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朝帰り
意識が戻ったとき、私はボタンを三つも外したワイシャツにズボン姿のまま、ベッドに横たわっていた。
そして、私は……この部屋を知っている。
ここは……、鈴川さんがパートナーを飼うためのセカンドハウスだ。
勢いよく上半身を起こす。シンプルなシングルベッドと個性のないインテリアでまとめられた小さな部屋。ここが唯一与えられるプライベートな空間。
この部屋で私は半年もの間、寝起きしていたことがある。
無地のカーテンの隙間から見えるのは朝の日の光、だろうか。まるでいきなり数年前にタイムスリップしてきたような……でも、これは、現実だ。
部屋には私一人きりだった。ベッドを降りて、部屋を飛び出す。板張りの廊下、部屋の間取りも……はっきりと覚えていた。
リビングのガラスの扉の前で、私は一瞬、立ち止まり、こんなところでぐずぐずしていてどうすると勢いをつけて扉を開けた。
リビングの家具の配置もなにもかも私の記憶のままだった。テレビに向かって置かれたソファにゆるい部屋着姿の鈴川さんの姿があって、
「もう起きたの?」
と私を見つめていた。
「す、鈴川さん……っ……あ、あの…………っ!」
「喉乾いてるでしょう。座って待ってて」
鈴川さんが立ち上がりキッチンへ歩き出す。
「あ、あの、私……」
「千尋ちゃん。座ってなさい」
鈴川さんの声色が変わる。それは、鈴川さんが命令する時につかう声だった。
鈴川さんとパートナーだったのはもう何年も前のことなのに、私はほぼ反射的に「はい」と返事をしていた。
このマンションの部屋の全てが、私の記憶を刺激している……。
私は自然とローテーブルを挟んでソファと向き合う床に腰を下ろしていた。ソファは2人がけほどの余裕があるが、そこは『ご主人様』の席だった。
ぺたんと床に座り込んだ私のもとに鈴川さんが水の入ったグラスを運んできて「はい、どうぞ」と、目の前に置く。
その声が命令に使う声ではなくて、いつもの鈴川さんの声に戻っていて、すこしほっとした。
喉はたしかにすごくかわいていて、私はすぐにグラスを手にとって冷たい水に口をつけた。
「千尋ちゃん、意識なくなるまで飲むなんて、相変わらず体に悪い飲み方するんだね。でも吐いたから多少はアルコールが抜けたのかな」
鈴川さんはマグカップを片手に私の向かいのソファの席に戻る。
「吐い、たんですか……?」
「うん。吐いたほうが楽になるだろうなと思ってね。ほら、吐かせるのは得意だから」
鈴川さんが微笑みながら、カップを持っていない方の手をひらひらと振る。嘔吐させるのは、確かに得意な人だ。
「千尋ちゃん飲み過ぎてほぼ気絶状態だったから運んできたんだよ。金曜の夜でしょう。あいているホテル探すより、近いからここでいいかなと思って」
マグカップをテーブルに置いた鈴川さんがマッチの箱をどこからか取り出す。そして、しゅ、っとマッチをするとその火を、テーブルの端に置かれていた置物に近づけた。
それが何なのか私はすっかり忘れていて、置物の真ん中の蝋燭に火が灯ってはじめてそれが鈴川さんの気に入っているアロマキャンドルだと思い出した。
ふわっと、濃い香りが広がる。これは……鈴川さんの匂いだ。
ざわっと全身が震えたのがわかった。先ほどまで何度も断片的に頭をかすめていた過去の記憶が、この香りで一気に鮮明に蘇ってきて私の体の自由を奪っていた。
この香りの元で鈴川さんから受けた調教の日々。
この部屋にいるかぎり、私は、ただ鈴川さんの命令に従っているだけで、なにも考えなくていい。むしろ考えることを禁止されていた。
鈴川さんの言うことが世界の全てで、その管理下にあることがなによりも幸せだった。
あの頃は……よかった。
いつのまにか視界はぼろぼろとこぼれだした涙で醜く歪んでいた。
「千尋ちゃん……?」
心配したような声がどこか遠くに聞こえる。
ちがう。
そうじゃない。この声じゃない。
私は一体……一体ここで、なにをしているのだろう。
あの頃はよかった?
