三鍵の奏者

春澄蒼

文字の大きさ
100 / 147
第六章 追憶の海に花束を浮かべて

特別編 百回目のキスと ※

しおりを挟む
※注意※R18、(登場人物紹介、番外編合わせて)百話記念の特別編です。現代パロディかつ、学園パロディの要素もあります。ファンタジーの世界観が壊れるとお思いになる方は、お気をつけください。完全にお遊びですので、読み飛ばしても支障はありません。

繰り返します。自己責任でお願いします……!!

********************






 波の音が聴こえる。

 それも波打ち際で聴いてるんじゃない。もっと、海に包まれているみたいに全身に感じる。
 まるで大海に沈んでいるように。

 変なの。海でなんか、泳いだこともないのに。

 どこか懐かしくて、でも少し心細い。
 誰かが来てくれるのを待っているような、自分が何処かへと行かなければいけないような、そんな孤独。


「──」
 ざーーー、という波音に、微かな異音が混じった。途端に、俺の中から孤独が消える。何と言ったかは分からなかったのに、誰の声なのかはすぐに分かった。

「──エ」
 呼ばれている。行かなくちゃと思うのに、海面が果てしなく遠く感じて、もどかしさに歯噛みする。

「──エ、おい、ユエ」
 はっきりと自分の名前が聞こえて、俺の意識は、ふっと浮上していく。声をたぐって、光を目指す。

 光の先に待っている人を、俺は知ってる。
 その人を思い浮かべるだけで、俺のカラダもココロもふわりと軽くなって、そして温かくなる。


 を掴まえるために手を伸ばすと、眩しさに目を細めながら、俺は彼の名前を呼ぶ。世界で一番の、宝物のように──。


「カイト」


 自分の声が耳に届いた瞬間、俺は夢の世界から還ってきた。


***
「あれ……?」
 ぼんやりとした目に映るのは、無機質な白い天井と眩しいLED。目を瞬かせていると、視界を人影が遮った。

「そろそろ起きろ。もう六時回ってるぞ」
「え……?」

 言われるままに体を起こした俺は、見回した景色に一瞬ぽかんとなった。
 壁際には本棚。たくさんの本がでこぼこと並んでいる。資料が散らばった机の両側にソファがあって、自分はどうやらそのソファの二人がけの方で寝ていたよう。

 それほど広くはない部屋。
 立ち上がって振り返ると、窓の外に夕焼けが見える。
 開け放した窓から風が吹き込んで、外を見ていた彼の黒髪がなびいた。

「あ……」
 既視感を覚えて、思わず声が出る。しかし──「なんだ、まだ寝ぼけてるのか」と彼に笑われた時には、そんな不思議な気持ちを覚えたことも忘れていた。

「カイト……」
 言い慣れた名前のはずなのに、どこかおかしな気がして首をひねると、窓際から「……『先生』をつけろ」と声が飛んだ。

 そこでやっと俺は、ここがどこで、自分が何をしていたのか思い出して、かぁっと赤くなる。
「ご、ごめんなさい……っ、おれ、寝てた……?」

 そうだった、と慌てる。ここは先生の研究室で、俺は本の整理を手伝うためにここへ来たのだ。
 授業終わりに頼まれて、やっと最近慣れてきたこの研究室へ入り、先生が飲むコーヒーの香りの中で、彼が新しく手に入れたという貴重な本の目録を作っていたはず。……なのに……!

 救いなのは、何とか入力自体は終えていたこと。今はブラックアウトしているノートPCで、『保存』をクリックしたことは覚えている。
 ひと休みしてから、本棚の本を並べ替えるつもりが──ひと休みではなくなっていたらしい。


 俺が積み上げておいた本がなくなっているということは……?チラリと目を向けても、先生は涼しい顔で外を見ている。

 呆れてるのかな、と怖くなって身を縮めていると、夕焼けに照らされた横顔が「ふっ」と息を吐く。「……暗くなる前に帰れ」

 こっちも見ずに、小さな子どもに対するように言われては、はいと素直に従えない。
 俺の脚は扉とは反対側へと向かう。

 窓に背を預けている彼の前に立つと──そっとその懐に潜り込んだ。

 この人はいつも、暗い色を好んで着る。今日のシャツもネイビー。でも不思議と重苦しくは見えない。
 背中に腕を回して、使い込まれたその柔らかな生地にほっぺたを押しつける。

 ここは地上九階。誰にも見られる可能性はないことを知ってるから、こんな大胆なことができる。

 俺がぎゅっと腕に力を込めても、先生は返してくれない。
「……学校ではやめろ」
「それなら……今日も行っていい……?」

 どんな顔をしてるのか確かめるのが怖くて、俺は顔をうずめたまま訊く。

 今度の「ふっ」は苦笑い。それから腕が動いて、チャリという金属音。

「来ていいから、離れろ。ほら」
「ん……」
 差し出された鍵を受け取ると、俺はやっと彼の顔を直視できる。この鍵を預けてもらうのは、これで四回目。それよりもっと多く、これを彼が使うところも見てきた。

「先に行ってろ。俺はまだ少しかかる」
「はい」
「冷凍庫に作り置きがいくつかあるから、好きなものを解凍して食べていい。……炊飯器の使い方は覚えてるな?」
「も、もうさすがに覚えたっ、から……!」

