44 / 147
第三章 交点に降るは紅の雨
39 クレインとジェイ ※残酷な描写あり
しおりを挟む
「なんてことをしてくれたんだ……!!」
蔑むような声に、ジェイはハッと顔を上げる。
朗々と前説をしていた男が、苦々しげに吐き捨てる。
だがそれに対して、観客のほとんどは、この状況すら愉しんでいた。
「まだ息があるだろう?死ぬ前に犯させろ!!」
「死姦なんてのもいいじゃないか?!」
「勿体無い……おれが買ってやってもよかったのに」
彼に伸びた手を、ジェイは反射的に払った。
「な、なにする……」
何をしているのか自分でも分からないジェイだが、鈍い頭とは裏腹に、視覚だけが冴えていく。
(……血、が……)
周囲の音など、ジェイの耳には入らない。
ただ、腕の中の身体から血が抜けて、どんどんと軽く冷たくなっていくことだけが、心を占めている。
(血……止血を……)
考える前に、身体が動く。自分の着ている服を引き裂き、彼の腹に当てる。だがそんなことでは到底、この傷を塞ぐことなどできそうにない。
「おい!それを寄越せ!!」
ジェイの行動に呆気に取られていた観客の中から、一人が詰め寄ってくる。
(ここにいては、だめだ……)
血で濡れる身体を抱き締めて、ジェイは立ち上がった。
そして、本当に久しぶりに、見た。
焦点を合わせないようにしていた、この地獄を。
この彼の姿を見ても、何も変わらない腐った人間たちを。
ジェイがその行動を取ったのは、彼の命を救うためではなかった。
助かる可能性は低い──いや、助からない方がいい。
例え一命を取り留めても、彼を待つのはさらなる屈辱だけだ。
覚悟を持って自ら命を絶とうとする彼──その意思を、無駄にしたくない。
観客たちは彼が死ぬまで、いや、死んでもなお、彼を蔑めるつもりなのだ。
ジェイは徐に、剣を振った。
「ぎっやぁぁーー!!」
「なっ、ぐあっ!!」
ここ、フラヴィウム闘技場に来て初めて、ジェイは誰かのために、剣を振った。
彼ら二人を取り囲む男たちを、隣に立っていた同僚を、助けを呼ぶ女を、手当たり次第に斬り捨て──彼を抱えて、部屋を飛び出した。
******
「きゃああーー!!」
「おい!早く警笛を鳴らせ!!」
「あれは、ここの衛兵だろう?!なんでそれが……?!」
「知るか!!」
「あいつも殺してやらないと気が済まないぞ!!」
「捕まえろ!!」
「捕まえて、殺せーーー!!!」
自刃した囚人を連れて、衛兵が逃亡した──フラヴィウム闘技場始まって以来の醜聞に、人々は浮き足立って、興奮が増していく。
その部屋の中で、妙に落ち着いた三人。
椅子に座った一人の後ろに、男と女が一人ずつ控えている。
「おもしろい……」
「カイト?」
怒号の中に、場違いな声が落ちる。
「……あの二人、このまま死なせるには惜しいな……」
「おい!何言って……」
「どうするの?助けるつもりなら、早くしないと」
狼狽する男の声に比べて、女の声はけしかけるように強い。
「そうだな……」
立ち上がったカイトは、振り返って楽しそうに仮面を外す。
「……せっかくベレン卿のコネで入り込んだんだ。手ぶらで帰るのもつまらない」
「じゃあ?!」
「行くぞ」
意気込む女性と、ため息をつく男を連れ、カイトは後を追う。
正気とは思えない逃避行を始めた、二人の後を──。
******
「なっなにしてる!!早く捕まえろー!!」
「ぐあっ!!」
「ぎゃがっ!!」
「道を塞げ──がはぁ……っ!!」
前に立つモノを全て薙ぎ払いながら、ジェイは走った。
(な、にしてるんだ、俺は……?!)
どこへ向かっているのかも分からないが、もう足を止めることはできない。
闘技場はこんな事態を全く想定していなかったのか、衛兵たちの動きはバラバラだ。
(そりゃあ……!そうだっ!!)
