黒太子エドワード

維和 左京

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第5章 忍び寄る影

夏の終わり

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 その年の十月、英仏間でブレティニーの和約が結ばれた。その内容は、フランスによるアキテーヌ・ポワトゥー領の割譲、及びジャン二世の身代金として、三百万エキュの身代金をイングランドに対して支払うこと。これは当時の王の歳入三年分という、莫大な額であった。
 逆にイングランドが行うものとしては、身代金の支払い完了を条件とするジャン二世の釈放と、英国王エドワード三世によるフランス王位の放棄をその内容としていた。後者は、百年戦争の発端が英国王による仏王位の要求であったことからくるものだが、既に実現可能性がなくなっていることは、前に述べたとおりである。名を捨てて実をとるために、放棄を明言したのであった。
 これで英仏間には、建前上は平和が戻ったことになる。いずれ破られるにせよ、数年は戦もないだろう。イングランドやフランスの民たちは、そう考えて、束の間の平和を謳歌していた。
 独り心穏やかでなかったのは、黒太子エドワードである。キャロラインが去ってからというもの、あちこちにスパイを放ったが、いまだに彼女の行方は杳として知れない。シャルルのときといい、諜報官の無能さを大声で叫んでやりたい気持ちで一杯のエドワードだった。
 ニールのときは、死に目に会うことすら許されなかった。仮にキャロラインの病が治癒不可能なものだとしても、まだ亡くなっていないのであれば、せめて最後に会っておきたい。彼はそう願っていた。
 ボルドーにあった彼女の家は引き払われ、小間使いのアメリアともども姿を消していた。生まれ故郷であるクレシーの村にも、帰った様子はないという。
 病気であるなら、そう遠くにはいけないはずだ。とはいえ、人一人、その気になれば穴でも掘れば隠れていられるとの言葉もある。まさか王太子自らあてもなく探しにゆくわけにも行かず、ただ報告を待つほかないエドワードだった。
 一方、フランス王太子シャルルはといえば、こちらも穏やかな日々とはいえなかった。身代金の支払いのため、新税の導入を図ってはいるが、パリに帰還したばかりで重税を課せば、いったん鎮まった反乱が再燃する恐れもある。慎重に進めねばならなかった。ゲクランも、ただの傭兵団長からフランスの正規の将軍に取り立ててもらい、兵の鍛錬に忙しい日々を送っている。
 では穏やかな日々を送っていたのは誰かと問われれば、民のほかには両国の国王であろうか。イングランド国王エドワード三世は、囚われの身のフランス国王ジャン二世を慰めるためと称して、毎晩のように宴を催していた。そうまでして敗者に敬意を払うとは、実に騎士道精神溢れることよ、と英国王は一部の貴族たちからは絶賛を受けた。
 しかし宴を催せば、多額の出費は免れない。眉をひそめる者もないではなかったが、騎士道を前面に出されると、騎士の身分も併せ持つ貴族たちとしては、反対しにくいのである。
 エドワードはそうした宴に参加するのは馬鹿馬鹿しいと、近頃はろくにウェストミンスターに帰ることもなく、戦争もないのにボルドーに居座っている。
 そうしているうちに、エドワードのもとに待ちわびていた報せが届いた。キャロラインが雇っていた小間使いであるアメリアを、ファクチュールの村で見かけたというのである。
 ファクチュールはボルドー近郊の小さな村である。そんなところに住んでたというのに今まで見つけられなかったのか、となじってやりたい気持ちを抑えて、エドワードは詳細な報告を求めた。
 一通りその報告を聞き終えたエドワードは、部下が止めるのも聞かず、単身ファクチュールへと黒鹿毛の愛馬を飛ばした。その日は風が強く、激しい風が彼の金髪に吹き付け、その髪型を乱していたが、彼がそれを気に留める様子はなかった。
 その村には、三時間ほどで着いた。石造りの家が多いウェストミンスターやボルドーと違い、木造の家が立ち並ぶ、静かな農村だった。
 ここの農村にアメリアがいるというなら、キャロラインもそばにいるはずだ。彼はそう信じて疑わなかった。実際にはアメリアにも暇が出され、彼女だけが故郷に帰ってきたということもあり得、むしろそのほうが可能性としては高いのだが、今の彼の頭からはそうした可能性は消え去っていた。
 彼は早速、農家に入って聞き込みをした。幸い、ここらではエドワードの姿を見たことがある者もいないらしく、騒ぎにもならずに済んだ。
 狭い村のことなので、情報はすぐに耳に入った。半年ほど前に、移り住んできた女性の二人組がいるという。うち一人は具合が悪いとかで、家の中からずっと出てこないそうだ。その話を聞いたとき、彼の魂はすでにキャロラインの姿に奪われていた。
 足早に、二人が住むというその家へと向かう。村のはずれに、その家はあった。木造で赤い三角屋根のついた小さな小屋だ。小屋の周りに立つオークの木が、茶色くなった葉を散らしており、上空には落ち葉が舞っていた。エドワードははやる心を必死で抑え、ドアをノックする。
「はい」
 数秒の後、木材を縦に組んだドアが開かれる。そこから出てきたのは、妙齢の女性だった。アメリアに間違いない。幾度か、宮殿にキャロラインを迎えに来た彼女と会ったことがあった。当初の印象とは異なり、眉の辺りに憂いがにじみ出ているように思えた。可愛らしい少女の面影は、もうどこにも残っていなかった。
彼女はエドワードを見ると、まず息を飲み、次に厳しい表情を形作った。
「こんなところまで、何の御用ですか」
「キャルがいるんだろう。キャルに会わせてくれ」
 もう形式も何もなかった。彼は必死の表情で訴えた。しかし、それはあっさりと却下された。
「お帰りください。キャロライン様は誰にもお会いになりません」
「なぜだ」
「やせ衰えた姿を、誰にも見られたくないのです。察してあげてください」
「構わん。そんなものは気にしない」
「あなたが気にしなくても、キャロライン様は気にするのです。お帰りください」
 アメリアは、あくまで譲歩を拒んだ。それがかつての陽気な少女の姿であるとは、実際に見たエドワードですら信じられなかった。キャロラインと同じグレーの瞳は、エドワードをきつく睨みつけていた。
「一目だけでも、だめか。見たらすぐに帰る」
「お帰りください」
 アメリアは頑として言い、そのままドアを閉めた。ドアを自分の目の前で閉ざされたことに、エドワードは世界そのものから拒絶されたようにすら感じた。
「また、来る」
 それが彼にできる、精一杯の抵抗であった。彼は重い足を引きずって、その日はボルドーへと帰還した。

