三鍵の奏者

春澄蒼

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第七章 孤独な鳶は月に抱かれて眠る

102 接近※

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 翌日、老夫婦に見送られ、三人は性急に出立した。
 道案内は全面的にフローラに任せて、途中に寄ったガレノス一族の家からバルボアへと報告の手紙を出し、そこから一番近くのギルドへと連れて行ってもらう。

 ヴァンダイン氏(イコールヘイレン)へ向けた手紙を預けると、三人はさらに大山脈から離れるように南へと向かう。

 この地区を統括している中規模なギルドまで来ると、ヴァンダイン氏(こちらは=アイビスたち)からの手紙を預かっているか訊き、もうひとつ東の地区のギルドだと教えられてそちらへと向かう。


 ますますメーディセインからは離れることになったが、それは想定内だ。
 何を置いても聖会と接触しないことを最優先にするとなると、遠回りはむしろ必然で、手間を惜しむ者は三人の中にはいない。


 このあたりまで来ると、ガレノス一族の居住外となって安全な旅は望めない。フローラの活動範囲からも外れるため、この先どうするかと一度尋ねたが、「ここまできたら、最後まで付き合わせてくださいっ」と同行を願い出てくれた。


 そのためカイトは、安全と少なくなってきた懐具合、その両方を加味して、ヴァンダインの紋章を骨までしゃぶり尽くす勢いで利用することにした。


 カラスの紋章の指輪を見せて手紙を受け取ると、ついでのように「ギルドに泊めてくれ」と言い放って、職員を困惑させる。
「うちは宿屋ではない」という当然の抗議を指輪ひとつで押し通すと、普段は傭兵との打ち合わせに使う部屋を今夜の宿にしてしまう。

「い、いいんでしょうか……?」と気が引けているフローラに、「あいつに気を使うことはやめたんだ」とカイトは不敵に笑った。


「アイビスたちは、どうしてるって?」
 まずひとりで手紙を読んだカイトが、なかなか内容を教えてくれないから、待てなくなったユエが急かす。

「……『赤の大聖堂』からは早々に出て、あいつらも大山脈で道を探しているらしい。アスカを頼りにして、ドワーフが使っていた地下通路を……」

 そこで語尾が消えていった。
 じっと手紙に目を落とし、カイトは何かを考え込んでいる。

 それはこの前までの無意味な思考の繰り返しではなく、前へ進むための有意義なものだったから、ユエも安心して放っておくことにする。


 職員の仮眠用のふとんを借りてソファに寝床を作っていると、フローラがこっそり「お邪魔虫になってごめんなさい」とからかい口調でささやいてきた。

「もう……!そんなこと思ってないよ」
「ははっ、知ってます。でもちょっとは残念でしょう?ふたりきりじゃないの」
「……そんなこと、ないもの」
「ぷくくっ、ほっぺたふくらんでますよっ」

 ほおをツンツン突っつかれて、くすぐったさにふくれつらは続かない。

「でもびっくりしたな……」それまでのじゃれ合いとは違うしみじみとした低い声に、フローラは「うん?」と聞き返す。

「このあたりじゃあ、宿屋だって絶対に安全じゃないってこと。野宿なんてしたら強盗に襲われても文句言えないなんて、びっくり」
「あー……こっちからすると、野宿してもお金が無事な場所があるほうがびっくりなんですけどね。ここいらだとお金ですめばまだマシで、平気で命まで奪われちゃいますから」


 旧スミュルナにたどり着くまでにも、これまでの旅と同じ感覚でいてはいけないと思い知らされる出来事はあったが、基本的には商会とベレン卿が目を光らせている十字行路を進んだから、命の危険までは感じなかった。

 しかし十字行路からもガレノス一族の庇護下からも外れたこの場所は、ほんのささいな選択が取り返しのつかない結果に結びつくのだ。

 例えば道ひとつでも間違えば、紛争地帯に迷い込んでしまうように。


 今夜のこの場所が安全だとしても、朝には町で暴動が起こるかもしれない──そういう可能性すらあるから、ギルドの建物内であってもなるべく三人かたまって行動することが必須となる。

