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第三章 交点に降るは紅の雨
35 反撃 ※残酷な描写あり
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剣を振るいながら、ユエはこの状況でも、不思議と頭が冷えていた。
******
男たちと医者のやり取りや、クレインとの会話は、ユエにはよく分からないことが多かった。
そのため彼にとっては、話よりも、自分がやるべきことに集中できたのだ。
(まずは腕が自由にならないと……!いや、その前に、剣を取って、それで紐を切ればいい!手は……なんとか足首に届く!)
クレインが注意を引きつけてくれている間に、後ろ手にゴソゴソと、足首のドワーフの剣をすぐに取り出せるように準備をしていた。
そして、クレインとの特訓を思い出す。
(狙うのは、足、手、首、頭……相手が驚いている間に、素早く、手際よく……!)
ユエが落ち着いていられたのは、クレインのおかげというのが大きい。
静かに獲物を待ち、隙を伺って、一瞬で狩る──道中の狩りではいつもそうして、目で会話をしていたのだ。
この状況でも、意思疎通はできていた。
そして──ここにはいない、カイトの存在。
ユエは信じていた。いや、分かっていた。彼が来てくれることを。
(カイトが来てくれるまで、二人で頑張ればいい)
どこかユエには、そんな余裕さえあった。
そうして、その時に備えていた。
******
(血って、熱いんだな……)
「ぎゃっ!!」「ぐあ……!」「がっはぁ……!!」
(足、手、首、頭……)
呪文のように頭の中でそう唱えながら、ユエは剣を振り下ろす。
手には肉を断つ感触と、刃が骨に当たる感触がした。
一振りするごとに、紅く熱い液体が飛ぶ。目に入りそうになるそれを、だがユエは一瞬の隙も作らないように、瞑ることもしない。
誰かが倒れ、誰かが蹲る。
扉に向かって進むごとに、髪が大きく揺れて、視界が狭まる。
(っ、邪魔!!)
無意識に手で払い、青い視界を赤に戻す。
「ユエ……っ!」
クレインの声だけを目指して、腕を振りながら歩を進める。
ガチャッ!
扉に鍵はかかっていなかった。
誰を斬ったのか、部屋の中はどうなっているのか、確認しないまま部屋を飛び出す。
「っ、ラークを、見つけないと!!」
クレインの言葉に頷いて、薄暗い廊下を駆けた。
部屋の外は静まり返り、この騒ぎを聞きつけて、誰かが来る様子はなかった。
それにひとまず息をつき、とにかく片っ端から扉を開けていく。
はぁはぁ……!
荒い息の二人は、この建物中に充満する、焦げ臭い嫌な臭いを感じ取っていた。
背後を気にしながら、ユエがある扉を開け放った時──「え……?」異様な臭いと、そして気配──。
知った顔と、目が合った気がした──ユエはふら……と部屋へと足を踏み入れる。
「ユエ?!いたか?」
クレインもやって来て、中を覗き込む。
部屋の中央で足を止めたユエの隣に並ぶ。
その部屋には、大きな酒樽が十ほど並んでいる。
全て蓋は開いていて、液体で満たされている。むせ返るような、血の匂い。
その一つから、顔が、覗いている。
「……ぁ、あ…………」
近づいて上から、目を合わせた。その、虚ろな目──光をもう映さない、濁った虹彩。
彼だ。
この一週間探し回った、似顔絵の彼。
樽の中の液体の中に、彼の頭だけが浮かんでいる。
「な、に……これ……」
クレインもそれ以上の言葉を持たなかった。
血を薄めたような液体が、全ての樽を満たしている。その中に頭部だけではない、奇怪な物体が浮かんだり沈んだりしていた。
死──
この光景を言い表す言葉は、それだけだった。
******
「っ見つけたぞ……!この野郎!!」
パッと、二人は剣を構え直した。
その部屋の光景に目を奪われている間に、奴隷商人の一人──クレインに執着するあの男──と医者が、入り口に立っていた。
(っまずい……!出入り口を塞がれた……)
クレインは己の迂闊さにほぞを噛む。
獲物だと侮っていたクレインに手を噛まれたような気分の男は、完全に激昂している。いたぶる余裕もなくし、斬りつけられた足を引きずりながら、唾を飛ばす。
「つけ上がりやがって……!!許さねぇぞ!!大人しくしてりゃあ、バラしたりしないで、俺が飼ってやってもよかったのによぉ!!決めたぜ……!犯しまくってから、命乞いさせて、それから殺してやる!!」
大振りの剣を突き出して、クレインに迫る。
後退ったクレインに対して、一歩進み出たのは、ユエ。
「……どうして?」
「ああ?!なん──」
「どうして?!」
クレインを、そして彼を背で庇って、声を振り絞る。
「どうしてこんなことができるんだ?!」
ユエは囚われてから、もちろん、恐怖を感じていたし、不安でいっぱいだった。
クレインの冷静さのおかげで、取り乱すことはなかったが、お守りのようにドワーフの剣を握り締めた掌は、汗が滲んでいた。
だが今、その全てを上回るほどの──強い感情が込み上げている。
(なんだ、これ……体が、震える……!)
