三鍵の奏者

春澄蒼

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第六章 追憶の海に花束を浮かべて

83 鳶と鷹と人魚姫 ※流血表現あり

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 四日目、シトシトと弱雨が降り続く。

 航海は予定より少し遅れているが、明日中には大渦に辿り着けるところまで来ていた。

 しかし順調な航海に似つかわしくなく、船員たちの表情は今日の天気のように曇っている。アイビスの不安が乗り移り、ユエの不吉な予感が蔓延するように、今や仲間たち全員が「なにかおかしい」と不審を感じているのだ。

 その不審は一点にカイトへと注がれる。

 そしてその空気に気づいていながら、カイトがそれを放置していることも、さらに不審を募らせる原因だ。
 カイトは自分がいつもと違うという自覚があり、それに周囲が気づいているということも知っていて、その上で、何もしないことを選んでいる。

 ただ、流れに身を任せて。


 あれからユエは、できる限りの時間をカイトの隣で過ごしている。
 船の上、どこへも行けないことは分かっているのに、常に触れていないと不安なほど。引き留めるように手を繋ぎ、存在を確かめるように抱き締める。

 それくらいの触れ合いはもう、周囲の目を気にしていられない。

 雄弁に語る態度と反比例するように、二人の間から言葉が消えていく。

 言いたいこと、言わなければいけないことがたくさんあるはずなのに、それを形にできないユエ。
 目でそのもどかしさを伝えると、カイトは口を塞いでしまうようになった。唇で、言葉にできない想いを吸い取るように。

 人目のない場所では、ずっと唇が合わさっている。
 そうして四日目は過ぎた。



******
 五日目、まだ太陽が顔を出す前から、船を動かし始める。初夏の爽やかな朝。雨の気配はない。


 大渦を視界に捉えたのは、正午を回った時刻のこと。
 あの運命の日と同じように、海を穿ったまま──「……なんか、禍々しくなってないか」クレインが背筋を震わせたように、あの日よりも一層、大渦は闇をまとっている。海の底の、さらに奥まで続くかのように、昏く渦巻いて。


 全員が──カイトも含めた全員が──とうとう着いてしまったと諦めにも似た思いで、大渦との再会を果たした。



 一行を乗せた船は、大渦からかなり距離を取って錨を下ろす。

 周囲には一隻の船の影もない。
 大渦ができてから大多数の船が自主的にこの海域を避けていることもあるが、事前にヘイレンが、ハオリ島を始めとする周辺の島々や船に通達しておいたのだ。この一週間は、絶対に近寄らないようにと。

 そして人魚たちにも、警告を送った。
 クウェイルとメイの家の常連になっていた、女性人魚二人に頼んで、先んじて東の族長へ向けて。
 何が起こるか分からないため、一族をこの海域から遠ざけてほしいと。

 しかし、以前からの禁止令をも無視していた無謀な若者たちには、そんな厳命もどこ吹く風なのか、海の中の気配をメイが感じ取る。

「私が説得してくるわ」
 名乗りを上げたメイをカイトが止める。
「これ以上の説得は無意味だろう。……まだ時間はある。少し様子を見よう」

「時間……?」
 聞き返したユエに、カイトは空を見上げて答える。「始めるのは、夕刻になってからだ」



 そしてカイトは全員を甲板に集めると、遅い昼食を囲みながらこんなことを言い出した。

「少し、昔話をしよう。──いや、おとぎ話と言った方がいいか」

 目を細め、昔を思い出すように。
 耳を澄ませ、誰かの声を思い出すように。
 口調は穏やかに、まさしく親が子におとぎ話を語るように、カイトは話し始める。


「百年ほど前、実際にこの場所で起きた出来事であり、そして……語り継がれなかったおとぎ話──人魚姫と海賊の物語だ」





******



 ────東の一族で『姫』と呼ばれた人魚、ユラン。彼女は同族のみならず人間たちからも『人魚姫』と冠された。

 確かにユランは、その呼び名に相応しい人物だった。
 透き通った海のような、髪と瞳の色。意志の強さが見えるはっきりとした目鼻立ち。鱗は虹色に輝き、濡れた肌は艶っぽく、誰もを魅了する人魚らしい人魚。