 エドワードが去り際に吐いた言葉は、嘘ではなかった。彼は仕事をこなすかたわら、三日とあけずに通いつめた。それでも、アメリアは彼をキャロラインには会わせなかった。
 今にもキャロラインが亡くなるのではないかと、彼の頭には苛立ちばかりがつのる。それと同時に、病気は口実で、ひょっとしたら何か別の理由があるのではないかとすら思い始めてきた。たとえば、自分と会うのが嫌になったというような。
 エドワードは頭を振って、その不吉な考えを追い出した。好きな相手に嫌われるのと、好きな相手が死ぬのと、どちらが嫌であろうか。身勝手だと言われるかもしれないが、彼は嫌われるほうが嫌だった。
 そして、年も明けた一三六一年二月のこと。雪が降りしきる中、彼は馬に乗ってファクチュール村へとやってきていた。もはや、それは彼の日課ですらあった。
 村の数少ない人間は、雪とあって家の中に閉じこもり、外に人の気配はまったく感じられなかった。キャロラインたちの家の前で下馬し、積もる雪をブーツで踏みしめつつ、馬を隣の木につなぐ。
いつものように彼女たちの家のドアをノックするエドワード。そのコートの肩に、うっすらと雪が積もっていた。
 なぜか、中からの反応がなかった。不審に思い、再度ノックするが、やはり返事はない。ドアのノブをつかみ、力を入れると、それは案外簡単に動いた。小さな音を立てて、ドアが中へと開く。
 誰もいないのかと思いきや、ドア付近に座り込んでいる女性がいた。長いスカートごと膝を抱え、両膝の間に顔をうずめている。泣いているのかと思ったが、ドアの音に反応して上げられたその瞳に、涙はなかった。
「また、来たんですね」
 眼が赤い。泣き疲れたのか、涙も枯れたのか。いずれにせよ、アメリアはひどく弱っているように見えた。
「キャルは?」
「奥の部屋にいます」
 意外なまでに素直に、アメリアは質問に答えた。
「止めないのか?」
「もう、いいです」
 何が「いい」のか、エドワードにはわからなかった。しかし、ここで問答をしている場合ではなかった。一秒でも早く、キャロラインの顔が見たかった。彼は奥に進み、ドアをノックした。が、返事はない。
 玄関と同じように、無断で扉を開けて、中に入る。薬の匂いが、正確に言えば薬草をすり潰した匂いが、部屋中に充満していた。だがその中から、彼は薬のものとは違う、微かな匂いを感じ取ることができた。それは懐かしい、キャロラインの匂いだった。エドワードの嗅覚は、その微かな匂いを敏感に感じ取った。
 狭く薄暗い部屋の片隅に、ベッドがあった。その上に、アメリアより少し年上の女性が横たわっていた。キャロラインだ。頬がすっかりこけてしまっているが、見間違えようがない。
 彼女が病気であったというのは、この姿を見ただけで真実とわかる。身体が別人のように痩せ、腕は少し力を込めるだけで折れてしまいそうだ。かつて血色の良かった肌の色は、透き通るまでに白くなっている。夏の光と見間違うほど元気にあふれていた彼女は、もう片足が違う世界へと踏み入っていた。
「キャロライン」
 呼びかけるが、彼女は仰向けのまま眼を閉じていて、反応がない。もう、死んでいるのだろうか。不吉な想像が頭をかすめる。
 そっと、彼女の頬に右手を触れさせてみる。まだ温かかった。その感触に眠りの世界から呼び戻されたか、彼女がうっすらと眼を開ける。
 自らの頬を触っている手を確認し、そこから眼を上方に向けたところで、その眼が大きく見開かれる。
「エド様……!」
「ようやく会えた、キャル」
 そこにいることを確認しあうかのように、互いに名前を呼ぶ。
「どうしてここに?」
 彼女はベッドに横になったまま尋ねた。以前のキャロラインなら、そんな無礼なことは絶対にしなかったであろう。もう立ち上がる気力すら失われているようだった。
「わからない。ただ会いたかった」
「馬鹿な人ですね」
 彼女はそう言った。しかし、言葉の内容とは裏腹に、その顔には笑みがあふれていた。
「伝染るかもしれないのに、こんなところまで来るなんて、ほんと馬鹿な人」
「馬鹿で悪かったな。そうだ、私は王太子にもかかわらず、仕事をほっぽりだして女のところに会いに行くような馬鹿だ」
 エドワードは彼女の言いそうな言葉を先取りした。いきなり馬鹿扱いされて、子供のようにふてくされていたのである。
「でも、私も馬鹿です。そんな馬鹿な人に会いに来てもらって、すごく嬉しい。いつもなら、仕事はどうしたのって叱り飛ばすくせにね」
 彼女の瞳から、涙がこぼれた。真珠の形をしたそれは、透明に輝き、出来の良い宝石のようであった。いや、エドワードにとっては、それは宝石以上の価値を持っていた。
「聞いて、エド様。私の命は、もう明日まで持ちません。自分でわかります」
 その一言で、エドワードは頭を鈍器で打ち付けられたかのような衝撃を受けた。そんなことはないと否定したいのに、言葉がうまく出てこなかった。
「ですから、お話しましょう。その思い出を持って、天国に行きます」
 彼女はそう言ってから、言葉を付け足した。
「それとも地獄でしょうか。父親を殺しましたから」
「どちらでも構わない。私は、キャルが行くほうに行く」
 彼はそう言って、シーツの中からキャロラインの手をとった。その手はやせ衰えて、骨の上に一枚皮があるだけのようになっていたけれど、彼はそれを両手で大事そうに包み込んだ。壊れやすいガラス細工を包み込むときのように。
「覚えているか。最初に会ったときのことを」
「もちろん。生意気な子供だって思いました。人のことは言えませんけれど」
「まったくだ」
 それからしばらく、二人は思い出話に花を咲かせた。この世で二度と咲くことのない花を。その花は鮮やかでもなく、大輪の花でもなかったが、暖かいかすかな光を周囲に注いでいた。
 二人の話は、二時間に及んだ。暖炉から遠いこの部屋は、寒かったが、二人ともそういう素振りを少しも見せなかった。我慢していたのかもしれない。あるいは、感覚が麻痺していたのかもしれない。
「そうだ、あの世でニールに会ったら、よろしく言っといてくれ。同年代の人間がいなくて、寂しがってるかも知れん」
「そうでしょうか。むしろ、ライバルがいないって言って女性を口説いてそうな気がしますけど」
「ははは、違いない」
 エドワードは乾いた笑いを漏らした。ほぼ同時に、キャロラインが激しく咳き込む。
「おい、大丈夫か」
 やがて咳がやむと、彼女はすべてを悟りきったかのような、安らかな笑顔を見せた。かつて刃物のような鋭さを放っていたグレーの瞳は、穏やかな光に満ちていた。
「エド様、お別れのときがきたみたいです。だんだん、エド様の顔も声も、届かなくなってきました」
 容赦ない現実に、エドワードは泣きたくなった。しかし、逆に涙は出てこない。
「愛している」
 それしか、彼が口に出来る言葉はなかった。気休めでも嘘でもなく、心から言える、たった一つの言葉。
「ああ、エド様。私には、いまだに愛というものがどういうものかわかりません。でも、その人を大切に思う気持ち。その人にそばにいて欲しいと願う気持ち。誰かの力になりたいと思う気持ち。もしそれらを、人は愛と呼ぶのなら――――私は、エド様を、愛しています」
 彼女は満足そうに笑った。痛みも苦しみも、まるで感じぬかのように。エドワードは返事をしようとして喉に力を入れたが、言葉にならなかった。ようやく出たのは、名前のみであった。
「キャル」
 そのか細い声は、キャロラインの耳には届いていないようであった。ほどなく、彼女の手から力が抜けてゆく。まぶたも閉じてゆく。それらの動作が終わったとき、彼はキャロラインが遠い世界へ旅立ったことを知った。
 悲しくなるより前に、全身から力が抜けた。彼はキャロラインの手を握ったまま、膝をついてその場に座り込んでしまった。
 不思議と、涙が出ない。ニールを失ったときと同じように、喉だけが渇く。

