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第五章 星は天を巡る
70 衝動※
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「──で、ユエさんと一緒に匂い袋を作ったんだぜ」
「へぇ!なんだ、俺もそっちの担当だったらよかった」
「俺の説明を、すっげえ一生懸命聞いてくれてさ、いつもよりはりきっちゃったよ」
名前に反応した耳が勝手に会話を拾うのを、カイトは頭を振って追い払おうとする。
しかし、若い司教二人の心置きない会話は、罰のように響くのをやめない。
「本当に、きれいだよなー……俺、あんなにきれいな男の人って初めて見るよ」
「だよな!すっげえ肌も綺麗だし、髪だって見たことない蒼色!」
「瞳もおんなじ色だよな!あの目で見つめられると、男だって分かってんのに、ドキドキしちまう」
「あれはしょうがないだろ。俺だってこの前一緒に作業した時、手がちょっと触れただけでも、ドキッとしたからなぁ」
「俺なんか今日、手ぇ握っちゃったぜー!」
「まじかよ、羨ましい!」
まさか他人に聞かれているとは思っていない二人は、私的な言葉遣いで、聖職者としてはあまり褒められたものではないやり取りをしていた。
まだ続きがありそうだったが、カイトはさっきよりも強い意思で、無理やり音を遮断した。
びーん、と耳鳴りがして、カイトは目をつむってそれをやり過ごす。鳴り止んだ時には、やっと静寂が戻っていた。
目をつむったまま、アディーンの規則的な寝息を聴いていると、少しは頭のモヤが薄れる気がする。
(こうなるのか……)
カイトは自分の身に起こっている初めての感覚を、他人事のように観察していた。
一週間、ほとんど寝ていない。頭はボーっとモヤがかかったようにはっきりせず、体も重い。
特に異常なのは、感覚──中でもカイトを消耗させるのは、聴覚だ。
本気になれば、この教会敷地内全ての音を拾うことができる耳は、ここ数日は油断すると、「ユエ」という音に勝手に焦点を合わせるようになっていた。
おかげでカイトは、ユエ本人には会わなくても、彼の行動に詳しくなっている。周りの評判も知っている分、本人より詳しいくらいかもしれない。
誰と会ったか、何を話したか、どこにいて何をしたのか──おかしなことに、ユエ本人の声よりも、他の誰かの会話に登場するユエの名前が引っかかるのだ。
カイトは通常時、自分の感覚を極力抑えて生活している。耳を塞いだ状態がゼロだとすれば、常に三割を保つ感覚だ。
その調整はほとんど無意識にやっているものだが、生まれ持った本能というよりは、必要に駆られて習得した技術といったところだ。
『普通』を装うために。そして自分の身を守るために。
現にラークも、カイトと出会う前は聴力を制御できずに、町中の会話が流れ込んで日常生活もままならなかった。しかしカイトが、それは制御できるものだと教えてからは、集中した時にだけ力を高めることができるようになった。
そうして、制御した状態が日常になったのだが──今のカイトはその制御が狂っていた。
寝不足の耳は、何でもかんでも音を拾おうとする。何十人もの声、教会中の生活音、自然の音──それが一気になだれ込んで、何重にもなって聴こえるのだ。
それを何とか『普通』の状態まで抑えるために、全ての音量を一斉に下げていくと、遠くの音から順に消えていくことになる。
そうして音を選別していくと、ただの音の塊だったものがだんだんと意味のある単語や会話として、カイトの耳に届くようになる。
もちろんカイトとしては、私的な会話──それもカイトに聞かれているとは思っていない──を勝手に聞くことは避けたいから、なるべく耳だけで聞き流すように配慮している。
だがその中で、どうしても耳につく音がある。
「──ユエさんに明日──」
また勝手に音を拾った耳に、カイトは「ちっ」と舌打ちをする。
「ユエ」という名前だけがなぜか聞き流せない理由を、カイトは考えたくなかった。
身体は正直だという事実から、この時はまだ、目も耳も背けられると思っていたのだ。
******
アディーンが昼寝している間、カイトは教会内をブラブラとしている。なるべく誰とも話したくはないから、人が少ない場所を選んでぼんやりとしていることが多い。
昨日、大聖堂でユエと会ってしまったから、今日はアディーンの私室からあまり離れるつもりはなかった……はずなのだが、気がつけばカイトの足は、昨日と同じ道を辿っていた。
静かな大聖堂に着く前に、ガヤガヤと人の話し声が飛び交う、小さな部屋の前を通りかかった時のこと──「──って、どうしてますか?」聞き慣れた声が耳に飛び込んだ。
(どうしてこんなところに……)
思わず立ち止まったカイトは、前方にある扉が全開の部屋を見つめた。その部屋は、傭兵の詰所のような場所。
教会は戦力を有しないため、独自の軍も兵もいない。建前は『暴力反対!』の精神が理由だが……本音としては、兵士たちを養うだけの財力がないという切ない事実がある。
しかしながらいくら教会であっても、向けられた剣を祈りだけで全て防げるとは考えていない。
そのため武力が必要な時には、傭兵を派遣してもらうという契約を、ギルドと結んでいる。
酔って喧嘩する旅人を諌めるために、治安維持のために、辺境の教会では盗賊対策として、傭兵たちはにらみを利かせてくれる。
傭兵の中には案外、信心深い者が多いため、金にならない仕事ではあるが、嫌がる者は少ない。
ここ『青の教会』にも、常に十人から二十人の傭兵が常駐していた。
