黒太子エドワード

維和 左京

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第5章 忍び寄る影

壊れゆく幸せ

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 エドワードにとって、というよりイングランドにとって、ポワティエ以降はうまくいかないことが多かった。フランス王太子兼摂政のシャルルにはパリへの帰還を許してしまったし、フランスとの和平交渉はいまだ整っていない。
 それでも、エドワードは比較的穏やかな日々を送っていた。それには、秘書兼経済諮問役たるキャロラインの功績が大きい。
「殿下、小麦の収穫高が夏の長雨により減少し、値上がりの様相を見せております。王家の小麦を商人に売却し、値段を安定させるとともに財政面の回復を図りたいと思いますが、実行に移してよろしいでしょうか」
「拒否する理由はどこにもないな」
 エドワードはほとんど考える間も入れず、承認を下した。こと経済に関しては、彼はこの女性秘書を全面的に信頼していた。彼女は、はじめから承認だけを求めに来るか、多くても二択まで絞ってからエドワードのもとに持ってくるので、経済に疎い彼としても決断を下すのはたやすかった。
「ところで、新税の導入はまだ早いかな」
 エドワードの言う新税とは、以前にキャロラインが分厚い報告書にして持ってきたもので、土地に対してかかる年貢とは別に、人に対して税をかけるというものであった。いわゆる人頭税であるが、まだ導入は尚早ということで、二人の胸の中にだけしまってあるのだった。
「早いと考えます。まだポワティエの戦いが終わって二年。今増税すれば、市民はなぜ勝ったのに増税するのかと疑問を抱き、不満が募ります。それに、幸いにも今は戦利品のおかげで財政が潤っていますので、早急に歳入を増やす必要もありませんから」
 エドワードは二度ほどうなずいた。彼女の言葉を、頭の中で反芻したのである。どのみち、経済分野において彼女を説き伏せるだけの理論など、エドワードが持っているはずはなかったのであるが。
 彼女は公私両面において、エドワードをサポートしていた。それがいかに有難いかは、つい先日思い知ったところだった。今年の春、彼女が急な病気で三ヶ月ほど休みを取った際、エドワードのもとには山のような書類が積まれ、仕事も滞り、市民からの不満も高まったのである。
 彼女は面会も謝絶し、さては黒死病にでもかかったかとエドワードを心配させていたが、病気から復帰した彼女は、何事もなかったかのように書類の山を片付け、自らの有能さを証明してみせたのであった。
「さて、今日の仕事はここまでとしようか。疲れたろう、ワインでも持ってこさせよう」
 九月とあって、外はもう暗くなりかけている。ろうそくの灯りを頼りに書類を読むのは、昼の仕事の倍以上疲れるので、日没とともに仕事が終わるというのが当時の常識であった。
 やがて、召使がワインとグラスのセットを運んできた。ルビーとアメジストを溶かして流し込んだように鮮やかな色をしたその液体は、深い味わいを舌にもたらした。王族に生まれたことを、唯一感謝したくなる時間である。
「ところで、例の話は、まだ承諾してもらえないのかな」
「例の話、とは?」
「言わなくてもわかるだろう」
「わかりません。鈍いものですから」
 キャロラインはおかしそうに笑っている。からかっていることは明白であった。それに対し、エドワードは顔を赤くしている。軍事面と経済面において、それぞれ突出した能力を発揮する彼らも、恋愛面においてはまったくの素人だった。身分により恋愛が許されないことはあっても、身分があれば恋愛がうまくできるというわけではないようである。
「結婚しないかという話だ」
「何度も申し上げましたが、私はエド様と結婚する気はございません。これは愛情ではなく、身分の問題です」
「しかしな、私たちももう二十八だぞ。そろそろ結婚する頃合だとは思わないか?」
「ですから、早くお后様をお迎えになられますように」
 結婚に関する限り、キャロラインの言い方は、あくまで事務的である。まるで他人の結婚相談を受けているかのような物言いであった。
 説得に疲れたエドワードは、深いため息をついた。キャロラインが彼の椅子の後ろ側にまわり、いたわるように彼の首を抱きしめる。そんな風にして、彼らの夜は更けていくのであった。

