ウツクシ村のミチル

岡本ジュンイチ

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ズリーブ家の海外旅行

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今日は、待ちに待った海外旅行だ。
 だが、その日のトメラはとってもねぼすけであった。

「トメラ! 早くしないと飛行機に間に合わないわよ!」
 下の方から聞こえる母の呼び声に対し、トメラは必死になって、パジャマのボタンを外しながら応じる。
「わかってるよ、ちょっと待って! すぐに行くから」
 トメラは、淡い空色のパジャマを脱ぎ捨て、真っ赤なTシャツをタンスから取り出して下の方へ下りていった。
 そして、彼はワックスでピカピカに照っている茶色い廊下を急ぎ足で歩いていき、台所のドアを開ける。
 すると、トメラは自分の背丈の二倍以上ある、大きな腹の持ち主である父・ジョージと出くわした。
「おはよう、トメラ」
 眠気を含んだジョージの挨拶に、トメラは明るく応じる。
「おはよう、パパ。いよいよ、旅行の日になったね!」
「ああ、そうだな。楽しみだな」
 トメラは大きくうなずいた。
「うん! もう楽しみすぎて、昨日はよくねむれなかったよ」
 それを聞いて、ジョージは怪獣のように声を上げて笑った。
「あれっ? トメラ。その顔のキズ、どうしたんだ」
「えっ!? えっ、えーっと……」
 まさか「友人のマダーに殴られた」とは、トメラの口からはとても言えなかった。
 友人とはいっても、いつもマダーはトメラをいじめてばかりいるサイテーなガキ大将なのだが。
「ふとんから落っこちちゃったんだ」
 それを聞いて、父は怪訝そうな顔をするが、こくりと頷いた。
「そうか。ならいいんだが……」
 そんなジョージの背後から、母・マリアの忙しそうな声が聞こえてくる。
「あなた! のん気におしゃべりしてる場合じゃないわよ! ほら、はやく荷物を持ってください」
「ああ、ごめんよママ」
「ほら、トメラも。はやく準備をしなさい」
「はぁ~い」
 今日のズリーブ家は、朝からすごくあわただしい様子であった。

☆ ☆

 トメラの家は、警察官の家庭だ。
 ジョージはとても優秀な警察官で、妻のマリアは婦警である。
 その影響があるからなのだろうか、トメラの両親は旅行の日であっても、妙な緊張感でいっぱいだ。
 ジョージの目つきは鋭く、マリアの顔は何かとまわりを見回しがちな様子であった。
 トメラは、そんな二人の事情を幼いながらに察してはいる。
 だが、彼はそういうことを気にしないように努力していた。
 
「うわぁ、すごいな。見なよトメラ。これはめったに見られない光景だぞ」

 ジョージは後ろの席から、トメラに声をかけた。
 それを聞いて、トメラは右側にある窓のむこうを見つめ出す。
「ほんとだ! 白いビルが、点にしか見えないや!」
 トメラは声を上げて笑った。
 その声を聞いて、マリアは例のごとく辺りを見回しながら、トメラにささやいた。
「トメラ。ここは他にも乗客が乗ってるのよ。大声で叫ばないの」
「あっ、ごめんママ。つい……」
 マリアは深くため息をつき、椅子の背もたれに体重をかける。
 トメラはそんな左隣の母を軽く一瞥しつつも、再び飛行機の窓の向こうの空に目を向けた。
 するとジョージはやさしく、トメラに声をかける。
「見てごらんよ、トメラ。今度は海だぞ」
 トメラは声を押し殺しつつも、興奮が抑えられずにいる。
「うん! すごく青いね!」
 そう言って、トメラはついフフフッと笑い声を漏らしてしまった。
 旅客機の天井からは、スチュワーデスのほがらかな声が響き渡る。
「この度はご搭乗くださいまして、ありがとうございます。ただいまから、機内販売に回らせていただきます。
お買い求めの方は、気軽にお声かけ下さいませ」
 トメラは振り返り、左隣にいるマリアの方に目を向けた。
「ママ、『キナイハンバイ』ってなに?」
 すると、マリアはゆったりと椅子の上でくつろぎつつも、トメラのほうに目を向け出す。
「飛行機の中でものを売ってくれるのよ。お菓子とかジュースとか、いろいろあるの」
「へぇ~、そうなんだぁ」
 トメラにとっては、初めてのことでいっぱいだった。
 飛行機に乗ること。空の上から街を見渡すこと。そして、飛行機の中には機内販売があること。
 彼の頭の中にはお花畑が広がり、溢れんばかりの幸せでいっぱいになった。
「ねえママ、お腹すいちゃった。なにか、買ってもらってもいいかな」
 トメラの問いに対して、母はにこやかに「もちろん」と応じるのだった。


