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白い月と猫のうたた寝〜後編〜
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食事を終えて、子供達と葉子さん、美香さんは店の前でぽんすけと遊んでいます。
沙世ちゃんと奈子ちゃんが交代で投げるピンクのボールを、茶色い弾丸ことぽんすけが追いかけ、土手の草むらに突っ込み。
尻尾と白いお尻がもそもそうごめくのを見守り、ようやくボールをくわえて得意気に顔を出したぽんすけの体中がくっつき虫にまみれていたものですから、大きな笑い声がのどかな田舎の風景に響き渡り、食堂でお茶を淹れて一息吐いていた私たちの元にも聞こえてきました。
「楽しそうですね。奈子ちゃんは学校の友達と遊ぶことが無くて。うちに来る前からそうだったらしいんです。あんな風に子供同士で笑う姿は初めて見ました」
雅紀さんが窓の向こうに見える奈子ちゃんに目を細めます。
ぽんすけが「えー、なにこれ。取って取って」と眉をハの字にして耳も垂れさせて困り顔でお座りしています。
そんなぽんすけを囲んでみんなでくっつき虫を取ってやっているようです。
「ハルさん、びっくりしましたよね。いきなり家族が増えてるんですもん。しかも九歳の女の子。すみません、あまり奈子ちゃんの前では説明しづらくて」
申し訳なさそうに頭を下げ、顔を上げた佐野さんの表情は歪んでいて。
言葉にするのも辛いことなのだと言うのはすぐにわかりました。
「奈子ちゃんは、僕の遠い親戚から引き取った子なんです。それも僕が迎えに行った時に聞いた話だと、うちで四件目だって言ってました。その……」
奈子ちゃんたちは今度は田んぼの縁を歩きながら、何かを探すように歩き回っています。
ぽんすけの身体は、所々くっつき虫で茶色いまだら模様みたいになっています。
毛に絡まって取れなかったのでしょう。
本人も「まぁ良いか」と言った顔で皆の後に着いて行っています。
私たちの声など聞こえない距離ですが、それでも雅紀さんは声を抑えて話し始めました。
「奈子ちゃんは母親と一緒に暮らしていたらしいんですけど、その……いわゆるネグレクトで精神的な酷い虐待も受けていたそうなんです。ただ、その母親って言うのが見た目は凄く普通な人で、人当たりも良いそうなんです。だから中々周りからは気付かれなかったらしくて」
そこまで一気に話して、まるで息を止めていたのかと言うほどに苦しそうにゆっくりと深呼吸をしてから、心を落ち着けるように湯呑のお茶をひとくち。
同じ席に座る三島さんも神妙な面持ちで、じっと机を見つめています。
楽し気な声が聞こえてくれば来るほど、この話が心の中で暗い影となって、心臓や肺、内臓の隙間と言う隙間に入り込んでいくようで。私も胸が苦しくなります。
あの子がそんな苦しい生活を強いられてきたなんて。
窓辺を蝶が舞い、柔らかな風がお日様の匂いを運んでくる穏やかな時間。
私は今、どんな顔をしているでしょう。
悲しいのか、悔しいのか、または怒りか。
どれにしても一度落ち着かなきゃ。
私もお茶をひとくち。
今日はコーン茶を淹れてみました。甘みと香ばしさが合わさってとても美味しい。
ジュースにも代わるような、それくらい飲みごたえもあるような気がします。
「本当はもっと甘えて欲しいんですけど、なかなか。いつもどこか遠慮されているみたいで。美香さんには結構慣れてくれたみたいなんですけど、僕は仕事もあって夜しか帰らないからか、あんまり仲良くなれないんです」
人差し指でこつん、こつんと机を叩いた雅紀さんは、椅子の背に深くもたれかかり天井を仰ぎます。
「今まで色んな親戚の家をたらいまわしみたいにされてきたから警戒するのは仕方ないと思うんです。だからこそ、もっと子供らしくリラックスして生きて欲しいって思うんですよね。でもどうしたら良いのか。もどかしいです」
うんと両腕を伸ばして、ゆっくりと息を吐き「ぽんすけは相変らず何するにもフルパワーだなぁ」と肩を揺らして笑っています。
それまでじっと黙って聞いていた三島さんが「あの」と、言いにくそうに口を開きました。
「奈子ちゃんってどうしてあちこちを転々をしていたんですか?」
すぐに「すみません、立ち入った事を。無理に言わなくても良いんですけれど……」と胸の前で片手を振ります。
「母親がたちの悪い男と付き合っていて、奈子ちゃんの行くところ行くところに金の無心に来るそうなんです。家の前で座り込んだり、怒鳴ったり喚いたり、嫌がらせみたいにしつこく電話が来たり。母親も、子供のいないあんたらに私の子を貸してやってるんだからちょっとくらい貸してよって。実際、色んな理由で子供がいない家庭に引き取られてたんですよ。でもみんな耐えられなくなったみたいで」
「まぁうち来られたって、無い金は出せないって言ってやりますよ」
と恥ずかしそうに笑いながら頬を掻き「まぁそれは冗談ですけど」と続けます。
「あの子を引き取った時から、僕たちはもうあの子の家族のつもりなんです。本当の母親が心を入れ替えて、ちゃんと子育てするって言って来たら、その時は奈子ちゃんの気持ちを優先します。けど――」
背筋を伸ばし、両手を膝の上に乗せて姿勢を整えると、雅紀さんはまっすぐに奈子ちゃんに視線を向けます。