だがその震えは、恐怖ではない。
「どうして……!この人が、こんな目に合わないといけない……?!どうして、こんなことをしておいて、平気でいられるんだっ?!」
震えていた声が、だんだんと鋭く尖っていく。言葉を刃に、奴らを斬りつけるように──。
「どうしてクレインが……俺たちが!こんな扱いをされなきゃいけない?!どうしてお前は!クレインのことを好きにできると思ってるんだ?!」
これまで大人しかったユエの豹変に、敵は圧倒されている。
クレインも、初めて見る仲間の姿に、ただ見入っていた。
「お前たちが悪いのに……!反撃されて、どうしてお前が怒るんだ……!!──怒りたいのは、俺たちだ!!」
(ああ……俺、怒ってるんだ……)
考えるより先に言葉が出てきて、そこで初めて、ユエは自分の感情を自覚した。
剣を振るう前──クレインと目を合わせ頷き合ったあの時も、ユエは今と同じ感情を抱いていた。
男たちの勝手な言葉に、クレインを蔑むような態度に、自分たちを軽く扱う傲慢さに。
頭がすぅーっと、冷たくなって、妙に物事がはっきり見えるような──
だがその時は、それが『怒り』の感情だと、ユエは気づいていなかった。
今やっと、掴んだ。
掴んで、ぶつける。
「どうして!!!」
ビリ……ッ!
ユエの剣幕に呼応するように、樽を満たす液体が揺れた。
それは偶然なのか、ユエの気迫が空気を震わせたのか、それとも──彼の命の残り火なのか──。
ぐら……と樽が傾き、液体と共に、ゴロン……!
「ひっ、ひぃ……っ」
転げ出た頭部は、扉の方へと転がり──腰を抜かした医者の前で、目を合わせるようにして止まった。
「ひっ!ひっ……!しょ、しょうがなかったんだ!!わ、私はただ娘のために……む、娘が助かるからと……!私は悪くない!!ひぃ、ひっ……だ、だから!!」
医者は矜持をかなぐり捨てて、床に這い蹲り、頭を抱える。
「だから……そんな目で見るなぁぁぁ!!!」
それでもまだ、自分の犯した罪と向き合えない医者に、ユエもクレインも、言葉すら与える気はなかった。
******
ダンッ!!
バキッ!!
ガタガタッ!!!