また一人を斬り捨て、ジェイは自嘲する。
どれだけジェイの腕が立とうとも、ここにいる何十人もの衛兵全てを制圧することなど、できるはずがない。
どの出入り口にも兵はいるし、窓には鉄格子、この広い闘技場の道も部屋も、ジェイはほとんどを把握していない。
兵が体制を整えて、一斉に弓でも射れば一巻の終わりなのだ。
こんな馬鹿をやる者はいない──はずだった。
(逃げてっ、どうする……?!)
例え運よく、闘技場を逃げ出せたとして、その後は……?
この国のどこにも、頼りもなければ助けも期待できない。フラヴィウム国は、逃げた囚人を放っておいてくれるほど、甘くはない。
それでもジェイは、剣も彼も、棄てることができない。
頭も身体も滅茶苦茶に動かしていると、
「ぐえ……っ!!」
ガンッ!キンッ!!
自分の手元ではないところから、鍔迫合いと、断末魔が聞こえてきた。
(っなんだ?!)
自分ではない誰かが、戦っている。
ダンッ!!
横道から、兵士が吹っ飛んで来た。
身構えたジェイの前に、仮面を被った男が現れる。
(仮面……っ!貴族か?!)
剣を向けたジェイを、その男は、笑った。
「こっちだ、来い」
迷子に道案内でもするかのような、気負いのない態度──気を削がれる形になったジェイは、ふらっ、とその後に続いた。
仮面の男は来た道を戻って行く。
廊下には死屍累々と兵士もそれ以外も倒れている。
あれほど湧いて出た兵士が、その時ちょうど途切れたのか、別の空間に迷い込んだような、静けさ。
細い廊下に立っているのは、男とジェイだけだ。
どのくらい死体の跡を辿ったのか──「あ、やっと戻った……!」大きく開け放った扉から、光が漏れている。
その光の中に、二人を手招きする男──「早く来い!」
導かれるように、部屋の中へと足を踏み入れた。
その瞬間、
「早く!!その子を渡して!」
中で待ち構えていた女性が、ジェイの腕の中からひったくるように、彼を奪う。
「な──!!」
「安心しろ、彼女は医者だ」
気色ばんで剣を構えるジェイを、静かな声が抑える。
「い、しゃ……」
「そうよ!だから安心してちょうだい!!……ここじゃ、応急処置しかできないけどね……!」
ジェイを手招きした男が、廊下を覗いてから扉を閉めて施錠する。
(どこ、だ……?……こいつらは、何だ……?)
闘技場には、剣闘士たちが闘う大きな会場の他に、先ほどのような観客が参加するための小さな部屋がいくつもある。
そして客──特に貴族や王族たち──をもてなしたり、彼らが待機したり、宿泊する部屋も。
ジェイには、ここはそんな部屋の一つに見えた。
(この部屋、そして仮面……貴族、にしか見えないが……)
だがなぜ……?
明らかに彼らは、自分を、そして彼を助けてくれた。
「マイナ!まだか?!」
鉄格子の嵌った窓から外を伺っていた男が、医者の女性を急かす。
「っ助かるのか?!」
ジェイは微かな希望に縋るように、血塗れの身体の横に膝をつく。
「……かなり、厳しいわ……!血を流し過ぎてる……」
冷静な彼女の言葉に、愕然と、ジェイは床に座り込んだ。
そして──生まれて初めて、祈る。
神など信じていない。
それでも、祈らずにはいられなかった。
「……お前はどうして、剣を抜いた?」
目を閉じて手を組むジェイに、仮面の男が問いかける。
いや、すでに仮面は剥がし、闇夜のような漆黒の目を晒している。
「こいつの知り合い──という訳ではないだろう?しかも、命が助かるかどうかも分からない……自分の命を投げ打ってまで、なぜこんなことをした?」
ジェイにはその言葉は、耳から入ったというよりも、頭の中に直接響いたように感じた。
頭を緩く横に振って、ジェイは「分か、らない……」自分に向かって、答える。
「俺は……こうせずには、いられなかった……彼を、こんなところで死なせてはいけない、と──いや、彼の骸さえ、ここに置いておきたく、ない、と……」
「それは、自らの命と引き換えるほどの価値があることか?」
「お、れの命などとは、比べ物にならない……こんな……死んでいるように、生きている、俺なんかとは……」
血の気のない手を、握る。
自分よりも、はるかに細い腕──その腕で、ジェイにはできなかったことを果たしたのだ。
無理やり乗せられた運命と闘い、裁定者を気取る傲慢な奴らの鼻を明かし、この地獄を嘲笑ってやる。
何という、哀しい強さ──。
「っよし!……今できることはここまでよ……!早く、ちゃんと治療ができる場所に行きましょう!!」
医者の声に、ジェイの耳が戻ってくる。
「カイト!!」
漆黒の瞳の男に、視線が集まる。
「よし、逃げるぞ」
その軽い調子に、それがとても簡単なことのように思えてくる。が、ここを知るジェイには、彼らがどういう手段を取るのか、見当もつかない。
(逃げる……?どう、やって……?)