「それまでは僕も美香さんも奈子ちゃんの居場所になりたいんです。奈子ちゃんが望んでくれるなら、養子というのも考えてるんです。でも、どういう形であっても、絶対にあの子を守ります」
きっぱり言い切ると「でも、どうやったら仲良くなれるんですかねぇ。僕、実は嫌われちゃってるのかな」と苦笑しました。
「少なくとも、私からは嫌われているようには見えないですよ。ただ少し遠慮しているようには、見えなくもないですけれど……」
「ははっ。やっぱり、ですよね。僕ね、奈子ちゃんにお父さんって呼ばれたいわけじゃないんです。そりゃあ呼んでくれたらめちゃくちゃ嬉しいですけど、でも呼び方は何でもいんです。血の繋がった家族にはなれなくても、家族みたいにあの子が心を安らげる場所になりたいって思うんです。それは美香さんも同じなんです。彼女も子供が大好きですから。奈子ちゃんの話をした時も、美香さんが最初に家で引き取ろうって言ったんですよ」
すると「きゃーっ」と、土手の斜面を駆け下りる沙世ちゃんと葉子さんが見えます。
はしゃいで笑うふたりに続こうと斜面に足を伸ばす奈子ちゃん。
美香さんはその後ろで少し不安そうです。
「美香さん、高い所が苦手なんですよ。大丈夫かな」
心配そうに席を立った雅紀さん。ですが――
「あ、奈子ちゃんが」
思わず声に出した三島さんが指をさします。
少し戸惑いながら、恥ずかしそうにしながら。奈子ちゃんは美香さんの右手に、自分の左手を伸ばしました。
気付いた美香さんは少し驚いた表情をして、でも嬉しそうに奈子ちゃんの手を取って。
二人が斜面を駆け下りました。
下で見守っていたぽんすけも、その場でくるくる跳ね回りながら喜んでいます。
安心したように微笑み、再び席に腰を下ろした雅紀さんは湯呑に残ったコーン茶を飲み干し、ふぅ、と肩の力を抜くように息を吐きました。
「あの……僕思うんですけど。奈子ちゃんって本当は――」
三島さんが言いかけた時でした。
「おばさん、ただいまあ」
「あら、沙世ちゃん。奈子ちゃんも、美香さんもお帰りなさい」
「喉乾いたあ。お父さん、水筒ちょうだい」
三島さんたちの隣のテーブル席の座面に上半身だけのせた、うつ伏せ状態の沙世ちゃんが「あつぅい」と手足をばたつかせています。
「沙世ちゃん、奈子ちゃん。そろそろクッキー作ろうか」
水筒のお茶を勢いよく飲む沙世ちゃんは、ほっぺをリスのようにぱんぱんに膨らませたまま「んー!」と満面の笑みで頷きました。
「奈子ちゃん、あたしが押さえとくから頑張ってな」
「うん。クッキー、前にも作った事があるから出来ると思う」
ボウルを押さえる沙世ちゃんの小さな両手の上から、そっと私の手も添えます。
そこへ奈子ちゃんが、薄力粉をボウルに振るい入れるのです。
ボウルの大きさが少し足りなかったかもしれません。
慎重に慎重にと振るってくれたのに、ふわふわの粉はボウルの周りに粉雪のように散ってしまいました。
「あぁー……」奈子ちゃんが肩を落としたのを、沙世ちゃんが「大丈夫やって、ちょっとくらい」と満面の笑みで励まします。
「そうよ、大丈夫。ほんの少しだもの。寧ろ、おばさんがもう少し大きなボウルを用意しなきゃいけなかったの。気にしないで、ほら、続きやりましょう」
奈子ちゃんに声をかけると、気を取り直したように「うん」と残りの粉を振るいます。
すぐにコツを掴んだ奈子ちゃん。あっというまに、細かい薄力粉の粒子がボウルに白い山を作りました。
それにしても、この子は本当に四歳でしょうか。
私の娘はどうだっただろうと思い出しては、やっぱり沙世ちゃんの方がしっかりしていたんじゃないかと思い出し笑い。
娘は私に似て、もう少しぼーっとした子でした。
笑うと垂れ目が線になって、ちょっぴり太い眉とおっとりしている所は夫にそっくり。
いつも「お母さん、お母さん」と私の後を着いて回って。
よく転んでよく泣いて。
どこに行くにも、家の中ですら「どこー?」と探して回るような。
寂しがり屋で、小学二年生の夏頃までは、ひとりで眠るのも不安な子でした。
そう言えば、沙世ちゃんのお母さんは「おらんくなった」という事ですが、どういうことなのでしょう。
薄力粉とバター、卵、砂糖、牛乳のシンプルな生地と、ココアパウダーの二種類で生地を作り、冷蔵庫で休ませ。
葉子さんが買ってきてくださった猫ちゃんの型を抜いていくときは、二人とも本当に楽しそう。
まるで本当の姉妹みたいに、明るい沙世ちゃんと、沙世ちゃんの笑顔に釣られた自然な笑顔の奈子ちゃん。
オーブンで焼いたら、瞬く間に食堂は甘く幸せな香りに包まれます。
ふふっ、玄関にいるぽんすけも興味津々で鼻をふんふんと鳴らしていますよ。
「わぁ、可愛い」美香さんの歓声。
猫型のバニラクッキーを手のひらに取り、じっくり裏表と見てから口へ――。
「美味しい。凄く美味しいよ。奈子ちゃんがクッキー作りに詳しいなんて知らなかったなぁ。今度家でも作ろうよ。作り方教えて欲しいな。ほら私、料理あまり上手じゃ無いでしょ。上手に出来るかわからないけど頑張るから」
奈子ちゃんは頷きながらも、何か言いたげに口をもごつかせて――やっぱり諦めたようにクッキーを齧ります。
「奈子ちゃんと美香さんが作ってくれたら僕も嬉しいなぁ。奈子ちゃんもさ、家のなか、もっと自由に使って良いんだからね。自分の家なんだから」
雅紀さんが言うと、奈子ちゃんの視線はクッキーに向いたまま、小さく頷くだけです。