なんでそんなこと、一瞬でも思ってしまったんだろう。
私には、私には俊光様がいるのに。
「大丈夫、千尋ちゃん。なにか……」
「わたし……帰らないと……っ」
グラスをテーブルに置いて立ち上がる。勢いよく立ったせいか、一瞬頭がくらっと痛んだ。
「どうしたの? ゆっくりしていっていいんだよ。今は、誰もいないし……」
「か、帰らないといけないんです。わ、私、いま、お付き合いしている人がいて……っ。といっても今は遠距離でもう二ヶ月以上会ってないんですけど。でも、ここにいたら私……昔のことを思い出して……」
手の甲で涙をぬぐうと、ソファに座ったまま私を見上げる鈴川さんが驚いた表情のまま首をかしげていた。
「千尋ちゃん、パートナーがいるの?」
「はい……っ」
うなずくと、またぼろっと涙が頬を滑り落ちていった。
鈴川さんがすっと眉間に皺をよせる。
「マンションまで連れてきた私が言うのもあれだけど……あんなSMパーティに一人で来て、前後不覚になるくらい泥酔して変な人に捕まったらとかなにかあったらとか考えなかったの?」
正論すぎて返す言葉がない。なにも言えない私を前に鈴川さんは「まあ、今の私は千尋ちゃんをお説教する立場じゃないからこれ以上は言わないけど」と立ち上がり、
「相変わらず世話がやけるね……今、鞄とジャケットもってきてあげるから。もう電車動いてるけど、タクシーかなんか呼ぶ?」
と続けた。
「で、電車で帰ります」
これ以上、鈴川さんに迷惑をかけるわけにはいかない……。
土曜朝の電車は空いていた。ぼんやりと窓の景色を眺めているうちに最寄駅について、だるい体を引きずるようにしてマンションまで歩く。
意識がなくなるほど飲んだのに、倦怠感があるだけでそこまで二日酔いの症状があまりないのはやはり飲んだアルコールをほとんど吐いたからだろうか。
とりあえず帰ったらシャワーを浴びて、だらだら寝て過ごそう。
マンションのエントランスを通り抜け、部屋のある二階の階段をのぼってもうすぐ部屋につくというとき、ふいに視界の先で人影が動いて、私は思わず足をとめた。
マンションの部屋の扉がならんだ外廊下の先、ちょうど私の部屋の扉の前に寄りかかるようにして立っている長身の男性は……。
「と、と、と、俊光様?!?!?」
黒のタキシードを身に纏った俊光様が私の目の前に立っている。
嘘だ。幻覚?? ついに頭がおかしくなった??
私と俊光様は数秒間固まったまま見つめあっていた。そして、いきなり、俊光様が私との距離をつめて、覆いかぶさるようにぎゅっと私を抱きしめた。
「ただいま、千尋。誕生日に間に合わなくて悪かった」
「ぇ……っ」
俊光様の胸元に顔が押し付けられ、背中に回された腕が痛くて苦しい。
俊光様が私を抱きしめてくれている。この感覚は、夢じゃない。
「どうした、おかえりは言ってくれないのか?」
そう催促されるまで私は馬鹿みたいに放心していた。
「お、おおかえりなさい……っ!!な、ななんでいきなり。ずっと、ずっと会いたかったんですよ!!!!」
「驚かせるつもりだった。誕生日の千尋をサプライズで迎えに行く予定が飛行機のトラブルで日付を超える前に帰ってこられなかった」
よりによって私の誕生日に、通じない電話。その理由は飛行機に乗っていたから……?
