三鍵の奏者

春澄蒼

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第七章 孤独な鳶は月に抱かれて眠る

116 準備※

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 それから約ひと月、カイトとユエはほとんどの時間を二人きりで過ごした。

 普段はおせっかいな使用人たちもただならぬ空気を察して、食事の用意やら掃除やらを迷路のような通路を駆使して二人と鉢合わせしないように済ませてくれたため、時にユエは、カイト以外の人と会わないで過ごす日もあったほどだ。


 一度ベレン卿が帰ってくるとなった時も、いつものカイトならば地震後の状況や聖会の後始末について話を聞きに行くところを、「顔を合わせると面倒だ」とユエを街に連れ出して、逃げた。

 半日でまた旅立ったベレン卿は結果、真実を教えることを誰もが忘れてしまって、日蝕の日ギリギリになって知らされることとなる。



 カイトは徹底していた。徹底的にユエのことだけ考えてくれた。
 それも、無理してやっているのではなく、むしろ、ユエだけで頭をいっぱいにすることを楽しんでいた。


 最初の頃はユエの方がカイト以外のことも考えてしまって、(他の仲間たちはどうしているだろう)とか(壊れた家はもう直っただろうか)とか(やっぱりなにかしなくてはいけないのでは)という思いに駆られた。

 それを話すと「迎えに行くか?」「見に行くか?」「なにがしたい?」と希望を聞かれた。『すべきこと』よりも『したいこと』を考えれば、ユエの希望は一択だ。


 カイトがしてくれているように、ユエもカイトを優先したい。


 命の危険を冒して世界を救うことになるカイトこそ、わがままを言って、好き勝手してもいいのではないかと思うのだ。だからユエだって、カイトのしたいことをさせてあげたい。


 ある日はベレン卿の広大な敷地内をのんびり散策して過ごし、ある日は街中のお店を見て周り、ある日はお芝居を見に行き、ある日は馬を借りて景勝地に赴き、またある日は、一日中ベッドから出ることなく──たった半年の休暇バカンスはそうして始まった。




 けれど蜜月は長くは続かなかった。
 なぜならカイトにも想定外の早さで仕事を終えた仲間のひとりが、ひと月後にベレン領へやって来たからである。


******


 ──「うわー…………」
 その人物にしては小さく抑えた声だったが、人気のない静かな庭にはよく響く。


 今日の二人の予定は、館の中庭でただ寝っ転がることだった。小さな池に泳ぐ魚を見て、草の香りを感じて、風の音を聞く。それだけ。
 何日か前にユエが要望リクエストした「カイト、おれに甘えて」がまだ有効で、カイトはユエの膝枕で寝ていた。

 すぅ、すぅ、という寝息を聞きながら、ユエが黒髪をゆったり撫でている、その時だ。

「うわー、見たくなかった……」
 知った声に、驚いて振り返る。


「ヘロン?なんで……」
「そんなカイト、見たくなかったぁぁ……おどろかそうと思ってこっそり来た、俺のバカ……!」

 頭を抱えてうずくまるヘロンは、後ろから近づいて「わっ!」と驚かせようと企んでいたところが、恋人にしか見せないカイトの甘えた姿に、反対に驚かされたらしい。

 いつもは威厳ある、尊敬する統率者リーダーの無防備な姿に、ヘロンはいけないものを見てしまったとじりじりと後退している。
 これは自分のためにもカイトのためにもなかったことにした方がいいとでも思ったようで、寝ている狼を起こす前に登場をやり直すつもりなのだ。


「……お前、どうした。早いな」
「あ、あー……起きちゃった……」
「しかも、ひとりか?」


 しかし残念ながら、ひと足遅かった。
 そしてカイトの方が一枚上手だ。慌てて取り繕うのではなく、起こした上体を堂々と元の位置に戻して、膝枕のままちょいちょいと手招きする。

 すると恋人に甘える男というより、色欲を愉しむ悪の親玉のようになって、見てはいけない光景が、見せつけられる光景に変わる。


 そのおかげでヘロンは気まずくならずに、いつもの調子を取り戻した。


「あのさ、あのさっ、オレ、めっちゃくちゃイイコト思いついてさっ!だからオレだけ先に船降りたんだっ」
 カイトの指示では教会担当だったヘロンが、誰よりも先に、しかもひとりで来ることになったのは、とある思いつきからだった。

 ヘロンは見事なまでに鼻の穴を膨らませて、褒めろとばかりに胸を張る。

「なんだと思う?!」聞いておきながら答えが待てなくて、自分からすぐに明かしてしまう。「『アンナ・リーリア団』だよ!!」


「『アンナ・リーリア団』?」
 懐かしい名前の再登場に、記憶の蓋が開く。ユエにとってそのサーカス団は、旅の始まり、十字行路の思い出そのものと言ってもいい。

「そうか……!なるほどな」
 ユエが記憶に浸っている間に、カイトはヘロンの言う『イイコト』の意味を完全に把握していた。


「なっ?なっ?!ちょー、いい考えだろっ?」
「芝居にして、民衆に見せるのか。確かに芝居は政治や思想を宣伝プロパガンダする役割を持たせる場合もある。噂として言葉だけで流すよりもずっと具体的に伝えられるし、なにより、面白い。面白いというのは、大勢に興味を持たせるには必要な要素だ」

「ん?ん?……なに言ってっかわかんねぇけど、それはカイトも賛成ってことだよな?!」
「ああ、いい考えだ。よく思いついたな」


 望み通りカイトに褒められて、ヘロンは「へへへ」と鼻をかく。


「えーと、つまり……ほんとうは世界はもっと広いってこととか、外の世界には純血がいっぱいいるかもってこととか、日蝕の日に起こることとかを、ぜんぶお芝居にして、見せて、それでみんなに知ってもらおうってこと?」