そんな傭兵が待機する部屋──そこになぜかユエがいる。
「酒と女!!それに尽きる!」
野太い傭兵の声に、周りからこれまた野太い笑い声が重なった。
「お酒……は少し分かるけど……『女』って……?」
考え考え質問したユエに、一瞬の静寂の後、「おうおう!分かんねぇのか?!」「だははっ、こりゃ見た目通りの初心だな」「なんだ、なんだぁ?経験ないのかぁ?!」からかいを含んだ笑いが起きた。
カイトに部屋の中は見えなかったが、今のユエの表情は想像できた。きっとキョトンと首を傾げて、自分がなぜ笑われたのかも分かっていないのだろう。
そして荒くれの傭兵たちがその顔を見て、どういう感情を抱くのか──そこまでカイトは想像できてしまって、じわっと口の中が苦くなった。
案の定、傭兵たちの声音が媚を帯びる。
「そりゃあよ、女を抱くのが一番ってことさ」
「そうそう、肌を合わせりゃあったかいし、腰を振ってる間は何も考えずに済む」
「……イっちまえば、気持ちも身体もスッキリだ」
今すぐ部屋に押し入って、腕の中に抱え込んで、誰の目にも触れないところへ隠してしまいたい──じり、とカイトの足が動いた時、大聖堂の方角から誰かの足音が聴こえた。
カイトは反射的に、死角に身を潜ませる。
「話し声が大きいですよ。大聖堂の方まで響いて──って、ユエさんがなんでここに?」
傭兵たちを注意しに来たのは、ラフィールだった。
「少し聞きたいことがあって……うるさくしてごめんなさい」
素直に謝るユエに、傭兵たちはバツが悪くなったのか、モゴモゴと言い訳してから、ガタガタと部屋から逃げ出す音が続く。
「ふっ……」詰めていた息を吐いたカイトは、ラフィールが来たなら大丈夫だろうと言い聞かせて、傭兵たちと鉢合わせる前に、その場を後にした。
***
夕食の補助のために、カイトがアディーンの私室へ戻ると、「……なにかありましたか?」と心配そうに顔を覗き込まれる。
「いや……」「眉間にシワが寄ってますよ」
そう言われて思わず自分の眉間に触れたカイトだが、そこからは先は誤魔化して、もうすっかり慣れた夕食から就寝までの時間を過ごした。
そして、いつものように遅い夕食を取ろうと食堂へ向かうと、そこに辿り着く前に、また聞き慣れた声──やっと戻った眉間に、またシワが寄る。
今度はその変化を自覚しながら、カイトは足を止める。
「こんな時間にごめんなさい……」
「いえっ、全然いいですよ!こんなことお安いご用ですからっ」
ユエの声に続いたのは、食堂を管理する司教──声から察するに、三十代くらいの男性──だろうか。
恐縮しながら何かを頼むユエに、司教は慌てながらもむしろ歓迎しているのか、声が弾んでいる。
朝が早いこともあって、司教たちは揃って早寝だ。それに合わせてユエたち三人も、いつもならこの時間にはもう部屋に戻っているはずだった。
昼間にはユエの噂を聞き、さっきは傭兵たちとの会話を盗み聞きし、そして夜になって食堂でも──今日に限ってこれほどユエの気配が続くことに、カイトは苛立ちながら踵を返す。
この苛立ちに行き場がないことを知っているから、カイトの足取りは余計に乱雑になる。
夕食は抜くことにして、今日はさっさと部屋にこもろうと、カイトは階段を駆け登った。
***
いつもより早く部屋へ戻っても、睡魔の訪れは遥か遠い。
寝転がることもしないで、カイトは寝台に腰かけた姿勢で、時が止まったように動かないでいた。
何も聴きたくなくて聴覚を遮断していたカイトは、ゴンっドン、と部屋の扉が叩かれるまで、訪問者に気づかなかった。
カイトが気配を探る前に、訪問者は自ら身分を明らかにする。
「カイト、俺、手が塞がってて……扉、開けて欲しいんだけど」
「ユエ……」
カイトが部屋にいるという確信があるのか、ユエは躊躇わずにお願いしてくる。
もしかしたらカイトは、ユエがただ訪ねて来ただけでは、扉を開けなかったかもしれない。居留守を使うか寝たフリをするか──反応せず諦めるのを待ったかもしれない。
正直に言って、今は会いたくないと思っていた。
カイトが迷いながらも扉に向かったのは、「手が塞がっている」という台詞と、カチャ、ガチャと硬いものがぶつかる音がしたから。
扉を開けた先には──大きなトレーを持ったユエがいた。
「ユエ……?なんだそれ──」「待って、先に置かせて……!重くって、腕が限界……っ」
立ち惚けたカイトを押し退けて、ユエは許可を待たずに部屋へと入ってしまう。
白の陶器のティーポットと、ティーカップにスプーン、そして小瓶を載せたトレーを、ユエは「ふう……」とサイドテーブルに置いた。
確かにそんなものを持って、この居住塔の階段を延々と登って来たのなら、重くて当然だ。
「ユエ……」もう一度聞こうとしたカイトは、ポットから漂ってきた甘い香りに言葉を途切れさせる。
湯気とともに部屋に広がって、強張っていたカイトの神経を優しくほぐしていく。
「これ、さっき淹れてもらったんだ。ハーブティー、カモミール?っていう花で、蜂蜜を入れても美味しいって」
ひと仕事終わった、という顔で、ユエは振り返る。その表情が何とも得意げで──そしてカイトの頭のモヤを晴らすように清々しい。
惚けるカイトに構わずに、「それとね、これも──」ユエは今度は恥ずかしそうに、服のポケットから小さな布の包みを取り出した。
こちらからふわりと香ったのは、ラベンダー。
「今日ね、その……俺が作った、んだ。ラベンダーの香りは心を落ち着かせてくれるって聞いて」
ユエの手に乗った匂い袋は、生成りの麻袋の口をキュッと紐で縛ってある、飾り気のないもの。
