黒太子エドワード

維和 左京

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第5章 忍び寄る影

ランカスター公ジョン

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 キャロラインがいなくなってからというもの、彼は切に人材を求めていた。それまでのエドワードの勝利を影から支えていたニールとキャロライン、この二人がいなくなると、その負担はすべてエドワードにのし掛かる。私生活上のことは心の持ちようでなんとでもなるが、公務面においてはそうもいかなかった。一日につき彼に与えられる時間は、他の人と同じ二十四時間しかないのだから。
 もちろん、英国に人材がまったくいないというわけではない。武の面においてはチャンドスとグライーが健在であったし、ウォリック伯は諸侯のまとめ役として、貴重な存在であった。
 しかし、十三年前にエドワードが懸念したように、英国には経済の専門家がいなかった。経済の失敗は、そのまま政治への不満となって跳ね返る。よく言われるように、経済の成功なくして政治や軍事の成功はありえないのだ。
 そういう意味では、エドワードはキャロラインに頼りすぎていたのかもしれない。平均寿命が五十歳前後であったこの時代に、十三年勤めたキャロラインの後継者を一人も育てていなかったのは不覚だった。
 にしても、キャロラインはまだ三十になったばかりであった。少なくともあと十年長生きしてくれればと思うのは、欲張りすぎなのであろうか。
 この種の思考を、エドワードは頭の中で何度繰り返したか知れない。彼は経済の専門家を、喉から五本くらい手が出るほど欲していた。いや、必ずしも経済の専門家でなくともよい。諜報の専門家でも、彼の代わりを務める大将格の人物でも構わない。ともかく今は人材が欲しいのだった。
 そんな中、エドワードは一人の人物と会う機会を得ていた。午前の政務が一通り終わると、ウォリック伯が彼の部屋へと顔を見せる。
「殿下、今日は午後からジョン様がお見えになる日でしたかな?」
「そのようなわざとらしい確認をせずともよい。いくら私でも、その程度のことは覚えている」
 エドワードが苦笑いを浮かべると、ウォリック伯は彼と対照的に、快活に笑った。
「ご慧眼、恐れ入ります。なにせ殿下は、戦術のことであれば五年前に言ったことでも覚えているのに、私生活になると数時間前に言ったことも忘れておられることがありますから」
「そういうところが、おまえは一言余計だというのだ」
 ジョンとは、国王エドワード三世の四男で、王太子エドワードの弟に当たる。エドワードが生まれた土地の名を取って、エドワード・オブ・ウッドストックと呼ばれることがあるように、ジョンはゴーントで生まれた男として、ジョン・オブ・ゴーントとも呼ばれていた。次兄ウィリアムは幼い頃に亡くなっており、三男ライオネルも病弱なため、エドワードに万一のことがあったときには、王太子の座はこのジョンの下に転がり込むと見られていた。
 現在、彼はランカスター家の人間となっている。義父ヘンリーはかつてダービー伯と呼ばれていた男であって、ランカスター家の当主となった後もまだ健在だったが、病のため昨年その位を娘婿のジョンに譲り、今はジョンがランカスター家の当主、ランカスター公爵となっていた。
 エドワードとしては、彼が優秀な能力の持ち主であることを願いたかった。実弟が優秀となれば、連携してフランスと渡り合えるであろうし、エドワードや国王が不在のときでも、充分にその代理を果たしうるだろう。