「一人で誕生日を過ごさせてしまって本当に悪かった。ごめんな、千尋」
「と、俊光様のせいじゃないです……」
謝らなくていいことで謝る、俊光様にはそういうところがある。前もそうだった。私が俊光様の気持ちが分からなくて試すようなことをしてしまったときもだ。
つい不安になってしまうのは私ばかりで、俊光様はいつでも変わらずに私を思ってくれているんだ。
「それで」
俊光様が抱きしめていた腕をほどいて私を見下ろす。
「千尋は私の留守中に、朝帰りか?」
「ぁ…………」
これは……どうすれば……。
そして、私は……この部屋を知っている。
ここは……、鈴川さんがパートナーを飼うためのセカンドハウスだ。
勢いよく上半身を起こす。シンプルなシングルベッドと個性のないインテリアでまとめられた小さな部屋。ここが唯一与えられるプライベートな空間。
この部屋で私は半年もの間、寝起きしていたことがある。
無地のカーテンの隙間から見えるのは朝の日の光、だろうか。まるでいきなり数年前にタイムスリップしてきたような……でも、これは、現実だ。
部屋には私一人きりだった。ベッドを降りて、部屋を飛び出す。板張りの廊下、部屋の間取りも……はっきりと覚えていた。
リビングのガラスの扉の前で、私は一瞬、立ち止まり、こんなところでぐずぐずしていてどうすると勢いをつけて扉を開けた。
リビングの家具の配置もなにもかも私の記憶のままだった。テレビに向かって置かれたソファにゆるい部屋着姿の鈴川さんの姿があって、
「もう起きたの?」
と私を見つめていた。
「す、鈴川さん……っ……あ、あの…………っ!」
「喉乾いてるでしょう。座って待ってて」
鈴川さんが立ち上がりキッチンへ歩き出す。
「あ、あの、私……」
「千尋ちゃん。座ってなさい」
鈴川さんの声色が変わる。それは、鈴川さんが命令する時につかう声だった。
鈴川さんとパートナーだったのはもう何年も前のことなのに、私はほぼ反射的に「はい」と返事をしていた。
このマンションの部屋の全てが、私の記憶を刺激している……。
私は自然とローテーブルを挟んでソファと向き合う床に腰を下ろしていた。ソファは2人がけほどの余裕があるが、そこは『ご主人様』の席だった。
ぺたんと床に座り込んだ私のもとに鈴川さんが水の入ったグラスを運んできて「はい、どうぞ」と、目の前に置く。
その声が命令に使う声ではなくて、いつもの鈴川さんの声に戻っていて、すこしほっとした。
喉はたしかにすごくかわいていて、私はすぐにグラスを手にとって冷たい水に口をつけた。
「千尋ちゃん、意識なくなるまで飲むなんて、相変わらず体に悪い飲み方するんだね。でも吐いたから多少はアルコールが抜けたのかな」
鈴川さんはマグカップを片手に私の向かいのソファの席に戻る。
「吐い、たんですか……?」
「うん。吐いたほうが楽になるだろうなと思ってね。ほら、吐かせるのは得意だから」
鈴川さんが微笑みながら、カップを持っていない方の手をひらひらと振る。嘔吐させるのは、確かに得意な人だ。
「千尋ちゃん飲み過ぎてほぼ気絶状態だったから運んできたんだよ。金曜の夜でしょう。あいているホテル探すより、近いからここでいいかなと思って」
マグカップをテーブルに置いた鈴川さんがマッチの箱をどこからか取り出す。そして、しゅ、っとマッチをするとその火を、テーブルの端に置かれていた置物に近づけた。
それが何なのか私はすっかり忘れていて、置物の真ん中の蝋燭に火が灯ってはじめてそれが鈴川さんの気に入っているアロマキャンドルだと思い出した。
ふわっと、濃い香りが広がる。これは……鈴川さんの匂いだ。
ざわっと全身が震えたのがわかった。先ほどまで何度も断片的に頭をかすめていた過去の記憶が、この香りで一気に鮮明に蘇ってきて私の体の自由を奪っていた。
この香りの元で鈴川さんから受けた調教の日々。
この部屋にいるかぎり、私は、ただ鈴川さんの命令に従っているだけで、なにも考えなくていい。むしろ考えることを禁止されていた。
鈴川さんの言うことが世界の全てで、その管理下にあることがなによりも幸せだった。
あの頃は……よかった。
いつのまにか視界はぼろぼろとこぼれだした涙で醜く歪んでいた。
「千尋ちゃん……?」
心配したような声がどこか遠くに聞こえる。
ちがう。
そうじゃない。この声じゃない。
私は一体……一体ここで、なにをしているのだろう。
あの頃はよかった?