それもよく見ると、長方形は歪み、縫い目もバラバラ、蝶々結びも縦になっている。
「他の人が作ったのより、縫い目もきれいじゃない、し、へたくそだけど……でも全部ひとりで作りたくて……」
ユエは不格好を隠すように、手の中に握り締めて、「で、でも!大事なのは香りだから!」とカイトに向かって手を差し出した。
しかしカイトは、それを受け取る素ぶりも見せずに、ただユエの顔を見ていた。
反応がないことに不安になったのか、ユエはカイトの視界から逃げるように、部屋の中央に置かれた寝台に足を向ける。
そして寝台に乗り上がると、「こうやって、枕の下に置いておくといいんだって」と言いながら、冷たいままの枕の下に、手作りの匂い袋を押し込んだ。
それでも反応のないカイトに、ユエは必死になって言い募る。
「そのっ、カモミールティーも安眠効果があるって聞いて、だから……!……だから、眠れるように、なるんじゃないか、って──」
だんだんと俯いていく寝台の上のユエを見ていると、カイトの中に熱い何かが溜まっていく。
胸に集まった熱が、喉を焦がしてから、頭を沸騰させた。分厚く武装していた理性がジリジリと焼け、覆われていた中心が姿を現していく。
残ったのは──愛おしいという感情だけ。
眠れないカイトのために、ユエがどれほど心を砕いたのか──今日一日のユエの行動が、全て自分のためであったことを、カイトは理解した。
(もう……無理だ……)
ギリギリまで引き絞られていた弦が、今、弾ける。
「え、……っ!ンんっ!!」
唇の感触より先に、ユエのくぐもった声が耳に届いた。
次いで、手に握り締めた体温。ギシッと寝台の軋む音、髪の感触──最後にやっと、唇に当たる柔らかい感触が、カイトに届く。
「んんっ……ンっ、ん、ふ……」
視界を占めるユエの瞳が、驚きの色から変化していくのを、カイトはまざまざと見つめていた。見開いてから、苦しそうに歪み、パチクリと瞬きを繰り返して後、何かを聞きたそうに見つめてから、ゆっくりと今、閉じられていく。
理性の残りかすが、(やめておけ)(後悔するぞ)と囁く。だが今のカイトには、そんな忠告を聞く余裕などない。
衝動に身を任せることが、これほど気持ちがいいものとは、カイトは今まで知らなかった。
柔らかな唇。
溢れる吐息。
熱い口腔に、溜まっていく唾液。
洩れる喘ぎ声を舌で搦めとると、震えた肢体がさらに蕩けていく。
初めて味わうユエの唇は、たまらなく甘かった。
******
自分に何ができるか──そう考えた時に最初に思い浮かんだのが、匂い袋だった。
販売を手伝っていた時に、年配の女性が話していたことを、ユエは思い出したのだ。──「匂い袋を寝室に置いてから、寝つきがよくなったのよ」
作業を教えてくれていた若い司教に、そのことを聞いてみると、『香り』には色々な効果があると教えてくれた。
「あのっ!それじゃあ、眠れない時に……眠るのを助けてくれるような香りもあるの?」
期待を込めて聞いてみると、「ありますよ」あっさりと肯定が返ってきた。
「安眠にはラベンダーです」
断言されたその花を、ユエは自分の手で匂い袋にした。
本来なら、花を詰める係、袋を縫う係、紐を結ぶ係……と役割が分かれているのだが、そのひとつだけは、全てをひとりで作らせてもらって。
明日の販売用のカゴではなく、ユエのポケットに大事に仕舞われたそれを、周囲はユエ自身が使うものだとばかり思っていたようだ。
***
ユエは匂い袋だけでは満足しなかった。
しかし他に何ができるか、具体的な案は思い浮かばない。
何せユエが実体験した安眠効果といえば──カイトだけなのだから。ユエはカイトさえいれば、不眠知らずだった。
自分の知識も経験もあまり役に立たないことを、早くの段階で悟っていたユエが取った行動は、とても簡単なもの──人に聞くことだ。
最初の調査は身近な人から。
「眠れない時ってどうしてる?」というユエの質問は、よくある世間話だと受け取られて、返事も気軽なものだった。
「本を読む」という簡潔な答えはアイビス。「う~ん、子どものころは子守唄を歌ってもらった記憶があるけど……」こちらはラーク。
めがね司教は「眠りたい時に眠ればよいのじゃ!」と本末転倒な意見で、ひげ司教は「わしゃ眠れんなんてこと、人生八十年一度もありゃせんわ!」と全く参考にならなかった。
図書館の他の司教たちに聞いても、有力な情報は得られない。好きな仕事をして、人間関係も環境も落ち着いていて、生活習慣も整っている司教たちは、そもそも不眠に悩むことがないらしい。
司教以外なら──と、次にユエが標的にしたのは、傭兵だ。
図書館のお使いのついでに、傭兵たちが待機している部屋に立ち寄ったユエは、いきなり質問をぶつけた。
「眠れない時って、どうしてますか?」
そろそろ顔見知りになってきた、くらいの関係のユエから、いきなりそんなことを聞かれて、傭兵たちはさぞ戸惑ったことだろう。
しかし彼らは不意打ちには慣れているのか、すぐに態勢を整えると──「酒と女!!」と即答してくれた。
(お酒……確かにメイのところで初めて飲んだ時、俺、すぐに寝ちゃったんだっけ。でも……カイトはお酒飲んでも、あんまり酔わないって言ってたし……)
お酒という考えは、一応納得できたユエだが、『女』というのが分からない。
聞き返したユエに、傭兵たちはなぜかニヤニヤしながらも詳しく説明してくれた。
(えっと、つまり……性行為ってこと?それが睡眠に繋がる……?でもアレって、すごく身体が熱くなるし、汗もいっぱい出て疲れるし……どっちかと言うと目が覚めちゃうんじゃないか……?)
カイトとの一夜を思い出して、ユエの頰が紅く染まった──ところで、騒ぎを聞きつけてやってきたラフィールによって、傭兵たちは散っていってしまった。
しかしユエとしては、知的そうなラフィールに標的を移すだけ。
今日何回目になるか分からない質問だったが、さすがはラフィール、誰よりも的確でかつ実用的な提案をしてくれた。
「温かいお湯に浸かって、身体を温めるのがよいそうですよ。あとは……やはり精神的なものでしょうか。安心できる状況を作るのは大事です」
「安心……」
「慣れない場所よりも、自宅の方がいいに決まっていますし……慣れない寝具の肌触り、慣れない場所の匂い、聞き慣れない音や周囲の気配──できるだけ『普段』に近づけるといいんじゃないでしょうか」
「普段通り……あの、さっきお酒を飲むといいって聞いたんですけど、それは本当ですかっ?」
「寝酒を飲むという人も確かにいます。しかしそれは人によるでしょうね。私なんかは、お酒を飲むと身体がカッカしてしまって、寝つきも悪くなるし、睡眠も浅くなりますから」
「そう、ですか……」
ユエの中で第一候補だったお酒が、少し後退したことで悩むユエに、頼りになるラフィールは、何と代案を出してくれた。
「お酒がだめなら、ハーブティーはどうでしょう?」
「ハーブティー?」
「教会でも作っているのですが、カモミールのハーブティーは、寝る前に飲むとよく眠れると言われています」
目を輝かせたユエを見て、ラフィールはさらに具体的な助言までしてくれる。
「寝る前に食堂に行って、淹れてもらうといいですよ。食堂は次の日の仕込みのために、おそらくユエさんが寝る時間くらいまでは、誰か人がいるでしょうし」
ラフィールはてっきり眠れないのはユエだと思って話していたから、
「あ、ううん!飲むのは俺じゃなくて……」
とユエに慌てて否定されて首をひねったが、
「……カイトに、飲んで欲しいんです」
はにかんでそう続いた言葉に、微笑ましいものを見る目になって、助言を変えた。
「……カイトさんはいつも、夜の九時近くになってから、食堂で夕食を食べているはずです。その時にお出ししてはどうでしょう?」
***
そんなことがあってユエは、食堂を管理する司教に頼んで、カイトが来るのを待っていた。
しかし時間になってもやって来ず、大司教の部屋の前に控えていた司教に「まだ中にいるんですか?」と聞きに行くと、「ずいぶん前に出て行きました」と返されてしまった。
こうしてユエは、ハーブティーをポットに淹れてもらい、トレーに乗せて、えっちらおっちらと居住塔を最上階まで登ることになったのだ。
トレーの重量と階段の長さを甘く見ていたユエは、カイトの部屋の前に辿り着く頃には、腕も足もパンパンに疲れ果てていた。
だが、それがよかったのかもしれない。
とにかく早くコレをどうにかしなければ……!と焦っていたユエは、(カイトがいなかったらどうしよう)とか(こんなのいらないって言われたら……)と悩む隙間もないほどに、扉を叩くことだけ考えていた。
トレーで両手が塞がっていたユエは、それをいったん置くという発想もなく、持ったまま何とか手を扉に近づけて、腕がつりそうになりながらほとんど体当たりのように扉を叩いた。
***
そうして入れてもらったカイトの部屋で、何がどうなってこんな状況になったのか、ユエには未だに分かっていない。
ラベンダーの香る寝台の上で、いきなり息ができなくなった。
気がついたらカイトの体の下にいて、口を塞いでいるのがそのカイトだと分かっても、余計に混乱は酷くなるばかり。
そして、それが接吻だと分かった時、ユエが最初に思ったのは(どうして……?)だった。
(どうして接吻するの……?)
(恋人じゃないから口づけはなしだって、カイトが言ったのに……)
(口づけしてくれたってことは、俺を恋人にしてくれるの……?)