ジェイには考えつかないような、華麗で魔法のような方法──なんてものはない。
カイトたちの逃亡手段は、何とも力業だった。
カイトが窓の鉄格子に手をかけて、頑丈なそれを引き抜いた。
「え……」
呆気に取られるジェイを置いて、三人は流れるように次の行動へと移っていく。
少し高い位置にある窓は、大人がギリギリ一人通れるだけの広さだ。
軽々とそこをくぐったカイトは、窓枠に手をかけて身体を支えながら、「お、おい!」止めるジェイを無視して、もう一人の男が抱き上げた彼を受け取って──そのまま身を投げた。
「なっ……!!」
窓に駆け寄ったジェイは、下を見下ろす。地面までは、五メートルはありそうな高さだ。しかし飛び降りた男は、平気な顔でジェイを手招きする。
「……私が先に行くわ」
戸惑うジェイを押し退けて、女性が窓に足をかける。そして──躊躇もなく、飛び降りる。
すぐに窓の外を見たジェイの目には、女性を軽々と受け止めたカイトの姿が映った。
「な……?!」
信じられないように、ふらっ、とジェイが後退るのを尻目に、今度は男が──。
外はすでに黄昏時だ。
今日、最後の陽の光を浴びて、漆黒の瞳が、ジェイを呼ぶ。
ジェイには、選択肢などなかった。
だが、彼は確かに、自分で選んだ。
流されるでも、自然に身体が動いたのでもない。
選んで、窓に足をかけた。
******
「う…………」
何度目かの覚醒──彼はただ掠れた声を漏らす。
「っ、……水だ、飲めるか?」
ジェイは同じ言葉と行動を繰り返す。
ここはカイトたちの支援者、のような人間の家だ。
フラヴィウム闘技場の窓から逃げた五人は、この支援者の馬車で難なくここまで辿り着いた。
ジェイは後になって知ったのだが、実際は、ベレン卿の手の者の家だった。
カイトたちはフラヴィウム闘技場に、ベレン卿の手引きで入り込んだのだった。隣国の貴族という態で。
『闘技場に出入りする貴族の調査と、ついでに、気に入った奴隷がいたら買い受けてもいいぞ』というベレン卿の依頼を、ちょうど終えようとした時に、あの出来事に遭ったのだ。
難攻不落のように思っていた闘技場から、あまりにあっさりと逃げ出せたことに、ジェイは少しと言わず虚しさを覚えたほどだ。
「あんなところに、子どもは連れて行けません!!」
というマイナの方針で、留守番をしていたラークとヘロンに迎えられてから、五日──彼は少しずつ、血の気を取り戻しつつあった。
そして、今──ジェイが口に流し込んだ水を、ごくり、と飲み干して、彼は瞼を持ち上げていく。
髪と同じ、濃紺の瞳。
その色の中に己の姿が映った瞬間、ジェイの目から、自然と涙が流れていた。
******
「……──こ、は?」
「安心して、ここは闘技場じゃない。あなたを脅かすものは何もないわ」
マイナが触診しながら、彼が気を失ってからのことを説明していく。
ジェイはそれを、壁際に立って聴いていた。
「──あなたの名前、教えてくれる?」
「……クレイン」
「クレイン、しばらくは安静にしていてね。──彼が、面倒を見てくれるから」
マイナは俯いているジェイを示して、部屋を出て行った。
「……お前、ばかだな」
二人きりになった部屋、初めてクレインがジェイに向けた言葉は、これだった。
「こんな、こと、して……一生、逃げ続けること、に──……」
ジェイは黙って首を横に振る。
この日を、この瞬間を、ジェイは忘れることがないだろう。
(彼を、あらゆる困難から、守りたい……!俺の全てを引き換えにしてもいい──俺が、彼を救ったんじゃない。彼が、俺を救ってくれたんだ)
******
────「はい」
一瞬にして、ジェイは現在に呼び戻された。
扉から顔を出したのは、あの日の血の気のないクレインではない。
共に旅をして三年──弓も剣も扱えるようになり、逞しく、そしてさらに美しくなった。
