三鍵の奏者

春澄蒼

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第三章 交点に降るは紅の雨

39 クレインとジェイ ※残酷な描写あり

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「なんてことをしてくれたんだ……!!」
 蔑むような声に、ジェイはハッと顔を上げる。

 朗々と前説をしていた男が、苦々しげに吐き捨てる。
 だがそれに対して、観客のほとんどは、この状況すら愉しんでいた。

「まだ息があるだろう?死ぬ前に犯させろ!!」
「死姦なんてのもいいじゃないか?!」
「勿体無い……おれが買ってやってもよかったのに」

 彼に伸びた手を、ジェイは反射的に払った。
「な、なにする……」

 何をしているのか自分でも分からないジェイだが、鈍い頭とは裏腹に、視覚だけが冴えていく。

(……血、が……)

 周囲の音など、ジェイの耳には入らない。
 ただ、腕の中の身体から血が抜けて、どんどんと軽く冷たくなっていくことだけが、心を占めている。

(血……止血を……)
 考える前に、身体が動く。自分の着ている服を引き裂き、彼の腹に当てる。だがそんなことでは到底、この傷を塞ぐことなどできそうにない。

「おい!を寄越せ!!」
 ジェイの行動に呆気に取られていた観客の中から、一人が詰め寄ってくる。

(ここにいては、だめだ……)
 血で濡れる身体を抱き締めて、ジェイは立ち上がった。

 そして、本当に久しぶりに、

 焦点を合わせないようにしていた、この地獄を。
 この彼の姿を見ても、何も変わらない腐った人間たちを。

 ジェイがを取ったのは、彼の命を救うためではなかった。
 助かる可能性は低い──いや、助からない方がいい。

 例え一命を取り留めても、彼を待つのはさらなる屈辱だけだ。
 覚悟を持って自ら命を絶とうとする彼──その意思を、無駄にしたくない。

 観客たちは彼が死ぬまで、いや、死んでもなお、彼を蔑めるつもりなのだ。

 ジェイは徐に、剣を振った。

「ぎっやぁぁーー!!」
「なっ、ぐあっ!!」

 ここ、フラヴィウム闘技場に来て初めて、ジェイは誰かのために、剣を振った。

 彼ら二人を取り囲む男たちを、隣に立っていた同僚を、助けを呼ぶ女を、手当たり次第に斬り捨て──彼を抱えて、部屋を飛び出した。


******
「きゃああーー!!」
「おい!早く警笛を鳴らせ!!」
「あれは、ここの衛兵だろう?!なんでそれが……?!」
「知るか!!」
「あいつも殺してやらないと気が済まないぞ!!」
「捕まえろ!!」
「捕まえて、殺せーーー!!!」

 自刃した囚人を連れて、衛兵が逃亡した──フラヴィウム闘技場始まって以来の醜聞に、人々は浮き足立って、興奮が増していく。


 その部屋の中で、妙に落ち着いた三人。
 椅子に座った一人の後ろに、男と女が一人ずつ控えている。

「おもしろい……」
「カイト?」
 怒号の中に、場違いな声が落ちる。

「……あの二人、このまま死なせるには惜しいな……」
「おい!何言って……」
「どうするの?助けるつもりなら、早くしないと」

 狼狽する男の声に比べて、女の声はけしかけるように強い。

「そうだな……」

 立ち上がったカイトは、振り返って楽しそうに仮面を外す。

「……せっかくベレン卿のコネで入り込んだんだ。手ぶらで帰るのもつまらない」
「じゃあ?!」
「行くぞ」

 意気込む女性と、ため息をつく男を連れ、カイトは後を追う。
 正気とは思えない逃避行を始めた、二人の後を──。



******
「なっなにしてる!!早く捕まえろー!!」
「ぐあっ!!」
「ぎゃがっ!!」
「道を塞げ──がはぁ……っ!!」

 前に立つモノを全て薙ぎ払いながら、ジェイは走った。

(な、にしてるんだ、俺は……?!)

 どこへ向かっているのかも分からないが、もう足を止めることはできない。

 闘技場はこんな事態を全く想定していなかったのか、衛兵たちの動きはバラバラだ。

(そりゃあ……!そうだっ!!)
 また一人を斬り捨て、ジェイは自嘲する。

 どれだけジェイの腕が立とうとも、ここにいる何十人もの衛兵全てを制圧することなど、できるはずがない。

 どの出入り口にも兵はいるし、窓には鉄格子、この広い闘技場の道も部屋も、ジェイはほとんどを把握していない。

 兵が体制を整えて、一斉に弓でも射れば一巻の終わりなのだ。

 こんな馬鹿をやる者はいない──はずだった。

(逃げてっ、どうする……?!)

