三鍵の奏者

春澄蒼

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第三章 交点に降るは紅の雨

36 赤い血 ※

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「……血、気持ち悪い」
 クレインの小さな呟きに、その部屋に滞っていた空気が流れ始める。

「そうだな……乾く前に、流した方がいい」
 そう言ってカイトは、捕らえられていた三人を先に帰そうとしたが、ユエはカイトから離れることを無言ながら拒否する。

 仕方なく、後始末を衛兵とアイビスに任せたカイトは、ユエを横抱きにして、衛兵が呼んだ馬車に乗り込んだ。
 同じ馬車に、血塗れのクレインも。

 そしてもう一つの馬車に、眠ったままのラークと彼を抱えるフェザント、心配そうなヘロン、そして──とうとうクレインと言葉を交わすこともなかった、ジェイが乗り込む。

 分厚い雲から、最後に顔を覗かせた太陽が、奪われた命を慈しむように抱えて、地平へと還っていくのが見えた。



******
 ベレン卿の館に着くころには、血が乾きパリパリと剥がれ落ちていた。

 ベレン卿とマックスは、衛兵から報せが届いてすでに動き出しているようで、館にはいない。

 使用人たちが出迎えてくれたが、さすがに三人の血塗れの様には、いつも笑みを絶やさない彼女たちも悲鳴を上げた。

 その上、馬車も館の床も、三人が触れたところが赤黒く汚れてしまうのだ。
 常日頃からこの館を美しく保つことに全力を注いでいる彼女たちは、それが我慢ならなかった。

 三人は館に帰るや否やすぐに、大浴場に押し込められる。
 もう一つの馬車の四人が着くのを見届ける前に、だ。

「血を全て洗い流してから、出て来てくださいね!」
 そうきつく言いつけられ、カイトとクレインは苦笑いでそれに従った。

 使用人たちが去って、カイトがユエを床に降ろそうとする。だが頑なに離れない。
 まるでカイトから離れた途端、自分が消えてしまうのではないかと怖れているようだ。

 無言の攻防の末、ユエを一人で立たせることを諦めたカイトは、片腕で彼を抱き上げたまま、器用にもう片方の手で、真っ赤な服を脱がせていく。

 血まみれのユエに抱きつかれて、カイト自身にもべったりと血がついてしまっていた。
 裸にしたユエを抱き上げながら、己の服も脱ぎ捨てる。

 そんな無駄に時間をかける二人を、先に脱ぎ終わったクレインは、静かに待っていた。 


******
 二十人が同時に浸かれる大きさの湯船には、湯が常に沸かされ、もうもうと立ち込める湯気で視界は白い。

 床に敷かれた白い石は、熱がよく伝わるのか、冷えた体を温めてくれる。

 三人はそこに座って、湯船から桶で湯を掬っては身体にかけ、固まった血を洗い流していくことにした。

 だが乾いた血は、なかなかに落ちにくい。

 皮膚の隙間に入り込んだようなその血に、クレインは気持ち悪さと苛立ちを覚えていた。
「……もう!」

 そんなクレインに、カイトがどこからか石けんを見つけてきて、貴重なそれを無造作に放る。

 受け取ったはいいが、クレインはそれを使うのを躊躇っていた。花の香りのするそれは、明らかに高価なものだ。
 ベレン卿だからこそ、手に入れられる最高級の──。

 だが隣のカイトが、気遣いなど微塵もなく豪快に泡立てるのを見て、ベレン卿に遠慮などバカバカしいと、一瞬で宗旨替えをした。

 ユエはカイトに洗われる間も、床に座ったカイトの膝に乗り、首に腕を回したままだ。

 洗いにくくてしょうがないはずだが、カイトは文句を言わずそのまま己の身体にも泡を乗せた。