 そのことをどちらも理解しているからこそ、フローラのお邪魔虫発言はじゃれ合いで終われるのだ。


(でも……)フローラにからかわれたことで、ユエは自分の中に溜まっていた焦れを自覚してしまう。
(ここしばらく、カイトとのふたりっきりになってないのは、本当だ)

 ユエの基準で『ほんとうのふたりきり』は、挿入ありの性交ができる環境、である。
 だから旧スミュルナ到着の少し前まで遡らなければ、その『ほんとう』は思い出せない。

 バルボア家に滞在している間は、一気に情報が押し寄せてそれでいっぱいになったカイトにその余裕がなく、ガレノス一族の家を泊まり歩いた間は、ユエの体力の温存を考えて、例えふたりきりになれる部屋を用意してもらっても、手淫で終わらせるのがせいぜいだった。


(カイトはだけで平気、なのかな……おれは、ほんとはもっと……)


 それはカイトに対する不満ではなく、こんな時にも性欲を忘れてくれない己への不満となって、ユエの中にわだかまる。

 ワガママを言って迷惑をかけないようにしなくちゃ、と焦れを呑み込んでみたが、たぶん我慢しすぎるとすぐに爆発してしまうだろうという冷静な自己分析が、ユエにこんなことを言わせる。

「……もし、こっそり口づけしてたとしても、フローラは見ないふり、してね?」
「うぇえ?!それ、言っちゃうんですかっ?」
「え、ダメだった?不意打ちよりはいいかと思ったんだけど」
「いやぁ……そんなこと事前申告されたら、気になって気になって……夜、眠れないですよっ」
「……そっか、ごめん」
「うっ……」

 それじゃあしばらくは口づけもおあずけだ、と意気消沈するユエのあまりにも哀れな様子に、フローラの世話焼き心がメラメラと奮い立った。


******


 フローラは『お邪魔虫』が笑えなくならないようにと、よりいっそう案内に力を入れるべく、馴染みのない地名が並ぶ地図を事細かに読み込んだらしい。
 その結果、ひとり、完璧に忘れていた人物のことを思い出したという報告を、意気込んでしてくれる。

「この先の通り道にある町の名前、なんだか聞き覚えがあるなぁと思ったら……!そこにひとり、一族の男性が住んでるはずですっ」
「だがこの町は……」
「そうです、聖会の影響が強い、いわば敵地のど真ん中みたいな町です。その人は最後、聖会の軍医になって、だから一族とは疎遠になっていて……」


 といっても、聖会の教義に共鳴して従軍したわけではない。
 戦場を渡り歩いて治療をしているうちに、いつの間にか聖軍の所属になってしまっていたという流れだった。この地方では聖軍が関与しない戦場などないと言われるほどだから、関わりが深くなるのは必然のことなのだ。


「信仰心とか聖会への忠誠心ではなく、医者の使命感から、なるべく大勢を治療できるように聖会に入った人だから、味方になってくれるはず──」
「ちょっと待ってくれ」

 フローラの興奮に水を差したカイトは、思い出し、思い出し、「一族で他に聖会に関わった医者は?」

「え、いない、と思いますけど……?好き好んでカイトの敵である聖会に関わるなんて、かなり特殊な例ですし」
「……バルボアの家で──」「はい?」「一族が蓄積してきた資料を見たとき、西方地域の亜種の分布をまとめた画期的な研究があった。十年ほど前のものだ。その研究者から話を聞きたいとバルボアに頼んだら『聖会で医者をしていたが、会うことはできない』と。なぜなら──」「なぜなら?」「『もう亡くなっているから』」


「え?……えぇーーっ?!」
 たっぷり驚いてから、フローラはがっくりと肩を落とす。
「知りませんでした、亡くなったなんて……あー……おばあちゃん、悲しんでるだろうな……」

「おばあちゃん?」
「その人の母親に頼まれたんです。もし近くまで行くことがあったら様子を見てきてくれ、自分には遠すぎて訪ねて行けないからって。一族の中でもわたしが一番遠出してますからね。でもさすがにこんなに聖会の近くまでは行けないよって断っちゃって……」


