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第三章 絆
5 秘密
しおりを挟む楊福安の部屋は、センチネルの訓練生が住む居住区のさらに奥にあった。シンプルな白い扉には小さく三◯八とだけ書かれていて、扉に絵が描かれているガイドの居住区と違って殺風景だ。
一人だけずいぶん離れた場所に住んでいることが気になったものの、羅深思は口には出さず、部屋に戻ろうとする楊福安を呼び止めた。
「あっ、もう少しだけいい? できれば調律したいんだけど」
先ほどの暴走未遂は自力で抑え込めたが、彼の心は未だ不安定なところがあるので、念には念を入れておきたい。
断られるのではと心配だったものの、楊福安は足を止め、快く中へ入れてくれた。
「俺の部屋も、何もないですよ」
申し訳なさそうな彼の言葉通り、部屋の中は白一色で必要最低限の家具しかない。まるで羅深思の部屋にそっくりだ。
部屋にあるのはベッドと机、そしてクローゼットのみ。楊福安はここに来てもう二年も経っているはずなのに、物があまりにも無さすぎる。
人の部屋をジロジロ見るのはあまり行儀がいいとは言えないが、羅深思は何もなさすぎてつい眺め回してしまった。
「君は買い物したりしないの?」
センチネルは滅多に外に出られないが、月に一度は必ず買い物に行くことができると聞いていた。それに、施設に申請を出せば、日用品程度なら送ってもらえる。
「図書館で本を借りることはあります」
楊福安はそこで一旦話を区切り、顔を曇らせて項垂れた。どうやら、何か言い辛い事情があるらしい。
その様子をじっと観察していた羅深思は、これ以上彼を困らせないように話を打ち切ると、明るい声で本題に入った。
「とりあえず調律しちゃおうか。ベッド座っても大丈夫?」
「あっ……どうぞ!」
几帳面なのか、ベッドの掛け布団はホテルのように綺麗に畳まれている。羅深思は白いシーツにそっと腰を下ろし、隣をポンポンと叩いて彼を呼んだ。
「ここ座って、リラックスしてね」
自分のベッドなのに、楊福安は恐る恐る腰を下ろす。彼の伺うような視線を感じ、羅深思は微笑んだ。
触れることを恐れる彼のために、できるだけ負担の少ない方法を編み出したのだ。手のひらを楊福安に向け、羅深思は穏やかに言った。
「指先でちょっと触るだけで大丈夫だよ」
手を握らなければと思っていたのか、楊福安はその言葉に目を丸くさせる。彼は戸惑いながら手をそっと伸ばし、不安げな瞳で羅深思を見た。
「……ちょっと、とは?」
「人差し指を乗っけるだけ」
どうぞ、と促すと、楊福安は僅かに震える指先でちょんと手のひらに触れる。たったそれだけで、羅深思の体の中に彼の力が流れ込んできた。
それは僅か五秒の出来事だった。羅深思はゆっくりと手を下ろし、緊張に顔を強張らせていた楊福安に声をかけた。
「終わったよ、お疲れ様」
「えっ? もうですか?」
びっくりしすぎて、開いた口が塞がらなくなっている。図らずも彼を驚かせることに成功した羅深思は、ふふんと得意げに笑った。
楊福安が驚くのも当然で、通常ガイドの調律は五分から十分ほどかかる。だが、羅深思の調律は滞った力を丸々吸い取るものなので、驚きの速さで終えられるのだ。
「まずは一歩前進だな!」
指先だけとはいえ、楊福安にとっては大きな一歩だろう。羅深思の言葉に彼はたちまち目を輝かせ、嬉しそうに頷いた。
「凄いだろ? 上海の研究所でも大活躍だったんだぜ?」
わざとらしく自慢すると、楊福安もふふっと笑みを漏らす。
普段は鬱々とした暗い顔をしている彼だが、やはり笑うと年相応の可愛らしい顔立ちだ。羅深思は充分に空気が和んだのを見計らい、さり気なく彼の心に踏み込んだ。
「なあ、福安。昔何があったんだ? 俺で良ければ力になるよ」
そろそろ信頼関係が築けているはずだ。心配そうに顔を覗き込むと、楊福安は戸惑いの眼差しで見返してくる。
しかし、今までと違うのは、彼が何か言いたそうに口を開いたところだ。
逡巡するように眉を顰め、楊福安は何度も言いかけては止めてを繰り返す。だが、最後には力なく俯いてしまった。
「……ごめんなさい、言えません」
振り絞るように吐き出された謝罪の言葉には、悔恨の念が滲んでいた。ただならぬその様子に、羅深思の中である疑惑が湧き上がる。
「もしかして……誰かに口止めされてる?」
意気消沈していた楊福安は、その言葉にハッとして顔を上げた。信じられないと驚きに見開かれた目を見て、羅深思は確信する。
「話せないなら大丈夫。気にしなくていいよ」
「あの……先生は心が読めるんですか?」
「ただの推測。あと、当てずっぽうかな?」
重い空気にならないように明るく返したものの、楊福安は浮かない顔のままだ。しかし、彼は不意に強い意志のこもった目で羅深思をじっと見据えた。
「……俺の父の名は、楊志偉といいます」
「楊志偉って……君の父親は書記なのか?」
羅深思の頭の中で、その時点と点が繋がった。
楊志偉と言えば、北京市政治法律委員会の書記──つまりは北京市の一番偉い人で治安対策も担当している。センチネルに対しては批判的で、厳しい姿勢を崩さない人物でもあるのだ。