 あれから、何時間飛行機の中に乗っていただろうか。
 トメラは両親と楽しくお話をしたり、トランプをしたり……。
 少なくとも半日は旅客機の中にいたはずだが、トメラにとってはその時間は早く感じた。
 むしろ、もっとこの飛行機の時間が欲しかったぐらいだ。

「お待たせいたしました。ウツクシ村でございます。ご搭乗くださり、誠にありがとうございました」

 いよいよ着いたんだ。
 トメラは飛行機から降りつつ、そう思った。
 飛行機から出ると、そこには一面に広がる神秘な光景を目の当たりにした。
「ママ、見て、山だよ! すっご~い!」
 トメラは母の手を精一杯引っ張る。
「ええ、そうね。きれいな後継ね。ねえあなた」
「そうだな。写真で見るよりもすっごくきれいだ。これこそまさに、『大自然』って感じだな」
「そうよね」
 二人の間に、愛らしい微笑みが生まれる。
 トメラはそんな両親の愛らしい様子を見られて、心の底から嬉しく感じた。

   ☆ ☆

空港から出ると、トメラたちは森の方へ向かって歩いていった。
 村の平面に広がる田畑たちが、トメラたち3人をやさしく見守っている。
 土にまみれた農民たちは、物珍しそうにトメラたちの方をじっと見つめている。
 ジョージはその視線に気づくと、大きく右手を挙げて挨拶をする。
「やぁ、こんにちは。今日もいいお天気ですね」
 すると、農民の一人はしばらくじっとジョージを見つめ出した。
 だが、彼は少年のトメラを見るなりにこりと笑って「そうですね」と応じ流のだった。
 声をあげて笑い出すジョージ。

「トメラ。だいぶ良くなったみたいだな」
「えっ?」
 トメラは急に話題を振られて、父への返答に困る。
「傷口のことだよ。布団から落ちたんだろ?」
「あ、うんっ。そうだよ」
「あら、そうなの」
 そう言って、マリアはしゃがみこみ、トメラと顔を突き合わせた。
「大丈夫だった、トメラ?」
「うん! 見てのとおり、もういたくないよ」
「そう。ならいいんだけど……」
 マリアは、ふとトメラの顔のキズに、やさしく手を伸ばした。
 大きな手のぬくもりを、トメラは頬を通じて感じるのだった。