 年が明けて一三五九年。この年は、珍しくと言ってもいいくらい、平和な年であった。英仏間に大規模な戦闘はなかったし、飢饉や革命が起こったわけでもない。多少退屈しながらも、エドワードは満足した日々を送っていた。
 そんなある日、エドワードに一通の手紙が届いた。差出人は、ケント伯女ジョアン。エドワードと、今は亡きニールの幼馴染の女性である。
『親愛なるエドへ』という書き出しで始まるその手紙は、ある意味エドワードの予想していたものであった。
『お忙しいところごめんなさい。風の便りに、ニールの訃報を聞きました。さぞかし、エドも心を痛めたことでしょう。こんなときに慰めに行ってあげられない自分を歯がゆく思います。
きっとエドのことだから、自分を責めているでしょう。でも、ニールは決してエドを恨んだりはしてないと思います。彼はエドと出会うことで、自分の能力を引き出すことができました。出世もすることができました。そして何より、エドという豊かな友人に出会えたのですから。
自分を責めないでください。そして、彼と出会えたことを、神様に感謝してください。そうすれば彼の魂もきっと救われるでしょう。こんなことを言うと、また神様かってエドに怒られるかもしれないけれど。
 寂しいことがあったら、周りの人たちに相談してください。きっとあなたの助けになってくれます。かく言う私も、寂しくないといえば嘘になります。これで私の幼馴染は、あなた一人になってしまったのですから。
 最近は、私の夫も頻繁に病にかかっています。もともと身体の強い人ではなかったから、少し心配です。エドも、くれぐれも身体には気をつけてください。
                           ジョアンより』
 彼はその手紙を読み終わると、大きく嘆息した。ジョアンにはあえてニールの死を知らせていなかったのだが、いずれ伝わるとは思っていた。
 海の向こう側から見透かされている気がして、エドワードは居心地が悪かった。実のところエドワードは、ニールの死は自分に責任があるのではないかと思い続けているのだ。彼が抜擢したりしなければ、あるいはポワティエの戦いをキャロラインの言に従って控えておれば、彼は死ななかっただろう。
 ジョアンにニールの死を伝えなかったのは、彼女を悲しませたくないのと同時に、自らの引け目を見せたくないという思いからだった。
「ジョアンから手紙が来た」
 彼がそう告げると、キャロラインは微妙に表情を変えた。
「そうですか」
「うむ。さて、無駄話はやめて仕事に取り掛かろうか」
 事実だけを告げて内容について話さないのが、エドワードの意地の悪いところであった。といって、仕事の時間なのは確かであるから、キャロラインも異論を挟んだりせず、淡々と報告を済ませてゆく。
「海産物についての報告は以上です。……ところで」
 キャロラインはそこでいったん言葉を詰まらせ、咳払いをしてから改めて聞きなおした。
「ジョアン様はなんと言ってこられたのですか」
「ほう、気になるかね、キャロライン嬢」
 先日の仕返しをするかのように、にやけるエドワード。キャロラインの白皙の頬に、朱の色がさした。
「秘書として、手紙が来たとなれば、気になるのが当たり前です」
 あくまで体裁を守ろうとするキャロラインだが、その声の上ずりようからすれば、本音を隠しているのは明らかであった。
「そうか、では内容はただの私生活だ。秘書殿に改めて公開するまでもない。これでいいかな」
 エドワードがさらにキャロラインを弄ぶと、彼女はついに降参した。
「私も一応は女ですから、女性から手紙が来たとなれば、その内容が知りたくもなります」
 あくまで見せてくださいとは言わないのが、彼女がプライドを保つぎりぎりのラインであった。エドワードは笑いながら、彼女に手紙を差し出した。キャロラインはそれを読み、ただの手紙であることを確認して、ほっとした表情をする。
 二人は、私生活上も手を取り合い、幸せに過ごしていた。