 例え運よく、闘技場を逃げ出せたとして、その後は……?
 この国のどこにも、頼りもなければ助けも期待できない。フラヴィウム国は、逃げた囚人を放っておいてくれるほど、甘くはない。

 それでもジェイは、剣も彼も、棄てることができない。

 頭も身体も滅茶苦茶に動かしていると、
「ぐえ……っ!!」
 ガンッ!キンッ!!

 自分の手元ではないところから、つば迫合いと、断末魔が聞こえてきた。

(っなんだ?!)

 自分ではない誰かが、戦っている。

 ダンッ!!
 横道から、兵士が吹っ飛んで来た。

 身構えたジェイの前に、仮面を被った男が現れる。
(仮面……っ!貴族か?!)
 剣を向けたジェイを、その男は、笑った。

「こっちだ、来い」
 迷子に道案内でもするかのような、気負いのない態度──気を削がれる形になったジェイは、ふらっ、とその後に続いた。

 仮面の男は来た道を戻って行く。
 廊下には死屍累々と兵士もそれ以外も倒れている。

 あれほど湧いて出た兵士が、その時ちょうど途切れたのか、別の空間に迷い込んだような、静けさ。

 細い廊下に立っているのは、男とジェイだけだ。

 どのくらい死体の跡を辿ったのか──「あ、やっと戻った……!」大きく開け放った扉から、光が漏れている。
 その光の中に、二人を手招きする男──「早く来い!」

 導かれるように、部屋の中へと足を踏み入れた。

 その瞬間、
「早く!!その子を渡して!」
 中で待ち構えていた女性が、ジェイの腕の中からひったくるように、彼を奪う。

「な──!!」
「安心しろ、彼女は医者だ」

 気色ばんで剣を構えるジェイを、静かな声が抑える。

「い、しゃ……」
「そうよ!だから安心してちょうだい!!……ここじゃ、応急処置しかできないけどね……!」

 ジェイを手招きした男が、廊下を覗いてから扉を閉めて施錠する。

(どこ、だ……?……こいつらは、何だ……?)

 闘技場には、剣闘士たちが闘う大きな会場の他に、先ほどのような観客がするための小さな部屋がいくつもある。
 そして客──特に貴族や王族たち──をもてなしたり、彼らが待機したり、宿泊する部屋も。

 ジェイには、ここはそんな部屋の一つに見えた。

(この部屋、そして仮面……貴族、にしか見えないが……)

 だがなぜ……?
 明らかに彼らは、自分を、そしてを助けてくれた。

!まだか?!」
 鉄格子の嵌った窓から外を伺っていた男が、医者の女性を急かす。

「っ助かるのか?!」
 ジェイは微かな希望に縋るように、血塗れの身体の横に膝をつく。
「……かなり、厳しいわ……!血を流し過ぎてる……」

 冷静な彼女の言葉に、愕然と、ジェイは床に座り込んだ。
 そして──生まれて初めて、祈る。

 神など信じていない。
 それでも、祈らずにはいられなかった。

「……お前はどうして、剣を抜いた?」
 目を閉じて手を組むジェイに、仮面の男が問いかける。
 いや、すでに仮面は剥がし、闇夜のような漆黒の目を晒している。

「こいつの知り合い──という訳ではないだろう?しかも、命が助かるかどうかも分からない……自分の命を投げ打ってまで、なぜこんなことをした?」

 ジェイにはその言葉は、耳から入ったというよりも、頭の中に直接響いたように感じた。

 頭を緩く横に振って、ジェイは「分か、らない……」自分に向かって、答える。

「俺は……こうせずには、いられなかった……彼を、こんなところで死なせてはいけない、と──いや、彼のむくろさえ、ここに置いておきたく、ない、と……」

「それは、自らの命と引き換えるほどの価値があることか?」

「お、れの命などとは、比べ物にならない……こんな……死んでいるように、生きている、俺なんかとは……」

 血の気のない手を、握る。
 自分よりも、はるかに細い腕──その腕で、ジェイにはできなかったことを果たしたのだ。

 無理やり乗せられた運命と闘い、裁定者を気取る傲慢な奴らの鼻を明かし、この地獄を嘲笑ってやる。

 何という、哀しい強さ──。

「っよし!……今できることはここまでよ……!早く、ちゃんと治療ができる場所に行きましょう!!」

 医者の声に、ジェイの耳が戻ってくる。

「カイト!!」
 漆黒の瞳の男に、視線が集まる。

「よし、逃げるぞ」
 その軽い調子に、それがとても簡単なことのように思えてくる。が、ここを知るジェイには、彼らがどういう手段を取るのか、見当もつかない。

(逃げる……?どう、やって……?)