何かを破壊する音と、数人の足音、そして名前を呼ぶ声──「クレイン!!」
「っここだ!!」
奴隷商人の男は反射的に剣を構えたが、ピクリとも動く前に、ガンッ!!横腹を蹴られて、クレインの視界から消えていった。
蹲ってまだ言い訳を続ける医者も、同じ脚に蹴り飛ばされ、入り口を塞いでいたモノはなくなった。
「っクレイン!!」
部屋へと飛び込んで来た、ジェイが見たものは────赤、赤、紅、赤、紅……。
一面の赤──。
その海に、二人は佇んでいた。
クレインもユエも、血で真っ赤に染まっている。
クレインの血塗れのその姿は、ジェイの忌まわしい記憶を呼び起こしていく。
(血、が……クレインの、血……)
刃が肉を貫く感触。
噴き出す、熱い血。
広がる赤。
冷たくなっていく、からだ──。
あれほど心を砕き、無事を祈り、己の腕でその体温を確かめたいと求めていたはずなのに、ジェイはクレインに駆け寄ることができない。
「三人とも、無事か?」
そのジェイの隣から、カイトが顔を覗かせる。
その顔を見た瞬間──
「カイトっ!!」
一直線にカイトの腕の中に飛び込んだ、華奢な肢体──。
手が赤くなるほど握り締めていたドワーフの剣が、カラン、と軽い音を立てて、床に転がる。
受け止めたカイトは少し動揺する。
そんな彼の珍しい様は、ユエの行動に目を奪われていた周囲に、気づかれることはなかったのだが。
ユエはがっしりとカイトの背中に手を回し、その肩は見るだけで分かるほど震えている。
それは先ほどまでの、怒りをたたえたあの姿と同一人物とは思えない。
あの姿を見ていたクレインは、自分が気圧されるほどだったさっきとの変わり身に、一瞬場違いにも、きょとんとしたほどだ。
ユエのその震えを宥めるように肩をさすりながら、カイトは部屋を確かめる。
「ラークは……」
「っ、ラーク!一緒じゃなかったんだ!どこか別の部屋に……!!」
クレインの言葉に、部屋の外にいたヘロンとフェザントが反応して、ダッと駆け出す。
それを見送って、カイトは「二人とも、けがは?」
「……だぃ、じょうぶ、これ、ほとんど返り血だから……」
クレインの言葉にやっと、ジェイは息をすることを思い出す。
だがそれでもジェイは、足が床に貼りついたようにその場から動けない。
ユエとカイト、クレインとジェイ、その二組は、実に対照的だった。
カイトの前では、弱さを見せられるユエ。
ジェイがいると、余計に気を張ってしまうクレイン。
ユエの弱さを受け止めることができるカイト。
クレインの強さを、真正面から受け入れられないジェイ。
ジェイがこの状況に、感じなくてもいい責任を背負っていることが分かるクレインは、ユエのように自分からジェイに縋ることはできなかった。
お互いを思い合っているのに──いや、だからこそ二人は、今の関係から進めないでいた。
クレインとジェイのそんな様子に気がついているのは、カイトだけだ。
だが、彼は何も言うことはなかった。
ユエを腕に抱いたまま、カイトは部屋の中へと足を踏み入れた。
その後ろに続いたアイビスは、「うっ……」目に入るその異様な光景に、言葉をなくす。
「……っ!」
カイトの胸に顔を埋めたまま、ユエは脳裏に焼きついた彼を思い、涙が零れていく。
カイトの腕の中で、泣くことを思い出したように──。
******
「クレイン!ユエ!!」
それほど時間がかからずに、ヘロンとフェザントに、ラークが救出された。
「「ラーク!!」」
全員の無事が確認されて、ひとまず一行は胸を撫で下ろした。
「よか、た……はぁはぁ……」
フェザントの背中から二人の姿を捉えて、ラークは安心したように目を閉じた。
縛られた紐を切ろうとしたのか、その腕には大きな擦り傷があり、頰も床で擦ったのか、血が滲んでいる。
「ラーク……!?」
気を失ってしまったラークを見て慌てる二人に、
「酸欠だろう。ラークがずっと笛を吹き続けてくれたから、最短でここに辿り着くことができた。──お手柄だな」
カイトは褒めるようにその頭を撫でた。
ラークは別の部屋で縛られ、一人で放置されていた。
それはギルドの医者が「子どもは傷つけないでくれ」「子どもに残酷なところは見せないでくれ」と、奴隷商人たちに頼んだからなのだが──それを『優しさ』と呼ぶ者は、ここにはいない。
意識を取り戻したその時は、混乱し取り乱したのだが、それも一瞬のこと。
耳のいいラークは、建物内での会話を漏れ聞いて、状況をいち早く把握し、そして自分ができる精一杯をやったのだ。
******
そこでやっと、ベレン領の衛兵が追いついたようで、ガヤガヤと建物内が騒がしくなる。
床に転がったままになっていた彼の頭に、アイビスが静かに己の上着をかけ、衛兵に知らせる。
そして衛兵たちが医者と奴隷商人たちを拘束していく様子を見て、これでこの陰惨な事件が解決に向かうだろうと、誰しもが感じていた。
全ての謎が明らかになるだろう、と。
──一行は予想だにしていなかった。この事件が、さらに謎を呼ぶことを。
この出来事は、ただの序章に過ぎないことを。
******
男たちと医者のやり取りや、クレインとの会話は、ユエにはよく分からないことが多かった。
そのため彼にとっては、話よりも、自分がやるべきことに集中できたのだ。
(まずは腕が自由にならないと……!いや、その前に、剣を取って、それで紐を切ればいい!手は……なんとか足首に届く!)