「なぁ、お外で食べへん?おばちゃん、良い?お店の前で食べるから。ほら、ぽんすけもおるし、ここから見えるし。あかん?」
「じゃあ父さんも一緒に――」
「あかーん。ふたりで食べたいのー。子供同士で~」
「えー、私も行きたいなぁ」
すかさず葉子さんが手を上げます。
「もー、葉子ちゃんは……良いよ。葉子ちゃん、子供みたいやし」
「うわっ、何それ。ひどーい。じゃ、ちょっと出てきますね。行こ、奈子ちゃんも」
再び静かになった店内。
土手の上に座っている子供達――と葉子さんの姿を見ながら、取り残された大人達でクッキーを頬張る事にしましょう。
「あの……僕、さっき言いかけたんですけど、奈子ちゃんの事なんです」
「ん?何でしょう」
雅紀さんがもう一つクッキーを取ろうとした手を止め、美香さんも不思議そうに三島さんを見つめます。
「本当は、お二人に呼び捨てにして欲しいんじゃないでしょうか」
そう言って「あ、いや。勘違いかもしれないんですけど」と慌てて両手を胸の前で振ります。
「呼び捨て?」雅紀さんが言うと
「あー……」と、何か思い当たる節でもあるのか、宙を見ながら美香さんが唸りました。
「多分、多分ですよ。奈子ちゃんは、美香さんには結構慣れてきていると思うんです。でも、お二人が彼女の名前を「奈子ちゃん」と呼ぶたびに、ちょっとだけ寂しそうな目をするんです」
寂しそうな目。
私の違和感も、もしかしたらそこだったのかもしれません。
「実は沙世は妻の連れ子で、二歳半の時に再婚しました。僕も最初は沙世とぎこちなかったんです。どう接して良いのかわからなくて。血も繋がらないのに、父親面もできないしって。でも三歳の時。幼稚園のお誕生日会で将来の夢を発表して。その時に言ったんです」
懐かしむように、嬉しそうに。
目を細めて後ろを振り返り、玄関の向こうに見える沙世ちゃん達に視線を向けます。
「大きくなったらケーキ屋さんになりたいです。お父さんがお菓子とケーキが好きだから、沙世が美味しいの作りますって。沙世がひとりでおままごとをやってる時に、僕がいつもケーキのおもちゃに美味しそうだなって言ってたかららしいんです。でね、その幼稚園のお誕生日会の時が初めてだったんですよ。お父さんって呼んで貰えたの。それまではずっと視線で訴えて来るか、ねぇ、と呼びかけられていましたから」
三島さんは「あぁ、駄目だ。思い出しただけで泣けてきます。その時も、他の保護者や先生がいる前でぼろぼろ泣いたんですけど」と、ポケットから出し藍色のハンカチで目尻を拭いました。
「で、最後に言われたんです。お父さんに沙世って呼んでほしいですって。沙世ちゃんって呼んでたんですよ、ずっと。その日、幼稚園から帰ってきて初めて沙世って呼んだとき、見たことないくらい嬉しい笑顔を見せてくれたんですよ」
「そういえば、奈子ちゃん。一度、買い物帰りに歩いている時にお母さんって呼んでくれた気がしたの。凄く小さな声だったけど、私ったら嬉しかったのに驚きが勝っちゃって上手く返事ができなくて……。それ以来は呼んでくれなくなったの。でも私からもう一度呼んでって言うのも無理強いな気がして言えなくて。本当は奈子ちゃんもしっくりこなくてお母さんって呼ぶの嫌になったんじゃないかって」
美香さんは「悪い事しちゃった」と不安そうに白い頬に手を当てて嘆息しました。
「きっと、佐野さんも奈子ちゃんも、それぞれが相手を思いやり過ぎてすれ違っているのかもしれませんね」
私が言うと、三島さんも「そう思います」と確信めいた口調で頷きました。
「相手の想いを知りたい時は、自分の想いを伝えるのが大事なのかもしれません。もしかしたらそれで衝突してしまうかもしれないけれど……言葉にしなくても伝わる事は確かにあります。でも、言葉にしないと伝わらない事も沢山あります」
玄関の向こうに見える沙世ちゃんと奈子ちゃん。葉子さんも隣に座って、3人並んでクッキーを食べています。
尻尾を振りながら3人の隣に並ぶぽんすけ。
相手を想うが故に心がすれ違ってしまうのは、悲しいことです。
「言葉にしなくても伝わるのは、相手の事を心底わかっている時だと思うんです。だから、無理強いさえしなければ。あの子が嫌な事は嫌だと言える余地さえ作って上げられれば、お二人が思う事は伝えても良いと思うんですよ」
それから、お二人は奈子ちゃんと話しをしてくると言って、土手でお話していました。
どんな会話になっているかわからないですが、三人の表情が少しずつほぐれていく様子と、奈子ちゃんの最後の笑顔に、心の底から良かったと思えました。
沙世ちゃんは相変らずお父さんには手厳しく、しっかり者のお姉さんです。
「お父さん、明日はお母さんの所いけるー?」
ぽんすけの前足の肉球をふにふにと触りながら沙世ちゃんが訊きます。
「あぁ、うん。そうやな。連休取ったし、明日はお見舞い行こか」
「お見舞いですか?」
カウンターで珈琲にお湯を注いでいた葉子さんの手元が狂って、カップの横に溢してしまいました。
「えぇ、半年前から入院してるんです。たまたま受けた人間ドッグで病気が見つかって」
「そうでしたか……」
葉子さんに布巾を手渡し、キッチンの丸椅子に腰かけます。
だから沙世ちゃんはこんなにもしっかりしているのかしら。
お母さんが入院してしまったから、私が頑張らないと、という事かもしれません。
「お父さんは、お母さんがおらんくなってからすぐ泣くもんなぁ」