 しばらく歩くと、トメラたちは森の入り口にある神社にたどり着いた。
 その神社の石で造られた鳥居には、うっすらとした緑色のコケが染みついている。
 目立って新しいわけではなさそうだが、適度に人の手が加えられている跡もうかがえて、とても古風な社だ。
「はぁ~、疲れたぁ~」
 トメラは石畳の上でしゃがみこんだ。
 それに対し、マリアは「そうね」と応じて、リュックから赤いステンレスの水筒を取り出す。
「トメラも飲む?」
「うん!」
「わかった。ちょっと待っててちょうだいね」
 そう言って、マリアもしゃがみ込んだ。
「ママ、トメラ。あそこに腰掛があるみたいだぞ。あっちで休もう」
「了解。トメラ、これコップね」
マリアはトメラにプラスチックの白いコップを手渡す。
トメラは「ありがと」と応じてコップを受け取り、空いたもう片方の手で母の手を握った。
「ママ。ここ、とても不思議なところだね」
「ええ。『神社』っていうのよ」
「ジンジャ?」
「そう。この建物には、ウツクシ村の神様が祀られているみたいよ」
「へえ~」
 トメラはじっと、静かにたたずんでいる社を見つめだす。
「しかしまぁ、こういう偶像こそが、テロリストたちの温床になっているんだからな。本当に、厄介なものだ」
「あなた」
 キッときつい目つきをするマリアのしかめ面。
 その視線を感じてか、ジョージはびくっと身体を震わせている。
「パパ、どうしたの?」
「うっ、ううん! なんでもないよ」
「そう?」
 ジョージは水色のベンチにたどり着き、ずっしりと腰を下ろした。
「ふぅ~。それにしても、ここは空気がおいしいなぁ。やっぱり、自然っていいものだよ」
「それじゃあ、この村に引っ越す?」
 マリアはおどけた顔でジョージに問う。
それに対し、彼は「まさか」と応じた。
「僕はメリケン生まれのブライト市民だぞ。生まれてこの方、地元から移住したことはないんだ。これからも、離れるつもりはないよ」
「うふふっ、わかってるわよ。言ってみただけよ」
 母も、父のそばに近寄る。
 ジョージは、またも怪獣のように声を上げて笑い、席をゆずった。
 それに対しマリアは小声で「ありがとう」とつぶやき、ゆったりと椅子に座る。
 トメラも母の隣に座ろうとした、その時だった。
 神社の向こうにある森の入口から、ゴソッという音が聞こえてくる。
 トメラは振り向くと、ふと彼の顔から笑みがこぼれ出てきた。
「キツネだ! すごいよパパ、キツネがいたよ!」
 トメラの声に、ジョージは頷いた。
「ああ、いたね。父さんも見えたよ」
 トメラは立ち上がり、歩み始める。
「どこへ行くの、トメラ」
「森の奥だよ。キツネのあとを追いたいんだ」
 トメラが興奮気味にそう話すと、マリアはしぶった表情になる。
「ダメよ、トメラ。もしもあなたの身に何か起きたら、どうする気なの」
「そんな……」
 トメラは、暗い森のほうをうるうるとした視線で見つめた。
 そんな哀れな息子の様子を見て、ジョージは口を開いた。
「なぁママ、行かせてやってもいいんじゃないか?」
「あなた」
「せっかくの海外旅行なんだ。自然散策も立派な勉強の一つだと思うよ」
「あなた、最初は乗り気じゃなかったくせに」
「キミが言い出したことだろう? 『海外旅行はトメラのためになるから』って」
「それとこれとでは別よ。あの子ひとりに行かすのは危険すぎるわ」
「だったら、僕がついてるよ。それならいいだろ?」
 それを聞いて、しばらくマリアはじっと考える。
 そしてしばしの沈黙ののち、彼女は額に手を当てて、はぁ~っと深いため息をついた。
「……しょうがないわねぇ」
 マリアの言葉を聞いて、トメラはにんまりを笑い出した。
「やった!」
 ジョージは、幼いトメラに向かって言う。
「それじゃあトメラ、一緒に散策しよう」
「うん!」
 ジョージは森の方へ歩んでいく。
 喜々として、そんな父の手を取っ手寄り添うトメラ。
 母はなお、心配そうに二人に向かって言う。
「お願いだから、ゼッタイ迷子にはならないでちょうだいね!」
 それに対し、ジョージは自らの右ポケットを軽く叩いて応じた。
「大丈夫さ。困った時はこのスマートフォンがついてるから」
「そうだよ、大丈夫だよ!」
 トメラも喜々とした表情でそう言って、森のほうへ駆けていくのだった。

   ☆ ☆

 だが、全然大丈夫ではなかった。
 トメラたちは、迷子になってしまったのだ……。

「パパ! しっかりしてよ!」
 深い、種々が異なる木々に囲まれながら、トメラはそう泣きわめく。
 父は慌てふためいた。
「いや、だってまさか、スマートフォンの電源が切れるとは思わなかったんだよ」
「知らないよ、そんなこと!」
 トメラは天に向かって、うわぁっと泣き出す。
 父はそんな小さなトメラの手を引いて、ふと後ずさっていく。
「ほら。こういう時は『もとから来た道にたどって行け』っていうだろ? 大丈夫、パパに任せろ」
「ほんとに?」
 涙目でうるっと見つめるトメラ。
 父はその顔を見てひるみそうになるが、思い切った表情で「ああ!」と応じた。
「任せておけ! これでもパパは、警察官なんだからな」
 そんな頼りがいのある父を見て、トメラは明るい表情になる。
「さすがパパ! たよりになる~」
 そして、二人はゆっくりともと来た道をたどるようにしていった。
 
 はずだったのだが……。

「すまん、トメラ。お手上げだ」
「パプワアアぁぁ!」

 さすがのトメラも、ここばかりは激怒した。
 まあ、こんな状況にでもなれば、誰だって怒りたくなるものだろう。
 父は両手を合わせて、トメラに拝むように深々と謝った。
「すまん、トメラ! 許してくれ!」
「ゆるさないっ!」
「うまくいくと思ったんだよ」
「パパの言いわけなんか聞きたくない!」
 そう言ってトメラは、チクチクした影で黒ずんだ草原をかき分けだす。
「どこへ行くんだ、トメラ」
「自分で道をさがす!」
「バッ、バカッ! 勝手に進むんじゃない! トメラ!」
 父の忠告を無視して、トメラはずしずしと草原の上を踏んづけて走り去って行く。
「パパと死ぬのはごめんだ!」
 そう言って、トメラは森の中へ走り去ってしまう。

 案の定、トメラはカンゼンに、迷子になってしまったのだった。
 それも当然だ。
 何の知識もない少年が、未知の異国へ足を踏み入れているのだから。
 日の光を遮る木漏れ日の影が、妙な恐怖感を煽っていた。

「パパぁ~。さっきは悪かったよ。戻って来てぇ~」
 今さら弱音を吐くトメラのもとには、誰も来る気配が感じられない。
 これはもう、危機的状況だ。
「うわぁぁぁ~ン!」
 トメラは恐怖のあまり、ついその場で泣き崩れてしまった。

 死にたくない。死にたくないよ!

 トメラはそんな思いの丈を、太い赤松の幹に泣き声でぶつけた。
 でも、松の幹は何にも応えてくれない。
 トメラはしばしの沈黙を続ける。
 そして、彼はじっと松の削れている赤膚を一瞥したのち、ふと辺りを見回した。

 木、木、木。
 種類は微妙に違えど、トメラからしたら同じように見える、青々とした障害物だ。
 いっそのこと、すべて焼き払われればいいのに。
 いや。炎で死ぬのはイヤだ。
 でも、ここで遭難するのはもっとイヤだ!
 トメラはそんな困惑した心持ちで、ずるずると一歩ずつ前へ踏んでいく。
(とにかく、ここから離れなくちゃ……)
 トメラは、ようやく平常心を取り戻していった。

   ☆ ☆

 しばらく歩き続けると、トメラは山道の分岐点にたどり着いた。
 ハアーッハアーッ、と彼は息を整え、両手を膝につける。
「どっちへ行った方がいいんだろう……」
 トメラは頬に流れる汗をぬぐいながら、そうつぶやいた。

 その時だ。

 トメラは、背後からいきなりゴソゴソというかすれた音を聞き、ものすごい殺気を感じた。
 彼は後ろへ振り向くが、そこには何もなかった。
 あるのは、葉や蔓を伸ばした草たちだけ。
「何だ。気のせいか……」
 ほっとして、トメラは前の方へ向き直した。
 すると、目の前には眼光の鋭い黒い大熊が、遠くからトメラのほうをじっとにらんでいるのを確認してしまった。
(ヤバい、どうしよう……!)
 そう思いながらも、彼は足が石のように動かず、こわばってばかり。
 ずんずんと近づいていく大熊。
 小さく一歩一歩後ずさっていくトメラ。
 そして、一瞬の静かな刹那ののち、彼は振り向いてバッと逃げ出した。

 足元にあるきれいな花も踏んづけ、得体のしれないキノコも蹴っ飛ばした。
 彼にとっては、もはやそんなものはどうでもいい。
 それよりも、一刻も早くこの森から生きて脱出することが最優先だ。
 
 トメラは全速力で走りながらも、後ろの様子をちらりと一瞥する。
 だが、大熊との距離は縮まっていなかった。
 むしろ、黒い毛むくじゃらな恐ろしい顔は、どんどん近づいていっている……!

(ちくしょう、どうしたらいいんだよ!)

 トメラはそう心の中で叫びながら、ふと山道の横側に軌道を逸らした。
 高い傾斜からゴロゴロと身体を転げ落ちていく、少年の身体。
 手足のあちこちに傷が生じるが、自分の命を食われるよりは断然マシだ。

 だが、ふと目を開けると、トメラは絶望してしまった。

 なんと今度は、目の前に数匹のオオカミがいたのだ。
 ぶるっと体を起こすトメラ。
 その音に気づき、彼のほうへ一挙にオオカミたちの目が集中する。

(ダメだ! 殺される!)

