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曇天濡れる中庭①
しおりを挟む体調不良だというレオカディオは、翌日も朝食の席へ姿を現さなかった。
症状が重いというよりは、他の子どもに風邪が感染するのを防ぐため快方へ向かうまでは部屋で食事をとるようだ。軽い汁物や菓子ならばきちんと食べているらしいから、あと数日もすれば元気な顔を見せるだろう。
疲労を溜めたり、体を冷やしたり、病を得た者のそばにいるだけで罹患するというのだから、ヒトの身で健やかに生きるのは本当に大変だ。
「ここのところ急に気温も下がってきたからな、寝具や着るものに不足があればちゃんと言うんだぞ? そろそろ冬の防寒具なども支度を進めさせている。リリアーナは新しいコートどんな色にしようか?」
「フェリバたちに任せる」
「そ、そうかぁ。去年は白いファーをつけたから、次はフードとかついていると可愛いんじゃないかな?」
「フード……そうだな。屋外へ出るときに温かくて良いと思う」
そう返事をすると、ファラムンドは途端に顔を輝かせた。
ほとんど外出をさせてもらえないのだから、コートを新調しても中庭で着るぐらいしか用途がない。去年だって襟元と袖口にふさふさとした毛のついたコートを作ってもらったのに、それを着て屋敷の敷地から外へ出ることは一度もなかった。一着作るにも素材や手間がかかるものだろうから、さすがにもったいないと思う。
だが、領主邸から発注が出されるそういった品は街の職人たちの重要な収入源となっており、たとえ使用しなくとも各所へ仕事を振り、金銭を支払うことが大事なのだと、それとなくトマサが教えてくれた。一日しか着用しなかった五歳記の衣装などもそれに当たるのかもしれない。
もっと大きな枠となれば、王宮が毎年各領から名産品を一定量買い上げているのも同じことらしい。人を使い仕事を回し、金銭と物資を循環させるのも、上に立つ者の重要な役目ということだろう。
「あと、大きめのポケットはつけてほしい」
「わかった、伝えておくよ。リリアーナは何でも似合っちゃうからなぁ、今年も恐ろしく可愛く仕上がっちゃうなぁ、楽しみだなぁ」
食後のお茶を片手に、目を細めて表情を緩める父は朝から上機嫌だ。
屋敷の外へ出る機会のないリリアーナよりも、頻繁に来客を迎えたり外出したりするファラムンドとアダルベルトの方こそ新しい上着や衣装を新調するべきだと思うのだが、おそらくそちらもきちんと手配しているのだろう。自身の新しい衣服など慣れていて何の感慨も湧かないから、娘であるリリアーナの服を仕立てるのが楽しく感じるに違いない。
女物の衣類は男物よりも形や色に幅があるらしく、毎年異なる趣向を凝らしたものがクローゼットへ並ぶ。屋敷の中でも、鮮やかな色の布を使ったり、ふわふわとした形状の服を着用しているのはリリアーナひとりだけだ。街中の様子を思い返しても、女性の着衣の方が色彩豊かだった記憶がある。鳥などは雄の羽根の方が鮮やかなのに、ヒトの文化圏ではその逆が普通らしい。
「季節の変わり目は体調を崩しやすいから、ふたりとも気をつけるように。レオカディオもあと二日もすれば快復するだろう、それまで部屋に見舞いに行ったりしてはいけないよ」
「はい」
「わかった。……父上、雨がやんだらまた街へ下りる許可をもらえるのだろうか?」
「う。そうだなぁ、もうちょっと検討してみるから、いい子にして待ってておくれ」
『検討』はすでに六回聞いた。だが適当に耳触りの良い嘘でごまかさず、下手なはぐらし方を続けるところは父の誠意として受け止めておこう。
レオカディオの誕生祝いの品を探すために街へ下りて以降、リリアーナは一度も外出の許可が得られていない。もう三年も屋敷の中だ。さして不満があるわけでもなく、街にどうしてもという用事もないから強く要望を出せないでいるが、できればそろそろ外出をしたい。
前回見学できなかった居住区にも興味はあるし、他の店舗ものぞいてみたいと思っていた。だが成人前の自分が街へ行くとなれば、護衛とお付きの者が必要になる。その手配や面倒をかけてしまうことを考えれば、あまりわがままを言うべきではないと理解はしている。
それでも多少の落胆を抱いたまま朝食を終え、部屋へ戻る時間になった。廊下の窓から外をうかがえば、相変わらずの曇天が広がっている。うっすら白んでいるから雲の厚みはないのだろう。そう思って顔を近づけてよく見ると、どうやら雨は止んでいるようだった。
「……雨、止んでるみたいだな」
「あ、ほんとですね。ちょっと明るいし、今日はお日様が顔を見せるかもしれませんねー」
「フェリバ、少し中庭を歩きたいんだが良いか?」
「石の通路から逸れないでくださいね。あと、また雨が降ってきたらすぐお戻りください」
フェリバはこういう時、余程の理由がなければこちらの意志を尊重してくれる。やりたいこと、試してみたいことなどを、危険だとか身のためにならないとか言って大人の目線で遮らないのは、自身が開放的な環境で育った故もあるのだろう。よい娘に育てたアマダへの好感がまたひとつ上がった。
両開きの中扉を開けてもらい、しとどに濡れた石の通路へと踏み出す。
数週間前まで青々生い茂っていた芝生は土と雨水に浸って、とてもこの小さな足を踏み入れる気にはなれない。他の季節は芝上の散歩を好んでいるが、さすがに雨の季だけはこちらだ。表面荒く削り出された通路の石は水はけが良く、靴底も滑らず歩きやすい。
