまで何度か作っているオムライスだ。
身体が次の動作を覚えているかのように、自然にケチャップを手に取り、火の調整をし、ご飯を投入する。
ふと顔を上げると翼さんと視線がぶつかった。
向こうから見ていたはずなのに「何よ」と攻撃的な言葉を投げつけられて「いえ、別に」と、ひ弱に返す。
早く帰ってくれたらいいのに、なんて思ってしまう。
だがケンさんが座っていた指定席が視界に入ると、そんなネガティブな感情を抱きながら料理をしている事がとてつもなく失礼な気がして、改めて背筋を伸ばした。
「おっ、上手いじゃん」
フライパンから皿にオムライスを滑らせると、翼さんがスプーンを握ったまま親指を立てた。
オムライスは完食したところだった。
「あ、ありがとうございます」
翼さんは気まずいこちらの心境を知ってか知らずか、一向に帰る気配はなかった。
シンさんが空いた皿を下げてもまだ、椅子から一歩も動く気は無いらしい。
その証拠に今度は「いつもと違う紅茶でも飲んでみようかなぁ」と右から左へ棚に視線を這わせているのだから。
「小野さん、お待たせしました」
「ありがとう。いただきます」
小野さんはそう言うとシンさんにも一度会釈してから、スプーンを手に取った。
「ごゆっくり」
シンさんが翼さんのレモンティーを淹れる隣で、俺は片付けをした。
ミヤコさんはのんびり食べながら、時折珈琲を口に運んでいる。
「敦士君、ゆっくりしてなよ。もうやる事も無いし」
片付けを済ませて手を拭いていると、シンさんが「僕も休むから」と丸椅子をふたつ用意してくれた。
小野さんは――と視線をやると、その背中が小さく震えている。
シンさん、と振り返ると「良いんだよ」と、出窓に顔を向けてしまった。
「え……」
再び小野さんを見て、思わず声が漏れた。
小野さん、というよりもその向かいの席だ。
さっき靄が浮かんでいたそこに、小野さんと同じくらいの歳だろう年配の女性がいた。
テーブルに両腕を置いて幸せそうな眼差しで、オムライスを食べる小野さんを見つめている。
ふっくらと丸みのある恵比寿顔のこの女性は奥さんだろう。
勘が働いたのか。
顔を上げた小野さんが女性を見た――が、もちろんその視線は交わる事は無い。
それでも、小野さんを見守る女性の穏やかな笑顔が、冬の淡く白い陽光に優しく滲む。
俺は足元に置いてあったリュックから、急いでスケッチブックと色鉛筆を取り出した。
途中、翼さんが「何やってんの?」とカウンターの向こうから覗き込もうとしていた。
シンさんが「やめなさい」と制したやりとりを耳だけで確認して、俺の目は小野さんたちのテーブルと手元のスケッチブックを往復する。
次々に色鉛筆を持ち替えながら、水筆で絵に表情を持たせ、目の前の儚い空気感を描いていく。
――できた。
今更になって、シンさんからは見えていたんじゃないかと焦ったが、シンさんは出窓の縁で肘をついて目を閉じていた。
午後の陽に、白髪がきらきらと細かく反射している。
「さて、私はそろそろ失礼しましょうかねぇ。お会計、お願いしますね」
ミヤコさんが、レジへ向かう途中で小野さんのテーブルから伝票をすっと手に取った。
「小野さんのも一緒にお願い」
「え、そんな。駄目です。自分で払いますから」
「良いの。私、これでもうこの町ともお別れなの。主人が亡くなった時も、小野さんにたくさん元気を頂いたわ。寂しい思いもせず、とっても楽しい時間をここで過ごせたのよ」
ミヤコさんが「そのお礼をさせてちょうだい」と、ふたつ分の伝票をレジに立った俺に手渡した。
「じゃあね。これまでお世話になりました。敦士君も、長い人生まだまだ色んな事があるでしょうけど、あなたなら大丈夫。自信もって生きて良いのよ」
「ありがとう、ございます」
こうして店員になるまでは面と向かって話した事があったわけじゃないが、ミヤコさんがいるだけで店の空気が和らぐのはずっと感じていた。
きっとそれは、彼女自身のこういう優しさや思いやる心がそうしていたのだろうと、今なら思う。
「翼ちゃんも、あなたの笑顔で、私は沢山幸せな気持ちになったの。私も主人も孫を見ているような気持になってね。普段は口下手だった主人も、家に帰ってから翼ちゃんの話をすることもあったのよ」
翼さんは舌唇を噛みしめ、腕で目を擦りながらミヤコさんに抱き着いた。
その背中をミヤコさんの細い腕が上下する。
「翼ちゃん自身も大変な事もあって沢山苦しんでいたのに、ちゃんと助けてあげられなくてごめんね」
ミヤコさんから体を離した翼さんは、何度も頭を左右に振った。
「あたしのお母さんが母の日参観に来てくれなくても、ミヤコさんが来てくれたじゃん」
「ふふっ、あったわねぇ。そんなことも。母の日なのに、お婆ちゃんが行っちゃって恥ずかしかっただろうけどねぇ」
「そんな事ない。あたし、あれ、凄く嬉しかったんだから」
翼さんは「引っ越しても、元気でいてよね」とセーターの袖口で目を擦りながら、思い切り鼻を啜った。
「シンさん、このお店を継いでくれてありがとう。あなたに救われた人は沢山いるわよ」
「いえ、私は楽しくやらせて貰っているだけですから」
ミヤコさんは、ゆっくり店内をぐるりと視線を巡らせ、そっと目を閉じる。
「初めて主人と来たときに流れていたのも、この曲だったんじゃないかしら」
店内を流れるのは、ショパンのノクターン第二番だ。
「私ね、今でもケンさんがこの店を見守ってくれているような気がするのよ」
その言葉に思わずドキリとしたが、まだすすり泣く翼さんの背中に視線をずらし、できるだけ平静を装った。
シンさんが俺の隣で「そうですね」と言ったような気がした。
「これ以上いたら寂しくなっちゃうから行くわ。ごちそうさまでした」
翼さんがドアを開け、頭上でドアベルの音が転がる。
「み、ミヤコさん」
咄嗟に声を掛けた俺を、ミヤコさんが「なあに?」と振り返る。
「亡くなったご主人の姿が見れたらって……思いませんか?」
するとミヤコさんは、目を線のように細くしてくすりと笑ってみせた。
「嫌ですよ」
そう言って「だって……」と杖を支えにして体ごとこちらに向き直り、お店の外観を見上げる。
「見ちゃったら、私もそちらの世界に一緒に連れて行って、って言いたくなっちゃうじゃない」
ミヤコさんは「息子や孫も長生きしてって言うからね」とほほ笑んだ。
「そうですか……」
俺は言いながら、ミヤコさんの後姿を見送った。
「ありがとうございました」
深く頭を下げた。
ミヤコさんの隣で歩幅を合わせて歩く、もう一人の男性にも。
ベージュのハットをかぶった、ミヤコさんと背丈の変わらない温厚そうな男性が最後に会釈をしてくれたのを、俺はこれから先も忘れられないだろうと思った。
「敦士君、美味しかったよ。ごちそうさま」
ミヤコさんが帰って、ゆっくり珈琲を飲んでいた小野さんが席を立ったのは午後二時だった。
「実は、かみさんが亡くなったんだ。昨日、延命措置を切ってもらった」
小野さんは「いやあ、駄目だね。男は弱いね」と無理矢理笑って見せる。
「敦士君、良いのかい」
「え?」
シンさんは、小野さんが玄関へ向かう背中をちらりと見てから、俺のリュックを指さした。
「知ってたんですか」
「前に高塚さんに話して貰ったんだよ。僕は、とても良いことだと思う」
「……そうでしょうか」
正直わからない。
ミヤコさんのように見たくないと思う人もいるだろうと考えると、渡すことが正しいとは言えないのかもしれない。
「小野さんは喜んでくれるんじゃないかな。僕はそう思う。君の絵は、その力があるよ」
「なにコソコソ喋ってんの」
翼さんが怪訝な目で俺とシンさんを睨みつけていた。
そう言えば、小野さんは奥さんと旅行に行けなかったと言っていた。
ゆっくり過ごす時間も無かったと。
ふたりの写真などもあまり無いのだとしたら。
これが、その代わりになるだろうか。
それとも嘘だと怒られるだろうか。
反って悲しませることになったらどうしよう。
スケッチブックのページを捲って、いや、と思い直した。
奥さんの表情を見たら、きっと――。
「小野さん、待ってください」
じゃあね、と店を出ようとノブに手を掛けていた小野さんを引き留めた。
「これ、良かったら」
「なんだい? 絵?」
小野さんは直ぐに「これは」と息を呑んだ。
俺はその様子を見ているしかできない。
時間が止まったような感覚を覚えた。
怒られるか悲しまれるか、もしくは少しでも喜んでもらえるか。
後者の可能性なんて限りなく低いかもしれないけれど――。
「敦士君」
「は、はい……」
すみません、と口走りそうになった俺を、小野さんが赤い目をして見ていた。