 数ヶ月前の失敗を思い出して恥ずかしくなって、俺は逃げるように身を翻す。
 右手に鍵を握り締めて、左手でソファの横の自分の荷物を取ると、鍵を回してから扉を開ける。

 最後に、「火は使うなよ」という忠告が俺の背中にぶつかった。





******
 いっぱいに埋まった大教室に、ゆったりと落ち着いた声が響く。広い教室ではマイクを使う先生が多いが、機械を通さなくても彼の声は聞き取りやすい。

 俺の定位置は、一番前の中央より少し右手側。プロジェクターの操作盤があって、写真や映像を授業でよく流す先生を、一番近くで見れる席。

 今日の授業でも、先生は映像を見せながら講義している。肌がよく焼けた子どもたちや、色鮮やかな女性たちの衣装、そして本題である遺跡や発掘品が次々とスクリーンに映し出される。これは全て、先生自身が現地で撮影した映像ばかり。


 月曜日の二限目。
 この授業は選択制の一般教養なのに、テストが厳しいと評判だ。さらに講義名は『東南アジアの歴史と民俗』というマイナーな感じで、普通だったらこんなに学生は集まらない。

 この人気のうち半分は単純な理由で、とにかく面白いから。退屈な板書や長いだけの説明じゃなくて、臨場感のある写真や映像に実物も交えて、本当にその土地に行ったようなリアリティがある。

 一割は意外な理由で、テストが厳しいから、らしい。毎回出席して、しっかり授業を聞いて、ちゃんと勉強して、それで解ける問題を出してくれるという、真っ当さが好きな学生もけっこう多いみたい。

 そして残る四割の理由は──先生。

 歴史学の准教授。特に東南アジアの専門だけど、東アジア、南アジアにも詳しく、歴史だけでなく民俗学にも精通している。

 いくつもの歴史的な発掘に携わってきて、海外にも名前は知られている。付けられた異名は『トレジャーハンター』──彼が関わった調査では必ずお宝が発見されるというジンクスもあって、有名な博士たちから「ぜひ手伝って欲しい」と勧誘されっぱなしらしい。

 この大学の教授たちや、さらに学長にも気に入られていて、数年のうちに最年少教授になるだろうと噂されている。

 その経歴と若いというだけでも人気を集めるには十分なのに、さらに先生は、かっこいい。ずるいってくらい見た目も性格もかっこいいんだ。

 百八十センチを超える長身。派手じゃないけど整った顔立ち。真っ黒な髪と瞳はストイックに見えるのに、焼けた肌はワイルドだし、長い指はセクシーだ。
 そして、この教室の中で俺だけが知ってる、スーツの中──割れた腹筋、たくましい背中、実用的な筋肉が隠されている。

 俺のひいきを差し引いたって、間違いなくいい男。

 露骨に騒ぎはしないけど、たぶんこの授業を受けてるほとんどの女の子たちは、一度はときめいたことがあると思う。

 女の子だけじゃなくて、先生は男子にも評判がいい。こっちは憧れ。何ヶ国語も話せるほどの知性と、未知の土地に飛び込む度胸、さらに色んな国の格闘技を操る強さも持ち合わせているのだから、妬みすら通り越してしまう。


 ……なんでこんなにかっこいいんだろう。

 プロジェクターを使うために薄暗くなった教室で、誰にも気づかれないように、先生の顔ばかり見てる。

 あのスーツの下には、昨日俺がつけた爪痕が残ってる。俺しか知らないこと。俺だけに見せてくれる顔。二人きりの時間。
 熱くて甘い週末が、頭に蘇る。

 俺だけだという優越感よりも、この時間をも独り占めしたいという、幼稚な嫉妬心ばかりが強くなる。彼を見るのも、彼の声を聞くのも、俺だけだといいのに。


 ……なんでこんなに好きなんだろう。


 自分でも持て余すほどの感情。俺は自分にこんな烈しい一面があったなんて、彼に出会うまで知らなかった。




******


 去年の春、俺はこの日本の大学に留学してきた。
 初めての土地、初めての一人暮らし、初めての自由──でも、開放感なんてなかった。

 日本語と英語は幼い頃から習わされていたし、この大学は留学生が多いから、言葉の壁や疎外感は少なかった。
 俺はとにかく自分のことだけに必死で、周囲とは必要最低限の会話だけ。日本に住む親戚がこちらでの保護者代わりだけど、互いに深く関わりたくないという思惑が透けて見えて、必要な時にしか連絡はないし、俺もしない。

 もちろん、親からの連絡なんてない。
 だって俺は──家の恥だったから。


 幼い頃から染められ続けた髪は、もう黒の方が見慣れてしまった。黒のカラーコンタクトも、よく付けたまま寝てしまうくらい。
 を黒色の中に隠して、周囲の黒色に紛れて、俺は生きてきた。


 故郷で隠されるように育てられた俺は、兄の結婚が決まると、今度は外へと追い出された。兄の婚約者家族に、俺のことを知られないようにするためだ。

 そんな理由でも、俺はあの息がつまる場所から出られるだけでよかった。

 だから日本で勉強を頑張って、大学卒業後も家に帰らなくていいように、就職もこっちですることを考えていたから、俺は必死だった。問題を起こすなんて以ての外、単位をひとつも落としたくなかったし、できるだけ資格や免許も取りたいし……友人なんて作る暇もなく、食事や飲み会も断り続けて、四ヶ月。

 その四ヶ月の間、息抜きといえばただひとつ──泳ぐことだけだった。

 幼い頃から泳いでいる時間だけ、不思議と気持ちが楽になる俺は、大学でも一応水泳部に所属していた。
 特に強豪でもないのに温水プールが完備されているから、俺にとってはかなりいい環境。速く泳ぐことより、長くゆっくりと泳ぎ続けるのが好きだから。

 それに俺は、他の人と一緒に泳ぐことが好きじゃなくて、できればひとりで黙々と泳ぎたい。
 その点、この大学の水泳部は部員も少なくていつもプールは空いてるし、申請しておけば夜の九時まで使うことができるから、俺は時間ができるとプールへ来ていた。

 部に入っても、部員と交流することもなくいつもひとりだったが、特に問題はないと思っていた。
 ──あの瞬間までは。


***
 いつものようにプールのトイレで着替えると、荷物を置くために更衣室に足を踏み入れた。するとそこに、男五人が待ち構えていた。
 他の部員の顔を覚えていなかった俺は、更衣室にいるんだから部員なのだろうと思ったが、実は五人の中には部外者も混じっていた。

 しかも時間は、いつもは俺の他に二、三人しかいないような遅い時間。
 その時点で、異変を感じなければいけなかったと、後になって思った。


 下は水着で上にパーカーを羽織っていた俺は、その五人に視線に、思わずパーカーのジッパーを上げた。もともと肌を他人にさらすことが嫌いだったからなのだけど、たぶんそれが、五人をさらに煽ったらしい。


 俺はその瞬間まで、自分が男から性的な目で見られる存在だという自覚は微塵もなかった。でも彼らの視線の不快さを感じ取って、じりっと後退りしかけた。

 ──その後の一分を、俺はよく覚えていない。

 訳が分からないうちに口を塞がれて、混乱の中で身体が押さえ込まれた。カチッと鍵をかける音だけが鮮明に聴こえた。
 腕も脚も動かなくて、電気は点いていたはずなのに目の前は真っ暗で──恐怖で身がすくんで、怖くて怖くて、たまらなくて。


 絶望しかけたその時──俺を助けてくれたのが、カイトだった。


 カシャッ!!軽い音と眩しい光。「ぐえっ」「ボコッ!」「ガシャン!」の音の後に、身体の拘束がなくなった。
 震えてパーカーの合わせをかき抱く俺の肩に、ふわっとタオルがかけられた。

 俺の視界を守るように立ちはだかったその人が、大学で一二を争う有名な准教授だとすぐに気づく。

 どうしてここに、この人が……?

 この時はまだ知らなかったけれど、先生も泳ぐのが好きで、人がいない時間帯によく泳ぎに来ていたらしい。この日まで会わなかったのは、俺がひとりで泳いでいる時は、邪魔しないように気を使ってくれていたかららしい。


 証拠写真を撮ってから男たちを蹴散らした先生は、背中からも伝わるほどに怒りと軽蔑を放っていた。

「……俺は犯罪者の言い訳の中で、『こんなことになるとは思わなかった』という台詞が一番嫌いなんだ」
 抑えた声に、壁際に吹っ飛んだ男たちがそろって身をすくめた。

「『男相手だから大丈夫だろう』『バレなければ大丈夫』『脅せば大丈夫』『留学生だから』『いつもひとりだから』……大丈夫な訳ないだろう……これは犯罪だ」
「っ、おっ、お前だって、生徒に暴力振るっていいとでも──っ!!」

 最後のあがきも、先生は冷酷な瞳で睨みつけて黙らせた。

 それから、ふわっと雰囲気を変えて振り返ると、「立てるか?」と手を差し出した。操られるように手を出して、大きな手にすがる。脚がガクガクして立てない俺を、先生は「少し触るぞ」と言ってから抱き上げてくれて、俺の荷物を全部持つと、そのまま更衣室から出た。

 残して来た五人が今にも追いかけてくるんじゃないかと不安だったが、先生は悠然とプール施設からも出て、近くの他の部室棟へと行くと、そこのトイレの前で俺を降ろし「中で着替えてくるといい」と言うと、入り口に見張るように立った。

 いつの間にか震えは止まっていた。

 着替えた俺を先生は自分の研究室へと誘った。
 前期、俺は先生の授業を取っていなかったから、まともに顔を合わせるのも話すのも、この時が初めて。
 普段だったら絶対に断っただろうけど、この時は頷くことしか考えられなかった。

 先生は扉を開けたままにして、コーヒーを淹れてくれた。飲み終わるまで、何も言わなかった。

 たぶん先生は、時間が経って恐怖が蘇ることを予測していたんだと思う。だから俺をすぐにひとりにしなかった。

 ソファの上で震えて膝を抱える俺のそばに、ただいてくれた。

 この時もう、カイトは特別な存在になっていた。



 その日、アパートまで車で送ってくれた先生は、別れ際に「警察に行くか?」と聞いてくれたけど、俺は勢いよく首を横に振った。
 大事になって騒ぎになるのが何よりも怖かったから。

 先生は俺の意思を尊重してくれて、それ以上は言わなかった。

「いつでも連絡していい」ともらった名刺には、裏にプライベートの番号も載っていた。その名刺を見て、先生のフルネームを初めて知ることとなった。

 苗字が珍しい上に呼びにくいこともあって、他の先生や事務員からもファーストネームで呼ばれていて、学生もそれを真似て「カイト先生」と呼ぶのが広まっていたからだ。

 漢字も初めて知った。
 こんな字を書くんだと、その名刺を眺めながら、その夜何度も彼の名前を呼んでいた。


***
 土日を挟んで月曜日。
 あいつらに会ったらどうしようと大学に行くのが怖かったけど、無断欠席もできなくて、ビクビクしながら家を出た。

 学校に着くと無性に先生の顔が見たくなって、学生や先生がよく顔を出す事務室の前でしばらくうろうろしていると──本当に事務室の奥から会いたい人が現れた。

「カイトっ!……せんせい……!」
 躊躇なく名前を呼んだ自分にびっくりしながら、俺の脚は勝手に近づいていく。

「ユエ」
 初めて名前を呼ばれたことと、それにドキッと胸が跳ねた自分にも驚いたけど、それ以上に──「……ど、して、俺の名前知ってるの?」

 授業も取っていない俺の、しかもファーストネームをどうして先生が知っていたのか──その疑問をこの時は誤魔化されてしまったけど、もっと後になってから嬉しがらせる理由を教えてくれた。


 なぜなら──先生はあの事件より前から、俺のことを気にしてくれていたから。

 何ヶ国語も話せるということもあって、先生は留学生のサポートをよく任されている。その留学生支援の部署で、俺のことを何度か見かけていたらしい。

 他の事務員が呼んだことで俺の名前を知って、その響きが綺麗だと気に留めた。さらにどう漢字で書くのかを知って──俺によく似合ってると、ずっと思ってくれていた、らしい……っ!

 自分のことでいっぱいいっぱいだった俺は気づかなかったけど、先生はプールでも何度も見かけていたとも、後になって教えてくれた。
 あの時タイミングよく助けてくれたのも、偶然なんかじゃなくって、あいつらがコソコソ動いていることを知っていて、警戒してくれていたのだということも、ずいぶんと後になって知ることになる。


 そんな『理由』をまだ知らない俺は、強烈に彼に惹かれていく自分のことが、なんだか不思議に思えていた。

 事務室前で声をかけた俺に、先生は「何の用だ」とは訊かないで、「ちょうどいい」と手招きした。そして、彼の後ろにいたひとりの留学生と引き合わせて、「ちょっとこいつの面倒見てやってくれ」と俺を指差した。

 その人は俺より年上で、少し口が悪くて無愛想で、ダークブルーの瞳の美形の男だった。
 その先輩は一通り先生に文句は言ったけど、頼まれたことはきっちりやるタイプのようで、その日以降なにくれと面倒を見てくれるようになった。

 先生はそれから、色んな知り合いを紹介してくれた。

 イケメン講師と話題のイギリス文学の先生。事務室でよく学生にからかわれている、声もガタイも大きな事務員。保健室の女性医師に、司書や院生、大学付属の中等部の子どもまで。

 俺はそんな先生を、案外おせっかいなところがあるんだなと思っていたけど……少し考えれば分かることで、先生は心配してくれていたのだ。頼れる人を増やして、見守ってくれる目を増やして。


 夏休みを挟んだこともあって、やっとあの五人を目の端で探さなくなった頃、先生はこっそりと、五人全員が大学を退学させられたことを教えてくれた。

「お前の名前は出してないから安心しろ。……時間がかかって悪かったな」と謝ってくれたことで、先生がずっと動いてくれていたことを知った。

 それを報告してくれた日、先生は俺をプールに誘った。あの日以来、あそこに行けなかった俺を分かっていて、一緒に泳ごうと誘ってくれたのだ。

 誰もいない夜のプール。
 先生は「秘密にしておけ」と言って中から鍵を閉めてしまって、他に誰も入れないようにしてくれた。

 更衣室じゃなくてシャワー室で着替えるよう促して、「中から鍵をかけろ」と気を使ってくれて、自分はプールサイドで着替えたらしい。

 俺が着替え終わる頃には、もう水音が跳ねていた。

 俺はしばらく、先生の泳ぎに見惚れていた。

 力強いストロークに、鍛え抜かれた肉体が水を切り裂き、まるで水を支配しているような圧倒的な存在感があった。もっと綺麗なフォームの選手はいても、この時ほど俺を感動させることはないだろう。

 熱に浮かされたように身体も頭も火照っていて、ふらっと、彼が泳ぐレーンに近づいていった。
 水面に落ちた影に気づいた先生が、目の前で水から顔を出した。ゴーグルを上げて、手招きされて──俺は水じゃなくって、彼をめがけて飛び込んだ。


「好きです」
 水を揺らしながら、勝手に言葉が飛び出した。


 首に回した腕をもっときつくすると、水の中で露出した胸や脚が触れた。でも、水の膜が二人の間を隔てていて、どこか遠い。だから俺は、もっと腕に力を入れて彼を引き寄せる。