 だがその内面はというと──『姫』よりも『英雄』と呼びたくなるほどの、男前っぷりだった。


 自ら弓を取り、人魚たちの先頭に立って海を荒らす人間と闘い、たったひとりで人間との話し合いに臨み、彼らをも巻き込んで共存の道を探る。
 行動力に度胸、そして優しさをも持ち合わせた、稀代の救世主──そう、なれるほどの器があった。

 あの男と、出会うことさえなければ──。



 ヴァルク・ジャン・ノーが、見習いとして乗っていた海賊船で反乱を起こしたのは、まだ十代始めの頃。
 育ての親でもあった船長を殺し、船を乗っ取った。

 それからジャン・ノーの人生は、常に血に塗れたものになる。

 海賊船だけでなく、商船や海軍の船でも手当たり次第、目に入った船を襲い、奪い、そして皆殺しにする。
 立ち寄った港でも同じだ。店を襲い、奪い、そして殺す。

 女も子どもも関係なく、理由もなにもあったものではない。すれ違っただけ、目が合っただけ、目が合わなかっただけ……気が向いた時にだけトドメは刺さないという有様で、ヤツの通り道は血溜まりが絶えなかった。

『死神』『血濡れの船長』『海の兇皇』……付けられた二つ名は数知れず、恐怖の代名詞となっていく。

 ジャン・ノーがそのまま無差別な蛮行を続けていたら、海は海賊の支配下に置かれ、無秩序のまま今日まで来ていたかもしれない。
 それほど、ユランとは正反対の方向での、影響力があった。



 ユランとジャン・ノー、二人の出会いはそれほど劇的ではなかった。

 東の海の沖合、人魚をさらった奴隷船がその舞台。
 ユランは同族を助けるために、ジャン・ノーはその儲けを強奪するために、船を目指していた。

 先にユランとその仲間が奴隷船を捉え、交戦しているうちに、ジャン・ノーの海賊船が接舷、三つ巴の戦いとなった。
 仲間を奪い返し退却しようとしたユランを、ジャン・ノーの目が捕らえる。その一瞬の交差が、運命の分かれ道だった。

 それまでジャン・ノーは人魚にも奴隷商売にも一切興味を示さなかったのに、ひと目見て、ユランを手に入れたい衝動に駆られた。


 ユランが二十五才、ジャン・ノーが三十代半ばのこと。
 この二人が同時代に生きていなければ、世界は今とは──いい方向か悪い方向かは分からないが、とにかく今とは異なった形になっていただろう。


 それからジャン・ノーの行動は全て、ユランを手に入れるためのものになる。

 ユランの仲間の人間の船を追い回し、闘いを挑んで彼女をあぶり出す。
 他の海賊を支配下に置き、人海戦術で人魚の情報を集める。
 人魚を捕まえ人質にして、脅す。


 しかしありとあらゆる手を尽くしても、ユランは屈しなかった。


 ジャン・ノーを突き動かしたのは、決して恋情などという甘いものではない。
 支配欲だ。

 ジャン・ノーは胃袋を持たない獣だった。喰らっても喰らっても、空腹は満たせない。ただ喰らった分、ノドが渇くだけ。

 海賊船を支配し、周辺の島を、人間を支配しても、ヤツは満足できない。より大きな獲物を求め、カラカラに渇いた獣には、さぞユランは旨そうに見えたことだろう。
 ジャン・ノーにとってユランは、海の象徴に思えたのだろう。彼女を支配することで、海の支配者になるつもりだった。

 ヤツの海賊船に、その心根は凝縮されている。

 ジャン・ノーはユランに会ってから、自身の船の船首に彼女を模した像を造り、海賊船の名を人魚の涙ディア・メロウ号と改めた。
 ヤツが求めたのは彼女の笑顔や幸せではない。──涙だったのだから。


 そしてヤツが人魚を人間にする方法に固執したのも、ユランを屈服させるためだった。


 ジャン・ノーは究極の嗜虐趣味者。
 恐怖に染まった表情、苦痛に堕ちる瞬間、それを見ることがなによりの快感だったらしい。

 しかもヤツは天才的に、その人のもっとも芯の部分を見抜く目があった。そこを折れば、全てが崩れるという要の部分だ。

 母親の目の前で子どもを殺し、屈強な男を犯し自尊心を折り、職人の両手を切断し、権力者を奴隷に堕とす。
 そうしてもっとも残虐な手段を選び、ヤツは他人を支配することを愉しんでいた。