 ジェイには考えつかないような、華麗で魔法のような方法──なんてものはない。

 カイトたちの逃亡手段は、何とも力業だった。

 カイトが窓の鉄格子に手をかけて、頑丈なそれを引き抜いた。

「え……」

 呆気に取られるジェイを置いて、三人は流れるように次の行動へと移っていく。

 少し高い位置にある窓は、大人がギリギリ一人通れるだけの広さだ。

 軽々とそこをくぐったカイトは、窓枠に手をかけて身体を支えながら、「お、おい!」止めるジェイを無視して、もう一人の男が抱き上げたを受け取って──そのまま身を投げた。

「なっ……!!」

 窓に駆け寄ったジェイは、下を見下ろす。地面までは、五メートルはありそうな高さだ。しかし飛び降りた男は、平気な顔でジェイを手招きする。

「……私が先に行くわ」
 戸惑うジェイを押し退けて、女性が窓に足をかける。そして──躊躇もなく、飛び降りる。

 すぐに窓の外を見たジェイの目には、女性を軽々と受け止めたカイトの姿が映った。

「な……?!」

 信じられないように、ふらっ、とジェイが後退るのを尻目に、今度は男が──。

 外はすでに黄昏時だ。

 今日、最後の陽の光を浴びて、漆黒の瞳が、ジェイを呼ぶ。

 ジェイには、選択肢などなかった。
 だが、彼は確かに、自分で

 流されるでも、自然に身体が動いたのでもない。
 選んで、窓に足をかけた。


******
「う…………」
 何度目かの覚醒──彼はただ掠れた声を漏らす。

「っ、……水だ、飲めるか?」
 ジェイは同じ言葉と行動を繰り返す。

 ここはカイトたちの支援者、のような人間の家だ。

 フラヴィウム闘技場の窓から逃げた五人は、この支援者の馬車で難なくここまで辿り着いた。

 ジェイは後になって知ったのだが、実際は、ベレン卿の手の者の家だった。

 カイトたちはフラヴィウム闘技場に、ベレン卿の手引きで入り込んだのだった。隣国の貴族というていで。

『闘技場に出入りする貴族の調査と、ついでに、気に入った奴隷がいたら買い受けてもいいぞ』というベレン卿の依頼を、ちょうど終えようとした時に、あの出来事に遭ったのだ。

 難攻不落のように思っていた闘技場から、あまりにあっさりと逃げ出せたことに、ジェイは少しと言わず虚しさを覚えたほどだ。

「あんなところに、子どもは連れて行けません!!」
 というマイナの方針で、留守番をしていたラークとヘロンに迎えられてから、五日──は少しずつ、血の気を取り戻しつつあった。

 そして、今──ジェイが口に流し込んだ水を、ごくり、と飲み干して、彼は瞼を持ち上げていく。

 髪と同じ、濃紺の瞳。

 その色の中に己の姿が映った瞬間、ジェイの目から、自然と涙が流れていた。


******
「……──こ、は?」
「安心して、ここは闘技場じゃない。あなたを脅かすものは何もないわ」
 マイナが触診しながら、彼が気を失ってからのことを説明していく。

 ジェイはそれを、壁際に立って聴いていた。

「──あなたの名前、教えてくれる?」
「……クレイン」
「クレイン、しばらくは安静にしていてね。──彼が、面倒を見てくれるから」

 マイナは俯いているジェイを示して、部屋を出て行った。


「……お前、ばかだな」


 二人きりになった部屋、初めてクレインがジェイに向けた言葉は、これだった。

「こんな、こと、して……一生、逃げ続けること、に──……」
 ジェイは黙って首を横に振る。

 この日を、この瞬間を、ジェイは忘れることがないだろう。

(彼を、あらゆる困難から、守りたい……!俺の全てを引き換えにしてもいい──、彼を救ったんじゃない。、俺を救ってくれたんだ)




******
 ────「はい」
 一瞬にして、ジェイは現在に呼び戻された。

 扉から顔を出したのは、あの日の血の気のないクレインではない。
 共に旅をして三年──弓も剣も扱えるようになり、逞しく、そしてさらに美しくなった。

 だがジェイの中には、あの日の印象が強烈に焼きついて離れない。

 今日、血塗れのクレインを見た時も、それが蘇った。そして、ジェイを戦慄させた。

 クレインにまとわりつく『死』の気配──。

(……いかないで、くれ……)
「え……」
 ジェイの胸の中に、無防備な声が吸い込まれる。

 重なった二人を呑み込んで、扉がバタン、と閉まった。

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