暴君は野良猫を激しく愛す

藤良 螢

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伝うのは

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 今なら、許されるだろうか。
 甘美な誘惑がちらついては手招きする。固く握り締めた拳を、もう一度、彼に伸ばしたいと思った。
 身体中に口づけを降らせることに夢中になっている彰久は、躊躇いがちに彼女の腕が持ち上げられたことに気づかない。毎日数多の華を咲かせているというのに、飽きないものだ。
 伸ばそうとした手は、触れるか否かの瀬戸際でその動きを止めた。
 自分は、いつからこんなにも弱い人間になってしまったのだろうか。
 あと少しだというのに、目に見えない何かに阻まれているかのようにそこからぴくりとも動かせない。触れたいのに、触れるのが怖い。

「との、さま……」

 わななく唇が紡ぎだした声は、みっともないほど震えていた。
 涙がほろほろと目尻から流れ落ちてはこめかみを冷たく濡らしていく。
 悲しいわけではない。辛いわけでもない。なのにこみ上げてくるものは止まることを知らない。

「なぜ泣く? ……泣くな」
「とのさま……とのさま……」

 心底困った顔をする彼が、親指の腹で優しく目元を拭った。自分ではどうすることもできず、譫言のように何度も繰り返し彼を呼んだ。
 触れたい。触れてほしい。そればかりが頭を巡って、行き場なく宙をかく。

「なんだ、どうしたというのだ。わけがわからんぞ」

 どこか痛むのか、苦しいのかと立て続けに問われても幸菜は首を振るだけで、ほとほと困り果てたと彰久はその身を起こした。
 こんな風に泣きじゃくる彼女を彰久は知らない。何度も泣かせてきたが、こんな泣き方をしたことは一度もなかった。

「………………亜希を呼ぶか?」

 それは苦肉の策だった。
 幸菜は彼女を母のように慕っていたから、これにならば頷くだろうとーー泣き止むだろうと思った。
 しかし彰久の目論見は外れ、幸菜は首を振るばかり。
 では仔猫を連れてくるかと言ってみるも、やはり反応は変わらなかった。
 食か。美か。欲しいものでもあるのか。
 問いかける口調には次第に焦りと苛立ちが孕んでいく。

「なら何が望みなのだ! 言えばいいだろう!」

 表情を険しくさせて怒鳴る彰久に怯え肩を震わせながらも、幸菜はようやくその口を開いた。

「……………もう、……許して…………」

 白い頬に筋を描いて滑り落ちた最後の一粒に、彰久は何かが遠退いていく音を聞いた。
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