 そのユエとの一連のやり取りに違和感を感じて、カイトが眉を寄せる。
「……亡くなったのはずいぶん前のことじゃないのか?」

「え?」
「いや、バルボアから聞いた話では、研究の報告書を本家に送った少し後にはもう、と。だからそろそろ十年になるはずなのに、フローラの言いようはまるで、つい最近のことの、よう、に……」

 みるみる顔を青ざめた相手に気づいて、カイトの語尾が力を失っていく。

「……まさかぁ」とまるで幽霊を見たかのように口元を引きつらせたフローラは、「だっておばあちゃんから頼まれたのは、つい去年のこと、です、ヨ?」


 十年前と去年──その食い違いに、三人は押し黙った。


「……やっぱり、別人、なんじゃないかな」
 もっともありえそうなユエの推測に、「そ、そそそそう、ですよねっ」フローラが食いつく。

「あっ!それか!!」さらに自力でもうひとつの可能性を思いついて、青ざめた顔を一気に同情に染める。
「……もしかしたら、おばあちゃんの思い込みかもしれないです。旦那さんを亡くしたばかりだったし、寂しくて、もうずっと前に死んじゃった子どもをまだ生きてるように思い込んじゃったのかも」


 この場でその『ガレノス氏』の生死は判然としなかったが、どの道、その男が住んでいたという町は通ることになるのだから、とカイトは地図をしまう。

「もし生きていて会えたらもうけものだが、そうでなくとも、親族を探しているという理由があれば、町に入りやすい」


 そして旅の責任者リーダーとしてふさわしく、「だから、フローラがこの人物のことを思い出してくれてよかった」と労うことを忘れなかった。


******



 例の『ガレノス氏』が住むという町まで、三人はギルド関係者に紛れて国境を越え、検問を突破した。
 そしてギルドがもうこの先にないという場所まで来ると、予定通りに「親族を訪ねてきた」という伝家の宝刀を抜く。

「聖会の軍医だった」という枕詞は、検問官たちの信用を得るのに効果てきめんで、それは憲兵たちに対しても同じだった。

 この国の軍人は聖軍と関わりが深く、ともに戦場に立つことも多い。
 聖会とのつながりを強固に保つことは、聖軍の援軍が約束されていることと同義だ。この国は神の後ろ盾と戦力を得て、聖会は献金という見返りを得るという共犯関係が続いている。


 そのこともあって、案外あっさりと『ガレノス氏』の情報は手に入った。

「ガレノス?ああ、あの『死体先生』」
「したい……?」

 戦場で治療してもらったことがあるという兵士から、あまり名誉ではなさそうな異名を聞く。
 曰く、生きてる人間の治療よりも、死体に興味がある風変わりな医者だった、と。

 しかしその兵士は今現在の消息については知らなかった。

 さらに進んで、フローラが母親から聞いたという町までたどり着くと、拍子抜けするほどあっさりと町の人が教えてくれる。
 ──「ああ、『死体先生』ならあそこに住んでるよ」

「え……住んでるん、ですか?」
 そっちから訊いておいてなぜ疑うのか、と不審な顔をされて、慌ててフローラが取りつくろう。
「あっ、そのっ、もしかしたら引っ越してるかもって思ってたので……っ」

「ああ、奥さんと子ども、亡くしちゃったからね。あそこ、奥さんとこの家なんだろ?」
「あー……そう、ですね?」
「でもやっぱりお墓があるから、離れたくなかったんじゃないかい?それにしても先生に親族なんていたんだねぇ。奥さんも天涯孤独みたいな人だったし、先生もてっきりそうなんだと──」


 町の人はこちらから聞かなくてもペラペラと話してくれた。


 どうやら母親の言い分が正しかったようで、ガレノス先生はまだ生きてるらしい。

 十年ほど前に軍医を引退すると、結婚しこの町に住むことになり、ほどなく子どもを授かったが、すぐに病気で母子共々亡くしてしまった、と。
 それから医者として患者を診ることはなくなり、今は遺体の防腐処置をする、異名通りの『死体先生』になったのだとか。