クレインが注意を引きつけてくれている間に、後ろ手にゴソゴソと、足首のドワーフの剣をすぐに取り出せるように準備をしていた。
そして、クレインとの特訓を思い出す。
(狙うのは、足、手、首、頭……相手が驚いている間に、素早く、手際よく……!)
ユエが落ち着いていられたのは、クレインのおかげというのが大きい。
静かに獲物を待ち、隙を伺って、一瞬で狩る──道中の狩りではいつもそうして、目で会話をしていたのだ。
この状況でも、意思疎通はできていた。
そして──ここにはいない、カイトの存在。
ユエは信じていた。いや、分かっていた。彼が来てくれることを。
(カイトが来てくれるまで、二人で頑張ればいい)
どこかユエには、そんな余裕さえあった。
そうして、その時に備えていた。
******
(血って、熱いんだな……)
「ぎゃっ!!」「ぐあ……!」「がっはぁ……!!」
(足、手、首、頭……)
呪文のように頭の中でそう唱えながら、ユエは剣を振り下ろす。
手には肉を断つ感触と、刃が骨に当たる感触がした。
一振りするごとに、紅く熱い液体が飛ぶ。目に入りそうになるそれを、だがユエは一瞬の隙も作らないように、瞑ることもしない。
誰かが倒れ、誰かが蹲る。
扉に向かって進むごとに、髪が大きく揺れて、視界が狭まる。
(っ、邪魔!!)
無意識に手で払い、青い視界を赤に戻す。
「ユエ……っ!」
クレインの声だけを目指して、腕を振りながら歩を進める。
ガチャッ!
扉に鍵はかかっていなかった。
誰を斬ったのか、部屋の中はどうなっているのか、確認しないまま部屋を飛び出す。
「っ、ラークを、見つけないと!!」
クレインの言葉に頷いて、薄暗い廊下を駆けた。
部屋の外は静まり返り、この騒ぎを聞きつけて、誰かが来る様子はなかった。
それにひとまず息をつき、とにかく片っ端から扉を開けていく。
はぁはぁ……!
荒い息の二人は、この建物中に充満する、焦げ臭い嫌な臭いを感じ取っていた。
背後を気にしながら、ユエがある扉を開け放った時──「え……?」異様な臭いと、そして気配──。
知った顔と、目が合った気がした──ユエはふら……と部屋へと足を踏み入れる。
「ユエ?!いたか?」
クレインもやって来て、中を覗き込む。
部屋の中央で足を止めたユエの隣に並ぶ。
その部屋には、大きな酒樽が十ほど並んでいる。
全て蓋は開いていて、液体で満たされている。むせ返るような、血の匂い。
その一つから、顔が、覗いている。
「……ぁ、あ…………」
近づいて上から、目を合わせた。その、虚ろな目──光をもう映さない、濁った虹彩。
彼だ。
この一週間探し回った、似顔絵の彼。
樽の中の液体の中に、彼の頭だけが浮かんでいる。
「な、に……これ……」
クレインもそれ以上の言葉を持たなかった。
血を薄めたような液体が、全ての樽を満たしている。その中に頭部だけではない、奇怪な物体が浮かんだり沈んだりしていた。
死──
この光景を言い表す言葉は、それだけだった。
******
「っ見つけたぞ……!この野郎!!」
パッと、二人は剣を構え直した。
その部屋の光景に目を奪われている間に、奴隷商人の一人──クレインに執着するあの男──と医者が、入り口に立っていた。
(っまずい……!出入り口を塞がれた……)
クレインは己の迂闊さにほぞを噛む。
獲物だと侮っていたクレインに手を噛まれたような気分の男は、完全に激昂している。いたぶる余裕もなくし、斬りつけられた足を引きずりながら、唾を飛ばす。
「つけ上がりやがって……!!許さねぇぞ!!大人しくしてりゃあ、バラしたりしないで、俺が飼ってやってもよかったのによぉ!!決めたぜ……!犯しまくってから、命乞いさせて、それから殺してやる!!」
大振りの剣を突き出して、クレインに迫る。
後退ったクレインに対して、一歩進み出たのは、ユエ。
「……どうして?」
「ああ?!なん──」
「どうして?!」
クレインを、そして彼を背で庇って、声を振り絞る。
「どうしてこんなことができるんだ?!」
ユエは囚われてから、もちろん、恐怖を感じていたし、不安でいっぱいだった。
クレインの冷静さのおかげで、取り乱すことはなかったが、お守りのようにドワーフの剣を握り締めた掌は、汗が滲んでいた。
だが今、その全てを上回るほどの──強い感情が込み上げている。
(なんだ、これ……体が、震える……!)