 そしてジャン・ノーがユランの芯だと考えたのが──人魚であること。
 ユランをユランたらしめている要の部分──それを奪うために、彼女を人間にしようとした訳だ。

 ほとんど悪あがきに近い思考だった。

 それまでジャン・ノーが人々を支配してきた方法では、ユランは決して支配はできないと悟ったが故に、そんな妄執を抱いたのだろう。

 ユランは同族の人魚、人間の仲間を傷つけられて悲しむだけでなく、見ず知らずの人間の死にも涙を流すような、愛情に溢れた人だった。
 そしてどれだけ涙を流しても、自身が傷ついても、立ち直り、立ち上がる強さがあった。

 例え誰を傷つけ殺そうが、例え彼女自身を傷つけ、陵辱し、そして手にかけようが、それはジャン・ノーの望む結果にはならないことを、約一年かけ追い回した結果が物語っていた。



 それからまた約一年かけて、ジャン・ノーは人魚を人間にする方法を探し彷徨った。

 しかしそれは、いくら金をかけ力を笠に着ても、見つかることはない。
 初めての挫折を、ヤツは認めることができなかった。


 ──そうして、まさにこの場所で、最終決戦の火蓋が切られることとなった。


 ジャン・ノーはおそらく、自分でもなにがしたいのか分からなくなっていたのだろう。狂いに狂って、崩壊寸前の心。手当たり次第に奪えるものを全て奪ってしまおうと、ただ剣を取った。

 人魚の涙ディア・メロウ号を中心に、五隻の海賊船が、ユランの仲間の船の行く手を阻んだ。始まったのは、一方的な虐殺。
 ユランが人魚たちと応援の船を率いて到着した時には、すでに海は真っ赤に染まっていた。

 その血の海が、怒りに、悲しみに、恐怖に、火をつけた。
 火は一気に燃え盛り、縦にも横にも拡がって、誰しもの正気を失わせていった。

 ユランの制御も効かず、統率もないままに、そこかしこで乱戦が始まっていた。


 船と船がぶつかり、傾き、海を揺らす。船上では人間同士が斬り合い、海からは人魚たちの矢が飛ぶ。
 一隻の海賊船が沈み始め、人魚たちが巻き込まれて海に沈んでいく。
 一隻から火が出て、夕焼けとともに海を赤く照らす。

 敵も味方も入り交じり、混沌に呑み込まれる魔の時間帯──先に致命傷を受けたのは、ユランだった。


 背中に矢を受けたまま、彼女は最後の決着へと向かった。


 船尾から浸水し沈みつつあった人魚の涙ディア・メロウ号は、中腹に亀裂が入り二つに折れ、船首付近の甲板がちょうど海面と同じ位置にあった。
 人魚の像の隣に陣取るジャン・ノーが、まるで海の上に立っているように。

 ユランは海から矢をつがえると、ほとんど水平に狙いを定めた。

 矢が放たれる寸前に、二人の目が合う。
 ジャン・ノーは狂気に嗤い、ユランは眠りにつく前のように穏やかだった。
 そしてその表情は、矢が放たれた後も変わらない。

 心臓に矢を受けても、ジャン・ノーは嗤い狂ったまま。ユランを見つめながら、船首の人魚の像に抱きついて……船もろとも昏い海へと沈んでいった。

 ユランはそれを見届けると……眠るように穏やかに、死後の世界へと旅立った。



 結果だけ見れば、相打ちなのかもしれない。
 だが……最期までユランは、ジャン・ノーに支配されることはなかった。彼女の『死』は彼女だけのもの──ジャン・ノーはユランの『死』を知ることなく、今もこの海の底で、彼女が堕ちてくるのを待っている────



******



 話し始めたのと同じくらい唐突に、カイトは話し終えた。終息を告げる沈黙が訪れるまで、誰ひとり、ひと言も口を挟めなかった。

 疑問は当然あった。途中で遮って問いただす選択肢もあった。
 それでも最初から最後まで聞き入ってしまった理由は、明らかだ。──あまりに臨場感があったから。

 カイトの口調は感情を削ぎ落としたようだったのに、語られた内容は、目の前にその光景が浮かぶほど真に迫っていた。今にも煙の匂いが、剣戟の音が、悲鳴が、感じられるほどに。