「好き」

 先生は俺の告白を、大人の態度で諌めた。
 ちょっと助けられて、勘違いしているだけだ、と。


 その時は俺も、自分の感情をまだ自分でも信じられないところもあって、先生がそう言うのならそうなのかも、と引いたけれど──やっぱりそれは、勘違いなんかじゃなかった。

 先輩に相談したり、自分でもよくよく考えて、悩んで、迷って──その感情に確信を持ってから、もう一度先生に告白した。

 先生は今度は俺の気持ちを否定はしなかったけど、「俺は学生と付き合う気はない」とはっきりと言われてしまった。


 でも全然諦めきれなくて……断られてからもアピールし続けた。先生の授業を取って、手伝いを買って出たり、留学生支援の仕事でもサポートを申し出たり、プールに誘ったり。

 先生は俺を諦めさせるために、そっけない態度を取るようになっていたし、二人きりにならないようにしていたけど、泳ぐ時だけは別だった。あの事件を利用するようで汚いとは思ったけど、それでも俺は唯一の二人きりになれる時間を手放せなかった。


 何となく暗黙の了解で、水の中では触れないようにしていた。
 別々に着替えて、隣同士で黙々と泳いで、また別々に着替える。だからほんの短いプールサイドの時間にだけ、俺は好きなだけ「好き」と言って、時々手や背中に触れた。

 先生は受け入れてはくれないけど、でも強く拒否もしないから、希望が捨てられずにすがり続けた。


***
 一ヶ月くらいそんな毎日が続いて、学園祭で騒がしい秋が過ぎ、冬が近づいて。

 冬休みも間近に迫った日、大学の食堂で俺の目に飛び込んできたのは、カイトと談笑する見慣れない男。
 留学生が多いこの大学でもひときわ目立つ、白髪なのか銀髪なのか分からない髪色に、蛇のような目をした異国情緒漂う男だ。

 周囲の噂話によると、彼はカイトの研究の出資者のひとりで、長期休みには彼をよく海外へと連れ出していて、次の冬休みにもその予定だと言う。

 並んだ二人を見て、俺の中に一気に焦りが生まれた。
 ──あの男が、カイトを連れて行ってしまう。


 俺がこのこう着状態に決着をつけるために選んだのは、捨て身の方法。



 たぶん今年最後になるだろうという夜のプールで、いつものように泳いだ後、いつもは別々に着替えるところを、俺は先生の背中を押して、一緒に更衣室に入った。

 後ろ手に鍵をかけてから、濡れた肌に抱きついて、「好き……」

「ユエ、俺は──」
「学生とは付き合えない、なら……カラダ、だけでもいい、から……っ」

 ぎこちなく、でも精いっぱい誘う手つきで背中を撫で上げて、上目遣いに見つめた。
 その時の先生の目が冷めていたら、さすがに心が折れてた、けど……願望のフィルターがかかった俺の目には、先生も少しは迷っているように見えた。

 だから──最後の賭け。

 身体を離して距離を取って、自分の水着に手をかける。顔から火が出るくらいの羞恥を感じながら、震える手で肌に張りついていた水着をゆっくりと降ろしていった。

 両脚を抜いて、水着を床に落とす。

 この場所で裸になることで、自分の決意を示したかった。
 あなただけに見せる姿。他の誰にも触れられたくない。でも、あなたにだけは触れてほしい。

 先生の脚だけ見つめて近づくと、無言の彼の手を取って自分の胸に触れさせた。
 熱い手のひらに激しい鼓動を伝えるように。

「カイト、すき……好きです、ほんとに……っんっ!ンんぅ!!」

 涙がこぼれる前に、口が塞がれた。

 初めてのキス。
 痛いくらいに抱き締められて、何度も何度も舌を絡めた。

 キスしながら服を着て、ほとんど走るように先生の車に乗り込んで、信号で止まるたびにまたキスして──そして初めて、先生の部屋に入った。


 初めてのセックス。
 信じられないくらい気持ちよくて、夢みたいに幸せで──こうなることが最初から決まってたみたいに、俺と先生の身体はひとつに融け合った。



***
 あれから半年以上。
 数え切れないくらい抱き合った。

 でも──先生は『好き』のひと言を返してくれない。
 だから俺たちの関係は、最初に俺が申し出た通りの、セックスフレンドってことなのかな。


 先輩に相談したら、『それってほとんど付き合ってるんじゃないの?』って言われたけど……俺はまだ自信がない。

 そのダークブルーアイの先輩は、自分も男性と付き合ってるくせに、俺の話にはいちいち驚く不思議な人。

 相手は先生だと言わずに、男同士のセックスについて教えてほしいって尋ねたら、『ばかじゃないの?!』って怒られて散々脅されて、でも実際にしてみたら先輩の忠告は全然当てはまらなくて、痛くなかったし乱暴にもされなかったし、だから『大丈夫だった。むしろ気持ちよかった』って素直に報告したら、絶句した後に『なんでそんなに簡単に受け入れられるんだよ……?』となぜかがっくりされた。


 ちなみに……先輩の彼氏(こう呼ぶと怒られるけど)は大学外の人で、イアイ?の先生?みたいな人らしい。何年か前に先輩の国にそのデモンストレーションで来た時に会って、お互いに好きになったとか。それから先輩は日本語を勉強して、わざわざ日本の大学に留学して、今はその人と一緒に住んでる。


 先輩は俺のことを『見た目より行動的だし、情熱的だな』って呆れたような目で見るけど、俺からしたら先輩もよっぽどだと思うけど。



******


 いつもなら先生の講義は一言一句聞き漏らさないのに、今日は過去を思い出してばかりで少し集中力が削がれていた。

 その理由を自覚しているから、俺は今朝、わがままを言って、先生の部屋の鍵を預かったままにしている。

 講義が終わって、先生の周りにできる人垣に後ろ髪を引かれながらも、俺はポケットの中の鍵を握り締めて次の講義に向かう。
 今はみんなのものでも、あの部屋では俺だけのものなんだから、と自分を慰めて。

 一日中集中力が戻らないで過ぎて、夕方、俺はトボトボとひとりで先生の部屋に向かった。急いでもまだ先生は帰ってないのに、自分の部屋にも戻らず、外食もせずに、一直線に。

 先生と関係を持ってからの俺の生活はすごく規則的で、金曜の夜に彼の部屋を訪れて、土日を一緒に過ごして、月曜から木曜は我慢する、というサイクル。
 でも今日のようにそのサイクルが崩れる時がある。それは、長期休み前。


 もうすぐ、二回目の夏休みがやってくる。
 学生なら喜ぶその期間が、俺は憂鬱でたまらない。

 だって……先生がいなくなる。

 冬休み、夏休み、春休み。先生は海外の発掘作業に行ってしまう。今度の夏休みも、もうそれが決まってる。


 家主のいない部屋を見回す。
 このの部屋は、学校の研究室に比べるとすごく整然としている。本棚にきっちり入るだけの本。あんまりモノに執着がないのか、貴重な本や発掘品も学校や博物館なんかに寄贈してしまうらしい。

 普段からそうなのに、長期休みの前の部屋からはもっとモノが少なくなっていく。

 まるで──帰って来れない時を想定して、整理しておくみたいに。


 本人も言ってた。この部屋は『家』っていうよりも、『寝床』って感じだって。帰る場所じゃなくて、ただ寝る場所。
 だから、大切なものは残していかないんだって。


 まだ昨日の名残があるベッドに、ばたんと倒れ込んでぐずぐずとしていた俺は、またうたた寝していたみたいで。

「ユエ」
「んん……?」
 優しく揺り起こされて、夢の世界から戻る。

「カイト……」
「ふっ……お前寝言でも俺の名前呼んでたぞ」
「ん~……なんか夢みてた気がする。カイトもいて……」

 目をこする俺の髪をぐしゃぐしゃと撫でたカイトは、「コンタクト、外してこい」と自然に言う。このベッドに初めて上がった日から、俺はカイトの前では自分を隠さなくなっていた。

 黒のカラーコンタクトを外すと、鏡の中の俺がオーシャンブルーの瞳で見返してくる。

 まだ見慣れないし、堂々とはできない。でも……カイトが「綺麗だ」と言ってくれるから、家族からあれだけ否定され続けたこの色が、少しずつ好きになっていく。

 いつか髪も、ありのままの色を見てもらいたい。


 カイトは俺の不安を分かってるみたいで、わがままを笑って許して、今日も泊まっていいと言ってくれた。

 一緒に夕食を食べてから、珍しく一緒にお風呂に入って、我慢できず反応してしまった俺を一度クチでしてくれて──。


 そして二度目は、ベッドで。

 カイトは絶対に俺に無理させない。キスから初めて、ゆっくり服を脱がせて、丁寧に愛撫して──俺の身体の準備ができてから、挿入する。優しいからだって分かってる、けど……今日はそれがもどかしくって。

 カイトは余裕があるのに、俺だけが欲しがってるみたいで。

「……カイトっ、も、いいから……っ!はやく……っ」
 カイトの身体を脚で挟んで引き寄せる。
 触れた中心は燃えるように熱くて、その熱をはやく中で感じたい。

 カイトは素早くスキンをつけると、我慢できないみたいにいつもより強引に押し入ってきた。
 そんな少し乱暴な仕草に、俺はむしろ悦んでしまう。

 もう、彼のカタチを覚えているナカは、待っていたように絡みついて、離したくないと引き止める。
「あっ……ん、あっンン……っ!!んぅ、ふ、あ……っん!」

 声を抑える余裕なんてない。それに、最初の時からカイトは「声出せ」って言ってくれたから、素直に声を上げるのが癖になってる。

「カイトっ、ねっ、きのうと同じの、して……っ」
 顔を引き寄せてお願いすると、カイトは目を細めてから体勢を整えて──「あっあっあ……やっ……ぁっ!!」先端の張り出したところで、小刻みに前立腺を刺激してくれる。

 自分からお願いしたくせに、俺の身体は強すぎる快楽から逃げ出そうとする。そのたびにカイトの手が俺の腰を掴んで引き戻して、前よりもっと強くこすれ合うようになる。

「カイト、カイトっ、きもち、ぃ……っ」
「そう、か」
「うん、うんっ!……いい、きもちぃぃ……っ!も、すぐいっちゃう……!」
「っ、ど、した?今日はやけにはやいな」
「んん~……っ、わ、かんない、んっ、なんかっ、だめ……!今日、がまんできない……っ」

 キスをねだって「いい?」と聞くと、カイトは焦らさずに前も一緒に刺激してくれて──「あ、ァァ……っ!!」すぐに今日二回目の絶頂が訪れた。


「……ふ、ぁ……んカイト……」
 一瞬意識が飛んでいたみたいで、気づいた時にはカイトは俺のナカからいなくなっていた。スキンの中に白濁が溜まっているから、カイトも出したのは分かる、けど……その瞬間を見ても感じてもいなかったから、どうにも終わりの気分にはなれない。

「……ね、カイト」
 もう一度シャワーを浴びるかと聞かれる前に、俺は濡れた肌にすり寄る。「もう……いっかい」

「ユエ」
「お願い……今度は、ぎゅってするのがいい」

 膝立ちになって、溢れてくるジェルを塞き止めるように、その場所にカイトのを押しつけるように腰を揺らす。一枚の膜もなく触れ合ったものが、すぐにぐぐぐと硬さを増したことに勇気づけられて、俺ははしたないおねだりを繰り返した。

「ん、ふっンン……すぐにはいっちゃいそう……」
 後ろがぱくぱくと口を開けて、先端を喰む。くん、と少し腰を落とすと、ぬるんと弾かれたのが割れ目に沿って滑って、浮き出た血管がヒクつく場所をこすっていく。

「あ、あっ……!」
 何度か割れ目で硬いのを扱くと、俺の腰を支えていたカイトの手に、ぐっと力が入ったのが分かった。
 堪えるように寄せた眉が官能的で、ちゃんとカイトを煽れているのがうれしい。

「カイト……いい?」
「ま、て……ナマはまずい──」
「むり、も、待てない……っ、ね、このまましよ。それで……なかでだして」

 恥ずかしさにまみれながら、俺は耳元で囁く。
 だって……ずっとしてほしかった。

 なんにも隔たりなしに、カイトを感じたい。
 ほんとうに、ひとつになりたい。

 ダメだって言われると余計に、そのダメなことを俺だけに許してほしいと思ってしまう。
 なんでもいいから、カイトの初めてがほしい。もっと確かなものを感じたい。


 俺の覚悟に、カイトは応えてくれた。




 カイトの指に拡げてもらいながら、「、ん、んっ」俺はゆっくりからだの中心を埋めていく。「ンふ、ん、ふかい……っ」ぜんぶ入ったことを確かめるために、後ろ手に繋がった場所に触れる。
 ぎちぎちに拡がった縁をなぞると、ナカがもっとみっちりといっぱいになる。

「す、ごぃ……ナカいっぱい。奥まで、とどく……」
「は……ユエ、」

 俺を乗せたまま、あぐらをかいたカイトが腰を揺らす。「あ、ん……おく、くる……っ」いちばん深いところを先端が穿って、頭が痺れるくらい気持ちいい。

「かいと、カイトっ、好きすきっ……!だいすきっ、んっ、ぅン。あっふァ……もっらいすき……!!
「ユエ……っ!!」

 カイトは気づいてるかな。俺がこの部屋では絶対に、『先生』とは呼ばないこと。
 俺は気づいてる。『好き』って何度も俺が言うと、カイトはキスで俺の口を塞いでしまうこと。


「っユエ、後ろだけでイけるか?」
「うん、うんっ……!ナカ、いっちゃう……っ、から、キスっして……っ!キスしながら……ぁ」

 ──その後はもう、溺れるほどのキスとどこかへいってしまうほどの、絶頂。



 ドライオーガズムの後はいつも、動けない俺をカイトが世話してくれる。
 ひくひくと余韻に浸るからだを、温かい濡れタオルで拭って、それからもう一度、シャワー。

 ナカをかき出して、からだと髪を洗ってもらって、湯船に浸かるころやっと、俺は正気を取り戻す。

 カイトにもたれて温かいお湯に浸かっていると、まるでたった今生まれたような、新鮮で幸せな気分になってくる。この腕の中で、俺は何度も生まれ変わってる気がする。

 身体を横向きにして、背後のカイトの首に腕を回す。俺がつけた背中の爪痕──いつまで残ってるかな。


「カイト、俺ね……最近、海の夢をよく見るんだ」

 カイトの返事は言葉ではなく、首筋へのキス。俺のその夢の意味を、彼も分かってる。
「俺も一緒に連れていって」──そのセリフが喉元まで出かかるけど……呑み込んで、抑えつけて、別の言葉に変える。


「……気をつけて」


 夏休み、カイトが向かう先はインド洋。そこで沈没船の調査をするらしい。
 そんなに危険はないって聞かされた、けど……それでも心配なものは心配だし、もし何かあってもすぐには会いに行けない距離が、怖くてたまらない。