なんでそんなこと、一瞬でも思ってしまったんだろう。
私には、私には俊光様がいるのに。
「大丈夫、千尋ちゃん。なにか……」
「わたし……帰らないと……っ」
グラスをテーブルに置いて立ち上がる。勢いよく立ったせいか、一瞬頭がくらっと痛んだ。
「どうしたの? ゆっくりしていっていいんだよ。今は、誰もいないし……」
「か、帰らないといけないんです。わ、私、いま、お付き合いしている人がいて……っ。といっても今は遠距離でもう二ヶ月以上会ってないんですけど。でも、ここにいたら私……昔のことを思い出して……」
手の甲で涙をぬぐうと、ソファに座ったまま私を見上げる鈴川さんが驚いた表情のまま首をかしげていた。
「千尋ちゃん、パートナーがいるの?」
「はい……っ」
うなずくと、またぼろっと涙が頬を滑り落ちていった。
鈴川さんがすっと眉間に皺をよせる。
「マンションまで連れてきた私が言うのもあれだけど……あんなSMパーティに一人で来て、前後不覚になるくらい泥酔して変な人に捕まったらとかなにかあったらとか考えなかったの?」
正論すぎて返す言葉がない。なにも言えない私を前に鈴川さんは「まあ、今の私は千尋ちゃんをお説教する立場じゃないからこれ以上は言わないけど」と立ち上がり、
「相変わらず世話がやけるね……今、鞄とジャケットもってきてあげるから。もう電車動いてるけど、タクシーかなんか呼ぶ?」
と続けた。
「で、電車で帰ります」
これ以上、鈴川さんに迷惑をかけるわけにはいかない……。
土曜朝の電車は空いていた。ぼんやりと窓の景色を眺めているうちに最寄駅について、だるい体を引きずるようにしてマンションまで歩く。
意識がなくなるほど飲んだのに、倦怠感があるだけでそこまで二日酔いの症状があまりないのはやはり飲んだアルコールをほとんど吐いたからだろうか。
とりあえず帰ったらシャワーを浴びて、だらだら寝て過ごそう。
マンションのエントランスを通り抜け、部屋のある二階の階段をのぼってもうすぐ部屋につくというとき、ふいに視界の先で人影が動いて、私は思わず足をとめた。
マンションの部屋の扉がならんだ外廊下の先、ちょうど私の部屋の扉の前に寄りかかるようにして立っている長身の男性は……。
「と、と、と、俊光様?!?!?」
黒のタキシードを身に纏った俊光様が私の目の前に立っている。
嘘だ。幻覚?? ついに頭がおかしくなった??
私と俊光様は数秒間固まったまま見つめあっていた。そして、いきなり、俊光様が私との距離をつめて、覆いかぶさるようにぎゅっと私を抱きしめた。
「ただいま、千尋。誕生日に間に合わなくて悪かった」
「ぇ……っ」
俊光様の胸元に顔が押し付けられ、背中に回された腕が痛くて苦しい。
俊光様が私を抱きしめてくれている。この感覚は、夢じゃない。
「どうした、おかえりは言ってくれないのか?」
そう催促されるまで私は馬鹿みたいに放心していた。
「お、おおかえりなさい……っ!!な、ななんでいきなり。ずっと、ずっと会いたかったんですよ!!!!」
「驚かせるつもりだった。誕生日の千尋をサプライズで迎えに行く予定が飛行機のトラブルで日付を超える前に帰ってこられなかった」
よりによって私の誕生日に、通じない電話。その理由は飛行機に乗っていたから……?
「一人で誕生日を過ごさせてしまって本当に悪かった。ごめんな、千尋」
「と、俊光様のせいじゃないです……」
謝らなくていいことで謝る、俊光様にはそういうところがある。前もそうだった。私が俊光様の気持ちが分からなくて試すようなことをしてしまったときもだ。
つい不安になってしまうのは私ばかりで、俊光様はいつでも変わらずに私を思ってくれているんだ。
「それで」
俊光様が抱きしめていた腕をほどいて私を見下ろす。
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「ぁ…………」
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