「……ん、」
 カイトの手の平で肌を撫でられると、鼻にかかった声が自然と漏れる。
 強く擦られると、肌がピリピリと敏感になっていく。

 カイトに身を委ねながら、ユエは今日の出来事に向き合おうとしていた。

 己の身に迫る恐怖。
 支えてくれたクレインの強さ。
 燃え上がるのではなく、冷たくなっていく怒りの感情。
 剣を握って、ただ、振った。

 その時置き去りにしたもう一つの感情が、カイトの腕の中で浮かび上がってくる。

  怒りや哀しみに隠れた、とても個人的な感情。

「…………初めて、人を殺した」
 湯が流れる音に消えそうになりながら、ポツリと落ちる声。

 その事実を、ユエは血を洗い流す今になって、ようやく実感し始めていた。

 この時点でユエは、あの奴隷商人たちの安否を知っていた訳ではない。
 だが、ユエからすれば、もし彼らの命が助かっていたとしても、それは同じことだった。

 人を斬ったという事実。
 殺すつもりで、剣を振ったことは、誰が否定しようともユエ自身が一番自覚していた。


 ユエの心は、この血のようだった。


 最初は熱く吹き出し、次第に冷えて、今では乾いて固まり、この身に纏わりつく。
 湯で流しても、赤が洗われようと、消えない感触──。

 人の命を奪うとは、こういうことだと、血が忘れさせてくれない。

 震える手の爪に、赤が見える。それをカイトの手が洗い流していく。
 顔に飛んだ飛沫を布で拭われ、血で重くなった髪を梳かれ、剣の重みが残る腕に温かい湯がかけられる。

 カイトの手が触れたところだけが、自分の元に戻ってくるように、ユエは感じた。


******
 湯船に浸かってもまだ離れたがらないユエに、カイトは静かに問いかける。

「……後悔、しているのか?」

 それは『人を殺したことを』なのだろうか?それとも──ユエにはそれが『海を出て後悔したか?』『人間になって後悔したか?』『一緒に旅をしたことを後悔しているか?』──そう、問われているように思えた。

「後悔は、ない」
 だから答えはこれしかない。

「……俺は、後悔しない。誰かのせいにもしない。ちゃんと……自分で決めた、から」
 最後はカイトの目を見つめる。
「あの命は、俺が背負うよ」

「……そうか」

「でも……怖かった……」

 命を背負った大人の顔と、「怖い」と素直に認められる子どもの顔が混在して、その表情をどこか神秘的に見せた。

 血で汚れた剣は、フェザントに預けてきた。彼が洗って研いで、そしてまた丸く曲がるように戻してくれる。

 あれほど重く感じていた剣は、戦いの後、ユエの手にやっと馴染んだ気がしていた。
 それは剣と信頼関係ができたからかもしれない。命を預け、見事にそれを果たしてくれた。

 そして、それまで剣が預かってくれていた『覚悟』を、ユエが受け取ったからだ。

『人を傷つける』『命を奪う』その『覚悟』を、ユエはその身に背負った。

 それは確かに重いものだ。
 だがその重みが、地面に記される足跡を、くっきりと見せてくれる。

 確かに、自分の足で歩いているのだと。

 傍観者ではない。
 ただ流されているのでもない。

 これは『カイトの旅』ではなく、自分の旅なのだと──海を出てから半年以上経ってようやく、ユエはそう思えた。

 そして、『お客様』でも『連れて行ってもらっている』でもなく、『一緒に旅をしている』のだと、堂々と言える気がした。

『仲間』だと、言える気がした。


******
「すごいな……」
 思わず、といった様子で、クレインが言葉を落とす。

 首をひねるユエに、苦笑いだけを返したクレインは、ユエと自分を比べていた。

(……俺は、こんなに素直には、なれない……)