 離れたくない。一緒に行きたい。そばにいてほしい。──バレバレの本音でも、口には出さない。困らせたくないから。

 でもせめて、俺のかけらを残したい。だからわざと爪を立てた。
 それから俺にも──なにか残していってほしい。

 首筋から耳をくすぐるカイトを、「あのね」と呼ぶ。「、カイト……キスマーク、つけて」

 学校のプールでよく泳ぐ俺たちは、互いの身体にセックスの痕跡を残すことを避けている。他の部員が少ない時間帯を選んでいても、時には鉢合わせることがあるから。

 だから本当は、爪痕もマナー違反なんだ。でも……カイトは俺の不安を分かって、怒らないでくれた。

「カイトがいない間は、おれ、プールで泳がない、から。だから……いっぱい痕、残して……?」

 俺のわがままに、カイトは……ため息をつく。……ため息、つかれちゃった。だめ、かな。こんなこと言うの、面倒くさい、かな。

 不安になった俺に、カイトはもっと深いため息をついてから、「あのな……」と不本意そうに話し出す。

「ユエ、お前な……もうちょっと察してくれ」
「……え?」

 自分の手で顔を覆ったカイトは、指の間からチラリと俺を見てから──「そんなに不安になるな」と優しい苦笑いを向ける。

「え……?」
「最初に言ったはずだ。『俺は学生と付き合う気はない』ってな」
「う、ん……」

 話の流れがどこへ向かうのか分からなくて、曖昧に頷くと、カイトはまだ分からないのか?と眉を上げる。

「……そんな格好つけたこと言っておいて、こうしてお前を抱いてる時点で……お前は特別だって、分かるだろ?」
「えっ、あ……」

 まさかそんな甘いセリフを言ってもらえるなんて……!ぶあっと紅くなった俺を、カイトはセリフと同じくらい甘ったるい仕草で抱き寄せる。


「さっさと卒業してくれ。それで──」
「それ、で……?」
「ぜんぶ、俺のものになれ。そうしたらいくらでも、お前が望む言葉を言ってやるから」


 カイト以外に言われたら、傲慢で自信たっぷりだと鼻白むようなセリフ。でも──カイトから俺へ、なら、最上級の愛の約束。


「……待っててくれる?」
「ああ」
「約束してくれる?」
「ああ」

「キスして」

 ゆっくりと重なった唇。目は閉じない。カイトの瞳の中に俺の知らない俺がいる。一瞬、潮の匂いが鼻をかすめた気がして、俺は無性に切なさと愛おしさに駆られる。
 今、目の前にカイトがいること──それだけのことが、奇跡だと思えた。


「カイト、」
「うん?」

 伝えたいことが山ほどあったはずなのに、俺の口から出てきたのは、シンプルなひとこと。でもそのふたつの音に、ぜんぶの感情を込める。


「すき」


 過去でも未来でも、夢でも遠い現実でも、この世界でも異なる場所でも──いつ、どこにいても、俺とカイトが結ばれるように、願いを込めて。



しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

過保護な父の歪んだ愛着。旅立ちを控えた俺の身体は、夜ごとに父の形で塗り潰される

中山(ほ)
BL
「パックの中、僕の形になっちゃったね」 夢か現か。耳元で囁かれる甘い声と、内側を執拗に掻き回す熱。翌朝、自室で目覚めたパックに、昨夜の記憶はない。ただ、疼くような下腹部の熱だけが残っていた。 相談しようと向かった相手こそが、自分を侵食している張本人だとも知らずに、パックは父の部屋の扉を開く。 このお話はムーンライトでも投稿してます〜

【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】

彩華
BL
 俺の名前は水野圭。年は25。 自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで) だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。 凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!  凄い! 店員もイケメン! と、実は穴場? な店を見つけたわけで。 (今度からこの店で弁当を買おう) 浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……? 「胃袋掴みたいなぁ」 その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。 ****** そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています お気軽にコメント頂けると嬉しいです ■表紙お借りしました

君に望むは僕の弔辞

爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。 全9話 匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意 表紙はあいえだ様!! 小説家になろうにも投稿

番に見つからない街で、子供を育てている

はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。 異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。 現世の記憶は失われているが、 この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。 街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、 ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。 だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。 再会は望まない。 今はただ、この子との生活を守りたい。 これは、番から逃げたオメガが、 選び直すまでの物語。 *本編完結しました

初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。 だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。 しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。 王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。 そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。 地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。 ⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。

竜帝陛下の愛が重すぎて身代わりの落ちこぼれ薬師は今日も腰が砕けそうです 〜呪いを解いたら一生離さないと宣言されました〜

レイ
BL
「死ぬ覚悟はできています。でも、その前に……お口、あーんしてください」 魔力を持たない「無能」として実家で虐げられていた薬師のエリアン。 彼に下されたのは、触れるものすべてを焼き尽くす「死の竜帝」ヴァレリウスへの、身代わりの婚姻だった。

悪役令嬢の兄でしたが、追放後は参謀として騎士たちに囲まれています。- 第1巻 - 婚約破棄と一族追放

大の字だい
BL
王国にその名を轟かせる名門・ブラックウッド公爵家。 嫡男レイモンドは比類なき才知と冷徹な眼差しを持つ若き天才であった。 だが妹リディアナが王太子の許嫁でありながら、王太子が心奪われたのは庶民の少女リーシャ・グレイヴェル。 嫉妬と憎悪が社交界を揺るがす愚行へと繋がり、王宮での婚約破棄、王の御前での一族追放へと至る。 混乱の只中、妹を庇おうとするレイモンドの前に立ちはだかったのは、王国騎士団副団長にしてリーシャの異母兄、ヴィンセント・グレイヴェル。 琥珀の瞳に嗜虐を宿した彼は言う―― 「この才を捨てるは惜しい。ゆえに、我が手で飼い馴らそう」 知略と支配欲を秘めた騎士と、没落した宰相家の天才青年。 耽美と背徳の物語が、冷たい鎖と熱い口づけの中で幕を開ける。

処理中です...