 時が過ぎて、その日の夕方。ボルドーに戻った彼は、ウォリック伯の叱責を受けた。
「殿下! また抜け出されるとは……」
 しかしウォリック伯は、その叱責の途中で言葉を詰まらせてしまった。エドワードの顔に、何か尋常ならざるものを感じたからである。
「心配かけてすまない、伯よ。だが、もう二度としない。それで許してくれ」
「はっ」
 厳しく叱る予定だったはずのウォリック伯は、思わず敬礼を施した。エドワードはその傍を、悠然と歩いて自らの部屋へと入ってゆく。
 部屋に入ったあと、エドワードがどうしたか。泣いたのか、叫んだのか、黙ってうつむいていたのか。それについては、彼に好意的な者も嫌悪する者も、等しく沈黙するところであった。ただ、その日、誰も部屋に近づけなかったことだけは確かである。
 その翌日、彼は抜け殻のようにはならなかった。むしろ精力的に仕事をこなした。しかし、健康かといえば、そうでもなかった。全身に力が入らず、手の先まで神経が通っていないかのような感覚に陥る。何を触っても、感覚がストレートに脳髄に伝わらない。
 フランスの王太子シャルルは、病のため時折手が痺れるというが、それはこうした感じなのだろうか、と会ったこともない人物への想像を掻き立てるエドワードであった。
 ニールに続いて、若くして大切な人を失ったエドワードであったが、その瞳から闘志はなお消えていなかった。むしろ、ここで彼が生きる意欲を失ったら、逝った二人に申し訳ないとすら思う。

