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晩秋の空を翔ける白銀

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 珈琲豆にお湯をたらりと注ぎ入れ、ぷっくり膨らんで。

 耳をすませば珈琲豆がもこもこと膨らむ音と、カップに珈琲が落ちていく音が。

 静謐な朝の風がさらりと窓辺のカーテンを揺らし、瑞々しさを含んだ冷えた空気が食堂を満たしていく。
 
 やがて珈琲から昇る芳醇な香りが私の鼻孔をくすぐり。

 いつもキッチンの窓辺に置いてある丸椅子に腰かけて、珈琲を口に含む。

 温かい苦味が喉を伝って――至福のため息が漏れる。
 
 今日も一日が始まります。


「白菜が美味しい季節ですよねぇ。それにしても立派」
 
 葉子さんは、白菜を重そうに両手で掲げました。

 ずっしりとして、厚みのある白菜です。

「へへっ、良いでしょ。両親も、今年は良く出来たって大喜びでしたから。自信作です」

「いつもありがとうございます。佐野さんのお野菜、とっても美味しいってお客様も喜んでくださるんですよ」

 白菜を四分の一に切り、葉を外して一枚一枚丁寧に洗っていきます。

 今日は白菜とネギを使いましょう。太くて甘そうなネギも持って来てくださったんですよ。

 ごま油で豚肉、人参、玉ねぎ、白菜の芯を炒めましょう。

 固い野菜たちにある程度火が通ったら、椎茸、そして白菜の葉の部分です。

 そこに鰹ベースのお出汁を入れて、みりん、醤油を加えていきます。
 
 茹でたうずらの卵も入れてしばらく煮たら、水溶き片栗粉でとろみをつけましょう。
 
 味を見て、薄ければお塩を少々。

 とろりとした餡の中に、お野菜の甘味とお肉の旨味がたっぷり閉じ込められた、うま煮の完成です。
 
 土鍋で蒸らしておいたご飯もそろそろ良い具合でしょう。

 あぁ、蓋を開けたら、もわりと立ち上る新米の香りがたまりませんね。

 あら、木ノ下さん。いらっしゃいませ」
 
 時刻は十一時半を過ぎた頃。

 今か今かとお料理を待ってくださっている佐野さんのおにぎりに使うおかかを用意していると、駅員の木ノ下拓海さんがいらっしゃいました。

「やっほーでーす、私もいますよぉ」
 
 木ノ下さんの後ろからひょっこり顔を出したのは、栗原まどかさんです。

 ぽんすけが嬉しそうに尻尾を振りながら足元で見上げています。

「珍しい組み合わせですね。葉子さん、お茶お願いします――って、どうしました?」
 
 こんがりと焼き目の付いた太ネギを皿に盛り付けていた葉子さんの手が止まっています。

 と言うより、微妙に震えているような。視線はお二人に釘付け状態で茫然としています。

「な、な……」
 
 かちゃん、と菜箸を置き、鰹節を乗せて、お醤油を垂らして。

 無言のまま、焼きネギをきちんとお盆に乗せた葉子さんは、お茶を淹れる為のお湯をコンロに掛け――

「ほらー、裏切ったああ」

「えぇーっ、なになに」
 
 まどかさんも木ノ下さんもパニックです。

 佐野さんは訳も分からないまま、私と目を合わせています。
 
 でもなぜかぽんすけは嬉しそうに、玄関前で飛び跳ねてくるくる回っていました。

「ほんとに?」
 
 食器を洗いながら、葉子さんは疑いの目で口を尖らしています。

 まるで拗ねた子供みたいで面白いです。

「ほんとですー。葉子さん、私を甘くみないでくださいー。ネギ美味しい!とろとろであまぁい」