だがジェイの中には、あの日の印象が強烈に焼きついて離れない。
今日、血塗れのクレインを見た時も、それが蘇った。そして、ジェイを戦慄させた。
クレインにまとわりつく『死』の気配──。
(……いかないで、くれ……)
「え……」
ジェイの胸の中に、無防備な声が吸い込まれる。
重なった二人を呑み込んで、扉がバタン、と閉まった。
蔑むような声に、ジェイはハッと顔を上げる。
朗々と前説をしていた男が、苦々しげに吐き捨てる。
だがそれに対して、観客のほとんどは、この状況すら愉しんでいた。
「まだ息があるだろう?死ぬ前に犯させろ!!」
「死姦なんてのもいいじゃないか?!」
「勿体無い……おれが買ってやってもよかったのに」
彼に伸びた手を、ジェイは反射的に払った。
「な、なにする……」
何をしているのか自分でも分からないジェイだが、鈍い頭とは裏腹に、視覚だけが冴えていく。
(……血、が……)
周囲の音など、ジェイの耳には入らない。
ただ、腕の中の身体から血が抜けて、どんどんと軽く冷たくなっていくことだけが、心を占めている。
(血……止血を……)
考える前に、身体が動く。自分の着ている服を引き裂き、彼の腹に当てる。だがそんなことでは到底、この傷を塞ぐことなどできそうにない。
「おい!それを寄越せ!!」
ジェイの行動に呆気に取られていた観客の中から、一人が詰め寄ってくる。
(ここにいては、だめだ……)
血で濡れる身体を抱き締めて、ジェイは立ち上がった。
そして、本当に久しぶりに、見た。
焦点を合わせないようにしていた、この地獄を。
この彼の姿を見ても、何も変わらない腐った人間たちを。
ジェイがその行動を取ったのは、彼の命を救うためではなかった。
助かる可能性は低い──いや、助からない方がいい。
例え一命を取り留めても、彼を待つのはさらなる屈辱だけだ。
覚悟を持って自ら命を絶とうとする彼──その意思を、無駄にしたくない。
観客たちは彼が死ぬまで、いや、死んでもなお、彼を蔑めるつもりなのだ。
ジェイは徐に、剣を振った。
「ぎっやぁぁーー!!」
「なっ、ぐあっ!!」
ここ、フラヴィウム闘技場に来て初めて、ジェイは誰かのために、剣を振った。
彼ら二人を取り囲む男たちを、隣に立っていた同僚を、助けを呼ぶ女を、手当たり次第に斬り捨て──彼を抱えて、部屋を飛び出した。
******
「きゃああーー!!」
「おい!早く警笛を鳴らせ!!」
「あれは、ここの衛兵だろう?!なんでそれが……?!」
「知るか!!」
「あいつも殺してやらないと気が済まないぞ!!」
「捕まえろ!!」
「捕まえて、殺せーーー!!!」
自刃した囚人を連れて、衛兵が逃亡した──フラヴィウム闘技場始まって以来の醜聞に、人々は浮き足立って、興奮が増していく。
その部屋の中で、妙に落ち着いた三人。
椅子に座った一人の後ろに、男と女が一人ずつ控えている。
「おもしろい……」
「カイト?」
怒号の中に、場違いな声が落ちる。
「……あの二人、このまま死なせるには惜しいな……」
「おい!何言って……」
「どうするの?助けるつもりなら、早くしないと」
狼狽する男の声に比べて、女の声はけしかけるように強い。
「そうだな……」
立ち上がったカイトは、振り返って楽しそうに仮面を外す。
「……せっかくベレン卿のコネで入り込んだんだ。手ぶらで帰るのもつまらない」
「じゃあ?!」
「行くぞ」
意気込む女性と、ため息をつく男を連れ、カイトは後を追う。
正気とは思えない逃避行を始めた、二人の後を──。
******
「なっなにしてる!!早く捕まえろー!!」
「ぐあっ!!」
「ぎゃがっ!!」
「道を塞げ──がはぁ……っ!!」
前に立つモノを全て薙ぎ払いながら、ジェイは走った。
(な、にしてるんだ、俺は……?!)