 重たい余韻を破ったのは、「……まって」というメイの悲鳴に近い声。
「ま、って……っ待って!今の話は、ほんとうなの……?実際にここで起こったこと?!」

「……ほとんど史実だと思ってくれていい」
 応えるカイトは、全ての覚悟を決めたようにさっぱりとした声だ。

「ど、どうしてあなたがこんなに詳しく知っているの、カイト!人魚の間にだって、詳細は伝わっていないのに……!」
「……ユランには人間の仲間も多かった。この場で見届けたのは、人魚だけではなかったということだ」
「ユラン姫の仲間だった人間が、記録を残していたってこと……?」

 それにははっきり答えずに、カイトは微妙に話をそらす。誤魔化すのではなく、先延ばしにするために。

「……人魚たちが詳しく語り継がなかったのには、理由がある。ユランに致命傷を負わせた矢──彼女の死後にそれが、人魚たちが使っていた矢だと判明したんだ」
「……え?」
「もちろん、敵が落ちていた矢を使って射っただけという可能性も捨てきれないが……敵も味方も入り乱れた乱戦で、味方の矢が偶然当たってしまった──そちらの方が可能性は高い」

「うそ……それじゃあ、ユラン姫の命を奪ったのは……」
 残酷な真実に口を覆ったメイを、クウェイルがすぐさま支えた。

「誰なのか特定はできなかった。つまり……その場にいた誰にでも可能性はあった。だからこそ人魚たちは口を閉ざした」

 その曖昧な真実はユランの死以上に重たいものだった。その場にいた全員の罪──その罪悪感は形を変えて、人間へと向かうこととなった。
 突き詰めれば、ユランの死の責任は人間にあるのだと、そう思わなければ、その重さに耐えられなかったのだ。


「……鍵は?」
 吟味するように考え込んでいたヘイレンが、鋭く質問を投げかけた。
「ユランが持っていたはずの『人魚の鍵』──それはどの時点で奪われたんだ?」

 カイトは一度目を伏せてから、「おそらく、乱戦の中で」断言はしていないのに、続く言葉も淀みない。

「誰もその瞬間を目撃していない。乱戦の中で、ユランを捕らえようとしたジャン・ノーが、彼女の首にかかっていた鎖に手をかけ、引き寄せようとしたところ、鎖が切れて、鍵はヤツの手に渡ってしまった──そんなところだろう」
「偶然だった?」
「そうだ。だが、その鍵をユランが大切にしていたことを、ジャン・ノーは知っていたからな。奪えるものはなんでも奪っておくつもりで、戦利品のひとつくらいには思っていたから、死んでも手放さなかった──……そうか……」


 最後、独り言になったカイトは、「思い違いをしていたんだな」とひとりで納得して、ちらっとユエに目線を向けたが、「……いや、これは後にしよう」
 カイトはここでも先延ばしにする。



 そしておとぎ話の幕を下ろしにかかる。

「ジャン・ノーが死んでもしばらくは、闘いは続いていた。ユランが息を引き取る時も、それに気づいていた者はほとんどおらず、結果、彼女の遺言は……ひとりの人間に託されることとなった」
「ユラン姫の、遺言……?」

 初めて聞く話だと目を見開いたメイに、カイトは意味深に笑って、「……ユランを看取った人間──その男を、俺は


 その言葉に、メイを始めとしたほとんどは、おかしなほどホッとしていた。そうか、カイトはその男から、この『おとぎ話』の情報を得たのだな、だからこれほど詳しいのだな、と。
 カイトが先ほど先延ばしにした、メイの疑問に対する答えなのだと、勝手に納得していたからだ。


 例外だったのはヘイレンとユエ。
 ヘイレンはカイトの言葉の真意を理解して、静かに興奮を抑える。
 そしてユエはというと、ざわっと胸のあたりに走る震えが強くなるのを感じていた。

 ユエはその震えを止めようとぎゅっと胸を押さえる。
(どうして……こんなにこわい……)


 この旅が始まる前から、ユエの中には怖れが芽生えていた。それは漠然とした未来に対する恐怖。

 大渦へ近づくにつれ大きく育ち、今の話を聞いて今にも蕾が開きそうなほどのその恐怖──ユエはたった今、蕾が二つあることに気づいた。

 ひとつは、自分の心から生えていて、それを栄養に育っていることがちゃんと感じられる花。
 でももうひとつ、この花は──(俺のじゃない……)