玄関横の小さな手洗い場で手を洗った沙世ちゃんは、とととっとお父さんの元に駆け寄ると椅子を隣に付け、靴を脱いで椅子に昇りました。
お父さんの頬を小さな両手でぎゅっと力を込めて挟み込んだせいで、三島さんはひょっとこみたいな口になってしまいました。
「いやいや、ないひぇないひょ」――泣いてないよ、でしょうか。
「お父さん、寝ながら泣いてるで。あたし、この前見たもん」
「うそやん」
「ほんまやー。この泣きむしめぇ。しっかりしなさーい。お父さんでしょお」
頬を挟む手に更に力が入って、最早、三島さんが何と言っているのか聞き取れません。
「ごめん、ごめん。そんなつもりなかったんだけどなぁ」
やっと解放された三島さんは、頬を撫でながら恥ずかしそうに言います。
椅子から降りた沙世ちゃんは、今度は窓へと駆けて行き、外を見ようとぴょんぴょん跳ねます。
「お父さん、抱っこしてー」
「はいはい。ほら、よいしょっ」
ふくらみのある三島さんのお腹に座るようにして抱きかかえられた沙世ちゃんは、空を指さします。
村の方角の空をまっすぐ、小さな指で。
「見て、白いお月様ぁ。お昼やのにお月様出てるなぁ」
「ほんまやな。ん?沙世、ポケットに何か入ってるで」
「あぁっ、もうあかんのっ。それは――」
スカートのポケットに入っている三島さんの手をしきりにぺちぺちと叩く沙世ちゃん。
「なんでポケットにクッキー入れてんの」
出てきたのは、さっきのうたた寝ポーズの白猫クッキーです。
「だあってぇ」
ふいっと三島さんから視線を逸らし、再び澄み渡る水色の空に浮かんだ白い月に顔を向けました。
だけどその声は震えているように聞こえて。
沙世ちゃんの横顔を見た三島さんは、そっと沙世ちゃんの背中を撫でます。
「おかあさんに、あげたいんやもん。おかあさん、ごはん……ぜんぜん食べれてな……い、からあ」
そこまで言って、三島さんの胸元に視線を落とした沙世ちゃんの横顔はみるみるくしゃくしゃになってしまい……。
「あああぁあ……うあああぁん」
沙世ちゃんは泣きながら、三島さんの胸に顔を埋めて。
お父さんのセーターを小さな手でぎゅっと握ってしゃくりあげる姿は、やっぱりまだ四歳の小さな女の子の姿でした。
「ん~、今年初の柚子ですねぇ。美味しいっ」
柚子大根をぽりぽりと噛みしめた葉子さんは、大きな口にご飯を放り込みます。
玉ねぎと油揚げのお味噌汁を飲んで「はあ」と、語尾にハートマークでも付いていそうな声を上げました。
外はすっかり陽も落ちた今、村はぽつりぽつりと灯りが見えますが、そこへ繋がるこの食堂の前の通りは真っ暗の闇です。
リィリィリィ
涼し気な秋の虫の声が降りしきる夜の時間。
ふたり向かい合って夕飯を食べる時間も幸せなものです。
「最近、ハルさんちょっと元気ないですよね」
イワシの梅煮にかぶりつきながら葉子さんが言います。
「そうですか?」
「今までのハルさんなら、悩んでいるお客さんにすぐ寄り添って、的確なアドバイスまで言えて、お客さんも随分と救われた様子で帰って行ってって感じだったじゃないですか」
的確……だったでしょうか。本当にそうであれば良いのですけれど。
「近頃のハルさんは何だか少しためらってるように見えます。迷ってるような、不安そうって言うか……。わかんないですけど」
イワシを三尾食べて一度箸を置くと、葉子さんはまっすぐ私を見つめました。
「理由はわかんないですけど。私はずっとここにいますから。ハルさんに出て行けって言われるまで……いや、言われてもいますから。大丈夫です、きっと。ここは、私の居場所でもあって、ハルさんの居場所でもあるんです。あ、もちろん、ぽんすけも。ハルさんは絶対にひとりになんてならないです。だから大丈夫です」
きっぱりと言い切った葉子さんは満足気に
「むかごの天ぷら美味しかったですよ。白井さん、凄いですよねぇ。明日はむかごご飯も良いですよね。ほら、食べて。じゃないと私がぜーんぶ食べちゃいますよ」
と、大皿に乗せたむかごの天ぷらをひょいひょいと自分のお皿に移していきます。
娘と夫が生きていれば、私はここにはいなかった。
きっと今頃は、三人で食卓を囲んでいたかもしれない。
大きくなって手も離れた娘は、もう食後の団欒には参加せずに部屋で恋人や友人と電話をしたりしていたかもしれない。
そして、私と夫はふたりでゆっくりお茶を飲んで、お喋りをしていたかもしれない。お互い白髪も皺も増えたね、なんて笑いながら。
どこか三人で温泉でも行きたいね、なんて予定を立ててみたりしたかもしれない。
かもしれない、を考えれば切りがなくて。
決して叶わない夢と願望だけの妄想は際限なく広がっては、泡沫となって消えていく。
一度は独りぼっちになった私。
だけどタツ子さんが傍にいてくれて、今はこうして葉子さんやぽんすけが傍にいてくれている。
村の方々もお客様も優しい方ばかり。
「私は、本当は凄く恵まれているのかもしれない」
夢中で天ぷらを食べていた葉子さん。
しかも、絶妙なタイミングのぽんすけのくしゃみにかき消された言葉は気付かれなかったようです。
「葉子さん、ありがとうございます」
悲しかったけれど。今も悲しみは消えないけれど。
それでも私はちゃんと幸せも感じながら生きている。
ふと、部屋の壁際にある振袖を思い出して、胸にちくりと痛みが走り。
それでもここにある幸せを一生忘れないでいようと誓い、田舎味噌のお味噌汁を飲みました。
甘く、優しい温もりのお味噌汁が胸の内にじわりと広がって。