どこへ向かっているのかも分からないが、もう足を止めることはできない。
闘技場はこんな事態を全く想定していなかったのか、衛兵たちの動きはバラバラだ。
(そりゃあ……!そうだっ!!)
また一人を斬り捨て、ジェイは自嘲する。
どれだけジェイの腕が立とうとも、ここにいる何十人もの衛兵全てを制圧することなど、できるはずがない。
どの出入り口にも兵はいるし、窓には鉄格子、この広い闘技場の道も部屋も、ジェイはほとんどを把握していない。
兵が体制を整えて、一斉に弓でも射れば一巻の終わりなのだ。
こんな馬鹿をやる者はいない──はずだった。
(逃げてっ、どうする……?!)
例え運よく、闘技場を逃げ出せたとして、その後は……?
この国のどこにも、頼りもなければ助けも期待できない。フラヴィウム国は、逃げた囚人を放っておいてくれるほど、甘くはない。
それでもジェイは、剣も彼も、棄てることができない。
頭も身体も滅茶苦茶に動かしていると、
「ぐえ……っ!!」
ガンッ!キンッ!!
自分の手元ではないところから、鍔迫合いと、断末魔が聞こえてきた。
(っなんだ?!)
自分ではない誰かが、戦っている。
ダンッ!!
横道から、兵士が吹っ飛んで来た。
身構えたジェイの前に、仮面を被った男が現れる。
(仮面……っ!貴族か?!)
剣を向けたジェイを、その男は、笑った。
「こっちだ、来い」
迷子に道案内でもするかのような、気負いのない態度──気を削がれる形になったジェイは、ふらっ、とその後に続いた。
仮面の男は来た道を戻って行く。
廊下には死屍累々と兵士もそれ以外も倒れている。
あれほど湧いて出た兵士が、その時ちょうど途切れたのか、別の空間に迷い込んだような、静けさ。
細い廊下に立っているのは、男とジェイだけだ。
どのくらい死体の跡を辿ったのか──「あ、やっと戻った……!」大きく開け放った扉から、光が漏れている。
その光の中に、二人を手招きする男──「早く来い!」
導かれるように、部屋の中へと足を踏み入れた。
その瞬間、
「早く!!その子を渡して!」
中で待ち構えていた女性が、ジェイの腕の中からひったくるように、彼を奪う。
「な──!!」
「安心しろ、彼女は医者だ」
気色ばんで剣を構えるジェイを、静かな声が抑える。
「い、しゃ……」
「そうよ!だから安心してちょうだい!!……ここじゃ、応急処置しかできないけどね……!」
ジェイを手招きした男が、廊下を覗いてから扉を閉めて施錠する。
(どこ、だ……?……こいつらは、何だ……?)
闘技場には、剣闘士たちが闘う大きな会場の他に、先ほどのような観客が参加するための小さな部屋がいくつもある。
そして客──特に貴族や王族たち──をもてなしたり、彼らが待機したり、宿泊する部屋も。
ジェイには、ここはそんな部屋の一つに見えた。
(この部屋、そして仮面……貴族、にしか見えないが……)
だがなぜ……?