 自分の中に、自分のものではない恐怖がある。それは具体的な過去に対するもの。


 しかし正体が分かっても、自分の手にないものはどうすることもできない。

 恐怖は恐怖を煽り、恐怖は恐怖を育て、ユエはねじれる心を落ち着けることで精一杯になって、みんなのように思考を働かせるどころではない。

(カイト……!)
 心の中で名前を呼ぶと、彼の声を手繰り寄せる。命綱のようにすがりついて、ユエはカイトの声だけに全神経を集中させた。



 物語は佳境に入る。


「遺言は『鍵を見つけて』──ジャン・ノーの死が知れ渡ると、恐怖に支配されていただけの海賊たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。ユランの仲間たちは、その死と、さっき話した矢の件で打ちのめされ、なにも手につかない状態だった」
「遺言は忘れ去られてしまったの……?」

 メイの疑問を肯定も否定もせず、カイトは時間軸を進める。
「……闘いが終わった直後は、戦死者の遺体の回収や負傷者の手当てに奔走し、さらにすでに陽が落ちていたため、その他は翌日へと持ち越された。次の日、ユランを含め亡くなった人魚たちの葬儀が、東の一族によって行われ、そこで人魚たちは初めて、ユランの首に鍵がないことに気づいた。しかし──その葬儀に、人間は参列していなかった」

「ま、さか……人魚側が拒否したの……?仲間として共に闘った人間たちまで……」
「……ユランの父、当時の東の族長の意向が大きく働いたんだ」


 ユランの父は元々、人間と共存するというユランの考えに反対の立場を取っていた。しかし娘の意思は尊重していて、強固に止めることはせず、かといって共に闘うということもなかった。
 自分が止めていれば……それか、自分も共に闘っていれば……そんな後悔が、その後の東の一族が辿る道の出発点になったのだ。

 葬儀以降、東の一族は完全に人間と袂を分かつことになった。


「遺言を託された人間は、人魚たちにそれを伝える機会を失った」
「そ、う……そうだったのね、だから……」

 東の一族には、ユランの遺言も、そして鍵の行方もはっきりと伝わらなかったのだ。
 そうして百年、鍵は海に沈んでいた。



***

「……そろそろいい時間だ」
 水平線に目をやって呟いたカイトに、「え」誰もが首をかしげて同じ方角を向いた。
 太陽は東の海から遠く遠く、海の果てへと帰路を急いでいる。

 カイトはその場でひとり立ち上がると、ゆったりとした動作で、自分の上着に手をかける。
「カイト……?」
が起こるまで、決して船を動かすな。いいか、誰も海に入るなよ。特に──ユエ、お前は」

「っカイト……?」
 名指しされたユエが声を上げるが、カイトは構わずに上着を脱ぎ、半袖一枚になる。

「『なにか』って……なにが起こるってんだ……?」
 続いてブーツにも手をかけるカイトに、フェザントが反射的に聞いていた。

 カイトは裸足になってから、「なにが起こるかは、俺にも分からん」と妙に吹っ切れた笑顔で笑う。



 呆気にとられる仲間たちに、カイトはおとぎ話の後日談を蛇足のように付け加える。

「……ユランの遺言を託された人間が、それを人魚たちに伝えられなかったのには、確かにさっき話したように機会が失われた、という理由が大きかった。だがな、伝えるだけならいくらでも方法はあったさ。その男は、あえて積極的に、伝えようとしなかったんだ」

 ユエはその時のカイトの表情に、間違いなく自嘲を見た。なぜそんな表情をするのだろう、という疑問が入り込む隙を、カイトは与えてくれない。


「男は当初、人魚に託さずとも自分で鍵を取り戻せると考えていた。そして闘いから一週間ほど経ち、海が落ち着いてから海の底へ潜った。しかし──予期せぬ事態により、それは叶わなかった」

「予期、せぬって……いや、むしろ当然だろう?!そいつは人間だったんだろう?そもそも辿り着けるはずが──」「その男が」

 矛盾を突いたつもりのアイビスだったが、カイトはそれをまるっと黙殺して、何事もなかったかのように続ける。

「この海へと潜ると、海底に船が折り重なるようにして沈んでいた。一番下になっていたのが、人魚の涙ディア・メロウ号で、その船首の人魚の像には、まだ腐敗途中のジャン・ノーの死体が巻きついていた」