目頭が熱くなって、視界がゆらりと揺れたのは、葉子さんにもぽんすけにも秘密です。
沙世ちゃんと奈子ちゃんが交代で投げるピンクのボールを、茶色い弾丸ことぽんすけが追いかけ、土手の草むらに突っ込み。
尻尾と白いお尻がもそもそうごめくのを見守り、ようやくボールをくわえて得意気に顔を出したぽんすけの体中がくっつき虫にまみれていたものですから、大きな笑い声がのどかな田舎の風景に響き渡り、食堂でお茶を淹れて一息吐いていた私たちの元にも聞こえてきました。
「楽しそうですね。奈子ちゃんは学校の友達と遊ぶことが無くて。うちに来る前からそうだったらしいんです。あんな風に子供同士で笑う姿は初めて見ました」
雅紀さんが窓の向こうに見える奈子ちゃんに目を細めます。
ぽんすけが「えー、なにこれ。取って取って」と眉をハの字にして耳も垂れさせて困り顔でお座りしています。
そんなぽんすけを囲んでみんなでくっつき虫を取ってやっているようです。
「ハルさん、びっくりしましたよね。いきなり家族が増えてるんですもん。しかも九歳の女の子。すみません、あまり奈子ちゃんの前では説明しづらくて」
申し訳なさそうに頭を下げ、顔を上げた佐野さんの表情は歪んでいて。
言葉にするのも辛いことなのだと言うのはすぐにわかりました。
「奈子ちゃんは、僕の遠い親戚から引き取った子なんです。それも僕が迎えに行った時に聞いた話だと、うちで四件目だって言ってました。その……」
奈子ちゃんたちは今度は田んぼの縁を歩きながら、何かを探すように歩き回っています。
ぽんすけの身体は、所々くっつき虫で茶色いまだら模様みたいになっています。
毛に絡まって取れなかったのでしょう。
本人も「まぁ良いか」と言った顔で皆の後に着いて行っています。
私たちの声など聞こえない距離ですが、それでも雅紀さんは声を抑えて話し始めました。
「奈子ちゃんは母親と一緒に暮らしていたらしいんですけど、その……いわゆるネグレクトで精神的な酷い虐待も受けていたそうなんです。ただ、その母親って言うのが見た目は凄く普通な人で、人当たりも良いそうなんです。だから中々周りからは気付かれなかったらしくて」
そこまで一気に話して、まるで息を止めていたのかと言うほどに苦しそうにゆっくりと深呼吸をしてから、心を落ち着けるように湯呑のお茶をひとくち。
同じ席に座る三島さんも神妙な面持ちで、じっと机を見つめています。
楽し気な声が聞こえてくれば来るほど、この話が心の中で暗い影となって、心臓や肺、内臓の隙間と言う隙間に入り込んでいくようで。私も胸が苦しくなります。
あの子がそんな苦しい生活を強いられてきたなんて。
窓辺を蝶が舞い、柔らかな風がお日様の匂いを運んでくる穏やかな時間。
私は今、どんな顔をしているでしょう。
悲しいのか、悔しいのか、または怒りか。
どれにしても一度落ち着かなきゃ。
私もお茶をひとくち。
今日はコーン茶を淹れてみました。甘みと香ばしさが合わさってとても美味しい。
ジュースにも代わるような、それくらい飲みごたえもあるような気がします。
「本当はもっと甘えて欲しいんですけど、なかなか。いつもどこか遠慮されているみたいで。美香さんには結構慣れてくれたみたいなんですけど、僕は仕事もあって夜しか帰らないからか、あんまり仲良くなれないんです」
人差し指でこつん、こつんと机を叩いた雅紀さんは、椅子の背に深くもたれかかり天井を仰ぎます。
「今まで色んな親戚の家をたらいまわしみたいにされてきたから警戒するのは仕方ないと思うんです。だからこそ、もっと子供らしくリラックスして生きて欲しいって思うんですよね。でもどうしたら良いのか。もどかしいです」
うんと両腕を伸ばして、ゆっくりと息を吐き「ぽんすけは相変らず何するにもフルパワーだなぁ」と肩を揺らして笑っています。
それまでじっと黙って聞いていた三島さんが「あの」と、言いにくそうに口を開きました。
「奈子ちゃんってどうしてあちこちを転々をしていたんですか?」
すぐに「すみません、立ち入った事を。無理に言わなくても良いんですけれど……」と胸の前で片手を振ります。
「母親がたちの悪い男と付き合っていて、奈子ちゃんの行くところ行くところに金の無心に来るそうなんです。家の前で座り込んだり、怒鳴ったり喚いたり、嫌がらせみたいにしつこく電話が来たり。母親も、子供のいないあんたらに私の子を貸してやってるんだからちょっとくらい貸してよって。実際、色んな理由で子供がいない家庭に引き取られてたんですよ。でもみんな耐えられなくなったみたいで」
「まぁうち来られたって、無い金は出せないって言ってやりますよ」
と恥ずかしそうに笑いながら頬を掻き「まぁそれは冗談ですけど」と続けます。
「あの子を引き取った時から、僕たちはもうあの子の家族のつもりなんです。本当の母親が心を入れ替えて、ちゃんと子育てするって言って来たら、その時は奈子ちゃんの気持ちを優先します。けど――」
背筋を伸ばし、両手を膝の上に乗せて姿勢を整えると、雅紀さんはまっすぐに奈子ちゃんに視線を向けます。
「それまでは僕も美香さんも奈子ちゃんの居場所になりたいんです。奈子ちゃんが望んでくれるなら、養子というのも考えてるんです。でも、どういう形であっても、絶対にあの子を守ります」
きっぱり言い切ると「でも、どうやったら仲良くなれるんですかねぇ。僕、実は嫌われちゃってるのかな」と苦笑しました。
「少なくとも、私からは嫌われているようには見えないですよ。ただ少し遠慮しているようには、見えなくもないですけれど……」
「ははっ。やっぱり、ですよね。僕ね、奈子ちゃんにお父さんって呼ばれたいわけじゃないんです。そりゃあ呼んでくれたらめちゃくちゃ嬉しいですけど、でも呼び方は何でもいんです。血の繋がった家族にはなれなくても、家族みたいにあの子が心を安らげる場所になりたいって思うんです。それは美香さんも同じなんです。彼女も子供が大好きですから。奈子ちゃんの話をした時も、美香さんが最初に家で引き取ろうって言ったんですよ」
すると「きゃーっ」と、土手の斜面を駆け下りる沙世ちゃんと葉子さんが見えます。
はしゃいで笑うふたりに続こうと斜面に足を伸ばす奈子ちゃん。
美香さんはその後ろで少し不安そうです。
「美香さん、高い所が苦手なんですよ。大丈夫かな」
心配そうに席を立った雅紀さん。ですが――
「あ、奈子ちゃんが」
思わず声に出した三島さんが指をさします。
少し戸惑いながら、恥ずかしそうにしながら。奈子ちゃんは美香さんの右手に、自分の左手を伸ばしました。
気付いた美香さんは少し驚いた表情をして、でも嬉しそうに奈子ちゃんの手を取って。
二人が斜面を駆け下りました。
下で見守っていたぽんすけも、その場でくるくる跳ね回りながら喜んでいます。
安心したように微笑み、再び席に腰を下ろした雅紀さんは湯呑に残ったコーン茶を飲み干し、ふぅ、と肩の力を抜くように息を吐きました。
「あの……僕思うんですけど。奈子ちゃんって本当は――」
三島さんが言いかけた時でした。
「おばさん、ただいまあ」
「あら、沙世ちゃん。奈子ちゃんも、美香さんもお帰りなさい」
「喉乾いたあ。お父さん、水筒ちょうだい」
三島さんたちの隣のテーブル席の座面に上半身だけのせた、うつ伏せ状態の沙世ちゃんが「あつぅい」と手足をばたつかせています。
「沙世ちゃん、奈子ちゃん。そろそろクッキー作ろうか」
水筒のお茶を勢いよく飲む沙世ちゃんは、ほっぺをリスのようにぱんぱんに膨らませたまま「んー!」と満面の笑みで頷きました。
「奈子ちゃん、あたしが押さえとくから頑張ってな」
「うん。クッキー、前にも作った事があるから出来ると思う」
ボウルを押さえる沙世ちゃんの小さな両手の上から、そっと私の手も添えます。
そこへ奈子ちゃんが、薄力粉をボウルに振るい入れるのです。
ボウルの大きさが少し足りなかったかもしれません。
慎重に慎重にと振るってくれたのに、ふわふわの粉はボウルの周りに粉雪のように散ってしまいました。
「あぁー……」奈子ちゃんが肩を落としたのを、沙世ちゃんが「大丈夫やって、ちょっとくらい」と満面の笑みで励まします。
「そうよ、大丈夫。ほんの少しだもの。寧ろ、おばさんがもう少し大きなボウルを用意しなきゃいけなかったの。気にしないで、ほら、続きやりましょう」
奈子ちゃんに声をかけると、気を取り直したように「うん」と残りの粉を振るいます。
すぐにコツを掴んだ奈子ちゃん。あっというまに、細かい薄力粉の粒子がボウルに白い山を作りました。
それにしても、この子は本当に四歳でしょうか。
私の娘はどうだっただろうと思い出しては、やっぱり沙世ちゃんの方がしっかりしていたんじゃないかと思い出し笑い。
娘は私に似て、もう少しぼーっとした子でした。
笑うと垂れ目が線になって、ちょっぴり太い眉とおっとりしている所は夫にそっくり。
いつも「お母さん、お母さん」と私の後を着いて回って。
よく転んでよく泣いて。
どこに行くにも、家の中ですら「どこー?」と探して回るような。
寂しがり屋で、小学二年生の夏頃までは、ひとりで眠るのも不安な子でした。
そう言えば、沙世ちゃんのお母さんは「おらんくなった」という事ですが、どういうことなのでしょう。
薄力粉とバター、卵、砂糖、牛乳のシンプルな生地と、ココアパウダーの二種類で生地を作り、冷蔵庫で休ませ。
葉子さんが買ってきてくださった猫ちゃんの型を抜いていくときは、二人とも本当に楽しそう。
まるで本当の姉妹みたいに、明るい沙世ちゃんと、沙世ちゃんの笑顔に釣られた自然な笑顔の奈子ちゃん。
オーブンで焼いたら、瞬く間に食堂は甘く幸せな香りに包まれます。
ふふっ、玄関にいるぽんすけも興味津々で鼻をふんふんと鳴らしていますよ。
「わぁ、可愛い」美香さんの歓声。
猫型のバニラクッキーを手のひらに取り、じっくり裏表と見てから口へ――。
「美味しい。凄く美味しいよ。奈子ちゃんがクッキー作りに詳しいなんて知らなかったなぁ。今度家でも作ろうよ。作り方教えて欲しいな。ほら私、料理あまり上手じゃ無いでしょ。上手に出来るかわからないけど頑張るから」
奈子ちゃんは頷きながらも、何か言いたげに口をもごつかせて――やっぱり諦めたようにクッキーを齧ります。
「奈子ちゃんと美香さんが作ってくれたら僕も嬉しいなぁ。奈子ちゃんもさ、家のなか、もっと自由に使って良いんだからね。自分の家なんだから」
雅紀さんが言うと、奈子ちゃんの視線はクッキーに向いたまま、小さく頷くだけです。
「なぁ、お外で食べへん?おばちゃん、良い?お店の前で食べるから。ほら、ぽんすけもおるし、ここから見えるし。あかん?」
「じゃあ父さんも一緒に――」
「あかーん。ふたりで食べたいのー。子供同士で~」
「えー、私も行きたいなぁ」
すかさず葉子さんが手を上げます。
「もー、葉子ちゃんは……良いよ。葉子ちゃん、子供みたいやし」
「うわっ、何それ。ひどーい。じゃ、ちょっと出てきますね。行こ、奈子ちゃんも」
再び静かになった店内。
土手の上に座っている子供達――と葉子さんの姿を見ながら、取り残された大人達でクッキーを頬張る事にしましょう。
「あの……僕、さっき言いかけたんですけど、奈子ちゃんの事なんです」
「ん?何でしょう」
雅紀さんがもう一つクッキーを取ろうとした手を止め、美香さんも不思議そうに三島さんを見つめます。
「本当は、お二人に呼び捨てにして欲しいんじゃないでしょうか」
そう言って「あ、いや。勘違いかもしれないんですけど」と慌てて両手を胸の前で振ります。
「呼び捨て?」雅紀さんが言うと
「あー……」と、何か思い当たる節でもあるのか、宙を見ながら美香さんが唸りました。
「多分、多分ですよ。奈子ちゃんは、美香さんには結構慣れてきていると思うんです。でも、お二人が彼女の名前を「奈子ちゃん」と呼ぶたびに、ちょっとだけ寂しそうな目をするんです」
寂しそうな目。
私の違和感も、もしかしたらそこだったのかもしれません。
「実は沙世は妻の連れ子で、二歳半の時に再婚しました。僕も最初は沙世とぎこちなかったんです。どう接して良いのかわからなくて。血も繋がらないのに、父親面もできないしって。でも三歳の時。幼稚園のお誕生日会で将来の夢を発表して。その時に言ったんです」
懐かしむように、嬉しそうに。
目を細めて後ろを振り返り、玄関の向こうに見える沙世ちゃん達に視線を向けます。
「大きくなったらケーキ屋さんになりたいです。お父さんがお菓子とケーキが好きだから、沙世が美味しいの作りますって。沙世がひとりでおままごとをやってる時に、僕がいつもケーキのおもちゃに美味しそうだなって言ってたかららしいんです。でね、その幼稚園のお誕生日会の時が初めてだったんですよ。お父さんって呼んで貰えたの。それまではずっと視線で訴えて来るか、ねぇ、と呼びかけられていましたから」
三島さんは「あぁ、駄目だ。思い出しただけで泣けてきます。その時も、他の保護者や先生がいる前でぼろぼろ泣いたんですけど」と、ポケットから出し藍色のハンカチで目尻を拭いました。
「で、最後に言われたんです。お父さんに沙世って呼んでほしいですって。沙世ちゃんって呼んでたんですよ、ずっと。その日、幼稚園から帰ってきて初めて沙世って呼んだとき、見たことないくらい嬉しい笑顔を見せてくれたんですよ」
「そういえば、奈子ちゃん。一度、買い物帰りに歩いている時にお母さんって呼んでくれた気がしたの。凄く小さな声だったけど、私ったら嬉しかったのに驚きが勝っちゃって上手く返事ができなくて……。それ以来は呼んでくれなくなったの。でも私からもう一度呼んでって言うのも無理強いな気がして言えなくて。本当は奈子ちゃんもしっくりこなくてお母さんって呼ぶの嫌になったんじゃないかって」
美香さんは「悪い事しちゃった」と不安そうに白い頬に手を当てて嘆息しました。
「きっと、佐野さんも奈子ちゃんも、それぞれが相手を思いやり過ぎてすれ違っているのかもしれませんね」
私が言うと、三島さんも「そう思います」と確信めいた口調で頷きました。
「相手の想いを知りたい時は、自分の想いを伝えるのが大事なのかもしれません。もしかしたらそれで衝突してしまうかもしれないけれど……言葉にしなくても伝わる事は確かにあります。でも、言葉にしないと伝わらない事も沢山あります」
玄関の向こうに見える沙世ちゃんと奈子ちゃん。葉子さんも隣に座って、3人並んでクッキーを食べています。
尻尾を振りながら3人の隣に並ぶぽんすけ。
相手を想うが故に心がすれ違ってしまうのは、悲しいことです。
「言葉にしなくても伝わるのは、相手の事を心底わかっている時だと思うんです。だから、無理強いさえしなければ。あの子が嫌な事は嫌だと言える余地さえ作って上げられれば、お二人が思う事は伝えても良いと思うんですよ」
それから、お二人は奈子ちゃんと話しをしてくると言って、土手でお話していました。
どんな会話になっているかわからないですが、三人の表情が少しずつほぐれていく様子と、奈子ちゃんの最後の笑顔に、心の底から良かったと思えました。
沙世ちゃんは相変らずお父さんには手厳しく、しっかり者のお姉さんです。
「お父さん、明日はお母さんの所いけるー?」
ぽんすけの前足の肉球をふにふにと触りながら沙世ちゃんが訊きます。
「あぁ、うん。そうやな。連休取ったし、明日はお見舞い行こか」
「お見舞いですか?」
カウンターで珈琲にお湯を注いでいた葉子さんの手元が狂って、カップの横に溢してしまいました。
「えぇ、半年前から入院してるんです。たまたま受けた人間ドッグで病気が見つかって」
「そうでしたか……」
葉子さんに布巾を手渡し、キッチンの丸椅子に腰かけます。
だから沙世ちゃんはこんなにもしっかりしているのかしら。
お母さんが入院してしまったから、私が頑張らないと、という事かもしれません。
「お父さんは、お母さんがおらんくなってからすぐ泣くもんなぁ」
玄関横の小さな手洗い場で手を洗った沙世ちゃんは、とととっとお父さんの元に駆け寄ると椅子を隣に付け、靴を脱いで椅子に昇りました。
お父さんの頬を小さな両手でぎゅっと力を込めて挟み込んだせいで、三島さんはひょっとこみたいな口になってしまいました。