明らかに彼らは、自分を、そして彼を助けてくれた。
「マイナ!まだか?!」
鉄格子の嵌った窓から外を伺っていた男が、医者の女性を急かす。
「っ助かるのか?!」
ジェイは微かな希望に縋るように、血塗れの身体の横に膝をつく。
「……かなり、厳しいわ……!血を流し過ぎてる……」
冷静な彼女の言葉に、愕然と、ジェイは床に座り込んだ。
そして──生まれて初めて、祈る。
神など信じていない。
それでも、祈らずにはいられなかった。
「……お前はどうして、剣を抜いた?」
目を閉じて手を組むジェイに、仮面の男が問いかける。
いや、すでに仮面は剥がし、闇夜のような漆黒の目を晒している。
「こいつの知り合い──という訳ではないだろう?しかも、命が助かるかどうかも分からない……自分の命を投げ打ってまで、なぜこんなことをした?」
ジェイにはその言葉は、耳から入ったというよりも、頭の中に直接響いたように感じた。
頭を緩く横に振って、ジェイは「分か、らない……」自分に向かって、答える。
「俺は……こうせずには、いられなかった……彼を、こんなところで死なせてはいけない、と──いや、彼の骸さえ、ここに置いておきたく、ない、と……」
「それは、自らの命と引き換えるほどの価値があることか?」
「お、れの命などとは、比べ物にならない……こんな……死んでいるように、生きている、俺なんかとは……」
血の気のない手を、握る。
自分よりも、はるかに細い腕──その腕で、ジェイにはできなかったことを果たしたのだ。
無理やり乗せられた運命と闘い、裁定者を気取る傲慢な奴らの鼻を明かし、この地獄を嘲笑ってやる。
何という、哀しい強さ──。
「っよし!……今できることはここまでよ……!早く、ちゃんと治療ができる場所に行きましょう!!」
医者の声に、ジェイの耳が戻ってくる。
「カイト!!」
漆黒の瞳の男に、視線が集まる。
「よし、逃げるぞ」
その軽い調子に、それがとても簡単なことのように思えてくる。が、ここを知るジェイには、彼らがどういう手段を取るのか、見当もつかない。
(逃げる……?どう、やって……?)
ジェイには考えつかないような、華麗で魔法のような方法──なんてものはない。
カイトたちの逃亡手段は、何とも力業だった。
カイトが窓の鉄格子に手をかけて、頑丈なそれを引き抜いた。
「え……」
呆気に取られるジェイを置いて、三人は流れるように次の行動へと移っていく。
少し高い位置にある窓は、大人がギリギリ一人通れるだけの広さだ。
軽々とそこをくぐったカイトは、窓枠に手をかけて身体を支えながら、「お、おい!」止めるジェイを無視して、もう一人の男が抱き上げた彼を受け取って──そのまま身を投げた。
「なっ……!!」
窓に駆け寄ったジェイは、下を見下ろす。地面までは、五メートルはありそうな高さだ。しかし飛び降りた男は、平気な顔でジェイを手招きする。
「……私が先に行くわ」
戸惑うジェイを押し退けて、女性が窓に足をかける。そして──躊躇もなく、飛び降りる。
すぐに窓の外を見たジェイの目には、女性を軽々と受け止めたカイトの姿が映った。
「な……?!」
信じられないように、ふらっ、とジェイが後退るのを尻目に、今度は男が──。
外はすでに黄昏時だ。
今日、最後の陽の光を浴びて、漆黒の瞳が、ジェイを呼ぶ。
ジェイには、選択肢などなかった。
だが、彼は確かに、自分で選んだ。
流されるでも、自然に身体が動いたのでもない。
選んで、窓に足をかけた。
******
「う…………」
何度目かの覚醒──彼はただ掠れた声を漏らす。
「っ、……水だ、飲めるか?」
ジェイは同じ言葉と行動を繰り返す。
ここはカイトたちの支援者、のような人間の家だ。
フラヴィウム闘技場の窓から逃げた五人は、この支援者の馬車で難なくここまで辿り着いた。
ジェイは後になって知ったのだが、実際は、ベレン卿の手の者の家だった。
カイトたちはフラヴィウム闘技場に、ベレン卿の手引きで入り込んだのだった。隣国の貴族という態で。
『闘技場に出入りする貴族の調査と、ついでに、気に入った奴隷がいたら買い受けてもいいぞ』というベレン卿の依頼を、ちょうど終えようとした時に、あの出来事に遭ったのだ。
難攻不落のように思っていた闘技場から、あまりにあっさりと逃げ出せたことに、ジェイは少しと言わず虚しさを覚えたほどだ。
「あんなところに、子どもは連れて行けません!!」
というマイナの方針で、留守番をしていたラークとヘロンに迎えられてから、五日──彼は少しずつ、血の気を取り戻しつつあった。
そして、今──ジェイが口に流し込んだ水を、ごくり、と飲み干して、彼は瞼を持ち上げていく。
髪と同じ、濃紺の瞳。
その色の中に己の姿が映った瞬間、ジェイの目から、自然と涙が流れていた。
******
「……──こ、は?」
「安心して、ここは闘技場じゃない。あなたを脅かすものは何もないわ」
マイナが触診しながら、彼が気を失ってからのことを説明していく。
ジェイはそれを、壁際に立って聴いていた。
「──あなたの名前、教えてくれる?」
「……クレイン」
「クレイン、しばらくは安静にしていてね。──彼が、面倒を見てくれるから」
マイナは俯いているジェイを示して、部屋を出て行った。
「……お前、ばかだな」
二人きりになった部屋、初めてクレインがジェイに向けた言葉は、これだった。
「こんな、こと、して……一生、逃げ続けること、に──……」
ジェイは黙って首を横に振る。