 彼は一生のうちで一番の、身体の中の内臓がのどから飛び出るほどの大声を上げた。

「たすけて! だれか助けて!」

 オオカミは少年の声を無視して、じっくりと間合いを詰めていく。
 そして、獣たちは一挙に我先にと、トメラのほうへ襲いかかっていく!

 悲鳴を上げる少年。
 彼は自分の死を悟り、強く目をつぶった。


 トメラは、つぶった目をゆっくり開いた。
 ぼやける薄暗い世界に、少しずつピントが合っていく。
 するとそこには、見たこともない白い民族装束をまとった少女がたたずんでいた。
 首には水色の石の首飾りがつけられており、なぜか彼女は、その石を右手で強く握っている。

「大丈夫?」
 彼女はそうトメラに問いかけ、ゆっくりと近づく。
 トメラはつい、後ずさってしまった。
 華奢なその姿は、彼にとってはあまりにも神々しかったのだ。
「心配することはないわ。もう大丈夫よ」
 少女はまたも、トメラのほうへ近づいていき、ゆっくりと手を差しのべた。
 トメラは、その美しい手をじっと見つめる。
 そして、彼はおそるおそる少女の手を握った。
「あ……ありがとう」
 そうやって言うのが精一杯だった。
 トメラの言葉を聞いて、少女はふふっと微笑む。
「どういたしまして」
 そう言って、彼女はジロジロとトメラの身辺を見回し出す。
「……あなた、外国人ね?」
 トメラはビクッと体全体で反応した。
 すると、彼の頭の上に乗っていた木の葉が、トメラの目の前を一瞬遮った。
「ああ、そうだけど……。よくわかったね」
 すると、少女はまたも嬉しそうに、「うふふっ」と笑い出す。
「わたしはこの村の人間なの。よそのお客さんとの区別なんて、カンタンよ」
 彼女はビシッと、トメラの来ている私服を指さした。
「まず、服装。ウツクシ村ではこんなぜいたくな服はあまり着ないわ」
 彼女は指先の方向を、トメラの頭に向ける。
「次に髪型。こんなに黄色い髪型も、ウチの村ではめったに見ない。それと……」
 少女はふと、トメラの頬を触れた。
 彼女の冷たい指の感触が、トメラの神経に電撃を走らせる。
 彼はつい、背中からぞくぞくッと身震いした。
 少女は妙にうらやましそうな表情で、トメラの素肌を見つめる。
「わたしたちはこんなに、裕福な生活を送ってないわ。だからわかるのよ。あなたはよそから来た人なんだって」
「な、なるほど……」
 少女は、トメラに触れるのをやめた。
 彼は自分の触れられた頬の部分をさすり、ふと彼女を見つめ返す。
「あなた、迷子になっちゃったのね?」
「ち、ちがうよ!」
 少女のやさしい問いかけに対して、トメラはとっさにウソをついた。
 すると、彼女はじろじろとトメラの両目を見つめる。
「ホントにぃ?」
 彼はつい、目を逸らしてしまう。
 本当はどこかへ逃げてしまいたいのだが、トメラはどこへ行けばいいのかがわからず、立ち尽くすばかり。

 小鳥のさえずり。

「…………ウソだよ」
 トメラが自分の窮状を白状すると、少女はウフフッとまた笑い出した。
「キミは、この森に住んでるの?」
 トメラがそう問うと、少女は喜々とした表情で「まさか」と応じる。
「ここは野獣の住みついている森よ。こんな危険な所で、住めるわけないじゃない」
 少女は、またもかわいらしく笑い出した。
 そして、彼女はまたも、トメラに手を差し出す。
「はじめまして。わたしはミチルっていうの。あなたの名前は?」
 トメラは辺りを見回し、ミチルの冷たい手をギュッと握った。
「……トメラだよ」

 トメラは、ミチルの後をついていっている。
 ミチルは山道を、足早に歩いていく。
 トメラは、彼女のあとをついていくのに精一杯だ。
「ミチル、もう少しゆっくりと歩いていってよ~」
 彼は必死にそう強く訴えるが、数メートル先にいる彼女の言葉は、容赦がなかった。
「なに言ってるの。さっきみたいに野獣と出くわしちゃったらイヤでしょ?」
「それは、そうだけど……」
「ほら、早く!」
「わかったよ、もう……!」
 トメラは一生懸命、ミチルの後ろをついていった。
 だが、彼女は次々と前へずんずん進んでいく。
「待ってよ、ミチル~」
 トメラは立ち止まり、ゼェゼェと意気を整え出す。
 そんな彼を見てミチルは振り向き、身体をトメラのほうに向けた。
「あなたって、思ったよりも体力がないのね。それでも男の子なの?」
「うるさい!」
 トメラは必死に叫ぶが、のどの中がむせてしまい、ひどくせき込んだ。
 ミチルは小さな鼻から、深いため息をつく。
「しょうがないわねぇ」
 そう言って、彼女はトメラのほうに近づいていく。
 そして、ミチルはトメラの片手を握った。
「あと少しだから、がんばりなさい」
 トメラは一瞬気恥ずかしさを覚えたが、辺りを見回すなり、ミチルのほうをじっと見つめる。
「どうしたの」
彼女はトメラにそう聞くと、彼は「ううん、何にも」と応じた。

   ☆ ☆

森を抜けだすと、その向こうには、ユートピアが広がっていた。

深緑なスギの木の向こう側には、赤褐色の畑が垣間見える。
山の中腹には、何やら不思議な色をした木の実をつけた木が懸命に植えられており、大人たちは必死にその木の実を収穫している。
それはまるで、東洋の昔話に出てくる「桃源郷」そのものであった。

「とってもきれいだ」
 トメラは山の頂からの光景を見渡しながら、ミチルにそう言った。
 ミチルは誇らしげに言う。
「そうでしょ。ここから見るウツクシ村の景色は、天下一品よ」
 えっへん、と鼻を高くしているミチル。
 トメラはそんな彼女のほうへ向き、率直に質問した。
「ねえミチル、あそこで育ててる木の実は何だい?」
 トメラは、向こうの山の中腹にある丸い木の実を指さした。
 ミチルは、彼の指さす方を見つめる。
「ミカンよ。知らないの?」
 トメラは頷いた。
「うん。はじめて見た」
「へえ、そうなの。ウチではよく、アレをおやつとして食べるのよ」
「どんな味がするの」
 ミチルはじっくりと考えだす。
「そうねえ……甘いけど、すっぱいわね。そんな味がしたつぶつぶがたくさんつまってて……」
「あまずっぱいの?」
「そう」
「そのミカンっていう実には、どんな色の実をつまってるの?」
「ちょうどあんな感じの色をしてるわ。なんていうか、きいろいような、しゅいろのような……」
「へえ。それじゃあ、オレンジジュースみたいなものなんだね」
「オレンジジュース?」
きょとんとするミチル。
今度は彼女が、トメラに聞きだした。
「オレンジジュースって、なんなの?」
 彼女の言葉に、トメラはひどく驚いた。
 まさか、あのオレンジジュースを知らない子がいるとは、思いもしなかったのだ。
「え? オレンジジュースを知らないの?」
「ええ」
「ウソでしょ?」
「こんな時にウソをついてどうするの」
「それはそうだけど……」
 トメラはしばしの沈黙の後、切株の上におそるおそる腰かけた。
「オレンジジュースっていうのは、『オレンジ』っていう木の実を潰したジュースのことさ。メリケンではよく、ああいう色のよく似た果物が売られてるんだ。微妙に形や大きさが違うけどね」
「へえ~、そうなの。あなたの地元にもあるのね。そういう、ミカン色をした果物が」
「うん。もっとも、僕らはあの色を『オレンジ色』って呼んでるけどね」
 ウフフッと笑い出す少女。
 トメラはその笑顔を見て、なぜか胸がきゅうっと引き締まる感覚を得たのだった。

   ☆ ☆

 トメラは、ミチルのあとを一生懸命ついていく。
 でこぼこな山の岩肌を踏みしめて、足元に気をつけながら下山する二人。
 そしてようやく、ウツクシ村の奥にたどり着いたのだった。

「うわぁ~、すごい……」
 トメラはふと、そうつぶやいた。
 ミチルは恥ずかしげに、トメラに言う。
「ウツクシ村へようこそ、トメラ」
 トメラはミチルに大きくうなずいた。
「ありがとう、ミチル!」
 彼がそうお礼の言葉を述べると、ミチルはにこやかな表情になり「どういたしまして」と応じた。
 その笑顔を見た瞬間、トメラはすごく不思議な感覚を得た。

 なんなんだろう……
 いつまでもこうしていたい。離れたくない!

 そんな思いが働いてしまい、彼の足はちっとも動かない。

「どうしたの?」
 ミチルは、トメラの顔をじっと見つめている。
「いっ、いや、その……」
「うん」
 真剣な表情で頷く彼女の小顔に、トメラは目がくらんでしまう。
「大丈夫……? トメラ?」
 彼女の心配の声を無視して、トメラは意を決して言う。
「ミチル。ボクと……友達になってほしい」
「えっ?」
 トメラは、リュックサックからメモ帳とペンを取り出した。
 そして、そのメモ帳の切れ端をちぎり、急いで数字を走り書きしていく。
「これが、ボクのケータイの番号とSNSのIDだから。よかったら連絡して」
 そう言って、トメラはミチルの目の前にメモの切れ端を示した。
 彼女はその切れ端を刺すように見つめ、やがてトメラのほうを向く。
「もしかして。キミ、スマホのSNSを使ってなかったりする?」
 ミチルは首を横に振る。
「いいえ、わたしも使ってるわ」
「それならよかった! できればボク、キミとつながりたいんだ。いつまでも」
「トメラ……」
「ダメかな」
 
 二人の間に、しばしの無音な空気が通過していった。

(げ。まずかったかな……)
 トメラは一瞬、気まずい気持ちになってミチルの顔を伺う。
 だが、当のミチルはとても嬉しそうな表情を浮かべていた。 
「……わかったわ。それじゃあ、また連絡するね!」
 その言葉を聞くと、トメラの胸は躍り出した。
 彼女は、うやうやしく少年の手元からメモの切れ端を受け取る。
「ありがとう、ミチル! うれしいよ!」
 にっこりと笑うミチル。
「うふふっ。どういたしまして」
 トメラも彼女につられて、つい照れ隠しの笑みを浮かべた。

 向こうがわから聞こえる、太い声。
「トメラ!」
 トメラは振り向いた。
 すると向こうがわには、ジョージとマリアがこっちの方へ駆け寄ってきていた。
「どこへ行ってたんだ。心配したんだぞ」
 そう言う父に対して、トメラは深々と「ごめんなさい!」と応じる。
 そんな申し訳なさそうにしている少年を見て哀れに思ったのか、マリアは夫をなだめた。
「まぁ、あなた。トメラが見つけられて、結果オーライでよかったじゃない」
「ま、まぁ、そりゃそうだけど……」
 そう言ってトメラの父は、頭をポリポリとかき出した。
 するとトメラはここぞとばかりに、父と母に事情を説明しだす。
「パパ、ママ。この女の子が、ボクをここまで案内してくれたんだ」
「そうだったの」
「うん! ミチルっていうんだ」
 彼女は丁寧に、トメラの両親に向けて「はじめまして」と挨拶する。
「スガワラミチルです。ウツクシ村へようこそ」
 すると、トメラの父は少女に身を低くして、深々と頭を下げた。
「キミは息子を救った、命の恩人だ。本当にありがとう!」
 ミチルは小さな両手をあたふたさせて、そんなトメラの父の行動を制した。
「いえいえ! わたしは、大したことしてません!」
「いやいや。君は僕たちの大事な息子を救ってくれた。なあ?」
 「ええ」と頷く母。
「本当にありがとね、ミチルちゃん」
「そ、そんな……」
 3人がにこやかに会話で盛り上がっているところに、トメラは、ハッとした表情になる。
「どうしたの、トメラ」
 ミチルの問いに対して、トメラは言った。
「そういえば、ミチルはあのときどうやって、ボクを野獣から救ってくれたの?」
「え?」
 トメラの言葉を聞いて、父と母はびっくりする。
「トメラ、野獣に襲われかけたのか?」
「そう。でも、ミチルが助けてくれたんだ」
「そうだったのか!?」
 トメラは父に向かって大きく頷く。
 マリアはジョージの傍らで、目を丸くして強く両手で口を押さえている。
 トメラはミチルに向き直し、再び問いただした。
「どうやってボクを救ってくれたの?」
 すると、ミチルはしばしの沈黙の後、ぼそりとつぶやくように答えた。
「……ご先祖様が守ってくれたのよ」
「ごせんぞさま?」
 トメラの言葉に対して、ミチルは「そう」と応じる。
「亡くなったご先祖様のご加護で、あなたは救われたの」
 トメラは、両親のほうを見上げた。
 トメラの父と母も、ミチルの言っていることが理解できないでいたのだった。