だがその震えは、恐怖ではない。
「どうして……!この人が、こんな目に合わないといけない……?!どうして、こんなことをしておいて、平気でいられるんだっ?!」
震えていた声が、だんだんと鋭く尖っていく。言葉を刃に、奴らを斬りつけるように──。
「どうしてクレインが……俺たちが!こんな扱いをされなきゃいけない?!どうしてお前は!クレインのことを好きにできると思ってるんだ?!」
これまで大人しかったユエの豹変に、敵は圧倒されている。
クレインも、初めて見る仲間の姿に、ただ見入っていた。
「お前たちが悪いのに……!反撃されて、どうしてお前が怒るんだ……!!──怒りたいのは、俺たちだ!!」
(ああ……俺、怒ってるんだ……)
考えるより先に言葉が出てきて、そこで初めて、ユエは自分の感情を自覚した。
剣を振るう前──クレインと目を合わせ頷き合ったあの時も、ユエは今と同じ感情を抱いていた。
男たちの勝手な言葉に、クレインを蔑むような態度に、自分たちを軽く扱う傲慢さに。
頭がすぅーっと、冷たくなって、妙に物事がはっきり見えるような──
だがその時は、それが『怒り』の感情だと、ユエは気づいていなかった。
今やっと、掴んだ。
掴んで、ぶつける。
「どうして!!!」
ビリ……ッ!
ユエの剣幕に呼応するように、樽を満たす液体が揺れた。
それは偶然なのか、ユエの気迫が空気を震わせたのか、それとも──彼の命の残り火なのか──。
ぐら……と樽が傾き、液体と共に、ゴロン……!
「ひっ、ひぃ……っ」
転げ出た頭部は、扉の方へと転がり──腰を抜かした医者の前で、目を合わせるようにして止まった。
「ひっ!ひっ……!しょ、しょうがなかったんだ!!わ、私はただ娘のために……む、娘が助かるからと……!私は悪くない!!ひぃ、ひっ……だ、だから!!」
医者は矜持をかなぐり捨てて、床に這い蹲り、頭を抱える。
「だから……そんな目で見るなぁぁぁ!!!」
それでもまだ、自分の犯した罪と向き合えない医者に、ユエもクレインも、言葉すら与える気はなかった。
******
ダンッ!!
バキッ!!
ガタガタッ!!!
何かを破壊する音と、数人の足音、そして名前を呼ぶ声──「クレイン!!」
「っここだ!!」
奴隷商人の男は反射的に剣を構えたが、ピクリとも動く前に、ガンッ!!横腹を蹴られて、クレインの視界から消えていった。
蹲ってまだ言い訳を続ける医者も、同じ脚に蹴り飛ばされ、入り口を塞いでいたモノはなくなった。
「っクレイン!!」
部屋へと飛び込んで来た、ジェイが見たものは────赤、赤、紅、赤、紅……。
一面の赤──。
その海に、二人は佇んでいた。
クレインもユエも、血で真っ赤に染まっている。
クレインの血塗れのその姿は、ジェイの忌まわしい記憶を呼び起こしていく。
(血、が……クレインの、血……)
刃が肉を貫く感触。
噴き出す、熱い血。
広がる赤。
冷たくなっていく、からだ──。
あれほど心を砕き、無事を祈り、己の腕でその体温を確かめたいと求めていたはずなのに、ジェイはクレインに駆け寄ることができない。
「三人とも、無事か?」
そのジェイの隣から、カイトが顔を覗かせる。
その顔を見た瞬間──
「カイトっ!!」
一直線にカイトの腕の中に飛び込んだ、華奢な肢体──。
手が赤くなるほど握り締めていたドワーフの剣が、カラン、と軽い音を立てて、床に転がる。
受け止めたカイトは少し動揺する。
そんな彼の珍しい様は、ユエの行動に目を奪われていた周囲に、気づかれることはなかったのだが。
ユエはがっしりとカイトの背中に手を回し、その肩は見るだけで分かるほど震えている。
それは先ほどまでの、怒りをたたえたあの姿と同一人物とは思えない。
あの姿を見ていたクレインは、自分が気圧されるほどだったさっきとの変わり身に、一瞬場違いにも、きょとんとしたほどだ。
ユエのその震えを宥めるように肩をさすりながら、カイトは部屋を確かめる。
「ラークは……」
「っ、ラーク!一緒じゃなかったんだ!どこか別の部屋に……!!」