 エドワードとジョンは、実に十四年もの間、ろくに顔をあわせていなかった。十四年前、クレシーの戦いのとき、ジョンはまだ六歳の少年であった。その後、エドワードは海を渡って転戦し、ジョンもランカスター家に婿入りしたため、お互い顔をあわせぬ日々が続いたのである。エドワードは、まだ見ぬ弟の姿に、思いを馳せていた。
「ジョン様、ご来城なさいました」
 その声がかかったとき、エドワードはいつもの政務室ではなく、宮殿の玉座にいた。ボルドーにおいては彼が主であり、公式にはジョンはその客人となるのだ。そこはもともと礼拝堂であった場所を改装したもので、充分な広さがあった。窓のうちの数箇所にはステンドグラスが用いられ、太陽の光を赤や黄色に変えて室内へと取り入れていた。
 やがて、従者を伴って、一人の青年が姿を見せた。中肉中背で、これといった特徴はなく、強いて言えば唇が薄いのが多少気になる程度であった。
 神々が己の彫刻に息を吹きこんだようだと噂されるエドワードに比べれば、外見的に見劣りするのは事実だった。しかし、そんなことは問題ではない。エドワードが気になるのは、彼の性格と能力であった。ニールやキャロラインに代わって、彼の右腕となれるのかどうか。そこが一番の問題だった。
「兄上、お久しゅうございます。元気で何よりです」
「うむ、おまえも元気そうだな。どうだ、晴れてランカスター公爵となった気分は」
「まだまだ若輩者ですから、これから精進を重ねます」
 二人とも、最初は相手を警戒して、お決まりとも言える挨拶が続く。話が動いたのは、エドワードが近頃ボルドーで流行っている疫病について述べたときだった。
「そうそう、こちらでは今、妙な病が流行っている。黒死病ではないが、かかった者は三日もすると身動きできなくなり、悪くすると死ぬそうだ。充分注意せよ」
「兄上、それについては心配要りませぬ。その病は身分卑しき平民の間で広まっている病だというではありませんか。私は生まれついての王族でございますゆえ、神が守護してくれております」
 その言葉に、エドワードは敏感に反応した。
「ジョンよ。そのようなことは、たとえ事実であったとしても口にするな」
「は? なぜでございますか?」
 ジョンは兄の発言の意図がわからないようだった。その病は、実際にはジョンの言うような神の守護ではなく、食糧事情の関係であろうが、貴族たちにはほとんど伝染していなかったのは事実なのである。なぜ事実を口にしてはならないのか。
「わからぬか。そちは病にかかった者を侮辱しているも同然なのだぞ」
「確かにその通りですが、それのどこが問題なのでございますか?」
「……もうよい」
 この場にいるのがエドワードとジョンだけであるなら、彼はその発言を聞き流したであろう。しかしここは宮殿の大広間で、二人以外にウォリック伯もいれば、衛兵たちもいる。平民出身の者はもちろん、貴族であっても、親族がその病に倒れた者は大勢いた。それらを侮辱するということは、まさしくこの場にいる者を侮辱するも同然なのだ。エドワードはそう伝えたかったのだが、ジョンには伝わらなかったようだ。
 その日、歓待として夕食をともにし、ジョンが寝室へと去ってから、エドワードは私室でウォリック伯に訊ねてみた。
「どう思う、ジョンを」
「や、ご立派に成長なされたかと」
「本当に、そう思うか」
 エドワードが厳しい視線を送りつつ再度問うと、正直なウォリック伯は押し黙ってしまった。
 夕食時にも、ジョンは平民や周りの人間を侮蔑する発言を繰り返していた。今回の発言が、久しぶりに会った兄に対する甘えだということであれば、まだよい。しかし、もしあれがジョンの本性であったならば、彼は特権意識が強く、しかも粗忽者だということになるであろう。これからフランスやスコットランドと争っていかなければならないというのに、あれで自分や父の代わりが務まるのだろうか。エドワードは不安をぬぐいきれなかった。