 古来、幸せというものは長続きしないものと相場が決まっている。波風がたたぬのが幸せであれば、事件が起こるものだし、そのような事件が一切起こらなかったとしても、人はそれを幸せとは捉えられなくなってゆく。
 二人の幸せが破綻の兆しを見せたのは、一三六〇年のことであった。その年、キャロラインは年初から、何度か休みを取った。理由を聞いても、健康上のことです、としか答えない。
 その間にも、仕事は山積みになってゆく。いや、仕事のことだけであればいいのだ。エドワードと部下の数人が働く時間を増やせば、短期間であれば補えないものでもない。ただ、彼女の私生活上の地位――一般には愛人と呼ばれるものだが、彼らはそう呼ばれるのを嫌った――を補うのは、何人をもってしても不可能だった。
「商人の動向についての報告はまだか。担当は何をやっている」
 些細なことに、思わず怒鳴ってしまうエドワードだった。明らかに彼は苛立っていた。
 はじめは一日、二日という単位であった彼女の休みは、次第に長くなっていった。それは彼女の健康が害されていることを示すものであった。
 そして、一三六〇年五月十五日。その日、エドワードは仕事に忙殺されていた。キャロラインが病に倒れてからというもの、経済分野においても負担が増え、彼は忙しくなる一方である。
キャロラインがいない間、経済はウォリック伯の担当するところとなっていた。彼は人格者であり、また経済においてそこそこの知識を有してはいたが、キャロラインがいるときと比べるとその能率の悪さはいかんともしがたかった。いまや、キャロラインはエドワードだけでなく、英国を支える柱であった。
「キャロラインはまだ戻らないのか?」
 エドワードはウォリック伯に尋ねてみた。彼女は二ヶ月に渡り、宮殿に出仕していなかった。
「療養中とのことでございます。先月最後の連絡があって以来、途絶えたままですな。今までこんなことはなかったのですが」
「では、早急に見舞いの使者を送るように手配せよ」
「かしこまりました」
 ウォリック伯がうやうやしげに一礼をしたとき、ちょうど部屋の外から小間使いの声がした。
「キャロライン様、ご来城なさいました」
 その声を聞いたとき、エドワードは思わず肘掛つきの椅子から腰を浮かせた。
「おお、待っていたぞ! すぐ通せ」
 その声に応じた小間使いが扉を開けると、そこからキャロラインが姿を見せた。以前より痩せているものの、その眼光は少しも衰えていないように見えた。
「よくきた。今ちょうど貴女の話をしていたのだ。病気はもうすっかりよくなったか?」
「…………」
 思わず笑顔となるエドワードとは対照的に、彼女はまったくの無表情だった。彼女は惜しむようにじっと彼の顔を眺めたあと、告げた。
「今日は、殿下にお別れを言いに参りました」
「なんだと!」
 彼は隣の部屋まで響き渡るくらいの大声で叫んだ。叫ばずにはいられなかったのだ。
「私の体は病に冒されています。おそらくあと一年と持たないでしょう。国政に悪影響を及ぼし、また、殿下をはじめとする他の者に感染の危険があることは必定。それに、私も少々疲れました。動ける今のうちに、殿下からお暇をいただきたいと思います」
 彼女は淡々と告げた。その透き通ったグレーの瞳に、迷いの色は見られなかった。
 彼女のことだ。突然こんなことを思いついたわけではないだろう。考え、迷いぬいた末での決断であるに違いない。そう思うと、エドワードは何も言えなくなった。
「キャル……」
「平民の私を取り上げ、重用してくださったことには感謝しております。どうかお元気で。それでは殿下、さようならです」
 キャロラインは震える手でスカートの裾を持ち上げ、礼を行うと、回れ右をして、政務室から退出していった。彼女の立ち姿は、なお少しも乱れることがなく、気品を保っていた。その後姿を、エドワードはドアが視界から彼女の姿を途絶えさせるまで見守っていた。
 そして、この日を最後に、キャロラインは歴史の表舞台から姿を消した。その日は穏やかな春の陽射しが、絶え間なく宮殿内に降り注いでいた。イングランドの経済を陰から支えた女性としては、あまりにあっけない幕切れであった。
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