クレインの言葉に、部屋の外にいたヘロンとフェザントが反応して、ダッと駆け出す。
それを見送って、カイトは「二人とも、けがは?」
「……だぃ、じょうぶ、これ、ほとんど返り血だから……」
クレインの言葉にやっと、ジェイは息をすることを思い出す。
だがそれでもジェイは、足が床に貼りついたようにその場から動けない。
ユエとカイト、クレインとジェイ、その二組は、実に対照的だった。
カイトの前では、弱さを見せられるユエ。
ジェイがいると、余計に気を張ってしまうクレイン。
ユエの弱さを受け止めることができるカイト。
クレインの強さを、真正面から受け入れられないジェイ。
ジェイがこの状況に、感じなくてもいい責任を背負っていることが分かるクレインは、ユエのように自分からジェイに縋ることはできなかった。
お互いを思い合っているのに──いや、だからこそ二人は、今の関係から進めないでいた。
クレインとジェイのそんな様子に気がついているのは、カイトだけだ。
だが、彼は何も言うことはなかった。
ユエを腕に抱いたまま、カイトは部屋の中へと足を踏み入れた。
その後ろに続いたアイビスは、「うっ……」目に入るその異様な光景に、言葉をなくす。
「……っ!」
カイトの胸に顔を埋めたまま、ユエは脳裏に焼きついた彼を思い、涙が零れていく。
カイトの腕の中で、泣くことを思い出したように──。
******
「クレイン!ユエ!!」
それほど時間がかからずに、ヘロンとフェザントに、ラークが救出された。
「「ラーク!!」」
全員の無事が確認されて、ひとまず一行は胸を撫で下ろした。
「よか、た……はぁはぁ……」
フェザントの背中から二人の姿を捉えて、ラークは安心したように目を閉じた。
縛られた紐を切ろうとしたのか、その腕には大きな擦り傷があり、頰も床で擦ったのか、血が滲んでいる。
「ラーク……!?」
気を失ってしまったラークを見て慌てる二人に、
「酸欠だろう。ラークがずっと笛を吹き続けてくれたから、最短でここに辿り着くことができた。──お手柄だな」
カイトは褒めるようにその頭を撫でた。
ラークは別の部屋で縛られ、一人で放置されていた。
それはギルドの医者が「子どもは傷つけないでくれ」「子どもに残酷なところは見せないでくれ」と、奴隷商人たちに頼んだからなのだが──それを『優しさ』と呼ぶ者は、ここにはいない。
意識を取り戻したその時は、混乱し取り乱したのだが、それも一瞬のこと。
耳のいいラークは、建物内での会話を漏れ聞いて、状況をいち早く把握し、そして自分ができる精一杯をやったのだ。
******
そこでやっと、ベレン領の衛兵が追いついたようで、ガヤガヤと建物内が騒がしくなる。
床に転がったままになっていた彼の頭に、アイビスが静かに己の上着をかけ、衛兵に知らせる。
そして衛兵たちが医者と奴隷商人たちを拘束していく様子を見て、これでこの陰惨な事件が解決に向かうだろうと、誰しもが感じていた。
全ての謎が明らかになるだろう、と。
──一行は予想だにしていなかった。この事件が、さらに謎を呼ぶことを。
この出来事は、ただの序章に過ぎないことを。
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嫡男レイモンドは比類なき才知と冷徹な眼差しを持つ若き天才であった。
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嫉妬と憎悪が社交界を揺るがす愚行へと繋がり、王宮での婚約破棄、王の御前での一族追放へと至る。
混乱の只中、妹を庇おうとするレイモンドの前に立ちはだかったのは、王国騎士団副団長にしてリーシャの異母兄、ヴィンセント・グレイヴェル。
琥珀の瞳に嗜虐を宿した彼は言う――
「この才を捨てるは惜しい。ゆえに、我が手で飼い馴らそう」
知略と支配欲を秘めた騎士と、没落した宰相家の天才青年。
耽美と背徳の物語が、冷たい鎖と熱い口づけの中で幕を開ける。
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