   ☆ ☆

 ウツクシ村で暮らした3日間は、ズリーブ家にとってはとても最高だった。
 料理もおいしいし、緑も豊かで見晴らしがいい。
そして何より、地元の人々の人柄がとても温厚でやさしい!
トメラが普段生活しているメリケンのブライト市民たちとは違って、ウツクシ村の市民はみんな気軽に話しかけてくれる。
そして困った時には協力もしてくれて、おすすめのスポットを尋ねられたら誇らしげに教えて、道案内までしてくれる。
こんなに人柄のいい気風のを持つ民族は今のご時世、なかなかいない。
少なくとも、トメラたちにとってはとても新鮮味を感じていたのだった。



 でも、時の流れとは本当に残酷だ。
 楽しい時に限って、あっという間に過ぎ去ってしまうのだから。
 初めてウツクシ村に来た日が、つい昨日のことのようだ。



 トメラは父に向かってせがんだ。
「いやだ! 帰りたくなんかない!」
「トメラ」
「だって、ミチルとはなれちゃうんでしょ? やだよ。そんなのやだよ!」
 トメラは人目を気にせずに、泣き出してしまった。
 ミチルはそんな少年の姿を、潤んだ目でやさしく見守っている。
 ウツクシ村の市民たちも自分の畑の作業しながらも、ちらちらとトメラたちの様子を垣間見ていた。
 そんな空気を察して、母はトメラに言う。
「トメラ、そろそろ行くわよ。飛行機に間に合わなくなっちゃうわ」
「いやだ!」
 少年は、その場を動こうとしなかった。
 どんなに彼を引っ張ろうとしても、トメラはしゃがみこむばかりだ。
 トメラはそれだけ、ミチルのことが好きで好きでたまらなかったのだ。
 そして、この村のことも……。
「トメラ!」
 母がそう叱責しても、トメラの態度は変わらない。
「ボクはここをはなれたくないんだ! もう少しここにいさせてよ!」
 うわぁっ、と再び泣き出すトメラ。
 そこに、ミチルがゆっくりとトメラに歩み寄ってきた。
「トメラ、ありがとう。わたしたちもこの3日間は、とっても幸せだったわ」
「ミチル……」
 ミチルは、トメラの濡れた頬をやさしくぬぐう。
「お願い。最後まで、笑って帰って行ってよ。お願い。お願いだから……」
 ミチルは、トメラを強く抱きしめた。
 トメラはようやく、ミチルの思いを知ることができた。
「ミチル……」
 トメラは、小刻みに激しく肩を揺らしている少女の背中をやさしくなでた。
「ごめんよ、ミチル。キミも同じだったんだね……」
 トメラの胸の中で、ミチルは小さく頷いた。
 トメラは、そんなミチルに向かって言った。
「ウチに帰ったら、SNSで連絡を取るよ。いろんなやりとりをしようね」
 トメラの震えた声に、ミチルはハッキリと「うん!」と頷いた。
「今度は私が、トメラの住んでる街にいくから。それまで待っててね」
「うんっ!」
 トメラは、互いに小さな顔を突き合わせた。
「わかった! ……ミチル、約束するよ。ボク、キミのことをずっと見守ってるから」
「約束よ?」
「ああ。約束だ!」
 トメラは手を差し出して強く拳を握り、小指だけをピンと立てた。
 ミチルも同じように小指を立て、二人は力強く指切りをする。
「さあ、トメラ。はやく!」
 頷くトメラ。
 母に手を引っ張られて、トメラは後ろへ振り向く。
 そして、彼は急ぎ足で走り去っていった。
 大きく手を振るミチル。
「トメラ~! 必ず、あなたの国へ行くからね!」
 トメラは振り向き、満面の笑みを見せながら手を振り返すのだった。
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