 クレインは、ユエよりはもちろん修羅場をくぐってきた。
 だがいくら経験したとしても、恐怖は完全に消えるものではない。

 クレインだって怖かったし、動揺していた。『助けて!』と叫びたかったし、縋りたかったし、泣きたかった。

 だがクレインは──いや、彼でなくとも、ユエのように無防備に弱さを見せることはできないのだ。

 それは矜持やら照れやら見栄やら……様々な理由をつけることができるが、要はそれを、『負け』だと思ってしまうからなのだろう。

 だがユエを見ていると、弱さを見せられる『強さ』があるのではないかと思えてくる。

 とは言え、羨ましいと思っても、そんなにすぐに自分を変えることはできないのだが……。

 そんな風に自嘲しているクレインに、ユエはする……と手を伸ばした。

 そして──「えっ?!」俯いた頭を撫でる。

 頭を撫でられるなど、母以来だったクレインは、自分でもどうかと思うほど動揺してしまう。

「え?!なに?!」
「えっ……?クレインが悲しそうだったから……?」

 驚いたクレインに、さらにユエが驚いて、二人で「えっ?」「え?!」と言い合ってしまう。

「っ……ぷっ!」「あはっ……!」
 そして、二人同時に噴き出した。

 湯気を吹き飛ばすくらい笑って、最後には涙が滲んだ。

 失った命を悼み、無事だった仲間に安堵し、こうして生きていることを、笑うことができる。

 凄惨な事件を、こうして乗り越えようとする二人を、カイトは黙って見守っていた。



******
 浴場を出ると、使用人が用意した服を身につける。それは肌触りのよい絹でできていて、頭からすっぽりと被ると、足首まで覆ってくれる。

 いつもサラシで足首の鱗を隠しているクレインには、それだけでは何とも心許なくて、使用人の目を避けようと、カイトの後ろに陣取っている。

 そしてユエは、当たり前のようにそのカイトに抱き上げられていた。

「アイビス様はまだお戻りになりません。ケガをされたラーク様は、治療を終えて、すでにお休みになられました」

 使用人の言葉に、「お前たちも、今日は先に休め」カイトは二人にそう提案する。

 クレインは疲れた顔を隠さずに、それに頷いて、足早に自分の部屋へと戻って行った。

「ユエ、」
 だがユエは、カイトに促されても、余計に首に回した腕の力を強めるだけだ。

「……アイビスが戻ったら、俺に伝えてくれ。フェザントたちには食事を出して、『アイビスが戻るまで待機』と伝えろ」

 ユエの仕草を微笑ましく見ている使用人にそう言い置いて、結局カイトは、離れるつもりがないユエを、自分の個室へ連れ込むことになった。



******
「……ユエ、疲れているだろう?横になっていれば、そのうち眠れる」
 言葉に頷きはするが、床に降ろされてもすぐに、カイトの腰に腕を回して離れない。

 どうしたものかと、濡れた髪をかき上げてから、ふと目の前の青に視線を落とすと、
「……あれだけ洗ったのに、まだ落ちてないな……」
 いつもなら混じり気のない海のような青に、くすんだ赤茶が影を落とす。

 濡れて、普段より濃く見える青い髪から、血をこそぎ落とそうとするが、落とした先から見つかってキリがない。

「ふぅ、」とため息をつくカイトに、
「ん……それなら、ついでだし、切る」
 剣を振るった時に髪で視界が塞がれたことを思い出し、本人はそんな思い切りのいいことを言い出した。

「カイト、切って」
「『切る』って……」
「邪魔だし、なんか、血がべったりついたかと思うと、気持ち悪いし」

 さすがにカイトも躊躇するのだが、ユエの方がぐいぐいと話を進めていく。

 邪魔だと思ったのも本心であったし、ユエ自身は自分の髪にそれほどこだわりはなかったから、あっさりとしたものだった。

 だがそれだけではない──無意識に感じ取っていたのだ。

 カイトにそばにいてもらわないと、と。

 浴場でカイトの肌に触れていた時から感じていた、身体の奥から何かが湧き起こる感覚──まだはっきりしないそれが現れた時、カイトの助けがいることを、ユエは漠然と感じ取っていた。

 髪を切ってもらうのは、ただカイトにそばにいてもらうための、口実に過ぎなかった。


******
「いいんだな?」
 念を押したカイトは、暖炉の前の絨毯にユエを座らせて、短剣を構える。
 ザッザッ──迷いなく刃を入れた。

「このくらい」
 ユエが示したように、うなじが露出する位置で切り揃えていく。

 人魚は髪を切らない。
 ユエにとって人生初めての散髪だ。

「んっ」
 カイトの指が触れる度に、ユエは首をすくませる。くすぐったいのか、ぞわぞわと震えが走る。
 それは、あの時を思い出させた。
 船の上。知り合ったばかりだったカイトに、できたばかりの脚に、触れられたあの時。

 カイトが最後に、指で肌に張り付いた毛を払い、「ふっ」と息を吹きかけた、その時──「あ……っ!」今度は全身が震えた。

「……くすぐったかったか?」
 カイトが「悪いな」と言うように、うなじをひと撫でしてから、髪に指を通して地肌に直接触れて、切った髪を払っていく。

ぞく……頭のてっぺんから背筋を、何かが駆け降りて行った。
それは脚先や指先まで痺れさせ、最後には下腹の辺りに戻って来て、そこを熱くさせる。

「ぅう……っン!」
 身体は震えるのに、寒気を感じるのではなく、全身が火照る。

 未知の感覚に己の身体を抱き締めるユエだが、最も顕著な身体の変化に気づいた。

 そして混乱する。

「カイっカイト……!!変……カラダ、おかしい……っ!」

「おい、どうし──」
 聞き返そうとしたところで、カイトも気づく。目を、見開いた。

「なにっ、これぇ……?!」
 ユエが必死になって手で押さえているのは──脚の間。

 形を変えた性器が、薄い絹を持ち上げている。

「カイト…………たすけて」
 潤んだ瞳が、彼を見上げる。
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