そんな彼の息子がセンチネルの施設にいるということは、とんでもないスキャンダルになりかねない。もし楊志偉書記がこの施設を陰ながら支援していたとしたら、施設長が研究職なことも、センチネルの治療薬を作ろうとしていることにも説明がつく。
「あの……このことは秘密にしていただけますか?」
どうりで家族について語りたがらないわけだ。この事実を他の人に知られては、かなり面倒なことになる。
不安そうな彼に、羅深思は真剣な顔で頷いた。
「もちろん! でも、王施設長はさすがに知ってるよね?」
「はい。ここに来た時に、父から手紙を預かってきていましたから」
手紙の内容が気になったものの、羅深思が詳しく尋ねようとした途端、ジャンパーのポケットの中で携帯が着信を告げる。
噂をすれば影、王永雄から今すぐ来るようにとメールが届いていた。
「施設長から呼び出し来ちゃった。もう行かないと……」
あまりにも絶妙なタイミングでの連絡に、羅深思は眉を顰める。まさか、訓練生の部屋にまで監視カメラがあるのだろうか。
彼の懸念には気付かず、楊福安は心のつかえがとれたようなスッキリとした表情で言った。
「今日はありがとうございました!」
「こちらこそ、話してくれてありがとう。また明日ね」
来た時よりもずっと明るくなった楊福安に見送られ、羅深思はエリア三を目指して早足で歩き出す。
今知った事実を、一刻も早く施設長に確認しなければ。楊福安が秘密を打ち明けてくれたお陰で、羅深思は今後自分がどう動くべきかはっきりと分かった。
道中、映画終わりの訓練生たちに捕まりながらも、羅深思はエリア三までやって来た。研究員たちは一人だけ毛色の違う彼に無関心で、まるで見えていないかのように横を通り過ぎていく。
王永雄はいつもの研究室ではなく、珍しく執務室の中にいた。
部屋に入ると、執務室の壁や床は木材で出来ており、無菌室のように真っ白な施設の中で一際異彩を放っている。木の床の上には赤いトルコ絨毯まで敷かれ、まるでどこかの会社の社長室みたいだ。
「おや、早いですね」
マホガニーの豪勢な机に合わせた黒皮の椅子に座っていた王永雄は、視線を上げると意外そうに言った。
柔らかい絨毯を踏みしめながら彼の前まで来ると、羅深思は眉を顰めたま口を開く。
「訓練生の部屋に監視カメラつけてます?」
「誤解ですよ、カメラは廊下だけです。楊福安と一緒だったんでしょう? 何か面白い話は聞けましたか?」
白々しい態度も、ここまで来ると逆に笑えてくる。羅深思は咳払いを一つ、改めて言った。
「楊福安の父親について聞きました。彼は薬の研究に関わっているんですか?」
掴みどころのない王永雄には、遠回しに聞くより単刀直入に言った方がいい。
羅深思の言葉を聞いた王永雄は驚くこともなく姿勢を正し、いつもの胡散臭い笑みを浮かべた。
「思ったより早く真実に辿り着きましたね。それで、答えは決まりましたか?」
予想通り、施設長と楊志偉書記は繋がっていた。羅深思は大きく深呼吸すると、真っ直ぐに彼を見据えて話を切り出した。
「……いくつか条件があります」
「聞きましょう」
値踏みするような眼差しに、羅深思はごくりと唾を飲む。
王永雄は一筋縄ではいかない相手だ。要求は簡潔に、かつこちらに益があるものでなければならない。
「まず一つ、研究に関する情報は全て俺も見られるようにしてください」
知らない間に兵器開発の片棒を担がされるのは絶対に避けたいので、これは一番譲れない条件だ。
だが、王永雄の方もそう来ることはとっくに予想済みだったらしい。彼は二つ返事で頷いた。
「構いませんよ。いつでも見られるようにしましょう」
ひとまず懸念が解消され、羅深思は心の中でほっと息を吐く。
「感謝します。もう一つは、職員への再教育をお願いします」
現在施設ではセンチネルに対する無理解のせいで、最悪の事態を招きかねない状況だ。それは王永雄が羅深思を施設に引き抜くために講じた策のせいだが、何か起きる前になるべく早く正した方がいい。
「分かりました。ただし、具体案はあなたが出してください」
その意見には羅深思も異論はなかった。人に丸投げして、また穴のある決まりが浸透するよりは、自分で細部まで確認できる方が安心だ。
「最後に一つ、ガイドや訓練生たちの要求はなるべく叶えてあげてください」
ほとんど何もない地下に閉じ込められた訓練生たちは娯楽に飢え、かなりストレスが溜まっていそうだった。ガイドとセンチネルの対立が深刻になったのも、元を正せばこの施設に閉じ込められたストレスによるものだろう。
羅深思が最後と言ったので、王永雄はおや?と眉を顰めた。
「三つでいいんですか?」
「構いません。契約書を作りますので、後ほどサインをお願いします」
三つ目の要求にも異論はなかったようで、二人の間で話がまとまった。
今日のところは帰ってもいいと言われ、羅深思はその言葉に礼を返すと、ありがたく執務室を後にする。
やるとこは山積みだが、厄介な問題が片付いて気持ちは晴れやかだ。きっと今日はよく眠れるだろう。
羅深思は足取りも軽く、自室を目指して歩き出した。
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