 一方その頃、フランスの王太子シャルルは、パリの高等法院の前で、上方を見上げていた。その日の天からは、春らしく暖かな陽射しが降り注いでいたが、彼が眺めていたのはそれよりもう少し下、重鐘のついた大きな機械仕掛けの時計であった。
 それはつい先日、神聖ローマ帝国出身の職人、ハインリッヒ=フォン=ヴィックから献上されたものであり、シャルルはいたくその時計を気に入っていた。暇があると、こうして出かけては、高等法院の正面に据え付けられたこの時計を眺めているのである。
 彼は時計を眺めながら、ゲクランを相手に税の話をしていた。話と言っても、打ち合わせをしているわけではない。ゲクランは軍人であり、この手のことにはてんで疎かったから、世間話も兼ねて、シャルルが税の講釈をしていたのである。
 その日の話題は、臨時税であった。シャルルは、マルセルの敗北により実権を失ったパリの三部会を意のままに操り、臨時税をたびたび徴収していた。
「坊ちゃん、そんな税金をかけていいんですかい? また市民の不満が高まりそうですが」
 不安そうに聞くゲクランに、シャルルは笑って言った。
「父上の身代金を払うためさ。恨まれるのは僕だが、それは仕方ない」
 シャルルにも無論、計算があった。古来、国王の身代金としての臨時徴税は、何度も例があった。とすれば、市民の不満もそれほどまでには高まらない。
 さらに彼のしたたかな点は、身代金を払うつもりなど、毛頭なかったことである。身代金を払わずとも、どうせイングランドは騎士道の点から国王ジャン二世を殺すことなどできはしない。だったら、そのままウェストミンスターにとどまってくれれば良いではないか。その間に、自分は身代金として集めたお金を使い、フランスを再建しておく。
「後悔しませんね?」
 ゲクランが念を押した。シャルルの考えを、ゲクランはどうやら理解しているようだった。彼は政治や駆け引きの世界が苦手なため、正面きってシャルルの行動を止めようとしたりはしないが、それでもシャルルのことが心配な面はあるのだった。
「後悔は、誰か他の人間にしてもらうさ」
 どうせこの世は、何をしても後悔することだらけ。ならば、後でまとめてすればよいではないか。シャルルはそう考えていた。
 もしシャルルがポワティエ以前のシャルルであったならば、父を見捨てるなどできはしなかったろう。彼にこのような大胆な決断をさせたものは、ひとえに割り切りであった。すべてを自分で背負い込むことができないなら、自分は次善の策を行うのみだ。どうせ三百万エキュなどという身代金は、今のフランスの財政では払えはしない。ならばあれこれと言い訳をして支払いを引き伸ばし、最終的には踏み倒してやればよいのだ。
「それよりゲクラン、頼みごとというのは?」
「へえ。もうわかってると思いますが、イングランドの挑発には決して乗らないで頂きたいので。特にあのエドワードとの対戦は、なにがあっても避けてください」
「ああ、わかってる。言われなくてもそうしたいくらいだ」
 シャルルはポワティエの戦いで実際にエドワードを見、その恐ろしさを知っている。そして、自分が決して彼には勝てないことも。
 だからこそ、昨年イングランドの国王軍が上陸してパリに迫り、彼らを挑発したときも、これを無視した。いまだパリを落とすほどの戦力がイングランドにない以上、相手にしなければ、いずれ帰還するに決まっているのだ。
 そしてゲクランもまた、黒太子と同条件では勝ち目がないということを悟っていた。もちろん自負心がないわけではなかったが、彼は上には上がいるということを知っていたし、上の者との戦いを避けることは恥ではないことも知っていた。
 勝てない相手との戦いは避ける。これは戦略の基本であり、とりたてて思いついた彼らが優秀というわけではない。彼らが非凡なのは、自分たちが軍事面において二流であると認めているということだった。
 三流は、自分が三流と気づかないがゆえに三流であるという。彼らは自分が二流であることを知っていた。そして、一流の人間には決してかなわないことも。そうであるならば、一流と戦わなければ良いのだ。どうせ世の中には三流の人間が腐るほどいるのだから。
 そして、黒太子と言えども万能ではない。必ずや、失策を行うときがくるであろう。そのときまで、せいぜい逃げておけばよいのだ。
 フランスの若き英雄たちは、虎視眈々と、歴史の流れが自分たちに向くときを待ち続けていた。
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