 聖会を信仰する地域では、火葬は禁じられている。そのため土葬するための遺体の処置が欠かせない。本来は医者とは別の専門家が担う大切な仕事だから、ガレノス先生の転身はかなり珍しいはずだ。


 町の人に聞きつつたどり着いたのは、郊外の侘しい家だった。
 手入れなどしたことがないような雑草がはびこった庭に、ところどころ崩れた柵、それに囲まれているのは屋根にも草が生えた母屋と、それよりはまだ小綺麗な元診療所。

 教えられていなければ、廃墟かと通り過ぎるところだ。


 母屋にノッカーの音が虚しく響いたが、人気はまったくない。
 続いてフローラが、元診療所へ「ごめんくださーい」と大声をかける。しばらく耳を澄ませていたが、こちらもコトリとも音がしない。

 町の人に教えられた通りに、諦めずに何度も声をかけ続けると、二十回目にやっと、中から物音が聞こえてきた。

 ガタガタッと何かを倒しながら近づいてくると、ドアが開くのと同時に「うるさいっ!」と出会い頭に怒鳴られた。


 出てきたのは、家と同じく長年手入れをしていないような風貌の、五十前後の男だ。
 もじゃもじゃの頭をかきながら、「うるさい」ともう一度怒る。

 呆気にとられて戸惑っているほんのわずかな時間に、「用がないなら来るな!」とドアを閉められそうになり、かろうじてフローラが足を滑り込ませる。

「はじめまして!わたし、フローラ・ガレノスですっ!」
 足の分だけ開いた隙間に向かって名乗ると、今度はゆっくりとドアが開いていく。

「ガレノス?おいおい、なんだ今さら」
「あのぅ……あなたが聖会で軍医をしていたというガレノス一族の方、です、よね?」
「そっちは?本当に一族の人間か?」

 猜疑心に満ちた目でじろりとにらまれながら、玄関先でフローラは事情をほとんどすべて説明させられた。


「ふん、が『カイト』、ね。まあ、だいたいわかった。入れ」
 今までの誰より無感動に『カイト』を睥睨して、男は三人を自分のナワバリに迎え入れる。


 元診療所の中も、しばらく掃除をしたことがないような有様だ。もうここで仕事はしていないから、と元医者は気にもしていない。


 本家バルボアと母親の言の食い違いについて本人に訊いてみると、「おいおい、本家じゃあ死んだことになってるのか、おれ」と軽く笑う。

「たぶんアレだ。兄貴の仕業だろう」
「お兄さん?」
「おれが軍医なんかになったことも、こっちで勝手に結婚したことも、医者やめたことも、なにもかもが兄貴には受け入れられなかったんだろ。それかオヤジか……?ずいぶん前に『医者としてのおれはもう死んだと思ってくれ』と手紙に書いたからな。医者じゃなくなった息子はもう死んだも同然と思ってんじゃないか」


 絶縁状態になった経緯を語る中にも、特に恨んでいるような様子はない。これはこれで身軽なものだと、受け入れがとんでもなく早い。

 それで自分の話は終わりにして、「それで?」とすぐ本題に入った。「カイトがおれになんの用だ?」


 まず前提として、とカイトは「聖会に敵対している俺たちに協力してくれるつもりはあるか?」と訊く。

「ふん、おれを味方につけたいなら、せいぜい興味を引くような面白い話をするこったな」

 その答えはカイトに既視感デジャヴをもたらす。
「ふ……見た目もそうだが、お前、ガレノス──お前らが言うところの初代に似てるな」


 ガレノス先生は初めて皮肉な笑いを引っ込めて、「それは……悪い気分じゃないな」

「へぇ、初代ってこんな感じだったんですか」
 フローラはまじまじと顔をのぞき込むと、「肖像画とか本家にもないから、初代の顔って知らなかったんですよね」としみじみと言う。

「……あんなにでかい俺の肖像画を飾る前に、自分たちの祖先の肖像画を飾るほうが先だろう」

 カイトのもっともなツッコミに「ちがいねぇ!」と破顔した先生は、それまでとはうって変わった人懐こい調子になって、「そんじゃ、ま、酒でも飲みながら話を聞こうか」


***


「おれは昔っから、人の外見よりも中身に興味があった。だから戦場でも、生きてるやつの治療よりも死体の腑分けのほうが楽しくてな。それで何千、何万と解剖しているうちに、気づいたんだ」


 客人にもそうじを手伝わせて座る場所を作ると、ガレノス先生はカイトの質問に応えて、亜種の分布に関する研究の経緯を語り始めた。

「外見に特徴が出る亜種もいるが、そうじゃないやつもいる。でもな、『中身』には必ず特徴が出る。ドワーフの亜種なら筋肉が、人魚の亜種なら肺が、妖精の亜種なら骨が、特に顕著だな」

「……それはひと目見てわかるような特徴なのか?」
「素人にゃムリだ。医者や遺体処置人エンバーマーでも気づいてるやつは少ないと思うぞ。分類したのなんて、おれが初めてだろう」


 ガレノス先生は戦場での解剖を繰り返し、密かに亜種の情報を集めた。そしてひとつの結論にたどり着く。

「亜種の発現を決定づける要素のひとつが──環境だ。つまり、生まれた場所によってどの特徴が現れるかが決まる」

 注目したのは、亜種の出身地だった。それを調べた結果、ドワーフは大山脈近く、人魚は海の近く、そして妖精は内陸に、それぞれ集中していることがわかったのだ。


「すごいな……」カイトは手放しで感心する。「この地方だけとは言え、これだけの事例を集めるとは……まさに新発見だ」

 頭の中に浮かぶのは、仲間たちの出身地。クレインは港町、フェザントは大山脈の麓、ラークは内陸と、確かに研究通りに分布される。


「血縁との関係は?例えば……親は内陸で生まれて妖精の亜種だが、子どもは海の近くで生まれて、人魚の亜種になった──そんな事例はあるか?」
「それはないな。だが、こんな例はある。何人も人魚の亜種が生まれた家系が、引っ越して海から離れたところ、ぱったりと亜種は生まれなくなった、と」

「血縁と環境、どちらもことが重要なのか……?誰もが三種の要素は持っていても、それが実際に顕現するには血縁による要素の偏りと、その要素に適した環境とが合わさらなければならない……?」

「おいおい、『誰もが』なんてのは言い過ぎじゃないか。どこにそんな研究が──」
「いや、持っているはずだ。人間すべてが三種の子孫なのだから」
「はっ?なんだそのおもしれぇ話は?!」
「ドワーフの遺跡で──」




 難しい議論に参加することは最初から諦めていたユエとフローラだったが、この時点で、話を聞いていることすら放棄する。
 そして家主に許可をもらって、散らかりまくりの家を片付けることへ労力を注ぐことにした。

 ガレノス先生から、隣の母屋に自分たちで寝床を確保しろと丸投げされたため、二人はまずそっちに移動した。

 母屋の中は外観ほど荒れてはおらず、あちらの元診療所よりは定期的にそうじの手が入っているようだ。
 しかし台所にも寝室にも、生活感はない。まるで、使わずきれいに保存してあるよう。

 その理由は、一番奥の扉を開けた時にわかる。

「そっか……奥さんとお子さん、亡くしてたんでしたっけ」
 その部屋には、子どものおもちゃや女性の服などが生前のままに残されている。

 何も手をつけずにそっと扉を閉めて、二人は殺風景な寝室からそうじから始めることにした。


***



 白熱した議論は、「夕食はどうするか」という横やりが入るまで止まることはなかった。

 二人の予想通り、ガレノス先生はそうじ以外母屋には戻らない生活だったようで、元診療所の小さな台所で簡単な食事を作り、食べ終わると、万年床になっている元診察室で中断などなかったように議論を再開しようとする。

「時間はあるのだから、夜は寝ましょうよ」とフローラに説得されて、カイトも渋々と腰を上げる。

「俺たちは母屋で寝ればいいんだな?」
「ああ、好きな部屋を使ってくれ。おれはいつもここで寝てるから」
「あ、でも、お子さんと奥さんの部屋は使わないほうがいいですよね?」
「?別に使ってかまわない」
「え、でも、あんなにきれいなまま残してあるのに」