 季節が過ぎ、春になったある日、ボルドーのエドワードのもとに、小さな訪問者があらわれた。それはかつてキャロラインの小間使いを務めていた、アメリアであった。最後に会ったときに弱っていた瞳は元気を取り戻し、まるで別人であるかのような意志の強さを込めた光を放っていた。
「久しいな、アメリア。元気そうで何よりだ」
 エドワード様もお元気そうで、などと月並みな言葉は言わず、彼女はただ、
「キャロライン様がこちらから借りていたものをお返しに参りました」
と言った。彼女が持っていた大きな革のバッグには、衣装や本などが入っていた。
「それと、もう一つ。これが、キャロライン様から最後の贈り物です。エドワード様に直接お渡しするようにと」
 彼女が無表情に取り出したのは、銀色の鎖のついた十字架であった。それは、時折キャロラインが首から下げていたものであった。信仰心厚いというよりは、単なるアクセサリーとして身に着けていたように見えたが。彼女がそれを形見として選んだことに、何か意味はあるのだろうか。考えてみたが、答えは出なかった。
「ありがとう。わざわざ届けてくれたのか」
「キャロライン様のためですから。それでは、失礼します」
 敬礼を施して去っていこうとするアメリアを、彼は思わず引き止めた。何せ、彼女は唯一といってもいいほど数少ない、故人の想い出をエドワードと共有できる人物なのである。
「そう急がなくてもいいだろう。どうだ、少し休んでいかないか? 話したいこともある」
「……せっかくですけど、これから用事がありますので」
「そうか、それは残念だ。おまえにはキャロラインが世話になった。そのお礼というわけではないが、よかったら当家に仕えないか」
 彼が言うと、アメリアは思案顔をした。少しうつむき、それから再度顔を上げる。
「私はあなたのことが嫌いですが、それでもよろしいですか?」
 彼女の言葉は、エドワードには心外だった。特にこの娘に嫌われていることはしていないつもりだった。だが、年頃の娘の言う気まぐれと思えば、それほど腹も立たない。
「なぜ嫌われたかはわからんが、仕事さえやってくれれば構わん。私は愛人を募集しているわけではないからな」
「では、荷物をまとめて、次の安息日が終わる頃にはこちらに参ります」
 彼女は儀礼的に礼をして、その場を去っていった。エドワードはアメリアの彼に対する嫌悪感を、キャロラインをとられたことによる、一種の嫉妬程度に思っていた。それが事実とまったく異なることを、彼はやがて思い知るのである。
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