この日を、この瞬間を、ジェイは忘れることがないだろう。
(彼を、あらゆる困難から、守りたい……!俺の全てを引き換えにしてもいい──俺が、彼を救ったんじゃない。彼が、俺を救ってくれたんだ)
******
────「はい」
一瞬にして、ジェイは現在に呼び戻された。
扉から顔を出したのは、あの日の血の気のないクレインではない。
共に旅をして三年──弓も剣も扱えるようになり、逞しく、そしてさらに美しくなった。
だがジェイの中には、あの日の印象が強烈に焼きついて離れない。
今日、血塗れのクレインを見た時も、それが蘇った。そして、ジェイを戦慄させた。
クレインにまとわりつく『死』の気配──。
(……いかないで、くれ……)
「え……」
ジェイの胸の中に、無防備な声が吸い込まれる。
重なった二人を呑み込んで、扉がバタン、と閉まった。
0
あなたにおすすめの小説
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
過保護な父の歪んだ愛着。旅立ちを控えた俺の身体は、夜ごとに父の形で塗り潰される
中山(ほ)
BL
「パックの中、僕の形になっちゃったね」
夢か現か。耳元で囁かれる甘い声と、内側を執拗に掻き回す熱。翌朝、自室で目覚めたパックに、昨夜の記憶はない。ただ、疼くような下腹部の熱だけが残っていた。
相談しようと向かった相手こそが、自分を侵食している張本人だとも知らずに、パックは父の部屋の扉を開く。
このお話はムーンライトでも投稿してます〜
【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】
彩華
BL
俺の名前は水野圭。年は25。
自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで)
だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。
凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!
凄い! 店員もイケメン!
と、実は穴場? な店を見つけたわけで。
(今度からこの店で弁当を買おう)
浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……?
「胃袋掴みたいなぁ」
その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。
******
そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています
お気軽にコメント頂けると嬉しいです
■表紙お借りしました
番に見つからない街で、子供を育てている
はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。
異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。
現世の記憶は失われているが、
この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。
街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、
ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。
だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。
再会は望まない。
今はただ、この子との生活を守りたい。
これは、番から逃げたオメガが、
選び直すまでの物語。
*本編完結しました
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
竜帝陛下の愛が重すぎて身代わりの落ちこぼれ薬師は今日も腰が砕けそうです 〜呪いを解いたら一生離さないと宣言されました〜
レイ
BL
「死ぬ覚悟はできています。でも、その前に……お口、あーんしてください」
魔力を持たない「無能」として実家で虐げられていた薬師のエリアン。
彼に下されたのは、触れるものすべてを焼き尽くす「死の竜帝」ヴァレリウスへの、身代わりの婚姻だった。
悪役令嬢の兄でしたが、追放後は参謀として騎士たちに囲まれています。- 第1巻 - 婚約破棄と一族追放
大の字だい
BL
王国にその名を轟かせる名門・ブラックウッド公爵家。
嫡男レイモンドは比類なき才知と冷徹な眼差しを持つ若き天才であった。
だが妹リディアナが王太子の許嫁でありながら、王太子が心奪われたのは庶民の少女リーシャ・グレイヴェル。
嫉妬と憎悪が社交界を揺るがす愚行へと繋がり、王宮での婚約破棄、王の御前での一族追放へと至る。
混乱の只中、妹を庇おうとするレイモンドの前に立ちはだかったのは、王国騎士団副団長にしてリーシャの異母兄、ヴィンセント・グレイヴェル。
琥珀の瞳に嗜虐を宿した彼は言う――
「この才を捨てるは惜しい。ゆえに、我が手で飼い馴らそう」
知略と支配欲を秘めた騎士と、没落した宰相家の天才青年。
耽美と背徳の物語が、冷たい鎖と熱い口づけの中で幕を開ける。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる