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第五章 進展
6 限界
しおりを挟む上海の李耀室長が正式に研究チーム入りしてからというもの、羅深思の心労は絶えなかった。
なぜなら、王永雄と李耀の相性は最悪で、まるで離婚寸前の夫婦のような険悪なやり取りが頻繁に勃発するのだ。彼は親の顔色を窺う子どもよろしく、二人のご機嫌取りという余計な業務が追加されてへとへとだった。
「はあ……もうやだ」
羅深思の口から、もう何度目かも分からない特大のため息が漏れる。
今日も怒鳴り合いの喧嘩をどうにか収めて両者を引き離し、逃げるように訓練場へやって来たのだ。監視場所の柵に力なく体を預け、ぼんやりと訓練の様子を眺める。
今は地上で流行っている仙侠ファンタジー映画の影響か、念能力持ちのセンチネルたちの間で空前の御剣ブームが到来中だ。訓練するためのガラス部屋の合間に転落防止ネットを張り、楽しそうに木剣に乗って飛行訓練をしている。
「ずいぶん疲れた顔してんな。大丈夫か?」
そう声をかけてきたのは、ガイドのまとめ役、柳浩明だ。
「毎日、妖怪大戦争が勃発して死にそう」
唯一の心の支えは楊福安の存在だった。彼が至れり尽くせりで生活の補佐をしてくれているので、羅深思は忙しい日々を辛うじてやり過ごせている。
だが、彼はふと気付いた。自分には元々『助手』がいたはずではないか。
「李光のやつ、どこ行ったか知ってる? 最近見てないんだけど」
思い返してみると、彼は姉の李耀が施設に来て以来、ひっそりと姿を消して消息不明だ。電話にすら出ないので、もはや生きているのかさえ怪しい。
すると、真下から突然声が上がった。
「先輩、俺のこと呼びました?」
「居た! お前っ……姉ちゃんどうにかしろよ! 身内だろ?」
積もりに積もった文句は数あれど、今は怒る気力すらない。身内ならどうにかできるだろうと淡い期待を寄せるも、返ってきたのは羅深思にとって望ましくない言葉だった。
「そんなぁ……俺には無理ですって。奴隷の日々には戻りたくないですもん」
「施設長と毎日喧嘩して最悪なんだけど?」
「あの二人、大学時代には火と油って言われてたんですよ」
それは今一番聞きたくなかった言葉だ。あの不仲は昔からと聞いてはどうしようもない。
希望が打ち砕かれ、羅深思はがっくりと項垂れる。その横で話を聞いていた柳浩明は、おかしな言葉に眉を顰めた。
「水と油じゃなくてか?」
彼が疑問に思うのはもっともだが、間近で二人のやり取りを見ている羅深思は言い得て妙だな、と思う。
あの二人は確かに火と油だ。合わさると途端に大炎上する。
「火と油です。くれぐれも、一緒にしないように気を付けてください。本当に火事が起きますよ!」
実際に炎上したことがあるのか、李光が念を押してくる。しかし、同じ研究をしている二人を引き離すのは至難の業だ。
「無理だよ。今研究進んでて、あの二人いないと始まらないし」
偶然にも、彼らはセンチネルが力を使う時にだけ遺伝子が変異することを突き止めた。ただ、センチネル因子と名付けられたそれが後天的なものなのか、誰でもなり得るものなのかはまだ調査中だ。
羅深思や陸海の力は、センチネル因子の変異を抑える力があるらしい。上手くいけば能力の抑制剤が作れるかもしれないと、研究所では連日テストを行っている。
「とにかく、俺は力になれません。他を当たってください!」
よほど姉に会いたくないのだろう。捨て台詞を残し、薄情な李光はあっという間に姿を消した。
「はあぁ……行きたくないよぉぉ」
結局嫌な話を聞くだけで終わり、羅深思はますます気が滅入ってくる。午後からまた研究所に行かなければならないのだ。
もはや立つこともままならずその場にしゃがみ込むと、彼の体たらくを見た柳浩明はやれやれと肩を竦めた。
「嫌ならサボっちまえよ。それより、お前いつまであの子の気持ちを無視する気だ?」
気乗りしない話題が降ってきたものの、羅深思は力を振り絞って立ち上がり、柵の上に顔を出した。
訓練場では、ちょうど話題に上った楊福安が見事な御剣を披露して、のびのびと空を飛び回っている。彼は自分だけでなく、友人たちのことも一緒に飛ばして実に楽しそうだ。
能力の無効化のせいで絶対に仲間に入れない羅深思は、その光景を少しだけ羨ましく思う。
「別に、無視してるわけじゃないけど」
楊福安は要領が良く、あっという間に能力を使いこなすようになり、今や訓練生たちに囲まれて教える側に回っている。人々の中心で輝く彼を見ていると、自分よりももっといい相手がいるのではと思わずにいられなかった。
「新しい出会いがあれば、気が変わるかも……」
そうは言ったものの、彼が女子たちに囲まれている姿を見ていると胸がモヤモヤしてくる。いつか自分から離れていく日が来るなんて、考えたくもない。
煮え切らない態度でいると、柳浩明に思い切り尻を蹴飛ばされた。
「いっ、てぇ……」
手加減なしの蹴りを入れられ、彼は尻を押さえてうずくまった。これはかなりお怒りだ。
「しっかりしろ腰抜け! あの子はもう雛鳥じゃねぇんだぞ」
そう喝を入れた柳浩明は、痛みに呻く羅深思を置き去りに下へ降りていった。彼の残した言葉は胸に深く突き刺さり、じくじくと痛みを訴える。
それ以上訓練を見ていられなくなり、羅深思はノロノロと立ち上がると、重い体を引きずるようにして静かに自室へ戻った。
枕が二つ並んだベッドに倒れ込み、クマのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる。しばらく寝転んでいても気分は晴れず、羅深思は何度も寝返りを打った。
そんな風に無駄な時間を過ごしてどれくらい経っただろうか。部屋の扉が開き、楊福安が顔を出す。
彼はベッドの上でぐったりしている羅深思を見るなり、顔を曇らせて小走りに駆け寄ってきた。
「先生、ご飯は食べましたか?」
雛鳥というより親鳥みたいになった彼をぼんやり見つめ、羅深思は朦朧とする意識の中で答えた。
「うーん……多分?」
最近は忙しすぎて記憶が曖昧で、何をしたかはっきりと覚えていない。ただ、空腹は感じないので食べたのだろう。
楊福安はその様子にますます顔を曇らせる。
「最近ずっと働き通しですよね。いつ休んだか覚えてますか?」
畳み掛けるような質問に、羅深思はしばし固まった。
「休みって……なんだっけ?」
その言葉に、楊福安の顔色がどんどん青ざめていく。羅深思は自分が何を言ったかに気付き、慌てて身を起こした。
「嘘嘘、分かってるよ! ほら、あれだろ?」
慌てて取り繕ったものの、困ったことに言葉が出てこない。意味は分かっているはずなのに、その単語にまつわる記憶だけ頭からすっぽり抜け落ちてしまったようなのだ。
焦るほど言葉が出てこなくて戸惑っていると、突然楊福安に抱きしめられた。
重なり合った胸から温もりと鼓動が伝わってきて、慌てふためく心を落ち着かせてくれる。
「今日は部屋から出ないでください」
優しい声音が鼓膜を揺らす。
羅深思は心地よい温もりにそっと目を閉じた。彼の腕の中は居心地が良くて、ずっとこうしていたくなる。
「……うちに帰りたい」
知らぬ間に故郷が恋しくなっていたのだろう。気付けば、彼はそう口にしていた。
何気ない一言に楊福安は抱きしめる力を緩め、ゆっくりと身を離した。それから、いつになく真剣な目で羅深思をじっと見つめる。
「羅先生、俺に任せてください」
「任せるって……」
一体何をするつもりなのか。妙な気迫を纏った彼に、羅深思はそれ以上何も言えなくなる。
代わりに不安げに見つめ返すと、楊福安は柔らかな笑みを浮かべて羅深思の唇に口づけを落とした。
「目が金色になっていますよ。この部屋からは絶対に出ないでください」
その言葉は、羅深思に暴走の予兆が出ていることを示していた。
力を吸収する彼の能力上、絶対にあり得ないことだ。慌てて携帯の内カメラで確認してみると、確かに目が淡い金色に輝いている。
「嘘だろ? なんでこんな事に……」
「先生、前に言いましたよね? センチネルの暴走の原因は疲労とストレスだって。きっと、無理をしすぎてストレスが溜まっているんですよ」
ゆっくり休んでいるように言いつけ、楊福安は急ぎ足で部屋を出ていった。
後に残された羅深思は未だ自分の身に起こっていることが信じられず、何度もカメラで顔を映してみる。だが、何度やっても結果は同じで、淡い金の光はいつまでも消えなかった。
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