「これ、本当の絵なの? 僕の服装とかオムライスとか、さっきの事?」
俺は恐る恐る頷いた。表情は多分かなり強張っているだろう。
小野さんはもう一度絵に視線を落として、奥さんの顔をそっと指の腹で撫でた。
「ありがとう。あり、がとう」
震える声で何度も言った。
その場に崩れ落ちる小野さんの背中に、シンさんがそっと手を添えた。
歯を食いしばりながら、奥さんの名前を呼び続ける小野さんの背中が震える。
握りしめたスケッチブックの端に大粒の涙が落ちて、淡く悲しい色を滲ませていた。
あちこちに跳ねる前髪の寝癖を押さえ付けながら洗面所から出ると、父さんが居間のガラス戸を開けたところだった。
「行く」
「持病もあるから、不安な症状があるうちは休んだ方が良いって医者も言ってただろ」
麻痺のある右半身をかばいながら自分の座布団に座り、テレビを点けた。
昨夜から降り続いた雨は日中は一度上がり、晴れ間も見えますが、夕方には再び弱い雨が降りだすでしょう――。
画面越しに毎朝顔を合わせるお天気お姉さんだ。
画用紙で作ったキャラクター調の傘の絵を、眉をハの字にしながら困り顔で掲げていた。
「具合が悪い人に車の運転なんてさせられないって」
「電車がある。俺の事は良い。さっさと仕事に行け」
ぶっきらぼうな口調に、胸裏で「なんだよ」と呟きながら「朝ごはん、準備するから」と、たった今父さんが閉めたガラス戸を開けた。
「俺の事は良い。さっさと行け」
さっきと同じことを、更に声を張って強調する。
「……わかった。行ってきます」
用意していたグレーのステンカラーコートを羽織り、リュックを背負って玄関で靴を履く。
家を出る間際「気をつけてな」と聞こえたが、俺はそれに返事をしないまま、曇天に嘆息しながらドアを閉めた。
「おはよう。敦士君、走って来たのかい? 遅刻って時間でも無いのに」
「お、はようございます。えっと、その……犬に追いかけられちゃって」
今どき、そう野良犬も見かけない。
いくら何でも苦しかったかと顔が強張ったが、シンさんは疑う事も無く「そうかい。大変だったね」と労ってくれた。
「着替えてきます。それと、部屋のドライヤーお借りします」
十一月。雨の寒空の下。
公園の傍まで来た時だった。
背後に気配を感じで振り返ると、近頃見かけなくなって油断していたあの女が立っていたのだ。
相変わらず前髪をだらりと顔の前に垂れさせ、挙句の果てには低く唸るように何かをぶつぶつと不気味に呟いていた。
傘まで放り出して全速力で逃げてきた俺の額は、汗か雨かの見分けもつかないほど濡れて、塊となった前髪がべっとりと張り付いていた。
「あー、もう。くそっ……」
爪を立てて掻きむしったせいで髪が抜け落ち、束になって指の間に絡みついた。
どうして俺に纏わりつくんだ。どうしてあんなものが見えるんだよ――
振り返らずに公園に駆け込み、店の前まで来た時には姿は見当たらなかった。
鼻を啜って、瞼を擦る。
棚の上に置かれていた手鏡で浮腫んだ酷い顔を確認し、洗面所へと向かった。
「すみません、遅くなりました」
思ったよりもドライヤーに時間が掛かってしまった。
「あらあら、敦士君。おはよう」
「おはようございます。いらっしゃいませ、ミヤコさん」
開店から十分も過ぎてしまっていた。
菊池ミヤコさんが、杖をソファに立てかけていたところだった。
綺麗なグレイカラーをうなじでお団子にして、黄色いかんざしを挿した八十五歳の女性だ。
旦那さんは昨年他界し、現在は昔ながらの連棟平屋に独り暮らしをしているらしい。
息子さんは結婚しており、大阪にいる小学生と幼稚園児の孫の話をよくしてくれる。
「丁度良かった。ミヤコさんの珈琲を淹れてくれる?」
「はい、わかりました」
エプロンを腰に巻き、棚からサイフォンと、深入りのブラジル産珈琲豆のキャニスターを用意する。
「敦士君が淹れてくれるの? 嬉しいねえ」
テーブルで待つミヤコさんが、目じりに皺を沢山刻みながら無邪気な笑顔で俺の動きひとつひとつを目で追いかける。
ミルで挽いた豆を、いかにも理科の実験道具のようなサイフォンでゆっくりと抽出していく。
見ているだけで童心に戻れるのだと、ミヤコさんお気に入りなのだ。
彼女の珈琲はいつもこうして淹れている。
下のフラスコにお湯を入れ、火の付いたアルコールランプにセットする。
くつくつと湧いてきたら、ロートにろ過用の布を入れ、挽いた珈琲を入れていく。
そうしているうちに、フラスコ内がぐつぐつと大きな気泡を立て始めた。
上にロートをセットし暫く待つと、ロートに上がって来たお湯に押されて珈琲粉がぐいぐいと上がっていくのだ。
へらで珈琲をしっかりお湯に浸しながら、懐中時計を確認する。
「あぁ、良い香り」
芳醇な珈琲の香りが漂い始め、ロート内を一度確認してから火を消す。
へらで混ぜ、少しするとロートに溜まった珈琲がフラスコに落ちてくる。
それをカップに移せば完成だ。
「お待たせしました」
「慣れたものねえ。頼もしいわね、シンさん」
「えぇ、本当に。彼になら、安心して任せられそうです」
「そんな。分からない事ばかりです」
筋を違えそうなくらい、力強く首を左右に振った。
「ああ、美味しい。しっかりこの店の味を習得してるじゃない」
「いえ……まだまだです」
「長年ここの珈琲を飲ませて頂いているからね。私、結構味にはうるさいのよ。そんなお婆さんが美味しいって言うんだから、自信持って良いのよ」
「ありがとうございます」
拭いたばかりのロートを赤面しながらもう一度拭く俺に、ミヤコさんが満足気に深く頷いた。
「今日は翼さんはいらっしゃらないんですね」
沈黙が恥ずかしくて、特に気になっている訳でも無い話題をシンさんに振る。
シンさんは珈琲豆を袋からキャニスターに移しながら「そうだね」と短く答えて蓋を閉めた。
「授業が大変みたいだよ」
「へぇ……大学で何の勉強をしてるんでしょう?」
俺は高卒だ。大学がどういうものかを全く知らない。
「栄養士だよ」
「そうなんですか」
意外です――。
失礼なその言葉を飲み込んで、サイフォンを棚に仕舞った。
カラン コロン
「いらっしゃい。小野さん」
「あぁ、どうも」
「いらっしゃいませ」
前回に会った時も何となく感じていたが、会うたびに小野さんが小さくなっていく。
久しぶりにやって来た彼は、また前回よりも一回り小さくなった気がする。
元は長年の自信を感じられるような背筋と大きな肩幅。
立派なお腹をせり出しながら入って来たのに、今は酷い猫背だ。
本人としてはいつも通りに笑顔で入って来たつもりなのだろうが、笑顔を浮かべても、目元に全く覇気がない。
普段は仕事の休憩で来ることが多い為、スーツが多い。
だが、今日は紺のニットに黒いコート。
綺麗に整髪料で整えていた髪も、今日は櫛を適当に通しただけなのがわかる。
そんな彼のソファに向かう後姿は、道端に捨てられた、しょぼくれた犬みたいだった。
席についても暫く心ここにあらずで、虚ろな目で窓の向こうを眺めるばかりだった。
新聞紙を広げるわけでも無く、勿論、普段通り威勢よく声を掛けてくれる事も無い。
ミヤコさんがカップをソーサーに置く音がやけに大きく聞こえてしまう。
「シンさん……大丈夫でしょうか」
窓辺の丸椅子に座っていたシンさんに肩が当たりそうなくらい近付いて囁いた。
だがシンさんは頷くだけで
「敦士君も、ゆっくり座ってなさい」
なだめるように、同じ丸椅子をもうひとつキッチンの隅に置いた。
そういえば父さん、仕事に行ったんだろうか。大丈夫かな。
ふと気が緩むと、ついそんな事が頭を過る。
結局、あれから引っ越しは一旦中止となり、実家暮らしが続いていた。
何軒か候補を見て回り、実家のある駅から少し外れた築四十数年、家賃二万円のアパートを見つけた。
手続きを進めるようとしていた朝、父さんが頭が痛いと言ったのだ。
普段から自分の不調を見せない人が顔をしかめるのだから、余程の事だろう。
嫌がるのを無理矢理説得し、小言を言われながらも病院に連れて行ったが、その時には頭痛も消えてしまい、担当医もとりあえず様子を見ようと言う事だった。
まぁ、父さんは出て行ってほしいみたいだけど――。
病院の帰り道に引っ越しを延期すると伝えた時の、呆れた顔が忘れられない。
ふぅ、と重く嘆息した。窓の向こうはすっかりセピア色だ。
今日は、指定席の紳士は来ないのかな。
特にこれと言って交わす会話も無いが、あの人があの席に座っている風景が絵になるのだ。
とてもこの店に馴染んでいて、いつも静かに座っているだけのお客さん。
ベルベットのカーテンが雨上がりの景色を額縁のように彩る。
冬の足音が聞こえる、どこかセンチメンタルになる季節。
茶色や黄土色が目立ち、樹々は寒々しく、茎の先端だけでかろうじてぶら下がる湿った虫食いの葉を、ゆらりゆらりと躍らせていた。
レシピノートを一ページ目から順に確認していると
「あの……」
とようやく小野さんが声を掛けてくれた。
声には力が無いものの、口元だけは何とか口角を上げて精一杯の笑顔を作ろうとしていた。
「珈琲ひとつ。温かいのを頼むよ」
シンさんが俺に目配せした。
「はい」
小野さんの珈琲豆を棚から取り出し、細口のケトルをコンロに乗せる。
「かみさんがね」
顔を窓の外に向けたままの小野さんが、おもむろに口を開いた。
「もう長くないんだよ」
長くない。
一瞬何のことかわからず訊ねそうになったが、シンさんの言葉と口ぶりに何となく察してしまって口を噤んだ。
「……そうか。奥さんも小野さんも、よく頑張ってきたよね」
「あと一か月だ。俺の為に無理矢理命を繋がせて悪かったと思ってるよ。そろそろ、ゆっくり休ませてやろうと思ってる」
後半にかけて弱弱しくなる声色に、俺は視線を手元に移してコンロからケトルを下ろした。
「俺が定年退職したら二人で旅行でもしようって言ってたんだ。結局、かみさんが行きたいって言ってた海外にだって、人生で一度も行かせてやれなかった」
スイスに行ってみたいって言ってたんだ――大きく肩を上下させてため息を吐いた小野さんは、変わらず顔を背けたままお絞りに手を伸ばした。
「行くチャンスなんて、いくらだってあったのになあ」
その声は語尾にかけて掠れてしまう。
「後悔だらけだよ」
目元を拭いながら、小さく、声を震わせていた。
「ごちそうさまでした。シンさん、お会計お願いします」
静かに珈琲を飲んでいたミヤコさんが、よいしょ、と杖を付きながら立ち上がってレジへと向かった。
斜めに掛けた藍染めのポシェットに結びつけられた鈴が、彼女が歩くたびに、リン、と囁く。
「いつもありがとうございます」
「いいえ。ここの珈琲は私の元気の源なの」
小銭入れを出し、がま口を開けて中を確認しながら言う。
「それに死んだ主人とのデートは、いつもここでしたから」
ふふっ、と肩をすくめながらお茶目に笑ったミヤコさんは「はい、ぴったりね」と、シンさんの手のひらに小銭を乗せた。
「ご主人が亡くなって、どれくらい経ちますか」
ミヤコさんが小野さんを振り返り、リン、リン、と鳴らしながら彼のテーブルまで歩いた。
小野さんはいつになく思いつめたような面持ちで、唇を血が滲みそうなほど噛みしめている。
「来週が命日ですよ。一年経つのよねぇ」
頬に手を当てながら懐かしむミヤコさんに、小野さんは「そうですか」と表情を変えない。
「そうだ、みなさん。私、もう少ししたら息子のいる大阪に引っ越すんですよ」
「そうでしたか。寂しくなりますねぇ」
「シンさんとも付き合いが長いですからね。ここは主人との想い出の場所でもあるし、離れる前に、思う存分、来させて頂きますね」
「えぇ、お待ちしております」
「小野さん」
ミヤコさんがポシェットから出したパイナップル味の飴をひとつ、小野さんの手のひらに握らせた。
「どうにもならないような悲しい事も、もどかしい事もあるけれどね。そればかりじゃない。その出来事の裏にも必ず、大切な事が隠れているものなの」
皺だらけの手で包み込んでいた小野さんの手を放し、ゆっくりと背中に左手を当てた。
「大丈夫とは言わない。大丈夫じゃないかもしれない。でもね、あなたにはここがあるから。ひとりじゃないの」
そして「それに」と、いつもより更にゆっくりと柔らかい口調で続けた。
「後悔の無い人生なんて無いわ。小野さんの後悔は相手を想うからこそ。連れ添った相手が、死の間際まで自分を想ってくれるんだもの。そんな相手と人生の中で出会えた事って、とても幸せだと思うの」
ミヤコさんは「ね」と言うと「さて、私は帰りましょうかね」と再び玄関へ向かった。
「最期の時まで、たくさん、たくさん、言葉を掛けてあげると良いと思う。人間は最後まで聴覚は残るって、主人の時にお医者様から教えてもらったから。奥様も、きっと安心すると思うわよ」
「はい……そうですね。ありがとうございます」
カラン、コロン
ミヤコさんが店を出ていく。
小野さんは、震える唇を真一文字に結んだまま見送っていた。
お天気お姉さんの予想は外れた。
夕方には降ると言っていたので折り畳み傘を持って店を出てみたが、雨は降っていなかった。
灰色の空は相変わらずだが、流れの早い雲の合間から、時折太陽が顔を覗かせている。
湿った砂地をじゃりじゃりと踏みしめながら歩く。
木のトンネル小道には、ツンと鼻を衝く濃厚な緑と土の匂いが充満していた。
「おーい。敦士君」
「あ、高塚さん。こんにちは」
「久しぶりだね。僕、暫くお店に行けてないから」
ガラス工房の前で片付けをしていたらしい。
敷地にロープを張り終えたところだったようだ。
脇には筒状に丸めたポスターの束を抱えている。これからどこかに貼りにいくのだろうか。
「イベントですか?」
「もうすぐ冬休みだから、また子供向けイベントでもやろうかなって。真弓は子供が大好きだったから。喜んでくれるんじゃないかって思って。ねぇ、どう思う?」
「どう、とは?」
高塚さんは「んーと」と、青いペイズリー柄のバンダナ越しにこめかみを掻いた。
「端的に言うと、見える人だよねってこと」
見える人――。
「いわゆる霊感ってやつ。真弓の事、君は見えてるんだろう?」
「えっと……」
いつもの癖で言い訳となるような言葉を頭の中に巡らせて、気が付いた。
フレンチトーストを食べて貰うために、バレる覚悟で言ったんだ。
真弓さんとの想い出の食べ物を前にする勇気が無かった高塚さんを説得するために言った。
――あなたを気に掛けている人のために。
ずっとこのベンチから彼を見守っていた真弓さんの眼差しが忘れられない。
「正直、羨ましいよ。僕、そういうの全然だから」
「羨ましい、ですか」
そんな風に思われる事があるなんて、考えたことも無かった。
高塚さんは「そりゃあそうでしょ」と桂の樹を見上げた。
夏場は鮮やかな緑に色付き、真弓さんが消えた頃は黄葉していた葉もすっかり落ち、灰色の無数の枝を寒空に伸ばしている。
「お化け屋敷みたいな幽霊は怖いけどさ。大切な人に会えるなんて、正直羨ましい」
不気味。呪われる。
そんな言葉ばかり浴びせられて来た俺の人生。
人から羨ましがられる時が来るなんて、一番生き辛かった子供の頃の俺が聞いたら、どう思うだろう。
「このベンチで敦士君が誰かと喋ってるように見えたんだ」
「誰かとですか」
「そのあとに、フレンチトーストを食べて欲しいって言っただろう。僕を気に掛ける人の為にって。そんな人、真弓しかいないからね」
そう言って「だから、すぐに気が付いたよ」と片方の唇を上げて得意気に笑みを浮かべた。
「ん、どうかした?」
突然目の前にしゃがみこみリュックを漁り出した俺に、高塚さんが不思議そうに訊ねる。
スケッチブックを取り出した俺は、その場でページを一枚切り離し、しゃがんだまま差し出した。
「絵、かな」
胸ポケットに差し込んでいた細い黒縁の眼鏡をかけると
「これ……」
高塚さんは目を見開き、指先で紙の表面をざらりと撫でた。
「真弓……真弓だ。この場所って、このベンチだよね」
「そうです。彼女はずっとここに――」
「今もいるの? そこに」
ベンチに大きく一歩踏み出す高塚さんに、俺はゆっくりと首を横に振った。
「いえ、彼女はもうここにはいません」
「……そう」
「ずっと心配していました。だから真弓さんはここからあなたを見ていたんです」
「真弓が俺を」
紙の端を持つ指先にわずかに力が入る。
神妙な面持ちで、絵の中の真弓さんに視線を落としていた。
「真弓との想い出のあるフレンチトーストを食べて、思い切り泣いてから、少しずつ食欲も戻るくらい元気にはなったんだ。でも……」
顔を上げ、裸の桂の樹を見上げた。
さあっと冷たい抜けた風が、高塚さんの前髪をふわりと持ち上げて額を露わにする。
「俺が代われたら良かったって、今でも思うんだ」
ベンチに腰掛け、両足を伸ばす。
湿ったベンチで濡れないよう、ポスターは膝の上に抱えたままだ。
「酷いって言ってましたよ」
「え?」
「それは酷いって。私は雄介さんを失くす苦しみに耐えられないって。あの事故は、誰も悪くなんてなかったんだって、最後に言ってました」
高塚さんは一瞬きょとんとしたが、すぐに表情がほころぶ。
「ははっ、そっか。うん。真弓なら、そう言うだろうなあ」
画用紙を空に掲げて、ベンチにもたれて仰ぎ見る。
尊いものを見るように、眩しそうに目を細めながら、ゆっくりとため息を吐いた。
「敦士君、高塚さん! こんにちはー」
「あ、翼ちゃん」
憩いの広場を出たところからこちらに大きく両手を振る翼さんに、高塚さんも手を振り返す。
俺は会釈だけを愛想も無く返した。
「敦士君、悪いね引き留めて。僕もそろそろ行くよ」
ポスターを抱きかかえた高塚さんが「それと」と言いにくそうに続けた。
「この絵、貰えないかな。敦士君が一生懸命描いた物だから、無理には言えないけど」
「え――」
「あ、やっぱり駄目だよね。ごめん。やっぱり返すよ」
俺は「違うんです」と差し出された画用紙を断るように、胸の前で両手を振った。
「貰ってくれたら嬉しいと思ってたんです。でも、こういうの信じて貰えないんじゃないかって心配してたから。今まで、気味悪がられる事の方が多かったっていうか。嘘つきって言われる事が大半だったから」
「嘘つき?」
高塚さんは、不快そうに眉をひそめて首を傾げた。
「敦士君は嘘つきじゃないよ。この絵が無くたって、そんな事はあの店に通っていたらわかる。ちゃんと君を見ていたらわかるよ。それに――」
翼さんが、自転車を押しながらこちらに歩いてくる。
高塚さんは絵を大切そうに両手で持ったまま微笑んだ。
「僕はこの絵でとても幸せな気持ちになってるよ。世界一良い絵だ」
再び風が吹いた。
足元の枯れ葉がカラカラと音を立てながら、転がるように渦を巻いて、ふわりと散る。
「君の才能は、人を救うものだよ」
雲の切れ間から輪郭の淡いレモン色の光の筋が、水蒸気を纏って静穏な森に降り注いでいた。
「あれ、シンさんの所に行くんじゃなかったんですか」
何故か俺と一緒に公園の出口へと向かう翼さんに訊ねた。
ずしりと重そうな白いリュックが自転車の籠に乗せられている。
「ううん。君に会いに来たのだよ」
「僕に?」
「今朝、見ちゃったんだよね」
「何をですか」
今朝か。久しぶりにあいつに会ったんだったな。
思い出すだけで、こうして歩いていても落ち着かなくなってくる。
顔は真っ直ぐ前を向いたまま、辺りに視線を巡らせる。
憩いの広場にはチワワの散歩に来ている女性が一人と、幼い兄妹を連れた母親。
ちょうど道の先、出入り口から入って来たのは高齢の男性。美術館の方へと歩いていった。
大丈夫。あの女の姿は無い。
「っていうか、実は今日だけじゃないんだよね」
「だから、何がですか」
勿体付けたような言い方にうんざりしながらも、できるだけ平静を装った。
翼さんは様子を伺うように横目で俺をちらりと見ると、二回頷いて足を止めた。
「敦士君が誰もいないのにやたらと焦った様子で、逃げるようにこの公園に走って来るところ。あと――」
背筋がひやりとした。
それは今、俺たちの間を隔てるように割って入った冷えきった木枯らしのせいだけではない。
「誰もいない工房の前で、まるで誰かがそこにいるみたいに、ひとりで喋って、笑ってるところ」
その時の翼さんの俺を見る目は、その夜、夢にまで出るほど冷たい物だった。
それは、これまで俺に向けられてきた目とも似ていて、その中でもひと際、嫌悪感を滲ませた目だったように思う。
答えられなかった。
返事をしない俺を翼さんは責めなかったが、駅が見えると足早に改札に向かおうとする俺の背に投げかけた。
「幽霊なんているわけないじゃん」
吐き捨てるような乱暴な口ぶりに、思わず立ち止まってしまった。
「イマジナリーフレンドだっけ。心の中の友達みたいな。そういうのがいるの?」
背を向けたまま呆然と立ち尽くしていた俺は、語尾が疑問形になっていることにようやく気付いて、小刻みに数回頭を横に振った。
「じゃあ酷い妄想癖があるんだよ」
何なんだ急に――。
「人間、死んだら終わり。そうでしょ」
構内アナウンスが鳴り響く。振り返るのが怖い。
「電車が来るから……」
それ以上は言葉にならなかった。
喉が締め付けられているみたいに苦しい。
その苦しみの正体が絶望からくる悲しみだと気づいたのは、真夜中。
ひとりで布団に潜ってからだった。
翌週の月曜日。
今朝は急遽シンさんが午前中だけ出かけなくてはならなくなった。
勿論、俺ひとりでは心細いだろうと店を臨時休業にしようと言ってくれたが、俺だってここの店員なのだ。
午前の数時間の店番くらいできるようにならなきゃいけないだろう。
レシピノートを立てかけ、わずかに残る不安でそわそわとカウンターの中を右往左往していると、一番乗りで翼さんがやって来た。
よりによって、先日の事があってからの二人きりの空間。
胸裏でシンさんの助けを求めなかったと言えば噓になる。
「あー、寒かった。お祖父ちゃんは?」
レジ横の階段を覗き、店内を見回した。
今日は朝から分厚い雲が空を覆っているというのに、顔の面積の半分くらいを埋めるようなサングラスをかけている。
「急用みたいです。要件はわからないですけど、お昼には戻って来るって言ってました」
翼さんは「ふうん」と真正面に座り、何事も無かったかのように「ミルクティー。温かいのね」と俺の後ろの棚に視線を投げると、そのまま突っ伏してしまった。
ジャンナッツの缶を取り、お湯を沸かす。
鮮やかな青いハイネックのセーター越しの背中が、次第にゆっくり、規則的に上下していく。
寝てる。サングラス掛けっぱなしで……。
壊れないだろうか。
心配になって声を掛けようかと迷っていると、ふと視界の端に映り込んだものに、咄嗟に翼さんから視線を剥がした。
あの紳士がいた。
指定席に座って、いつものように窓の向こうに目を向けている。
「あ、あの」
いや、そんなはずはない。
店はさっき開店して、シンさんが出て行って。
最初の客は翼さんだ。
一度だってドアベルは鳴っていない。
紳士はおもむろにこちらを向くと、ゆっくりと右手で俺を指さした。
わけがわからず狼狽える俺を見て、今度は微笑しながら指先を少し下へと傾けた。
「お湯」
シンさんよりも低く、しわがれた声の中にも確かな温もりを感じる。
優しくて包み込むような。どこか懐かしくもなるような声だ。
「沸騰してるよ」
「あ――」
慌てて火を止めた。翼さんはまだ起きていない。
紳士はじっと俺を見たかと思うと「ブラックの珈琲をひとつ、頂けますか」と言った。
翼さんは微かにいびきまでかき始めた。
ううん、と唸ったかと思うと、机の上で交差した腕の上で顔の向きを変えて、また寝息を立てる。
ミルクティーを淹れるつもりだったお湯は、珈琲用に代えさせてもらうことにした。
そっとカウンターを出て、翼さんの後ろを静かに通る。
紳士はマグカップに鼻を寄せ「良い香りだ」と白い眉毛を垂れさせた。
俺も笑顔を作って応えた。
だがすぐに表情がふっと冷えていく。
よくもまあ、こんなにも俺の周りにはこの世に存在しない者が集まるものだ。
こんなところを翼さんに見られたらと思うとぞっとする。
「この珈琲、シンに教えてもらったの?」
「えぇ、まあ」
人間だと思っていた相手がそうじゃないと知ってしまったからには、お客さんに向けるような穏やかな笑顔を作る事は出来なかった。
正直、うんざりするという表現の方が合っているだろう。
シンさんは指定席にこの人がいると言ったら、どんな顔をするだろう。
というか、そもそもこの指定席は誰の為のものなのか――。
「へえ、シンも立派になったなあ」
珈琲と俺と、そしてしみじみと店内を見回す。
「お知り合いですか」
抑揚の無い声で訊ねる。別に嫌味のつもりはない。
ただ、幽霊だと気づいてしまってからの落胆は自分でコントロールできそうにもない。
「そうだね。僕は三森賢治。ケンさん、って呼んでよ」
ケンさんねぇ。
胸裏で独り言ちて、表情は苦笑した。
「珈琲の淹れ方を教えたのは……というか、あれ」
ケンさんが無骨な指でさしたのはカウンターで突っ伏して規則的に背中を上下させている翼さん――ではなく、その奥。
「君がさっきから使ってるレシピノートあるでしょ」
「はい」
「あれ、僕が書いた物だよ」
「……は?」
「シンに珈琲の淹れ方を教えたのも、僕なんだ」
「どういう、ことですか」
「バッハのプレリュード一番」
今度は店の隅にある蓄音機に視線を移す。
「相変わらずこの店で流す曲は、僕が用意したものばかりだね」
「何を言ってるんですか」
ケンさんはゆっくりと俺を見上げると、テーブルの上で指を組む。
やんわりと口角を上げ、目を細め、何度か小さく頷く。
まるで心の中で自分の気持ちに整理を付けてから告白するように。
「この店は僕が始めたんだ。シンは二代目なんだよ」
それに――と一度大きく息を吸って、吐き出すように言葉を続けた。
「僕は君に会ったことがある。覚えていないかな」
会ったことがある? 俺が、この人に?
記憶の川を遡る。
いつ、どこでだろう。
ケンさんは、俺の事を試すかのようにじっと目を見てくる。
白い髪、深い皺。どれをとっても記憶にはない。
だとすれば、もっと昔の事だろうか。
遡れば遡るほど、川の色は濁っていく。
やがて、鉛色のどろりとした記憶の水たまりに辿り着いた。
銀のトレーを握る手に、じわりと生ぬるい汗が滲む。
別人と化した母の冷たい顔と、蔑むような男の目が、心の奥深くを乱暴に鷲掴みにする。
俺を見上げるケンさんの目と視線がぶつかる。
この人は……
「どうかな」
ケンさんが訊ねたその言葉、というより声に聞き覚えがあった。
「もしかして……」
そうだ。確かに俺は、この人に会っている。
「大きくなったね。敦士君」
その陽だまりのような声に、記憶の時間の針は、ぐるぐるともの凄い速さで二十四年前に巻き戻される。
朧げな記憶が、くっきりと輪郭を持って蘇った。
完璧にしているつもりだった。
同級生の子たちと変わらない、普通の子供として馴染めていたはずだった。
母さんの家から追い出されて、父さんの元に戻った年の夏。
幸い一連の事は入学前の事だったのもあり、入学式もみんなと一緒に参加することができた。
とは言え、入学初日から右頬に大きなガーゼを当てていたせいで、一年生の悪意のない、隠しきれない好奇の眼差しを注がれるのは無理もない。
「どうしたんだ」「ガーゼの下、どうなってるの」と、席の周りに四・五人の男女が集まり、矢継ぎ早に問い詰められる。
だが誰一人として、まさか大人に殴られたものだなんて想像もしていなかった。
「転んで、テーブルの角でぶつけたんだ」
前日の夜に考えてきた理由を躊躇うことなく言った俺を、誰も疑ったりもしなかった。
桜が散り、梅雨が来て、蝉が鳴き始める。
小学校はプールが始まり、生まれて初めての大きなプールで、友人たちとふざけて、はしゃぐ。
普通だ。自分は、普通の子供。
視界の隅に〈この世に存在しない者〉が映っていたとしても、気が付きもしなかった。
だからこそ油断していたのだろう。
自分が人と違うという事を忘れかけていた。
「敦士! 一緒に帰ろう」
学校からの帰り道。
校門を出てすぐの古い住宅街を歩いている俺を追いかけてきたのは当時一番仲の良かったクラスのお調子者的立場の男子だった。
お笑いが好きで、先週の土曜には、両親と一緒に吉本新喜劇の舞台を大阪まで見に行ったと嬉しそうに話していた。
「え、あぁ、うん」
この時の事は、あまりはっきり覚えていない。
ただ、その日、俺はひとりで帰っている訳ではなかった。
ここまで来る途中の公園から、一緒に帰っていた人がいた。
確か、その男子に「この人も一緒に良いかな」と言ったのは覚えている。
ただ、それがどんな人だったのかまでは、この後の展開があまりにショックで、記憶から消し去ってしまった。
「この人って、誰だよ」
頭の中が真っ白になった。言葉すら出なかった。
しまった――。
俺は固まったまま、じりじりと視線を落として右横にいるその人を見た。
俺の右腕に触れそうな細い腕は、さっきまでよりも青白く、色味が無い。
だらりと垂れ下がったままの指先が、不気味なほどまでに微動だにしない。
「あの噂、本当だったのかよ」
「う、わさ?」
喉の奥から無理矢理引っ張り上げた声は、掠れてひっくり返る。
「あれ、敦士。先に帰ったと思ってたのに」
「なになに、喧嘩でもしてんの」
タイミング悪く、他のクラスメイトまでもが集まってきてしまった。
「俺はそんなの嘘だって思ってたけど。敦士が中庭で喋ってたの見たやつがいるんだ。でも、そこには他に誰もいなかったって」
後から来た男子たちが「俺も聞いた」「っていうか私その瞬間見たよ」そして、面白おかしそうに、ひとりの女子が言った。
「ねぇ、もしかして幽霊?」
それを皮切りに
「えー、まじかよ。こわっ」
「幽霊の話なんかしたら寄って来るんでしょ」
「敦士君のそばにいたら、いっぱい寄って来るんじゃない?」
そしてその中の誰かが口にした。
三十歳になるまで、その言葉は俺の心に深くざらついた傷を残している。
「こいつといたら呪われんじゃね」
体中から血の気が引いた。
胸が苦しい。
気道に蓋をされたのかと思うくらい、息が入ってこない。
俯いたままの俺の視界に映る友人たちのスニーカー。
青白い手と、黒いスカートと生気の無い二本の足。
冷たい手が俺の右肩に乗るのが分かった。
耳元に顔を寄せたそいつの長い黒髪が、はらりと俺の胸元に落ちる。
その瞬間、俺は振り払うように一気に走り出した。
信号に引っ掛からない道を選んで、商店街は通らずに人通りの少ない路地裏を抜ける。
硫黄臭い寂れた銭湯から出てきた湯上りの中年男性とぶつかりそうになるのを寸前で避けながら。
通学路でも何でもなかったけれど、がむしゃらに走り抜けた。
ランドセルの中で、教科書が鈍い音を立てながら暴れる。
田んぼ沿いの道は、夏の太陽を遮るものが何一つなく、ぎらついた光と熱風が容赦なく吹きつける。
誰も追いかけて来ないのを確認して、ランドセルをその場に下ろした。
背中の素肌を、つつつ、とぬるい汗が流れ落ちていくのがわかる。
家から随分遠い所まで来てしまった。どこかで一度涼みたい。
その後も一本道をぐんぐん進んでいると、青い空を背景としたキャンバスに、こんもりとした巨大なブロッコリーみたいな森が見えてきた。
「……? のもり、こう……えん、かな。なんとかの、森公園」
入り口の石柱に掘られた漢字が読めない。
ふと左に視線をずらすと、敷地内の地図が描かれた看板には読み仮名が書いてある。
「あやせのもり、こうえん」
読み上げて気が付いた。中が妙に騒がしい。
背伸びをしながら、密集する樹々の隙間から見えるのぼりを覗く。
風に裏、表、とはためくそこには、ポップな青い文字で【夏の手作り祭り】と書かれていた。
地図を見上げる。
あの広場がここから一番近い、憩いの広場だということがわかる。
この森の中には広場が三つあるらしい。
俺は賑やかな憩いの広場を通らないよう、入って左の道を進んだ。
ガラス張りの美術館があり、その中もちらほらと人影が見える。
美術館を左手に見ながら道なりに進むと、道が二手に分かれた。
右はガラス工房らしい。
コモレビと書かれた看板の矢印が右の道を指している。
楽しそうな母親と子供の笑い声。
赤ん坊を抱いた父親と仲睦まじく体を寄せて歩く母親の後姿。
それらが母親から捨てられた六歳の子供の心をえぐるのは容易い物だった。
勿論、俺の足ははそちらに向くはずもなく、真っ直ぐ進んだ。
巨大な銀色の知恵の輪がある広場は、子供連れの親子や、肩を並べて歩く男女が数組いた。
ここも駄目だ。
俺はそれを横目に、三つ目の時計塔広場に出た。
時計塔の正面にある二つのベンチの内のひとつに、父さんよりもひと回りは年上だろう男性が座っていた。
いつも作業着の父さんと違って、小学生の俺にもわかる落ち着いた雰囲気。
清潔感のある白いポロシャツの半袖から覗く腕は、すらりと細く白い。
ベージュのチノパンの長い足を悠然と組み替える。
髪は七割ほどが灰色に染まり、前髪は綺麗に斜めに流れるように整えられていた。
父さんみたいに、汗を乱暴に拭き上げた後のような荒っぽい髪型とは対照的だ――その人の視線が空からすっと降りてきて、真っ直ぐ俺をとらえた。
柔らかい笑顔を向けられて慌てた俺は、男性からは死角になる時計塔の裏に逃げ込んだ。
ランドセルを下ろし、三角座りで時計塔に背中を預けた。
ちょうど日陰になっていて、背中がひやりと気持ち良い。
羊の群れが背を見せて昼寝でもしているみたいな雲がゆったりと流れていく。
吸い込まれそうな青い青い空を、ざわ、ざわ、と樹々が鮮やかな緑を閃かせていた。
あんなものが見えていなければ、俺は今頃あの子たちと一緒に並んで帰っていただろうか。
放課後に遊ぶ約束でもして、時間も忘れて走り回っていただろうか。
みんなと同じものを見て笑う。そういう生活がしたいだけだ。
同じ世界にいるのに、まるで別の次元を見ているみたいな人生。
声を掛けられて、意気投合して。
一緒に帰っていた人が実は生きていない人間だったと知ってしまった時の絶望感。
それがばれてしまった時に一気に襲い掛かる孤独感は、俺の脆い心には耐えられないものだ。
これからどうすれば良いのだろう。明日、学校に行くのが怖い。
既に噂になっていたのだから、今までもきっと不気味なものを見るような目を向けられていたのだろう。
呑気な俺が気が付かなかったと言うだけの話で。
明日も、明後日も、その先も、ずっと学校はある。
つらい。
「良いな」
足元を歩く蟻の行列も、鬱蒼とした森から飛び立ったカラスさえも羨ましい。
「みんな、学校に行かなくても良いんだもんな」
考えるだけで苦しい。虚しい。もう全部から逃げてしまいたい。
そんな勇気や度胸があるなら、殴られる前に母さんと恋人の家からもさっさと逃げていただろうけれど。
「あ、あれ――」
視界が白く濁って、たぷん、と左右に揺れた。
生ぬるい雫が溢れ出し、つつ、と頬を伝い落ちた。
ひとつ、涙が落ちたと自覚すると、せき止めていたダムが溢れ出したように、筋状の涙がとめどなく流れていく。
悔しい。苦しい。
ただ見えるだけで、殴られ、母親には捨てられ、友人には呪われるという言葉を投げつけられる。
気付けばしゃくりあげていた。
まともに息を吸おうとしても、ひっく、ひひっ、と声がひっくり返るばかりだ。
鼻水でずるずると音を鳴らし、くたびれたシャツの首元で目元を雑に拭った。
「大丈夫だよ」
頭を大きな手のひらが包み込んだ。
温かいその手は、確かに生きている人の体温。
顔を上げようとする俺に「そのままで良いよ」と、赤子をあやすような甘く優しい声で囁く。
手はそのまま背中に降りて、ゆっくりと、俺の呼吸に合わせるように上下した。
「君は独りじゃない」
違う、俺は独りだ。どこへ行っても独りぼっちで、不気味なんだ。
「周りをよく見てごらん。君を大切に想ってくれる人がひとりはいるはずだ」
右手は俺の背中をさすったまま、左手はランドセルの肩ベルトに手を伸ばした。
親指の腹で黒いベルトを撫でながら「綺麗に使ってるんだね」と呟く。
「これ、誰が買ってくれたの?」
「……父さん」
男性は「そう」と満足気に俺の背中に乗せた手を上下させた。
わかっている。父さんはきっと味方だ。
痣を作って帰った俺に、心配の言葉一つ掛けてくれなかったけれど。
すると男性は自分の中で何か決心でもしたように長い息を吐き、俺の背中を軽くトン、とひとつ叩いた。
「必ず居場所はある。本当だよ。それだけは、忘れないで覚えていて」
「ここは、君の居場所になれたのかな」
二十四年前の記憶と、目の前のケンさんが重なって、思わず俺は声を漏らした。
「ケンさんって……」
ケンさんは眉を少し持ち上げながら「そうだよ」とにっこり笑顔になる。
あの頃よりも真っ白な髪、深い無数の皺も、あの時ベンチで空を見上げていた男性の横顔と重なる。
あの時の、あの人。泣いていた幼い俺に、寄り添ってくれた人。
「敦士君だったね。君はここが好きかい」
「はい」
ケンさんは「そう」とゆったりと頷く。
「僕がこの店を始めた意味もあったんだね。嬉しいよ」
「それってどういう――」
「この店を始めるきっかけになったのは、敦士君。きみなんだよ」
すぐに状況が飲み込めなかった。
俺がきっかけ?
子供の俺と、ケンさんの出会いがこの店の始まりだと言うのだ。
「この店の名前。お客さんがつい、うたたねしちゃうくらい落ち着ける店を作りたかったんだ。敦士君のような、独りで悲しむ人の居場所になれるような場所」
そういえば、以前シンさんがそう教えてくれた事を思い出した。
そして、まるで他人が付けた名前だというような言い方をしていた事も。
「生きていると悲しい事も沢山ある。孤独を感じる事も。僕はとても貧しい家に生まれてね。片親である母は朝から晩まで働き通しだった」
遠い過去を懐かしむように、でもどこか悲しみと寂しさを抱いた眼差しを、珈琲カップに落とす。
「周りの人に助けられて生きてきた。近所の子供食堂が僕にとっての居場所だった」
この店は、ケンさんにとっての恩返しなのだろうか。
独りで泣いていた少年がきっかけで始めた店。
結果として、その店でこうして働かせて貰っている。
目の前にいるこの人もまた、俺にとっての恩人だ。
「孤独な人が集まると、そこはもう独りぼっちじゃないだろう。生きる事の痛みを知る人たちが集まる場所は、きっと温かくて、優しい場所になる」
「そう……ですね」
ここにいる時、俺は独りじゃない。
シンさんも、お客さんも、俺の事を受け入れてくれる。
ガラス工房の高塚さんだって、俺の絵を見て喜んでくれた人。
俺の話を信じてくれた人だ。
翼さんは――今は何とも言えないけれど。
「君は優しいね」
「そんなこと、無いです」
「優しいよ。ずっと君の事を見ていたからわかる。生きている時にはわからなかった、他人の心もよくわかるんだ。まぁそんなのも、喜ばしい事ばかりじゃないけどね」
ケンさんは俺が淹れた珈琲に鼻を近づけて「良い香りだ」とカップを顔の前で掲げた。
「君は相手のことを心から想える人だ。お父さんの事も、ずっとこの公園で泣いていた少女の事も、ガラス工房のお嬢さんの事も」
「ふたりを知ってるんですか」
ケンさんは頷いて「でも」と付け加える。
「見ているだけならね。でも互いに干渉することはできない」
「でも、小鈴ちゃんは男性の幽霊と話したことがあるようなことを――」
その時、熟睡していた翼さんの背中と後頭部がもそもそと動いた。
「これ、下げて。ごめんね、飲めないのに頼んでしまって。でも香りはとても良かった」
「いえ。ありがとうございます」
ケンさんに促され、慌てて珈琲カップをトレーで隠しながら流しまで運んだ。
ふと顔を上げた時には、ケンさんは既に姿を消そうとしているところだった。
「さっきの事だけど」
ケンさんの体のシルエットがぼやけ始める。
「おそらくその少女が話したのは幽霊じゃない」
「え?」
「本当はどこかで生きている人。意識が身体から離れてしまっている人だ。所謂、生霊というものだよ」
生霊……。この森にはそんなのまでいるのか。
「あれ、敦士君。あたしのミルクティーは?」
斜めにずれたサングラスを指先で押し戻す。
やっぱりまだ外すつもりは無いらしい。
「あ、えっと……寝ちゃったので後にしようと。すぐ淹れますね」
ケトルに水を入れコンロに掛ける。
体が透け、原形を留めないほど霞となっていくケンさんに、翼さんにばれないように軽く会釈をした。
――敦士君。
頭の中に語り掛けてくる声に、うっかり返事をしそうになって翼さんと目が合った。
「どうかした?」
「い、いえ何も。えっと、時計っと」
誤魔化すようにエプロンのポケットから懐中時計を取り出して、紅茶の蒸らし時間を計る。
――シンの事も、少しだけ気に掛けてやってほしい。
どういうことですか?と顔を上げそうになって、慌てて止めた。
これ以上妙な動きをしたら翼さんに問い詰められそうだ。
今は彼女と幽霊がどうだとかの話をしたくない。
――詳しい事は解らない。でもシンは多分、店の事となると限界まで無理をするから。僕はそれが心配で、ここから離れられないんだ。
ケンさんはそう言うと、すうっと窓の向こうの風景に溶けるように消えてしまった。
シンさんが帰って来たのはお昼前。
翼さんのお腹の虫が鳴いた頃合いだった。
「悪かったね。何か困ったことは無かったかい」
「はい、大丈夫です。今のところ、翼さんだけでしたから」
「そうか」
二階で着替えを済ませたシンさんは、ちらりと時計を見てから、年季の入った黒いエプロンを身に着けた。
様子はいつもと変わらない。
「そうだ。申し訳ないんだけど、来週の金曜日、お店を休もうと思っていてね。急でごめんね」
「どうかしたんですか?」
シンさんは「いや」と、僅かにため息交じらせながら苦笑した。
「大した用事じゃないんだけどね」
言いながら珈琲豆の減り具合を確認し、メモにペンを走らせる。
棚に向かうシンさんの後ろ姿を見ていると、気のせいだろうか。
元々細身で小柄なシンさんではあるが、身体の厚みが薄くなったというか、全体が一回りくらいサイズダウンしたような。
よく見たら左手の薬指の指輪が無い。
シンさんから奥さんの話は聞いたことが無いが、あの指にはいつもシルバーの指輪が嵌められていたはずだ。
「シンさん、指輪着けて無いんですね」
もし失くしていることに気付いていないなら一大事だ――という理由をこじつけて聞いてみた。
「あぁ、うん。最近緩くなってね。洗い物もするし、失くしたら大変だから仕舞ってあるんだ。歳をとるってこういう事もあるんだろうね」
棚のガラス戸を閉めて、メモ帳とペンをエプロンのポケットに滑り込ませた。
「そういえば翼。今日は学校は休みだったのか」
話題を変えたのが不満なのか、話題を変えるために話を振られたのが不満なのか。
翼さんは、ふん、と鼻を鳴らしてサングラスのブリッジを中指で持ち上げた。
「休んだの。あたしも色々あるんだから。敦士君とも話したいと思ってたし」
俺はそんなの無いです。
心の中で呟きながら、翼さんから離れるように、さりげなく窓際へと一歩引いた。
カランコロン カラン
気まずい雰囲気が漂うなか「どうも」と上品な風と共にやって来たのはミヤコさんだ。
「いらっしゃいませ」
「小野さんは来ていらっしゃらないのね」
「えぇ、今日はまだですね。あれから一度もですよ」
ミヤコさんから黒いコートを受け取り、入り口横のコートハンガーに掛ける。
ミヤコさんをソファ席に案内した俺は、キッチンに戻って水とお絞りを準備する。
「もうすっかり慣れちゃって」
翼さんが軽口を叩く。俺はぎこちない会釈を返すしかできない。
それにしても、イマジナリーフレンドだとか思い込みだとか、翼さんからそんな言葉が出てくるとは思っていなかった。
シンさんの孫だからきっと受け入れてくれるはず、なんて甘い考えを持っていたのかもしれない。
「今日はまだお昼も食べてなくてね。せっかくだから何か頂こうかねぇ。引っ越しちゃうと、もうここに来られないなんて寂しくなるわ」
ミヤコさんはメニューの文字を指さしながら、下へ、下へ、とずらしていく。
「そうねぇ。とりあえず、いつもの珈琲は頼むとして……」
独り言ちるミヤコさんのテーブルに水とお絞りを置いて離れようとした時、ドアベルが囁くように鳴った。
随分と重たそうに、ゆっくりとドアが開いたからだろう。
「いらっしゃい」
「小野さんだ。こんにちは」
「ああ。こんにちは」
どっしりとした体格で、いつも豪快な笑い声が特徴的だった小野さんの見る影もない。
枝にぶら下がった枯れ葉の如く今にも消えてしまいそうな存在感だ。
以前にも増して力のない声で短く挨拶した彼は、背中に漬物石でも乗っているのかと思うような酷い猫背になっている。
前回は何とか櫛は通していたような髪も、今日は黒いキャップを目深にかぶって押さえてきたらしい。
キャップを脱いで現われた頭頂部を中心とした乱れ放題な髪が、小野さんの心境を表しているようだ。
「お水とお絞りです」
「あぁ、ありがとう」
決壊寸前の涙のダムを必死でせき止めているような悲痛な表情。
そこに無理に笑顔を浮かべようとするものだから余計に痛々しくて、俺はどう言葉を掛けて良いのかわからず、キッチンに引っ込んでしまう。
「敦士君、ミヤコさんの珈琲お願いできるかな」
「はい。わかりました」
珈琲豆をミルで挽いていると、ミヤコさんが「注文良いかしら」と手を挙げた。
「オムライスをお願いします。珈琲と一緒に持ってきてもらって良いから。やっぱりこの店の一番古いお料理を、最後に食べておきたくなっちゃって」
「かしこまりました。すぐに用意しますね」
シンさんが手を洗い、冷蔵庫から玉ねぎと鶏もも肉を取り出す。
「お祖父ちゃん、あたしもオムライス食べたい」
冷蔵庫の扉を閉められる前に、翼さんがすかさず言う。
「はいはい」
シンさんは追加で材料を多めに取り出し、扉を閉めた。
「オムライスが一番古い料理なんですか?」
シンさんは鶏もも肉をひと口大に切りながら「そうだよ」と答える。
「レシピノートにも、一番最初に書いてあるでしょ」
そう言って、俺の前に立てかけてあるノートを顎で指した。
確かにそうだ。このノートはオムライスを一ページ目にして始まっている。
次のページはナポリタン。
その次にフレンチトーストやホットケーキ、サンドイッチは卵とポテトサラダの二種類とフルーツサンド。
キーマカレー。ホワイトソースとハムを食パンでサンドした上に、ホワイトソースとチーズを乗せて焼いたクロックムッシュや、更にそこに卵黄を落としたクロックマダム。
他にもプリン、フルーツをトッピングした豪華なプリンアラモード。クリームソーダ。
ひとりで切り盛りする店にしては、十分すぎるほどメニューは充実していると思う。
「このレシピって、シンさんが書いたんじゃないんですよね」
「あぁ。そうだよ」
知ってたの? という表情を一瞬見せたものの、シンさんは手を止めずにフライパンでチキンライスを作っていく。
あっという間にケチャップの焼ける匂いが店内を満たしていく。
「敦士君、手が止まってるよ」
「す、すみません」
「良いのよ、焦らなくて。まだまだ時間もあるから」
「ありがとうございます」
ミヤコさんに気を使わせてしまった。
レシピノートの隣に置いた手のひらサイズの自分のメモ帳を確認しながら、サイフォンで珈琲を淹れる。
まだ完全に覚えるまでは、細かい時間など、きちんとチェックしながらでないと落ち着かない。
「良いわよねぇ、サイフォン。火も、音も、なんだか落ち着くの。昔を思い出すしね」
「以前は、ご夫婦で一緒に楽しんでくださっていましたよね」
シンさんは卵を溶いて、フライパンに流し込んだ。卵の縁からちりちりと焼けて固まっていく。
「えぇ。でもこれも見納めね。ケンさんが亡くなってもシンさんがしっかり継いでくださったから、私も主人も寂しく無かったけど。引っ越したら寂しくなるねぇ」
「本当に、寂しくなるわ」とミヤコさんがサイフォンを見つめながらしみじみ言った。
「お待たせしました。オムライスと珈琲です」
「ありがとう」
にっこりと目じりに皺を溜めるミヤコさんに、思わず自分の顔も筋肉がほころぶ。
この店で働くまで、こういう感覚を味わった事なんて無かったな。
心に温かいものがじわりと滲むのを感じながら「ごゆっくり」とキッチンに戻った。
「はい、翼。お待たせ」
「わあい、いただきまーす」
艶のある薄焼き卵が綺麗に巻かれたオムライス。
仕上げのケチャップはトマトピューレと合わせたものだ。
これがまた、甘みと酸味のなかに新鮮なトマトのコクがプラスされてとても美味しい。
「敦士君。これお願いしても良いかな」
「あれ、余ったんですか」
バットの上には、さっきオムライスに使った鶏肉と玉ねぎが乗せられている。
俺の手から仕舞おうとしていたサイフォンを受け取ると「こっちは僕がやるから」と、小野さんにちらりと視線を向けた。
「えっと……」
小野さんは、ぼんやりと窓の向こうに目を向けるばかりだ。
あれ――?
ソファの向かいに白い靄が見える。
気のせいだろうか。目を擦ってみるが、やっぱりまだ靄は消えない。
小野さんの向かいのソファの上に留まったまま動く気配はないが、なんだかとても不安定な靄だ。
今にも消えてしまいそうに時折薄くなっては、まだ消えたくないとでも言うように、色濃くなってみたりを繰り返している。
「どうふぁしはの?」
口の中をオムライスでパンパンにしながら、リスみたいな顔の翼さんが俺を見ていた。
「いえ、なんでも……」
翼さんは「ふうん」と間髪入れずに次のオムライスを頬張る。
「小野さん。オムライス、食べませんか」
え?と俺を見た小野さんが「あぁ、いや」と顔の前で手を振った。
「珈琲だけお願いするよ。実は、仕事を退職しちゃってね。これから節約していかないといけないんだ」
「でも、その。サービスなんです」
シンさんに「そうですよね」と視線を送る。
シンさんも勿論だよと、小野さん用の珈琲豆を手に頷いた。
「良かったら食べてよ。材料、切り過ぎちゃってね」
「そ、そうなんです。助けると思ってお願いします」
シンさんと俺を交互に見た小野さんは「わかったよ」と、表情を緩めた。
「あまり食欲が無かったんだけど、さっきからの良い匂いで美味しそうだなって思ってたところだったんだ」
食欲が無い。
小野さんのあまりの変わりようが、その言葉が事実であることを示している。
食べないせいで痩せたという様子ではない。
顔色が悪く、やつれたという表現がしっくりくる。
それくらい精神的に追い込まれているのだろう。
フライパンに油を引き、材料を炒めていく。
これまで何度か作っているオムライスだ。
身体が次の動作を覚えているかのように、自然にケチャップを手に取り、火の調整をし、ご飯を投入する。
ふと顔を上げると翼さんと視線がぶつかった。
向こうから見ていたはずなのに「何よ」と攻撃的な言葉を投げつけられて「いえ、別に」と、ひ弱に返す。
早く帰ってくれたらいいのに、なんて思ってしまう。
だがケンさんが座っていた指定席が視界に入ると、そんなネガティブな感情を抱きながら料理をしている事がとてつもなく失礼な気がして、改めて背筋を伸ばした。
「おっ、上手いじゃん」
フライパンから皿にオムライスを滑らせると、翼さんがスプーンを握ったまま親指を立てた。
オムライスは完食したところだった。
「あ、ありがとうございます」
翼さんは気まずいこちらの心境を知ってか知らずか、一向に帰る気配はなかった。
シンさんが空いた皿を下げてもまだ、椅子から一歩も動く気は無いらしい。
その証拠に今度は「いつもと違う紅茶でも飲んでみようかなぁ」と右から左へ棚に視線を這わせているのだから。
「小野さん、お待たせしました」
「ありがとう。いただきます」
小野さんはそう言うとシンさんにも一度会釈してから、スプーンを手に取った。
「ごゆっくり」
シンさんが翼さんのレモンティーを淹れる隣で、俺は片付けをした。
ミヤコさんはのんびり食べながら、時折珈琲を口に運んでいる。
「敦士君、ゆっくりしてなよ。もうやる事も無いし」
片付けを済ませて手を拭いていると、シンさんが「僕も休むから」と丸椅子をふたつ用意してくれた。
小野さんは――と視線をやると、その背中が小さく震えている。
シンさん、と振り返ると「良いんだよ」と、出窓に顔を向けてしまった。
「え……」
再び小野さんを見て、思わず声が漏れた。
小野さん、というよりもその向かいの席だ。
さっき靄が浮かんでいたそこに、小野さんと同じくらいの歳だろう年配の女性がいた。
テーブルに両腕を置いて幸せそうな眼差しで、オムライスを食べる小野さんを見つめている。
ふっくらと丸みのある恵比寿顔のこの女性は奥さんだろう。
勘が働いたのか。
顔を上げた小野さんが女性を見た――が、もちろんその視線は交わる事は無い。
それでも、小野さんを見守る女性の穏やかな笑顔が、冬の淡く白い陽光に優しく滲む。
俺は足元に置いてあったリュックから、急いでスケッチブックと色鉛筆を取り出した。
途中、翼さんが「何やってんの?」とカウンターの向こうから覗き込もうとしていた。
シンさんが「やめなさい」と制したやりとりを耳だけで確認して、俺の目は小野さんたちのテーブルと手元のスケッチブックを往復する。
次々に色鉛筆を持ち替えながら、水筆で絵に表情を持たせ、目の前の儚い空気感を描いていく。
――できた。
今更になって、シンさんからは見えていたんじゃないかと焦ったが、シンさんは出窓の縁で肘をついて目を閉じていた。
午後の陽に、白髪がきらきらと細かく反射している。
「さて、私はそろそろ失礼しましょうかねぇ。お会計、お願いしますね」
ミヤコさんが、レジへ向かう途中で小野さんのテーブルから伝票をすっと手に取った。
「小野さんのも一緒にお願い」
「え、そんな。駄目です。自分で払いますから」
「良いの。私、これでもうこの町ともお別れなの。主人が亡くなった時も、小野さんにたくさん元気を頂いたわ。寂しい思いもせず、とっても楽しい時間をここで過ごせたのよ」
ミヤコさんが「そのお礼をさせてちょうだい」と、ふたつ分の伝票をレジに立った俺に手渡した。
「じゃあね。これまでお世話になりました。敦士君も、長い人生まだまだ色んな事があるでしょうけど、あなたなら大丈夫。自信もって生きて良いのよ」
「ありがとう、ございます」
こうして店員になるまでは面と向かって話した事があったわけじゃないが、ミヤコさんがいるだけで店の空気が和らぐのはずっと感じていた。
きっとそれは、彼女自身のこういう優しさや思いやる心がそうしていたのだろうと、今なら思う。
「翼ちゃんも、あなたの笑顔で、私は沢山幸せな気持ちになったの。私も主人も孫を見ているような気持になってね。普段は口下手だった主人も、家に帰ってから翼ちゃんの話をすることもあったのよ」
翼さんは舌唇を噛みしめ、腕で目を擦りながらミヤコさんに抱き着いた。
その背中をミヤコさんの細い腕が上下する。
「翼ちゃん自身も大変な事もあって沢山苦しんでいたのに、ちゃんと助けてあげられなくてごめんね」
ミヤコさんから体を離した翼さんは、何度も頭を左右に振った。
「あたしのお母さんが母の日参観に来てくれなくても、ミヤコさんが来てくれたじゃん」
「ふふっ、あったわねぇ。そんなことも。母の日なのに、お婆ちゃんが行っちゃって恥ずかしかっただろうけどねぇ」
「そんな事ない。あたし、あれ、凄く嬉しかったんだから」
翼さんは「引っ越しても、元気でいてよね」とセーターの袖口で目を擦りながら、思い切り鼻を啜った。
「シンさん、このお店を継いでくれてありがとう。あなたに救われた人は沢山いるわよ」
「いえ、私は楽しくやらせて貰っているだけですから」
ミヤコさんは、ゆっくり店内をぐるりと視線を巡らせ、そっと目を閉じる。
「初めて主人と来たときに流れていたのも、この曲だったんじゃないかしら」
店内を流れるのは、ショパンのノクターン第二番だ。
「私ね、今でもケンさんがこの店を見守ってくれているような気がするのよ」
その言葉に思わずドキリとしたが、まだすすり泣く翼さんの背中に視線をずらし、できるだけ平静を装った。
シンさんが俺の隣で「そうですね」と言ったような気がした。
「これ以上いたら寂しくなっちゃうから行くわ。ごちそうさまでした」
翼さんがドアを開け、頭上でドアベルの音が転がる。
「み、ミヤコさん」
咄嗟に声を掛けた俺を、ミヤコさんが「なあに?」と振り返る。
「亡くなったご主人の姿が見れたらって……思いませんか?」
するとミヤコさんは、目を線のように細くしてくすりと笑ってみせた。
「嫌ですよ」
そう言って「だって……」と杖を支えにして体ごとこちらに向き直り、お店の外観を見上げる。
「見ちゃったら、私もそちらの世界に一緒に連れて行って、って言いたくなっちゃうじゃない」
ミヤコさんは「息子や孫も長生きしてって言うからね」とほほ笑んだ。
「そうですか……」
俺は言いながら、ミヤコさんの後姿を見送った。
「ありがとうございました」
深く頭を下げた。
ミヤコさんの隣で歩幅を合わせて歩く、もう一人の男性にも。
ベージュのハットをかぶった、ミヤコさんと背丈の変わらない温厚そうな男性が最後に会釈をしてくれたのを、俺はこれから先も忘れられないだろうと思った。
「敦士君、美味しかったよ。ごちそうさま」
ミヤコさんが帰って、ゆっくり珈琲を飲んでいた小野さんが席を立ったのは午後二時だった。
「実は、かみさんが亡くなったんだ。昨日、延命措置を切ってもらった」
小野さんは「いやあ、駄目だね。男は弱いね」と無理矢理笑って見せる。
「敦士君、良いのかい」
「え?」
シンさんは、小野さんが玄関へ向かう背中をちらりと見てから、俺のリュックを指さした。
「知ってたんですか」
「前に高塚さんに話して貰ったんだよ。僕は、とても良いことだと思う」
「……そうでしょうか」
正直わからない。
ミヤコさんのように見たくないと思う人もいるだろうと考えると、渡すことが正しいとは言えないのかもしれない。
「小野さんは喜んでくれるんじゃないかな。僕はそう思う。君の絵は、その力があるよ」
「なにコソコソ喋ってんの」
翼さんが怪訝な目で俺とシンさんを睨みつけていた。
そう言えば、小野さんは奥さんと旅行に行けなかったと言っていた。
ゆっくり過ごす時間も無かったと。
ふたりの写真などもあまり無いのだとしたら。
これが、その代わりになるだろうか。
それとも嘘だと怒られるだろうか。
反って悲しませることになったらどうしよう。
スケッチブックのページを捲って、いや、と思い直した。
奥さんの表情を見たら、きっと――。
「小野さん、待ってください」
じゃあね、と店を出ようとノブに手を掛けていた小野さんを引き留めた。
「これ、良かったら」
「なんだい? 絵?」
小野さんは直ぐに「これは」と息を呑んだ。
俺はその様子を見ているしかできない。
時間が止まったような感覚を覚えた。
怒られるか悲しまれるか、もしくは少しでも喜んでもらえるか。
後者の可能性なんて限りなく低いかもしれないけれど――。
「敦士君」
「は、はい……」
すみません、と口走りそうになった俺を、小野さんが赤い目をして見ていた。
「これ、本当の絵なの? 僕の服装とかオムライスとか、さっきの事?」
俺は恐る恐る頷いた。表情は多分かなり強張っているだろう。
小野さんはもう一度絵に視線を落として、奥さんの顔をそっと指の腹で撫でた。
「ありがとう。あり、がとう」
震える声で何度も言った。
その場に崩れ落ちる小野さんの背中に、シンさんがそっと手を添えた。
歯を食いしばりながら、奥さんの名前を呼び続ける小野さんの背中が震える。
握りしめたスケッチブックの端に大粒の涙が落ちて、淡く悲しい色を滲ませていた。
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最後の希望とも言える名刺の電話番号へ連絡した二人は、やってきた弁護士から契約書の内容を聞かされ唖然とする。それは祖父が遺産として残した『異世界トラス』にある土地と建物を孫へ渡すというものだった。もちろん現地へ行かなければ遺産は受け取れないが。兄妹には他に頼れるものがなく、思い切って異世界へと赴き新生活をスタートさせるのだった。
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