喫茶うたたねの魔法

如月つばさ

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最終話 喫茶うたたねの魔法

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メモに書かれた病院は、うたたねから電車で一時間程の所だった。

「何やってんの」

面会の手続きをしようとしていると、廊下の向こうから翼さんが鼻息荒く迫って来た。

「なんで敦士君がここにいるのよ」

胸ぐらでも掴まれそうな勢いに、思わずのけ反る。

「あの、あまり大きな声は出さないように」
 
カウンター越しの看護師の制止にようやく我に返った翼さんが、まだ納得いかないような目で俺を睨みつける。

「シンさんに教えてもらったんです。ここに行くようにって……」

「は? お祖父ちゃんが?」
 
メモを奪い取った翼さんは、その字がシンさんのものだとわかると「ふんっ」と背を向けて、大股で廊下を戻った。
 
突き当りのエレベーターの前で振り返り、大きく手を上下させながら口をぱくぱくさせている。

エレベータドアの上部がオレンジ色に光ってドアが開く。

それが、早く来いと言う事だとやっと気づいた俺は、慌てて翼さんの元へと向かった。
 
 笹井 航平
 
ドアに掛けられた名札が、改めて現実を突きつける。

笹井さん――。

「ごめんね、また来ちゃった。お父さん」

病室の窓際に置かれた真っ白のベッドは、淡いグリーンのカーテンで囲われていて、垂れた布団の端見えるだけだ。
 
翼さんが「ほら、そっち」とベッドを挟んだ反対側、窓のすぐ下のパイプ椅子を顎で指した。

「は、はい。お邪魔します」

ベッドの足元に立って一気に血の気が引いた。

その人が酸素マスクを付けられ、身体にいくつもの管が繋がれていたからだ。
 
白い顔に、乾いた唇。骨が目立つ首筋や顔。

俺の知っている笹井さんとは、似ても似つかなかった。

ひとつ似ている所を上げるとすれば、左目の下のほくろだけだ。
 
頭には白い包帯とそれを押さえるネットがかぶせられ、瞼は固く閉じられたまま。

ただ静かに、ゆっくりと胸元の布団が上下し、冷たい機械音が規則的に鳴り続けていた。

「翼さんのお父さん……なんですか」
 
翼さんは笹井さんを見つめて「そうだよ」と無感情に答えた。

「血は繋がってない」
 
目を覚ます様子の無い笹井さんに視線を落とす。

「母親が二十三歳の時に再婚した人なの。あの女には勿体ないくらい誠実で真面目な男。連れ子の私を凄く大切にしてくれた。でも真面目過ぎるのよ」
 
翼さんは瞬きひとつしない。ただ、坦々と言葉を発するだけ。

「そんな人を放って、母親はまた帰って来なくなった。男遊びが酷いの。あれはもう病気だよ。そんな家庭でもお父さんは逃げなかった。休みの日には、へったくそなお弁当作って公園にも連れて行ってくれたし、誕生日には遊園地も行った。仕事が凄く忙しかったのに、学校行事にもにも来てくれた。料理も勉強して凄く上手くなったの」

抑揚の無い言葉の端々に、恥ずかしさや照れのような感情が滲んでいた。

それを隠すためか「真面目過ぎるのよね」と澄まし顔でポニーテールをさらり、と手ではらった。

「血が繋がってないことを周りにからかわれてもショックは受けなかった。血なんて関係ないくらい笹井さんは私のお父さんでいてくれたから。でも――」
 
ベッドの柵に乗せていた右手に力を込めた。

強く握り過ぎて、手の甲が白く変色している。

「忙しい割に収入が少なかったんだって。母親はそれが面白くなかったみたい。他に良い男を見つけたから離婚しろって言ったの」

「酷い」
 
思わず口に出てしまった。あまりにも身勝手だ。

翼さんは自嘲めいた笑みを浮かべる。

「あたしは反対したよ。でも娘の言葉なんて耳にも届かなかった。強引に離婚届を書かされて、お父さんは追い出された。家には全然知らない男が転がり込んできて、中学生のあたしを気持ち悪い目で見るの」
 
吐き気がする、と苦虫を噛みつぶしたような顔で言い捨てた。

「し、シンさんは? 翼さんのお祖父さんなんですよね」

「うん、父方のね。あたしの生物学上の父親は借金作って蒸発。母親もあたしを連れて夜逃げ同然で家を出たから、お祖父ちゃんと会えたのは六年生の時。私の事が邪魔になった母親がお祖父ちゃんに押し付けたの。笹井さんがこの店に来てるって知ってから、あたしは笹井さん――お父さんと暮らすのを選んだ」

翼さんは血が滲みそうなほどに唇を噛み締めて、ゆっくり解いた。

俺は椅子に座る気にもなれず、立ったまま呆然と笹井さんの布団を見つめていた。

「高校は行くつもり無かったんだけどお祖父ちゃんが学費を出すからって言ってくれて。でも、四年前……」
 
ゆっくり深い息を吐いた翼さんの声が、微かに震えた。

「この綾瀬の森公園で、命を絶とうとしたの。お父さん」

「そんな……どうして」

「さあ。離婚を迫られて追い出されたって理由があったにしても、あたしを置いて家を出た事とか、ずっと責任感じてたみたいだもん。色々引き受けちゃう性格だから仕事の過労もあったと思う。幸い、見つけてくれた人がいたけど……それからずっとこの状態」

笹井さんは生きている。だからあの公園にいるのは生霊なのか。
 
目を覚ますことができない体から離れた魂が、あの場所でずっと。
 
その時、病室のドアがノックされて、さっき受付にいた看護師が申し訳なさそうに入って来た。

「そろそろお帰り頂かないと……面会時間も終わりますので」

「すみません。ほら、敦士君。出よう」

「は、はい」

翼さんはベッドから離れる前に「お父さん、また来るね」と小さく手を振り、俺は最後に病室に残った看護師に一礼してドアを閉めようとしたとき。
 
甲高く、空気を切り裂く冷たい機械音が病室中に鳴り響いた。

窓のカーテンを閉めようとしていた看護師が慌てた様子で機械を確認し、医者を呼ぶ。

足早に病室に入っていく医者の後を追った。

「な、どうしたんですか。お父さん!ねぇ何なの?!」

「娘さん、少し外で待っていてください」

「嫌だよ、ちょっと、お父さんっ」

「翼さん、駄目です。外で、外で待ちましょう」
 
今にも俺を跳ね除けてベッドに駆け寄ろうとする翼さんを廊下に押し出して、扉を閉めた。

「何すんのっ」

「落ち着いてください。大丈夫です、きっと――」

「無責任な事言わないでよっ」
 
拳で思い切り俺の胸を殴った翼さんは、そのまま膝から崩れ落ちた。

しゃくり上げながら、看護師に呼ばれるまでの間、ずっと「お父さん」と呼び続けていた。
 
その時間は、そう長くは続かなかった。

笹井さんは、そのまま亡くなった。
 
連絡してすぐにシンさんも駆けつけた。

「いやだよぉ……お父さん……お父さん……」
 
泣きじゃくる翼さんを連れて、店に戻った。
 
二階の部屋で力尽きるまで泣き続ける翼さんに、俺は黙って傍にいる事しかできなかった。

「なんで見えないのよ……。あたしだって、お父さんに会いたかった……」
 
すがるように言った言葉を最後に、翼さんは俺の膝の上で眠りに落ちた。
 
涙で濡れた頬を拭って、ポニーテールの髪をそっと撫でる。

やがて落ち着いた寝息を立て始めた頃、俺もそのまま壁に背中を預けて眠っていた。



「翼、大丈夫かい」

「なにがよ」
 
泣きはらして充血した瞳で、前を歩くシンさんを睨みつける。

「その格好だよ。慣れない服や靴は歩きにくいだろう」

「そういえば、さっきからずっと歩き方がぎこちないですね」

「違うの。ずっと正座してたから、痺れただけですぅ」
 
負けじと口を尖らせて顔をしかめる翼さんは、やっぱり一歩踏み出すたびに重心を左にずらす。

葬儀場を出てからもうずっとこの調子だ。

「絆創膏、あったかな」

「あ、僕が持ってます。待ってください……ほら。翼さん、足を出してください」

「やだあ、セクハラ」

「馬鹿な事言ってないで、貼ってもらいなさい」
 
バス停のベンチに座り、ふくれっ面のまま突き出した右足の靴を脱がせる。

かかとは赤くただれ、皮膚がめくれていた。

「やっぱり痩せ我慢じゃないですか」
 
思わず笑みがこぼれる。

靴擦れに絆創膏を貼り、もう一度靴を履かせようとすると、翼さんが自分で強引に足を捻じ込んだ。

「ちょっと、乱暴にしたら痛みますよ」

「うるさい。大丈夫なのー」

「ははっ。まあ良いですけど」

「笑うなー」

「ほら、バスが来たよ。帰ろう」

やって来たバスに喪服姿の俺たち三人は乗り込んだ。

一昨日、笹井さんが亡くなって、俺たちはお葬式に参加させてもらえる事になった。

直前までは強気だった翼さんだが、火葬を迎えると、せき止めていた涙が一気に溢れ、その場にいた誰よりも大声で泣き喚いていた。
 
まるで、子供みたいに。お父さん、お父さん、と泣いていた。
 
笹井さんの故郷は、俺たちの町からそう離れていなかった。バスで一本。一時間もかからなかった。

「ほら、もうすぐ着くよ」
 
見慣れた海辺を進み、田園風景が見えてくる。

大きく弧を描いた道路の、田んぼを挟んだ向かい側にこんもりとした森が見える。

この数日で町はすっかり春の装いになっていたことに、俺たちはようやく気が付いた。

「もうすぐ桜も満開になるかな」

「そうですね」
 
後ろに流れていく田畑を見送り、近づいてくる森は、うっすらとピンク色に染まり始めている。

「綾瀬の森公園前。綾瀬の森公園前」
 
ぼそぼそとしたアナウンスに、翼さんが柱のボタンを押した。

「おぉ、下から見ると結構咲いてるねぇ」
 
憩いの広場を歩きながら、翼さんが中央に位置する一本桜を仰ぎ見る。

五部咲きくらいだろうか。

桜色の隙間から見る空は、爽やかな水色だ。

木漏れ日の光の粒が、翼さんの小麦色の肌にひらひらと散らばる。

「自分の事にいっぱいいっぱいで、全然気が付かなかったわ」

「そうですね」

「ねえ、あたしの目の前に怖い顔したおじさんとかいない?」

「いませんよ」

「じゃあ、肩に乗っかってるおばさんは?」

「いません」

「あたしの足に縋り付くお爺さんとか」

「いませんって」

「じゃあ……」
 
翼さんは眩しそうに目元に手をかざしたまま、桜を見上げてゆっくり歩く。

「とっても真面目で優しくて、お人よし過ぎるお兄さんは?」
 
そう言って「例えばあそこ」と、三本先の、ひと際太くて大きい木の枝を指さす。
 
正直、言葉に詰まった。

同時に、シンさんの言葉を思い出した。

 そうか。何となく見えるんだ。翼さんも――。

「いますよ」
 
翼さんは一瞬驚いたように目を見開いて、もう一度自分が指した方に「そっか」と呟いた。
 
彼女が指し示した場所で、笹井さんは笑っていた。
 
亡くなった時の痩せ細った顔でもない。

ふっくらと顔色も良く、艶のある黒髪を風になびかせた笹井さんが、俺たちを見つけて嬉しそうに目を三日月にして。
 
そのまま、桜風に乗って消えてしまった。

「お店に着いたらさ。敦士君が最後に見たお父さんの絵、描いてよ」

「はい。良いですよ」

翼さんは「やった」とにっこり笑った。
 
その笑顔は、血の繋がりのないはずの笹井さんと、本当の親子のようによく似ていた。



「父さん、朝ごはん置いとくから。帰りは俺が弁当買ってくるよ」
 
食器を流しで手早く洗い、キッチン周りを一気に拭き上げる。

店で働くようになって二年。こういうのも随分と早くなったものだ。

「水筒、忘れないでよ」

「俺の事は良いから、仕事に行け」
 
相変わらずのぶっきらぼうな口調に、玄関に置いていたリュックを背負う俺の頬もほころぶ。
 
昨年の春から、会社で何度か具合が悪くなっていたようだ。

以前、喫茶店で桜木さんと美雨さんの絵を描いている時に感じたスマホの振動は、父の具合が悪くなったという知らせだったらしい。

父はそのことを話さなかったので、結局あの電話が何だったのか知らないまま、ある日掛かって来た電話で父さんが病院に運ばれた事を聞かされた。

病院に向かうと、既に手術が行われた後だった。

「俺はもう現場に立つことも無いし、熱中症も何もないだろ」

「何言ってんだよ。夏場なんてそうも言ってられないよ。室内でも脱水にはなるし、きちんと飲まないと」

「ったく。まさかまた実家暮らしとはな。いつまでここに住む気だ」
 
まだトレーナー姿のままの父さんが、靴を履く俺を見下ろす。

「まだ当分。何も決めてないよ」

「いい歳して――」

「はいはい。じゃあ近いうちに探すよ。この辺りで。じゃあね、行ってきます」
 
ふん、と鼻を鳴らし、くるりと俺に背を向けて居間のガラス戸を開けた。

「父さん」

「なんだ」
 
まだ何かあるのか、と振り返る父さんに、一呼吸おいて尋ねた。

「母さんは、俺を産んだことを後悔してるのかな」

「そうかもしれないな」

やっぱりか、と立ち上がった俺を見て、父さんは「でも」と続けた。

「俺は敦士がいてくれて良かったと思う。それじゃあ駄目か」

聞いたくせに、答えを言う前に背を向けてしまう。

「ははっ、そんな事ないよ。ありがとう」

「気を付けてな」

居間に入った父さんの影が、ガラス越しに座ったのを確認してから、靴を履いて玄関ドアに手を掛けた。

手術後、麻酔から目が覚めた、ぼんやりとしたままの父さんの言葉が蘇る。

「あの男の家からお前を助け出してやれなくて悪かった。何もしてやれなくて悪かった」
 
朦朧とする意識のなかでうなされるように言葉にする父さんの目じりには、涙が滲んでいた。

「陰気な俺といるよりも、子供は母親といる方が良いんじゃないかと思った。あの時行かせてしまった事を、帰って来てから酷く後悔したんだ。俺は帰って来たお前と……ただ日常を過ごしていくことしか出来なかった」
 
ぴくりとも動かない右手の代わりに「ごめんな」と、左手で俺の頬を包み込んだ。

「それでも、俺を父さんと呼んでくれて、ありがとう」

 本当、不器用なんだよな――。

ドアを開くと、一斉に湧いた蝉しぐれが世界を埋め尽くしていた。


家を出てからここに来るまでも騒がしい蝉たちだったが、綾瀬の森公園の蝉はその更に上をいくものだ。

こんなに静かな公園なのに、命に溢れている。

「よっ、鷹取」

「桜木さん……と翼さんまで。そうか。もう夏休みですか」

「なーによ、あたしの顔見た途端に表情が消えるってどういう事よ」

「ふたりとも、なんだかいきなり黒くなりました?」
 
桜木さんと翼さんは互いを見比べながら「そう?」と、ピンとこない顔をしている。

「あんたがインドア過ぎんのよ」

「わっ――」

翼さんの重い平手が右の二の腕に叩きつけられた。

ジンジンと痛む腕を押さえる俺の肩に、桜木さんの太い腕が回される。

この人の腕だけで、俺の首くらいありそうだ。

「今年は海行こうぜ。鷹取も海に入る。オッケー?」

「いやいや、無理です。僕、海は見る派です」

「何言ってんのよ。入ってみたら楽しいかもでしょ」

「そうそう。どうしても無理だったら、見てる派に戻って良いからさ」

「お祖父ちゃんも一緒に行って、またクリームソーダでも作ろうよ」

「またって事は一度経験済み? 良いなあ、楽しそう。じゃ、決まりな」

「てなわけで、とりあえず明後日の休みの日に! 今からお祖父ちゃんを誘いに、うたたねへ向かうぞー」

「違います、僕は今から仕事に行くんです」
 
勝手に盛り上がるふたりのお陰で、体感温度まで上がったような気がする。

 敦士君――

「え?」
 
思わず振り返った。

 翼――

「呼んだ?」
 
翼さんも辺りを見回して「気のせい?」と再び歩き出した。

まだ開店時間前。翼さんならともかく、お客さんまで連れてきてしまった。

シンさんは困るだろうか。
 
額に滲んだ汗をタオルハンカチで拭き、シャツの首元を摘まんでぱたぱたとはためかせながら、重い木製扉を開いた。

 カランコロン カラン

「あれ。お祖父ちゃん、いないじゃん。二階かな」 

カーテンは開けられていた。

ベルベットの重厚な紅いカーテンにはきちんと金のタッセルが巻かれ、夏の朝の木漏れ日が、埃ひとつ無いテーブルに小さな陽だまりを落とす。
 
空気の入れ替えのためキッチンの出窓も開けられ、店内はパッヘルベルのカノンが優しい音色を奏でていた。

「鷹取、そこの流しの横。置き手紙じゃね?」

桜木さんがカウンターに身を乗り出しながら、キッチンを指さした。

「あぁ、本当ですね」


少し上で休ませてもらいます。
お店の準備はいつもの通り。
もしお客さんが来たら、君のやり方で出迎えてください。
君なら大丈夫。僕は全てを教えたから。
もしよければ、翼にも手伝わせてやってくれ。
あの子は、今の大学を出たらこの店を手伝いたいそうなんだ。
急で申し訳ないけれど、宜しくね。


メモは丁寧で大きさの揃った、シンさんらしい文字で綴られていた。

「翼さん、この店を継ぐんですか」

「もうっ、お祖父ちゃんそんな事書いてたの? うわ、本当だ」
 
キッチンに入って来た翼さんが、メモを覗き見て肩をすくめた。

「この店は敦士君が継ぐんでしょ。だからあたしはお手伝い。あたしがマスターは無理だもん。正直、ほっとしたよね。お金の事とか難しいのわかんないし」

「ぶはっ、翼ちゃんっぽいね」
 
噴き出した桜木さんが、カウンター席に座った。

「じゃあ、未来のマスターとお手伝いさんに、美味しい珈琲を淹れてもらおうかなぁ」

「良いよ。今日はあたしが飛び切り美味しいのを淹れてあげる」
 
ふたりの笑い声が店内を幸せの色に満たしていく。

「あれ?」
 
いつもケンさんがいたテーブルに、指定席のカードが立てられていない。

 シンさん、忘れたのかな。
 
あれはいつもシンさんが置いていたものだ。

普段、どこに仕舞ってあるのだろう。
 
カウンター下の扉や、壁際の棚の引き出しをあちこち開いていると、コンロでお湯を沸かしていた翼さんが出窓の下を覗き込んで「おやおやあ?」と甘ったるい声を上げた。

「何してるんですか。お湯、沸いてますよ」

翼さんは「あぁ、ほんとだ」と火を止めると「こっちこっち」と、俺と桜木さんを手招きした。

「見て、ほら」
 
小さな出窓から、三人で押し合いながら顔を出す。

「どこ見てんのよ。下だってば」

なぜか俺だけ肩を引っ叩かれた。

「犬だ」

「犬ですね。でも――」

「右足無いね」

 あぁ、良かった。ふたりにも同じ姿で見えていたんだ。
 
安堵して「そうですね」と頷く。

「雑種だな。首輪も無いけど迷子かな」
 
桜木さんの言葉に、俺と翼さんの「なるほど」が揃った。

「じゃあ家を建ててあげないと」
 
唐突すぎる翼さんの提案にも関わらず、桜木さんが「承知」と勇ましく親指を立てた。

「なに勝手なことを」

俺が止める間もなく桜木さんは「ホームセンター行ってくるわ」と、店を出て行ってしまった。

翼さんも外へ出て犬の元へ駆け寄る。

俺も後を追ったが、犬は逃げるどころか嬉しそうだ。

途中で切れてしまっている短い足を浮かせたまま、残りの三本足でぎこちなく歩いて来た。

「シンさんにも相談しないと」

「大丈夫だって。お祖父ちゃん優しいし。お店の前でなら、飼い主さんが見つかるまでは許してくれるでしょ。ねー、ポチ」

「なんですか、ポチって」

「犬と言ったらポチよ」

「適当過ぎでしょ」

「良いの。愛情たーっぷりで飼うんだから」
 
翼さんは「ねーえ、ポチ」と、こげ茶色の雑種の顎を両手でわしわしと撫でてやった。

ポチも嬉しそうに尻尾を振る。

「あら、敦士君にも懐いてるじゃん」
 
しゃがんだ俺に体を擦り付けて右、左と繰り返した後、膝の下にすっぽりと体を丸めて納まった。

スニーカーのつま先に、ポチのお尻が乗っている。

その重みが可愛くて、思わずそのパサついた背中を撫でずにはいられなかった。

「この子はうちの看板娘だねぇ。女の子みたいだし」

撫でられながら、うっとりと目を細めるポチに、俺の声まで甘くとろけてしまう。

「犬ってこんなに可愛いんだなあ」

「へえ、敦士君。犬、好きなんだ。そんなデレデレな姿、意外だなあ」

「高塚さん――いや、えっとこれは」

慌てて立ち上がった俺の足元で、ポチが

「撫でてくれないの?」 

と円らな瞳で見上げてきて――俺はまただらしなく目を垂れさせて、さっきよりも更に愛おしく撫でてしまう。

「ところで、そろそろ開店かなと思って来たんだけど」

「あら、もうそんな時間か」

「すみません、すぐに準備します」
 
腕時計は九時十分。

「あたしはこの子を病院で診てもらおうかな。とりあえず首輪とリード買ってくるわ。ごめんね、いきなりお手伝いさん不在で。じゃ、またあとで」

「はい、宜しくお願いします」
 
翼さんの揺れるポニーテールを見送り、俺はポチの前にしゃがむ。

「今日からよろしくな」

【喫茶 うたたね】

ドアプレートを表に返し、

「どうぞ」
 
高塚さんが店に入る。

 シャンシャンシャン
 
今日もこの森には命が溢れている。
 
こうして鳴いている蝉たちもまた、懸命に命を輝かせて。

「シンさん、そろそろ起きてくるかな」
 
ふと見上げた二階のシンさんの部屋の窓が開いている。

夏の日差しを浴びた白いカーテンが、窓の外へとふわりふわりと大きくはためいていた。

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