 思い出の残った部屋を荒らさないようにと気を使ったフローラだったが、「おれは使わないが、お前たちが使う分にはかまわない」とよくわからない理屈をこねられる。

「……そう言われても使いにくいですよ。ね、ユエ?」
「ん、他の部屋があるから、使わないでおこう」

 そう、三人分ならば寝室と書斎のソファで十分──部屋割を想像したフローラは、ハッと、天啓を受ける。
 ──今こそ、お邪魔虫を返上する時だ、と。


「……ユエとカイトで寝室を使ってください。わたしはちょっと……そう!先生と一族同士の話があるので、ついでにこっちで寝ますからっ!」

 何のついでかわからないけれど、それで押し切ったフローラは、ユエに(久しぶりにふたりきりを満喫してくださいっ)と目配せウインクして、恋人たちを送り出した。


******



 寝具に寝転がっても、カイトの頭の中はずっとグルグルと高速回転が続いていた。この熱中感は議論の内容もさることながら、相手がガレノス──初代のアスクレア・ガレノスに似た子孫だという理由も大きい。

 一日中、それこそ夜も昼もなく研究に明け暮れたあの頃に、まるで戻ったような感覚になって、忘れていた過去が次々と蘇っては、カイトの思考を勝手に走らせるのだ。


(そう、だった。ガレノスはあんな顔をしていたな)
 初代の顔を知らなかった子孫二人を揶揄したが、カイトも実のところ、恩人の顔をはっきりと記憶していたわけではない。
 完全に忘れてもいなかったが、肖像画を描けるほどの詳細まで覚えていられたかというと、それは否だ。


 改めて年月の残酷さを実感したカイトは、ふいに恐ろしくなって、すがるように隣の温もりを抱き寄せる。


「ん……?カイト?」
 もぞもぞと落ち着かなく寝返りを繰り返していたから、まだユエが寝ていないことはわかっていた。
 だから遠慮なく、腕に力を込める。


 カイトにはいつからか、自分の現在地がわからなくなるような瞬間があった。
 何かに熱中した後、我に返る一瞬や、夢から覚めた時の一瞬の空白に、今がいつなのか、ここがどこなのか、見失うことが。

 そういう感覚は誰しもにあるだろうが、他人より長く生きるということは時間軸も当然長くなるということで、それはつまり、見失った現在地を捜すのに、他の人より長く時間がかかってしまうのだ。


 それでも今までは、時間がかかろうが現在地に帰って来られるのだからと気にしていなかった。
 ──変わったのは、ユエを手に入れたから。


 今のカイトは、その一瞬が怖くてたまらない。
 なぜなら、現在地を見失うということは、ユエの存在も見失っているということ。その度に襲われる喪失感は絶望的なほどだった。

 これまではいつも目が届く範囲にユエがいてくれたから、絶望はすぐに消し去ることができた。
 それでも擬似的な喪失感だけは、どうしても慣れることがない。


 今日は過去に耽溺する時間が長かったため、目が覚めた時にその一瞬がやってくる予感が今からしている。
 だからカイトは、真っ先にユエの存在を確認できるように、腕の中に閉じ込めて眠りにつくつもりだった。



「……カイト」
 無理やり目を閉じたカイトを、ユエが遠慮がちに呼ぶ。
 もぞ、と脚をすりつける気配が続いていて、眠れないのだろうかと思ったカイトが目を開けると──上気した顔が視界を染めた。