口を塞がれたまま目で問いかけたが、見つめてくるカイトの瞳は(聞かないでくれ)と語っているように、ユエには思えた。
口づけで繋がっているからか、カイトの心情が手に取るように伝わってくる。
「んぅ、んっ、ン……ふぁ……っ」それでも息継ぎの合間に、「ど、して……」本音が溢れるのを止められなかった。
覆いかぶさったまま動きを止めたカイトは、断罪を待つような苦しそうな表情で、ユエの赦しを請うている。
(……いいや)ユエは手を伸ばして、カイトを迎えにいく。(言葉なんて、いらない)
何も言ってくれない、いや、言えないカイトを、ユエは受け入れた。
身構えるカイトの頰に触れて、ユエが浮かべたのは、慈愛に満ちた笑み──「どう、して……」
カイトの反応を引き出すように一拍置いてから、それから一転して──婀娜めいた笑みに変わる。
「どうして、クチの中、こんなに気持ちいいの……?」
カイトはユエの真意をはかりかねて、しばらく言葉を探していた。ユエ特有の的外れな質問として流してもいいのか、それとも……──。
しかしユエは指でカイトの唇を撫でて、その思考を邪魔する。そのうちカイトは、ユエとの腹の探り合いなど馬鹿馬鹿しいと気づいたのか、ふ、と息を吐いて、思考を全て手放したような吹っ切れた顔になる。
「……気持ちいい、のか?」
「うん、きもちい。だから──もっとして」
ユエは共犯者の顔で彼を引き寄せて、自分から唇を奪いにいく。
(理由なんか、いい。カイトが俺と接吻したいって思ってくれてる──それだけでいい……)
「ぅ、ン……」
うっとりと目を閉じたユエは、初めての口づけにどっぷりと浸ることにした。
「へぇ!なんだ、俺もそっちの担当だったらよかった」
「俺の説明を、すっげえ一生懸命聞いてくれてさ、いつもよりはりきっちゃったよ」
名前に反応した耳が勝手に会話を拾うのを、カイトは頭を振って追い払おうとする。
しかし、若い司教二人の心置きない会話は、罰のように響くのをやめない。
「本当に、きれいだよなー……俺、あんなにきれいな男の人って初めて見るよ」
「だよな!すっげえ肌も綺麗だし、髪だって見たことない蒼色!」
「瞳もおんなじ色だよな!あの目で見つめられると、男だって分かってんのに、ドキドキしちまう」
「あれはしょうがないだろ。俺だってこの前一緒に作業した時、手がちょっと触れただけでも、ドキッとしたからなぁ」
「俺なんか今日、手ぇ握っちゃったぜー!」
「まじかよ、羨ましい!」
まさか他人に聞かれているとは思っていない二人は、私的な言葉遣いで、聖職者としてはあまり褒められたものではないやり取りをしていた。
まだ続きがありそうだったが、カイトはさっきよりも強い意思で、無理やり音を遮断した。
びーん、と耳鳴りがして、カイトは目をつむってそれをやり過ごす。鳴り止んだ時には、やっと静寂が戻っていた。
目をつむったまま、アディーンの規則的な寝息を聴いていると、少しは頭のモヤが薄れる気がする。
(こうなるのか……)
カイトは自分の身に起こっている初めての感覚を、他人事のように観察していた。
一週間、ほとんど寝ていない。頭はボーっとモヤがかかったようにはっきりせず、体も重い。
特に異常なのは、感覚──中でもカイトを消耗させるのは、聴覚だ。
本気になれば、この教会敷地内全ての音を拾うことができる耳は、ここ数日は油断すると、「ユエ」という音に勝手に焦点を合わせるようになっていた。
おかげでカイトは、ユエ本人には会わなくても、彼の行動に詳しくなっている。周りの評判も知っている分、本人より詳しいくらいかもしれない。
誰と会ったか、何を話したか、どこにいて何をしたのか──おかしなことに、ユエ本人の声よりも、他の誰かの会話に登場するユエの名前が引っかかるのだ。
カイトは通常時、自分の感覚を極力抑えて生活している。耳を塞いだ状態がゼロだとすれば、常に三割を保つ感覚だ。
その調整はほとんど無意識にやっているものだが、生まれ持った本能というよりは、必要に駆られて習得した技術といったところだ。
『普通』を装うために。そして自分の身を守るために。
現にラークも、カイトと出会う前は聴力を制御できずに、町中の会話が流れ込んで日常生活もままならなかった。しかしカイトが、それは制御できるものだと教えてからは、集中した時にだけ力を高めることができるようになった。
そうして、制御した状態が日常になったのだが──今のカイトはその制御が狂っていた。
寝不足の耳は、何でもかんでも音を拾おうとする。何十人もの声、教会中の生活音、自然の音──それが一気になだれ込んで、何重にもなって聴こえるのだ。
それを何とか『普通』の状態まで抑えるために、全ての音量を一斉に下げていくと、遠くの音から順に消えていくことになる。
そうして音を選別していくと、ただの音の塊だったものがだんだんと意味のある単語や会話として、カイトの耳に届くようになる。
もちろんカイトとしては、私的な会話──それもカイトに聞かれているとは思っていない──を勝手に聞くことは避けたいから、なるべく耳だけで聞き流すように配慮している。
だがその中で、どうしても耳につく音がある。
「──ユエさんに明日──」
また勝手に音を拾った耳に、カイトは「ちっ」と舌打ちをする。
「ユエ」という名前だけがなぜか聞き流せない理由を、カイトは考えたくなかった。
身体は正直だという事実から、この時はまだ、目も耳も背けられると思っていたのだ。
******
アディーンが昼寝している間、カイトは教会内をブラブラとしている。なるべく誰とも話したくはないから、人が少ない場所を選んでぼんやりとしていることが多い。
昨日、大聖堂でユエと会ってしまったから、今日はアディーンの私室からあまり離れるつもりはなかった……はずなのだが、気がつけばカイトの足は、昨日と同じ道を辿っていた。
静かな大聖堂に着く前に、ガヤガヤと人の話し声が飛び交う、小さな部屋の前を通りかかった時のこと──「──って、どうしてますか?」聞き慣れた声が耳に飛び込んだ。
(どうしてこんなところに……)
思わず立ち止まったカイトは、前方にある扉が全開の部屋を見つめた。その部屋は、傭兵の詰所のような場所。
教会は戦力を有しないため、独自の軍も兵もいない。建前は『暴力反対!』の精神が理由だが……本音としては、兵士たちを養うだけの財力がないという切ない事実がある。
しかしながらいくら教会であっても、向けられた剣を祈りだけで全て防げるとは考えていない。
そのため武力が必要な時には、傭兵を派遣してもらうという契約を、ギルドと結んでいる。
酔って喧嘩する旅人を諌めるために、治安維持のために、辺境の教会では盗賊対策として、傭兵たちはにらみを利かせてくれる。
傭兵の中には案外、信心深い者が多いため、金にならない仕事ではあるが、嫌がる者は少ない。
ここ『青の教会』にも、常に十人から二十人の傭兵が常駐していた。
そんな傭兵が待機する部屋──そこになぜかユエがいる。
「酒と女!!それに尽きる!」
野太い傭兵の声に、周りからこれまた野太い笑い声が重なった。
「お酒……は少し分かるけど……『女』って……?」
考え考え質問したユエに、一瞬の静寂の後、「おうおう!分かんねぇのか?!」「だははっ、こりゃ見た目通りの初心だな」「なんだ、なんだぁ?経験ないのかぁ?!」からかいを含んだ笑いが起きた。
カイトに部屋の中は見えなかったが、今のユエの表情は想像できた。きっとキョトンと首を傾げて、自分がなぜ笑われたのかも分かっていないのだろう。
そして荒くれの傭兵たちがその顔を見て、どういう感情を抱くのか──そこまでカイトは想像できてしまって、じわっと口の中が苦くなった。
案の定、傭兵たちの声音が媚を帯びる。
「そりゃあよ、女を抱くのが一番ってことさ」
「そうそう、肌を合わせりゃあったかいし、腰を振ってる間は何も考えずに済む」
「……イっちまえば、気持ちも身体もスッキリだ」
今すぐ部屋に押し入って、腕の中に抱え込んで、誰の目にも触れないところへ隠してしまいたい──じり、とカイトの足が動いた時、大聖堂の方角から誰かの足音が聴こえた。
カイトは反射的に、死角に身を潜ませる。
「話し声が大きいですよ。大聖堂の方まで響いて──って、ユエさんがなんでここに?」
傭兵たちを注意しに来たのは、ラフィールだった。
「少し聞きたいことがあって……うるさくしてごめんなさい」
素直に謝るユエに、傭兵たちはバツが悪くなったのか、モゴモゴと言い訳してから、ガタガタと部屋から逃げ出す音が続く。
「ふっ……」詰めていた息を吐いたカイトは、ラフィールが来たなら大丈夫だろうと言い聞かせて、傭兵たちと鉢合わせる前に、その場を後にした。
***
夕食の補助のために、カイトがアディーンの私室へ戻ると、「……なにかありましたか?」と心配そうに顔を覗き込まれる。
「いや……」「眉間にシワが寄ってますよ」
そう言われて思わず自分の眉間に触れたカイトだが、そこからは先は誤魔化して、もうすっかり慣れた夕食から就寝までの時間を過ごした。
そして、いつものように遅い夕食を取ろうと食堂へ向かうと、そこに辿り着く前に、また聞き慣れた声──やっと戻った眉間に、またシワが寄る。
今度はその変化を自覚しながら、カイトは足を止める。
「こんな時間にごめんなさい……」
「いえっ、全然いいですよ!こんなことお安いご用ですからっ」
ユエの声に続いたのは、食堂を管理する司教──声から察するに、三十代くらいの男性──だろうか。
恐縮しながら何かを頼むユエに、司教は慌てながらもむしろ歓迎しているのか、声が弾んでいる。
朝が早いこともあって、司教たちは揃って早寝だ。それに合わせてユエたち三人も、いつもならこの時間にはもう部屋に戻っているはずだった。
昼間にはユエの噂を聞き、さっきは傭兵たちとの会話を盗み聞きし、そして夜になって食堂でも──今日に限ってこれほどユエの気配が続くことに、カイトは苛立ちながら踵を返す。
この苛立ちに行き場がないことを知っているから、カイトの足取りは余計に乱雑になる。
夕食は抜くことにして、今日はさっさと部屋にこもろうと、カイトは階段を駆け登った。
***
いつもより早く部屋へ戻っても、睡魔の訪れは遥か遠い。
寝転がることもしないで、カイトは寝台に腰かけた姿勢で、時が止まったように動かないでいた。
何も聴きたくなくて聴覚を遮断していたカイトは、ゴンっドン、と部屋の扉が叩かれるまで、訪問者に気づかなかった。
カイトが気配を探る前に、訪問者は自ら身分を明らかにする。
「カイト、俺、手が塞がってて……扉、開けて欲しいんだけど」
「ユエ……」
カイトが部屋にいるという確信があるのか、ユエは躊躇わずにお願いしてくる。
もしかしたらカイトは、ユエがただ訪ねて来ただけでは、扉を開けなかったかもしれない。居留守を使うか寝たフリをするか──反応せず諦めるのを待ったかもしれない。
正直に言って、今は会いたくないと思っていた。
カイトが迷いながらも扉に向かったのは、「手が塞がっている」という台詞と、カチャ、ガチャと硬いものがぶつかる音がしたから。
扉を開けた先には──大きなトレーを持ったユエがいた。
「ユエ……?なんだそれ──」「待って、先に置かせて……!重くって、腕が限界……っ」
立ち惚けたカイトを押し退けて、ユエは許可を待たずに部屋へと入ってしまう。
白の陶器のティーポットと、ティーカップにスプーン、そして小瓶を載せたトレーを、ユエは「ふう……」とサイドテーブルに置いた。
確かにそんなものを持って、この居住塔の階段を延々と登って来たのなら、重くて当然だ。
「ユエ……」もう一度聞こうとしたカイトは、ポットから漂ってきた甘い香りに言葉を途切れさせる。
湯気とともに部屋に広がって、強張っていたカイトの神経を優しくほぐしていく。
「これ、さっき淹れてもらったんだ。ハーブティー、カモミール?っていう花で、蜂蜜を入れても美味しいって」
ひと仕事終わった、という顔で、ユエは振り返る。その表情が何とも得意げで──そしてカイトの頭のモヤを晴らすように清々しい。
惚けるカイトに構わずに、「それとね、これも──」ユエは今度は恥ずかしそうに、服のポケットから小さな布の包みを取り出した。
こちらからふわりと香ったのは、ラベンダー。
「今日ね、その……俺が作った、んだ。ラベンダーの香りは心を落ち着かせてくれるって聞いて」
ユエの手に乗った匂い袋は、生成りの麻袋の口をキュッと紐で縛ってある、飾り気のないもの。
それもよく見ると、長方形は歪み、縫い目もバラバラ、蝶々結びも縦になっている。
「他の人が作ったのより、縫い目もきれいじゃない、し、へたくそだけど……でも全部ひとりで作りたくて……」
ユエは不格好を隠すように、手の中に握り締めて、「で、でも!大事なのは香りだから!」とカイトに向かって手を差し出した。
しかしカイトは、それを受け取る素ぶりも見せずに、ただユエの顔を見ていた。
反応がないことに不安になったのか、ユエはカイトの視界から逃げるように、部屋の中央に置かれた寝台に足を向ける。
そして寝台に乗り上がると、「こうやって、枕の下に置いておくといいんだって」と言いながら、冷たいままの枕の下に、手作りの匂い袋を押し込んだ。
それでも反応のないカイトに、ユエは必死になって言い募る。
「そのっ、カモミールティーも安眠効果があるって聞いて、だから……!……だから、眠れるように、なるんじゃないか、って──」
だんだんと俯いていく寝台の上のユエを見ていると、カイトの中に熱い何かが溜まっていく。
胸に集まった熱が、喉を焦がしてから、頭を沸騰させた。分厚く武装していた理性がジリジリと焼け、覆われていた中心が姿を現していく。
残ったのは──愛おしいという感情だけ。
眠れないカイトのために、ユエがどれほど心を砕いたのか──今日一日のユエの行動が、全て自分のためであったことを、カイトは理解した。
(もう……無理だ……)
ギリギリまで引き絞られていた弦が、今、弾ける。
「え、……っ!ンんっ!!」
唇の感触より先に、ユエのくぐもった声が耳に届いた。
次いで、手に握り締めた体温。ギシッと寝台の軋む音、髪の感触──最後にやっと、唇に当たる柔らかい感触が、カイトに届く。
「んんっ……ンっ、ん、ふ……」
視界を占めるユエの瞳が、驚きの色から変化していくのを、カイトはまざまざと見つめていた。見開いてから、苦しそうに歪み、パチクリと瞬きを繰り返して後、何かを聞きたそうに見つめてから、ゆっくりと今、閉じられていく。
理性の残りかすが、(やめておけ)(後悔するぞ)と囁く。だが今のカイトには、そんな忠告を聞く余裕などない。
衝動に身を任せることが、これほど気持ちがいいものとは、カイトは今まで知らなかった。
柔らかな唇。
溢れる吐息。
熱い口腔に、溜まっていく唾液。
洩れる喘ぎ声を舌で搦めとると、震えた肢体がさらに蕩けていく。
初めて味わうユエの唇は、たまらなく甘かった。
******
自分に何ができるか──そう考えた時に最初に思い浮かんだのが、匂い袋だった。
販売を手伝っていた時に、年配の女性が話していたことを、ユエは思い出したのだ。──「匂い袋を寝室に置いてから、寝つきがよくなったのよ」
作業を教えてくれていた若い司教に、そのことを聞いてみると、『香り』には色々な効果があると教えてくれた。
「あのっ!それじゃあ、眠れない時に……眠るのを助けてくれるような香りもあるの?」
期待を込めて聞いてみると、「ありますよ」あっさりと肯定が返ってきた。
「安眠にはラベンダーです」
断言されたその花を、ユエは自分の手で匂い袋にした。
本来なら、花を詰める係、袋を縫う係、紐を結ぶ係……と役割が分かれているのだが、そのひとつだけは、全てをひとりで作らせてもらって。
明日の販売用のカゴではなく、ユエのポケットに大事に仕舞われたそれを、周囲はユエ自身が使うものだとばかり思っていたようだ。
***
ユエは匂い袋だけでは満足しなかった。
しかし他に何ができるか、具体的な案は思い浮かばない。
何せユエが実体験した安眠効果といえば──カイトだけなのだから。ユエはカイトさえいれば、不眠知らずだった。
自分の知識も経験もあまり役に立たないことを、早くの段階で悟っていたユエが取った行動は、とても簡単なもの──人に聞くことだ。
最初の調査は身近な人から。
「眠れない時ってどうしてる?」というユエの質問は、よくある世間話だと受け取られて、返事も気軽なものだった。
「本を読む」という簡潔な答えはアイビス。「う~ん、子どものころは子守唄を歌ってもらった記憶があるけど……」こちらはラーク。
めがね司教は「眠りたい時に眠ればよいのじゃ!」と本末転倒な意見で、ひげ司教は「わしゃ眠れんなんてこと、人生八十年一度もありゃせんわ!」と全く参考にならなかった。
図書館の他の司教たちに聞いても、有力な情報は得られない。好きな仕事をして、人間関係も環境も落ち着いていて、生活習慣も整っている司教たちは、そもそも不眠に悩むことがないらしい。
司教以外なら──と、次にユエが標的にしたのは、傭兵だ。
図書館のお使いのついでに、傭兵たちが待機している部屋に立ち寄ったユエは、いきなり質問をぶつけた。
「眠れない時って、どうしてますか?」
そろそろ顔見知りになってきた、くらいの関係のユエから、いきなりそんなことを聞かれて、傭兵たちはさぞ戸惑ったことだろう。
しかし彼らは不意打ちには慣れているのか、すぐに態勢を整えると──「酒と女!!」と即答してくれた。
(お酒……確かにメイのところで初めて飲んだ時、俺、すぐに寝ちゃったんだっけ。でも……カイトはお酒飲んでも、あんまり酔わないって言ってたし……)
お酒という考えは、一応納得できたユエだが、『女』というのが分からない。
聞き返したユエに、傭兵たちはなぜかニヤニヤしながらも詳しく説明してくれた。
(えっと、つまり……性行為ってこと?それが睡眠に繋がる……?でもアレって、すごく身体が熱くなるし、汗もいっぱい出て疲れるし……どっちかと言うと目が覚めちゃうんじゃないか……?)
カイトとの一夜を思い出して、ユエの頰が紅く染まった──ところで、騒ぎを聞きつけてやってきたラフィールによって、傭兵たちは散っていってしまった。
しかしユエとしては、知的そうなラフィールに標的を移すだけ。
今日何回目になるか分からない質問だったが、さすがはラフィール、誰よりも的確でかつ実用的な提案をしてくれた。
「温かいお湯に浸かって、身体を温めるのがよいそうですよ。あとは……やはり精神的なものでしょうか。安心できる状況を作るのは大事です」
「安心……」
「慣れない場所よりも、自宅の方がいいに決まっていますし……慣れない寝具の肌触り、慣れない場所の匂い、聞き慣れない音や周囲の気配──できるだけ『普段』に近づけるといいんじゃないでしょうか」
「普段通り……あの、さっきお酒を飲むといいって聞いたんですけど、それは本当ですかっ?」
「寝酒を飲むという人も確かにいます。しかしそれは人によるでしょうね。私なんかは、お酒を飲むと身体がカッカしてしまって、寝つきも悪くなるし、睡眠も浅くなりますから」
「そう、ですか……」
ユエの中で第一候補だったお酒が、少し後退したことで悩むユエに、頼りになるラフィールは、何と代案を出してくれた。
「お酒がだめなら、ハーブティーはどうでしょう?」
「ハーブティー?」
「教会でも作っているのですが、カモミールのハーブティーは、寝る前に飲むとよく眠れると言われています」
目を輝かせたユエを見て、ラフィールはさらに具体的な助言までしてくれる。
「寝る前に食堂に行って、淹れてもらうといいですよ。食堂は次の日の仕込みのために、おそらくユエさんが寝る時間くらいまでは、誰か人がいるでしょうし」
ラフィールはてっきり眠れないのはユエだと思って話していたから、
「あ、ううん!飲むのは俺じゃなくて……」
とユエに慌てて否定されて首をひねったが、
「……カイトに、飲んで欲しいんです」
はにかんでそう続いた言葉に、微笑ましいものを見る目になって、助言を変えた。
「……カイトさんはいつも、夜の九時近くになってから、食堂で夕食を食べているはずです。その時にお出ししてはどうでしょう?」
***
そんなことがあってユエは、食堂を管理する司教に頼んで、カイトが来るのを待っていた。
しかし時間になってもやって来ず、大司教の部屋の前に控えていた司教に「まだ中にいるんですか?」と聞きに行くと、「ずいぶん前に出て行きました」と返されてしまった。
こうしてユエは、ハーブティーをポットに淹れてもらい、トレーに乗せて、えっちらおっちらと居住塔を最上階まで登ることになったのだ。
トレーの重量と階段の長さを甘く見ていたユエは、カイトの部屋の前に辿り着く頃には、腕も足もパンパンに疲れ果てていた。
だが、それがよかったのかもしれない。
とにかく早くコレをどうにかしなければ……!と焦っていたユエは、(カイトがいなかったらどうしよう)とか(こんなのいらないって言われたら……)と悩む隙間もないほどに、扉を叩くことだけ考えていた。
トレーで両手が塞がっていたユエは、それをいったん置くという発想もなく、持ったまま何とか手を扉に近づけて、腕がつりそうになりながらほとんど体当たりのように扉を叩いた。
***
そうして入れてもらったカイトの部屋で、何がどうなってこんな状況になったのか、ユエには未だに分かっていない。
ラベンダーの香る寝台の上で、いきなり息ができなくなった。
気がついたらカイトの体の下にいて、口を塞いでいるのがそのカイトだと分かっても、余計に混乱は酷くなるばかり。
そして、それが接吻だと分かった時、ユエが最初に思ったのは(どうして……?)だった。
(どうして接吻するの……?)
(恋人じゃないから口づけはなしだって、カイトが言ったのに……)
(口づけしてくれたってことは、俺を恋人にしてくれるの……?)
口を塞がれたまま目で問いかけたが、見つめてくるカイトの瞳は(聞かないでくれ)と語っているように、ユエには思えた。
口づけで繋がっているからか、カイトの心情が手に取るように伝わってくる。
「んぅ、んっ、ン……ふぁ……っ」それでも息継ぎの合間に、「ど、して……」本音が溢れるのを止められなかった。
覆いかぶさったまま動きを止めたカイトは、断罪を待つような苦しそうな表情で、ユエの赦しを請うている。
(……いいや)ユエは手を伸ばして、カイトを迎えにいく。(言葉なんて、いらない)
何も言ってくれない、いや、言えないカイトを、ユエは受け入れた。
身構えるカイトの頰に触れて、ユエが浮かべたのは、慈愛に満ちた笑み──「どう、して……」
カイトの反応を引き出すように一拍置いてから、それから一転して──婀娜めいた笑みに変わる。
「どうして、クチの中、こんなに気持ちいいの……?」
カイトはユエの真意をはかりかねて、しばらく言葉を探していた。ユエ特有の的外れな質問として流してもいいのか、それとも……──。
しかしユエは指でカイトの唇を撫でて、その思考を邪魔する。そのうちカイトは、ユエとの腹の探り合いなど馬鹿馬鹿しいと気づいたのか、ふ、と息を吐いて、思考を全て手放したような吹っ切れた顔になる。
「……気持ちいい、のか?」
「うん、きもちい。だから──もっとして」
ユエは共犯者の顔で彼を引き寄せて、自分から唇を奪いにいく。
(理由なんか、いい。カイトが俺と接吻したいって思ってくれてる──それだけでいい……)
「ぅ、ン……」
うっとりと目を閉じたユエは、初めての口づけにどっぷりと浸ることにした。
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