 聴衆は誰もが同じ想像を共有していた。その中でユエは特に、生々しく詳細に思い描ける。なぜなら──己の目でそれを見たのだから。
 一点だけ異なるのは、ユエが目にした船長の死体は、すでに骨だけになっていたこと。


 また、ユエの胸がざわっと震える。


「男の視界がジャン・ノーを捉えると、海に異変が起こった。異様な流れが男を船から引き離し、船の木片や一緒に沈んだ剣なんかが、まるで意思を持ったように襲いかかってきた。何度か日を変え試して……自分には不可能だと悟った」


 誰も、何も言わない。いや──言えない。
 浮かんだ考えを「ばかな」とすぐさま否定する。だって、そんなことあるはずがない。

 しかし再燃した疑惑は、ふつふつと短時間で沸き上がる。


 自分の目で見てきたように語るカイト。
 ──自分が経験したように語るカイト。


「人魚に頼もうにも、すでに彼らと連絡を取る術もなくなっていた。しかしその頃はまだ、人間に捕まって陸にいる人魚が残っていたからな。東の一族を探すよりも、そっちが手っ取り早い。ついでに人助けにもなる」


 カイトの言い方が伝聞ではないことに、ユエはもう気づいている。


「人魚を助けて、その対価として鍵を取ってきてほしいと頼んだ。一人目は、中央の一族の女性だった。彼女は海へ潜り、そして──途中で断念した。二人目も、三人目も同様だった。人魚たちは口をそろえてこう言った。『死神に手招きされているように、船までは引き寄せられた。でも、骸骨と目が合うと、途端に怖くて怖くて、逃げ出してしまった』……真っ青な顔で、震えながら」


 これは誰と誰の話なのだろう、とユエは混乱する。ユランの遺言を託された人間と、名前も知らない過去の人魚たち?それとも──カイトと自分?


 ベルトから剣を外し手に持ったカイトは、甲板の手すりにもたれかかって、舞台上から観客を見回すように、仲間たちに顔を向ける。
 役者はカイトひとり。脚本も演出も、彼が握っている。


 終幕フィナーレは刻一刻と近づいていた。


 観客は、輪になって座った状態から動けない。

 ユエの藍玉の瞳と、カイトの濡羽色の瞳が見つめ合う。しかしその距離は、舞台上の役者と観客のように、遠い。
 カイトは最後、たったひとりに向けて台詞を紡ぐ。


「……お前が人間の姿になった時、俺は根拠もなく確信した。──ジャン・ノーの妄執が実を結んだのだ、と」
「え……」
「ヤツの妄執に百年さらされたのが、奇しくも、それを叶えることができる『人魚の鍵』だった。そして──ユエ、お前が妄執を完成させた」
「おれ……?」
「ユランと同じ色の、髪と瞳を持つ人魚──妄執は向かう先を見つけた」



 太陽と海が、接した。その瞬間を待っていたように、カイトは手すりに預けていた身体を起こし、観客に背を見せる。

 それから、「そう……そうだった」と振り返った。
 後に続いた言葉は、おとぎ話の後書きのようであり、これから起こる現実の端書きのようでもあった。


「言い訳だ。俺はユエに、『鍵は船首の人魚の像の首にかかっている』と説明したろう?」
「カイト……?」
「記憶ってのは、案外いい加減なものでな。俺はジャン・ノーが鍵を持っている姿を、己の目で見ていないんだ」
「なに、言って……」
「俺の記憶の中では、鍵はいつも、ユランの首にあった」
「きおく?」
「その印象が強く残り過ぎていて、ユランと人魚の像を混同したんだろう。『鍵は人魚の首にかかっているはず』ってな」


 カイトは笑っていた。
 悲劇を笑顔で語るように。


「カイト……!」
 ユエは手を伸ばす。衝動的に動いた身体は、自分のものでないみたいに重たく、ほんのわずかな距離が永遠のように果てしない。

 翻ったシャツがかすめて、指先からすり抜けていった。


 直後、派手な水音と水しぶきが、夕焼けの海に墜ちた。



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