「白菜と豚肉のも美味しいですよ。あとでおかわりしても良いですか?」

「もちろんですよ」
 
 お仕事のお昼休みに来てくださった木ノ下さんは、大きな口で良い食べっぷりです。

「嬉しいなぁ。美味しいって食べて貰える姿が見られるって、農家にとってこれ以上幸せな事無いですよ。明日からも頑張れます」
 
 隣のテーブルの佐野さんが、満面に笑みを浮かべておにぎりを頬張ります。

「独身同盟組んでおいて誘った方がさっさと脱退するって、その通りになったかと思ったじゃないですか。でもお二人とも歳近いし、あり得るっちゃあり得る展開」
 
 葉子さんは言葉とはうらはらにどこか楽しんでいるようです。

 にやにやと口の端を上げ、見透かそうとでもするような表情です。

「なーに言ってんですか。見てくださいよ、ほら。これこれ」
 
 まどかさんは、おにぎりを持つ木ノ下さんの右手に視線を送ります。

「ん?あ。あーっ、何ですかその薬指に光るのはっ。木ノ下さん、いつの間にそんなっ」

「あはは。いやぁ、わざわざ報告するのも恥ずかしくて。ほら、何年か前に良い感じの相手が出来たからって早々に報告しておいて、駄目になって恥ずかしい思いしましたから」
 
 今度のお相手は、昨年の冬に地元に帰った時に再開した幼馴染なのだとか。

 お相手の方とは高校卒業以来の再会だったそうで、たまたま同じタイミングで帰省していたそうです。

 そうしているうちに昔話に花が咲いて――相手の女性から告白されたんです、と照れ臭そうに話してくださいました。

 そんな木ノ下さんの頬はほんのり赤く色付いていて。恥ずかしさから口数が増え、ひたすら喋り続けていました。
 
 告白されて、返事をする時に動揺しすぎて声が出なくなってしまったとか。

 そのせいで余計に気が動転してお腹が痛くなってトイレに走る羽目になってしまったとか。

 初デートではあれこれと計画を練り過ぎて、まるで修学旅行か遠足の小学生みたいに、みっちりとスケジュールを組んでしまい、良い雰囲気になる余裕も無かったとか。

「まだ恋人ですけどね。それでも幼馴染なだけあって初対面の女性よりも気持ちが落ち着くんですよ。だから、いずれ結婚できたらなって思います」
 
 そう笑う木ノ下さんの表情はとても自然で。

 大切な人との未来があるという事実に、心のどこかで羨ましくもありながら。

 でもやっぱり微笑ましい気持ちが上回って、私も心から「良かったですね」と祝う事ができました。


「いってらっしゃい」

「行ってきます。お煎餅も、ちゃんと買ってきますからね」

「はーい、お願いします」

「ぽんすけも、おりこうさんしてるのよ」
 
 頭を撫でると、ぴんと背筋を伸ばして胸を張るぽんすけ。

 まるで「任せて」と意気込んでいるかのよう。

 ぺろりと口の周りを舐め、尻尾をぺしぺしと地面に叩きつけています。
 
 店の前に見送りに出てくれた葉子さんとぽんすけに手を振り、私は村へと向かいました。
 
 時刻は午後二時三十分。

 雲ひとつない冴えわたる青空の下。

 静かな田舎道を、昔から使っている黒いショルダーバッグだけを下げて歩いて行きます。
 
 村へ入って最初に出会ったのは、雑種のハナちゃん。

 河田さんのお家のわんちゃんです。

 私が村へ入る前からこちらに気付いていたようで、前足をふみふみしながらリードで繋がれた状態のハナちゃんは、その場で右往左往。

 私が数メートル先までやって来ると「あう」「あうあふぅ」と尻尾をぶんぶん。

 目の前でしゃがみこむと興奮気味に私の膝に頭や体を擦りつけ。

 終いには私の右肩に前足を乗せて耳を嗅ぎまわっていました。

 耳元でふんふんと鼻息荒くされるのがあまりにくすぐったくて、思わず声を出して笑っていると河田さんがお家から出てきました。

「こらハナっ。すまんね、ハルさん。汚れてないか?」

「大丈夫ですよ。ほら、どこも汚れていませんから」
 
 ハナちゃんを引き剥がすように抱きかかえた河田さんは、私の服とスカートを見て、安心したように「良かった」と苦笑しました。

「どこか行くのかい」

「えぇ、雑貨屋さんにお買い物です」

「そうか。あ、そうだ。葉子さんもハルさんも干し柿好きだって聞いたんだけど。今はまだ吊ってるところなんだけど、出来たら貰ってくれるか?」

「まぁ、宜しいんですか?凄く嬉しいです。葉子さんも喜びます」

「それなら良かった。今年は柿が沢山採れてね。ハルさん所にもやろうって思って、一杯干してるんだよ。うちじゃ食べきれんくらいにね。裏、見て行くかい」
 
 案内された裏庭の軒先には端から端まで干し柿がずらり。

 濃厚な色の柿たちが整列している圧巻の光景は、個人とは思えない程。

 干し柿屋さんが出来るのではと思うほどです。
 
 甘い干し柿が出来るのを夢見て河田さんと別れ、途中にお庭の手入れをしていた白井さんと挨拶を交わしながら、村の一番奥にある雑貨屋さんへと向かいました

 神社へ上がる階段の傍にある、小さな雑貨屋さん。

 古民家の一角を煙草屋さんとして使っていたのですが、店主のお婆さんが昨年に亡くなってからは空き家になっていました。

 そこへ二年前、定年退職を機に引っ越してきた女性が始めたお店なのです。

「いらっしゃい。あ、ハルさん」

「こんにちは、あさ子さん。お元気そうで」
 
 本を読んでいたらしい女性は赤縁の眼鏡を外し、「元気だけが取り得よ」と人の良さそうな笑顔で小窓から会釈しました。

 この小窓は、かつて煙草屋さんの頃にお婆さんが商品の受け渡しとして使っていた場所で、四畳半ほどの和室になっているのです。

「最近お店に行けてなくてごめんねぇ。死んだ旦那の借金返済で退職金も殆ど残ってない上に、このお店始めるための資金で……相変わらず毎日節約生活よ。ご近所さんから色々分けて貰えるから助かるんだけどね。でもハルさんのご飯も大好きだから行きたくなるのよ」
 
 あさ子さん――貴嶋あさ子さんがいる和室の壁には大きな横長の本棚が二段重ねで置かれており、本がびっしり。

 そこに収まりきらない本たちも床を埋め尽くす勢いで、空いた僅かなスペースにある座布団の上にちょこんと朝子さんが座っています。

 後ろにひっつめた髪をお団子にし、全体的にふっくらとした彼女の笑顔。

 初めて出会った第一印象は恵比須様です。

 まったく毒気の無い人柄が、話していてとても安心する方です。

「いつでもいらしてください。あさ子さんとお喋りしたいですから。美味しい珈琲も淹れますよ」

「良いわねぇ。あの食堂でぼーっとしながら飲む珈琲も最高よね。窓の向こう眺めてる時にいきなり視界に入り込んできて満面の笑み浮かべてるぽんすけも可愛くて大好きなのよ」

「ふふっ。あ、そうだ。珈琲好きなあさ子さんにお土産です。はい、どうぞ。これ美味しいんですよ。酸味が少なくてコクのある珈琲なんです。あさ子さん、酸味が苦手だと仰っていたから、これならお好きなんじゃ無いかと思って。良かったらどうぞ」
 
 ショルダーバッグから取り出した紙袋を手渡すと「まぁ、嬉しいっ」と歓喜の声を上げました。

 紙袋には珈琲を思わせる色合いの「雨の日珈琲店」の文字と、可愛らしいカタツムリのイラスト。

 買ってきてくれた葉子さん曰く、店主の手作りの消しゴムはんこで押したものだそうです。
 
 あさ子さんは紙袋に押されたはんこのデザインを何度も撫でて「素敵」「このセンス好きだわ」と、とても喜んでくださいました。

「では、ちょっとお店のなか見せてもらいますね」

「えぇ、ゆっくりどうぞ」
 
 商品棚の間を歩きながら奥へ奥へと進む間、背中の方から「嬉しいわぁ」と何度も何度もあさ子さんの声が聞こえていました。

 雑貨屋さんの帰り道。

 買い物袋を胸に、食堂へと続くあぜ道をのんびり歩きます。
 
 山々は赤、黄、黄緑と、それぞれが混じり合い。

 水彩絵具を丸めたガーゼに乗せて、キャンバスにぽんぽんと色を付けたような、味わい深くて、鮮やかな色に染まっています。

「あら、きのこ」
 
 土手の斜面に見たことのない白いきのこが。

 まん丸のきのこが大小生えるそれは、親子みたいです。

 大きなきのこに寄り添うように生える二つの小さなきのこ。

 名前もわからない可愛いきのこの親子に別れを告げ、道の先に見える白壁の食堂を目指します。

 鮮やかな青い屋根の上にいた鳥たちが一斉に空へと飛び立ちました。

 あんなにも青々とした絨毯のようだった田んぼも、今はもう収穫を終え、野焼きを終え。

 何もなくなった畑のなかで、シロサギが悠然と闊歩しています。

 時々、地面を突きながら、羽をばたつかせ。

 あら、畑の隅に群生している荻の群れ――もう時期を終えるのか、力なくくったりしています――から小さなもう一羽出てきました。

「よいしょ」
 
 田んぼの縁に腰を下ろし、帰りしなに買った手焼きせんべいを齧ります。
 
 歯ごたえの良いお煎餅は、醤油味。

 ぱりっとした海苔が風味豊かです。葉子さんにも同じものと、あとは味噌や、柚子胡椒の煎餅も買っています。
 
 田んぼを駆け抜けて来た晩秋の風が、頬に掛った灰色の毛を揺らしました。
 
 チリリッ リリッ チリリッ
 
 後ろの土手からでしょうか。虫の声が囁くように聞こえてきます。

 ぴゅー ひょろろろろ
 
 村を囲む山々の近くで、とんびが旋回しています。

 ゆったりと過ぎていく、のどかで、穏やかな時間。

「わうっ」
 
 あら。

「わんっ、わんっ」
 
 見つけたーとでも言っているのでしょうか。

 店の前でお昼寝していたぽんすけがこちらに気付き、すっくと立ちあがると、物凄い勢いで突進してきました。

 慌ててひとくち分残っていたお煎餅を口に入れ、ぽんすけを受け止める態勢を作ります。

「あうわうっ」
 
 風の抵抗で顔の筋肉や皮膚が全て後ろに引っ張られたような、まるで別人と化したぽんすけは、私の胸に飛び込んでくると

「何か良い匂いがしますけど」
 
 というように、ふんふんと首や手を嗅ぎまわりました。

「あーっ、ぽんすけ駄目っ。お煎餅は私のよーっ」
 
 これに気付いた葉子さんも、全力疾走です。

「大丈夫ですよ、ちゃんと袋に入ってますから。はい、どうぞ」
 
 ぽんすけに取られないよう、座ったまま買い物袋を掲げて葉子さんに渡しました。

「嬉しい。ありがとうございます。あ、そうだ。ハルさん、ちょっと来てください」

「早く早く」と連れて来られたのは、食堂の横にある梅の樹。

 その枝の隙間から「うーん、うーん」と唸りながら空を見上げて何かを探しています。

「どうしました?」
 
 ぽんすけも不思議そうに私の足元でお座りして葉子さんを見守ります。

「さっき、ここで銀色のふよふよが飛んでたんですよ」

「ふよふよ?」
 
 葉子さんは梅の枝の先の方を指さして「こう、ふよふよーって」と、指先を宙に巡らせています。

「もしかして糸遊でしょうか」

「いとゆう?」

「蜘蛛が空を飛ぶんですよ。蜘蛛の産卵時期に赤ちゃんが蜘蛛の糸に乗って一斉に飛び立つんだそうです――あっ、ほらそこに」
 
 ふと視線を田んぼの方に向けると、銀白色の無数の糸が空中を浮遊しています。

 風に乗ってふわふわと舞い上がる糸は、陽光を浴びてきらきらと光を帯びています。

「そうです、あれですよ」
 
 葉子さんが興奮気味に蜘蛛の糸を指さします。

 ぽんすけは蜘蛛よりもお日様の温もりの方がお気に入りのよう。

 伏せをした前足に顎を乗せて気持ちよさそうに目を細めています。

 でも、私たちの声も気になるのか、声が聞こえる度に耳をぴくつかせていました。

「もうすぐ冬が来ますね。あっという間に今年も終わりです」

「そういえば、さっき佐野さんから電話があって。近いうちに奈子ちゃんと遊びに行きますって言ってましたよ。奈子ちゃんがまたクッキー作りたいって言ってるそうです」

「そうですか。じゃあ今度はクッキーの材料を揃えておきましょう」

 奈子ちゃんと佐野さん達はあれからどうしているでしょう。

 最初にうちに来た時はどこか遠慮して緊張している様子が見えましたが、三人でゆっくりお話をしてからは、随分と表情が柔らかくなっているようでした。

「あ、ハルさん見てくださいっ。大きいー。あっちは小さいですね、親子かなぁ」
 
 葉子さんが東の山の方角を見上げて感嘆の声を上げました。
 
 そこには陽光を浴びて白銀に煌めく大小のシロサギが。
 
 大きな翼と小さな翼を広げた二羽が、薄青色の空を音もなく翔けていました。
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