「ユ、エ……?」
「……もう、眠い?」
「いや……」
「口づけだけでも、したい……だめ?」


 ユエは紅くなったほおを隠すようにしながら、それでも濡れた瞳を向けてくる。

 別に許可など取らなくていいのに、とカイトは微笑ましく思って、こちらからチュっと唇を奪う。
 するとユエは安心したように、うっとりと目を閉じた。

 何度かついばむ軽い口づけを繰り返して、そろそろ深く、と腰を引き寄せようとしたら、ユエは手で突っ張って、身体が密着しないように距離を取ってきた。

 これだけでいいのか、と少し不満に思いながらも、無理強いする気はないカイトが終えようとすると、手とは裏腹に唇だけは距離を詰めてくる。

 続けたいのかやめたいのかどっちかわからなくて、真意を確かめようとよくユエを観察してみると、導き出される結論はこれしかなかった。


 ──発情、している。


 ユエが身体を密着しないようにしているのは、カタチを変えた自分の股間をかばっているから。

 もぞもぞと態勢を何度も変えていたのも同じ理由だったようで、そのことに遅ればせながら気づいたカイトは、隠そうとするユエに戸惑いを覚える。


 心も身体も素直なユエは、これまで欲望にも素直だった。触れて欲しい時には、率直に「触って」と言ってしまうように。


 カイトはよくわからない焦燥にかられて、ぐいっと自分の身体を押しつけていた。
「あっ……!」
 昂ぶる熱に刺激を与えられて、ユエは鋭く悲鳴をあげる。

 そんな自分を恥じたように、ユエの口から「ご、ごめんなさい……」と小さな声がこぼれる。

「……どうして謝る?」
 さらに焦燥が増して、カイトの口調はどこかぶっきらぼうになった。

 それにユエはさらに恥じ入って、「だって……こんな時でも、おれ、ガマンできなくて……」

「こんな時って?」
「カイトが、難しいこと考えてるとき……」


 図星だったカイトは、そんな気遣いをするユエに大人になったと感動するよりも、そう気遣わせてしまった自分の行動に憤りを感じた。

「我慢なんてしなくていい。お前に我慢させるほうが、きつい」
 組み敷いて脚の間に手を伸ばしたが、ユエはそれを遮って、おずおずとこう言い出した。

「カイトは、あんまりしたいと思ってない、でしょ?」
「そんなことは……」
「いいの。おれも、カイトにムリさせるの、やだよ」


 それは図星ではないけれど、心当たりがあったから、カイトの否定は曖昧になった。その反応を見て、ユエは無理に笑ってみせる。

 どう説明すれば伝わるのか言葉を選ぼうとしたカイトだったが、悩んでいるうちにユエはひとりで完結してしまいそうで、ままよ、と考えずに口を開く。


「したくないわけじゃないんだ。ただ、性欲を忘れていただけで」
「……え?」

 口に出すとすごくマヌケな気がしたが、本当なのだから仕方ないと、カイトは開き直って続ける。

「前に教えただろう?人は命の危険にさらされると、子孫を残そうとして性欲が高まることがある、と」
「……うん」
「俺はその反対で、そういう時に性欲がむしろ減退するんだ。聖会の勢力圏に入って緊張が続いていたからな、反応が鈍くなっているんだろう」


 兆していないそこをもう一度押しつけて、カイトは苦笑いする。

「悪かった。お前は若いし、まだこういうのを覚えたてなんだから、すぐに反応するのは当たり前だ。なのに、俺はお前に甘えて、最近あまりかまってやれてなかったな」


 だから、いいか?と目で許しを請うたが、ユエはまだ納得していないのか、「でも……それはやっぱり、したくないってことじゃあ……?」

 不安を一蹴するため、カイトは覆いかぶさるようにしていきなり激しい口づけをおみまいした。
 そして唾液がユエの口元を滴る頃には、証明完了とばかりに、ユエの手を昂ぶった己の中心へと導いて、触れさせる。

「あっ……」
「性欲だけじゃないだろう、俺とお前の間にあるのは」

 熱に驚いて手を引っ込めるユエを捕まえて、目と目を合わせて教え込む。

「性欲を忘れていてもなるのは、ユエだからだ。だから、性欲を発散するためじゃなく、愛情を確かめ合うために──したい」

「……おれも、」
「ん?」
「おれだって性欲じゃないもの。カイトが好きだから、いつもしたくなっちゃうんだから、ね……っ!」


 そんなところで対抗心を見せて、おれのほうが好きだもの、と言わんばかりにユエは抱きついてきた。


 服を脱いで素肌を合わせる頃には、カイトの頭の中は目の前のユエのことで埋め尽くされていて、さっき感じた予感が書き換えられていく。

 ──きっと、明日の目覚めは最高になるだろう、と。


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