水の匂い、湿った土の匂い。それに混じってどこからか甘い匂いも漂ってくる。季節によって様々な色彩と香りを楽しませてくれる中庭は、曇り空の下でも飽きることがない。
水滴をつけた紫陽花の葉の陰から、鮮やかな緑色のカエルが顔をのぞかせている。ぽつりと雫が落ちた拍子に葉が揺れると、驚いたのか跳ねて奥へと隠れてしまう。
動作を休止している噴水の縁には小さな蝸牛が二匹這っており、足を止めてその粘液が描く軌跡をしばらく眺めていた。
「リリアーナ様。今日はぬかるんで足元が悪いでしょうに、お散歩ですかな?」
「アーロン爺か。雨が止んでいるようだったから、ちょっと気晴らしに来たんだ」
雨の多いこの時期でも庭の手入れは怠らないのだろう、大きなバケツを手にした老爺が慎重な足取りでこちらへ近づいてきた。身軽な自分はまだしも、老いたアーロンは滑って転んで腰でも痛めたら事だ。振り返ったまま、石敷きの面積が広い噴水前まで到着するのを待った。
「雨に濡れた草木の匂いも悪くない。また降ってきたらすぐ中へ戻るとフェリバとも約束しているから、安心してくれ」
「ええ、そうなさってくだされ。濡れてお風邪など召されては大変ですから」
「レオ兄が寝込んでいる最中だからな、先程も父上から心配されてしまったが。この通り、わたしは案外丈夫なのだ」
ちょっとした風邪をひいたことはあっても、この八年の間は大病を患うこともなく健康に過ごしてこられた。衣服や食事など常に気を遣ってくれる周囲のお陰だろうが、この体は次兄よりもいくらか頑丈らしい。この分であれば二年後は無事に十歳記を迎えることもできそうだ。
「アーロン爺も体調にはくれぐれも気をつけろよ。庭の手入れを欠かさずにいてくれるのは有り難いが、これから寒くなるのだし」
「ありがとうございます。何、このじじいもこう見えて丈夫なのですよ。雨の上がっているうちに色々片づけてしまいませんとな」
そう言って携えていたバケツを軽く持ち上げてみせる。おそらくこれから雑草取りなどをするのだろう。いつまで曇り空が保つかわからないのだ、あまり長居をして仕事の邪魔をするわけにもいかない。
だがそんなリリアーナの遠慮を見て取ったのか、アーロンは噴水のそばへバケツを置くと軽く伸びをして雑談の続きを始めた。
「毎日天候の優れない日が続いておりますが、領道の花畑の方は今年も見事な花が咲き続けているそうですよ」
「あのナスタチウムか」
「ええ、不思議なものですなぁ。こんなに長く咲く花ではないのですが、花の季から雨の季まで、代わる代わる芽を出しては開花しているようで」
三年前、何者かによって山崩れを起こされた場所は、リリアーナの治める領域と宣言し土砂を戻して以降、真っ赤なナスタチウムの咲き誇る花畑となっていた。軽い気持ちでパストディーアーへ告げた『命令』に対し、土着の精霊たちが励みすぎた結果の産物だ。
突然現れた鮮やかな花園についての噂はリリアーナもいくつか耳にしているが、あれ以来外出の許可が下りないため、未だ自身の目で見ることは叶っていない。
「あの近くには、共用休憩所としてどこかの商会が天幕を張っていたのですが、今年はちゃんと整地して簡易な小屋ができたそうで」
「旅人や商人たちが休憩するための小屋か。父上が手配したのか?」
「旦那様が許可をお出しになられて、商会の主導で作られたと聞きました。こんな長雨の季節には助かる者も多いかと。窓からは花畑も見られて、さぞ長旅の癒しとなることでしょう」
意図せず生み出してしまった花畑ではあるが、領や民たちの役に立っているなら何よりだ。急に咲き出した花に関しては様々な憶測を呼びながらも、一帯には精霊の加護が宿っているという噂は根強いらしく、花畑を荒らすような不届き者はいないと聞く。
確かに、あの辺りは自分の領土となっているわけだから、下手におかしなことをすれば『保守』を命じられた精霊たちが黙ってはいないだろう。自ら宣言を解くか、もしくはリリアーナが死ぬまでは、一度告げた命令は生き続ける。何事もなければこの先数十年間はあの地にナスタチウムが咲き、落石などの事故も起こらないはずだ。
そこでふと、キヴィランタの占有権は今どうなっているのかが気になった。
主となったデスタリオラが死んだのだから、もう領域の宣言は解かれているのだろうか。それとも同じ眼を引き継いだ以上、その権限はリリアーナに移っているのか。今すぐに確かめる手段はないが、そのうち確認をしておくべきだろう。
<あの赤い花は食用にも適しているようですね。もっとも、荒らす行為に該当しますから、花畑の花を摘んで食べる旅人などいないでしょうが>
「食用……? ナスタチウムは食べられるのか?」
アルトから向けられた意外な言葉に首をかしげると、話しかけられたと思ったらしいアーロンが穏やかな笑みを浮かべた。
「昔は薬として食用に使われたこともあるそうですな。ですが辛味があるので、リリアーナ様が口にされるにはまだ向かないでしょう」
「そうなのか、花を食べるという発想はなかったな。彩りが良くなりそうだし、興味はある」
「でしたら、次の陽の季にはいくらか摘んで厨房へ届けておきましょう」
「うん、そうしてくれ」
アマダに任せておけば、適した料理や菓子に生かしてくれることだろう。
アーロンに聞くと、どうやら食べられる花というのは他にもたくさん種類があるらしい。新たな食の可能性が拓けてしまった。食べ物の世界は果てがない。これからの時期はしばらく庭も寂しくなるが、また花の季や陽の季が巡ってきたら色々と試してみたいものだ。
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