「いやいや、ないひぇないひょ」――泣いてないよ、でしょうか。
「お父さん、寝ながら泣いてるで。あたし、この前見たもん」
「うそやん」
「ほんまやー。この泣きむしめぇ。しっかりしなさーい。お父さんでしょお」
頬を挟む手に更に力が入って、最早、三島さんが何と言っているのか聞き取れません。
「ごめん、ごめん。そんなつもりなかったんだけどなぁ」
やっと解放された三島さんは、頬を撫でながら恥ずかしそうに言います。
椅子から降りた沙世ちゃんは、今度は窓へと駆けて行き、外を見ようとぴょんぴょん跳ねます。
「お父さん、抱っこしてー」
「はいはい。ほら、よいしょっ」
ふくらみのある三島さんのお腹に座るようにして抱きかかえられた沙世ちゃんは、空を指さします。
村の方角の空をまっすぐ、小さな指で。
「見て、白いお月様ぁ。お昼やのにお月様出てるなぁ」
「ほんまやな。ん?沙世、ポケットに何か入ってるで」
「あぁっ、もうあかんのっ。それは――」
スカートのポケットに入っている三島さんの手をしきりにぺちぺちと叩く沙世ちゃん。
「なんでポケットにクッキー入れてんの」
出てきたのは、さっきのうたた寝ポーズの白猫クッキーです。
「だあってぇ」
ふいっと三島さんから視線を逸らし、再び澄み渡る水色の空に浮かんだ白い月に顔を向けました。
だけどその声は震えているように聞こえて。
沙世ちゃんの横顔を見た三島さんは、そっと沙世ちゃんの背中を撫でます。
「おかあさんに、あげたいんやもん。おかあさん、ごはん……ぜんぜん食べれてな……い、からあ」
そこまで言って、三島さんの胸元に視線を落とした沙世ちゃんの横顔はみるみるくしゃくしゃになってしまい……。
「あああぁあ……うあああぁん」
沙世ちゃんは泣きながら、三島さんの胸に顔を埋めて。
お父さんのセーターを小さな手でぎゅっと握ってしゃくりあげる姿は、やっぱりまだ四歳の小さな女の子の姿でした。
「ん~、今年初の柚子ですねぇ。美味しいっ」
柚子大根をぽりぽりと噛みしめた葉子さんは、大きな口にご飯を放り込みます。
玉ねぎと油揚げのお味噌汁を飲んで「はあ」と、語尾にハートマークでも付いていそうな声を上げました。
外はすっかり陽も落ちた今、村はぽつりぽつりと灯りが見えますが、そこへ繋がるこの食堂の前の通りは真っ暗の闇です。
リィリィリィ
涼し気な秋の虫の声が降りしきる夜の時間。
ふたり向かい合って夕飯を食べる時間も幸せなものです。
「最近、ハルさんちょっと元気ないですよね」
イワシの梅煮にかぶりつきながら葉子さんが言います。
「そうですか?」
「今までのハルさんなら、悩んでいるお客さんにすぐ寄り添って、的確なアドバイスまで言えて、お客さんも随分と救われた様子で帰って行ってって感じだったじゃないですか」
的確……だったでしょうか。本当にそうであれば良いのですけれど。
「近頃のハルさんは何だか少しためらってるように見えます。迷ってるような、不安そうって言うか……。わかんないですけど」
イワシを三尾食べて一度箸を置くと、葉子さんはまっすぐ私を見つめました。
「理由はわかんないですけど。私はずっとここにいますから。ハルさんに出て行けって言われるまで……いや、言われてもいますから。大丈夫です、きっと。ここは、私の居場所でもあって、ハルさんの居場所でもあるんです。あ、もちろん、ぽんすけも。ハルさんは絶対にひとりになんてならないです。だから大丈夫です」
きっぱりと言い切った葉子さんは満足気に
「むかごの天ぷら美味しかったですよ。白井さん、凄いですよねぇ。明日はむかごご飯も良いですよね。ほら、食べて。じゃないと私がぜーんぶ食べちゃいますよ」
と、大皿に乗せたむかごの天ぷらをひょいひょいと自分のお皿に移していきます。
娘と夫が生きていれば、私はここにはいなかった。
きっと今頃は、三人で食卓を囲んでいたかもしれない。
大きくなって手も離れた娘は、もう食後の団欒には参加せずに部屋で恋人や友人と電話をしたりしていたかもしれない。
そして、私と夫はふたりでゆっくりお茶を飲んで、お喋りをしていたかもしれない。お互い白髪も皺も増えたね、なんて笑いながら。
どこか三人で温泉でも行きたいね、なんて予定を立ててみたりしたかもしれない。
かもしれない、を考えれば切りがなくて。
決して叶わない夢と願望だけの妄想は際限なく広がっては、泡沫となって消えていく。
一度は独りぼっちになった私。
だけどタツ子さんが傍にいてくれて、今はこうして葉子さんやぽんすけが傍にいてくれている。
村の方々もお客様も優しい方ばかり。
「私は、本当は凄く恵まれているのかもしれない」
夢中で天ぷらを食べていた葉子さん。
しかも、絶妙なタイミングのぽんすけのくしゃみにかき消された言葉は気付かれなかったようです。
「葉子さん、ありがとうございます」
悲しかったけれど。今も悲しみは消えないけれど。
それでも私はちゃんと幸せも感じながら生きている。
ふと、部屋の壁際にある振袖を思い出して、胸にちくりと痛みが走り。
それでもここにある幸せを一生忘れないでいようと誓い、田舎味噌のお味噌汁を飲みました。
甘く、優しい温もりのお味噌汁が胸の内にじわりと広がって。
目頭が熱くなって、視界がゆらりと揺れたのは、葉子さんにもぽんすけにも秘密です。
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