 ユエもまとめながら、これはすごくいい方法だと感心する。


「そっ!でな、オレだけ十字行路で降りて、リーリア団を探したんだ!そしたら意外とすぐ見つかって、そんでぜーんぶ話して、へへっ、団長もみんなも元気そうだったぜっ」
「いきなりそんな話して、驚かれたんじゃない?」
「まーね。でも信じてくれたよ。それに話自体が普通におもしろいから、芝居の脚本にするの大歓迎だって。本当だったらその日になればわかるし、本当じゃなくてもおもしろい演目になればそれでいいってさ」
「さすが、芝居バカたちだな」

 乱暴な言葉とは裏腹に、カイトの顔は敬意に満ちている。


「んで、脚本はまだできてないけど、オレはとりあえずカイトに報告しに来たってワケ」
 ヘロンは報告とお褒めの言葉をもらって満足して「じゃ、オレ戻るけど、団長たちになんか伝言ある?」とせっかちに訊く。

「少しくらい休んでいけ」というカイトに「いやぁ、ジャマしたら悪いし」とにやにやしてから、「あっ、そうだ!カイト、覚悟しといた方がいいよ。クレインがものっすごい怒ってたから」という恐ろしい言葉を残して、ヘロンは風のように取って返した。


******



「ユエっ!!大丈夫か?」

 それからまたひと月経って、次に現れたのはクレインとジェイだ。面子メンツは予想通りでも、時期はカイトが計算していたよりずっと早い。

 ヘロンとは違って正式な手続きを踏んで館に来てくれたため、事前に報せを受けたカイトは心の準備をして待ち構えていたが、クレインが真っ先に口にしたのはユエへの心配だった。


「クレイン?」
「ひとりであの話聞くの、つらかったんじゃないか?」
「あは、心配してくれてありがとう」
「ちゃんと怒ってやったか?もっと早く相談しろって」
「うん、ちゃんと怒ったよ」

 ユエの表情をじっと見極めて、クレインはほっと息をつく。
 それからキッ!とまなじりをつり上げて、油断したカイトへ「ちょっと、カイト!」と満を辞して怒りをぶつける。

 カイトは「わかってる」「悪かった」「反省してる」とほとんど無条件降伏で、途中からジェイにも間に入ってもらって何とか怒りを鎮めた。


 言いたいことを言ってスッキリしたクレインは「それじゃ、ここから先は未来の話を」と切り替えて、ウィノたちと話し合ったことを二人に伝える。

「俺たちまだ諦めてないよ。もっと安全な方法、見つけてみせるから」


「でも……」ユエだってもっといい方法はないかと密かに考え続けてきた。けれど最後にはやはり、カイトとウィノが提示した方法以上はないという結論に落ち着いてしまうのだ。

 ぬか喜びしたくないユエが「そんなの見つかるかな」と弱音をこぼす前に、クレインが得意げに「ふふん、実は──」と言い出す。
 その時の顔は、本人に指摘したらまた怒りがぶり返しそうだが、ひと月前のヘロンのドヤ顔にそっくりだった。


「ちょっと思いついたことがあるんだよね。思いっきり、視点を変えてみたらどうかと思って」
「視点?」
「そ。鍵を使わないで、鍵を開ける方法を探すっていうのは、どう?」
「……うん?謎かけ?」
「まじめに!ウィノが言ってただろ?別に壁とか扉が実在して世界を隔ててるわけじゃなくて、なんか、風の流れとか波の流れを狂わせて行き来できないようになってるんだって」
「……うん」
「だからさ、その狂った流れを、鍵を使わないで正常に戻せないかなって」
「鍵なしで?どうやって?」
「どうやるかは……これから考える!」


 本当に思いつきだったようで、まだ具体的な手立てはないのに堂々と、挑むようにクレインは胸を張る。それがおかしくてユエがつい「クレイン、ヘロンみたい」と指摘してしまうと、「……うそでしょ」と一気に世界の終わりみたいな顔になる。

 それがまたおかしくて、ユエは笑ってしまう。


 けれどそんなクレインのおかげで、ユエは考えることに前向きになれた。

(確かに、鍵なしでもいいなら、カイトの問題はひとまず先送りできるし……もしかしたら鍵を封印したまま、不老を解決する方法だって……ほら、妖精の鍵だってカイトを死なせたくないと思ってるんだから、頼めば協力してくれるかも……)


 ヘロンの時のように「いい考えだ」とは言わないカイトに、ユエは「どう思う?」と訊いてみる。

「おもしろい視点ではあるな」
「できると思う?」
「そうだな……例えば、正常に戻すというより、相殺するという方向で考えると、可能性はあるかもしれん」
「相殺?」
「狂った風や波に、同程度の力をぶつけて打ち消す──」
「……!もしかして人魚全員が一丸となったら、そのくらいの波を起こせる、かな?!」
「できるかもな。でも……」
「あ……そっか、人魚だけじゃ意味ないんだ。妖精はもう、それだけの人数が……」
「そうだな。相殺するにしても、陸海空、すべてを一斉に打ち消さないと、ただ無理やり破壊しただけになる。災害を防ぐつもりが、呼ぶことになるかも」


 結局、クレインの思いつきはすぐ形にならなかったけれど、ユエにとってこの話し合いはいいきっかけになった。


 どんな心持ちで過ごそうとも、一日は一日だし、日蝕の日は必ず来る。それなら楽しんだ者勝ちだ。
 そして『楽しむ』とは怠惰に遊興するだけではダメで、考えることはとことん考えて、できることはして、準備を万端にしてこそ。
 ──後悔なくその日を迎えるために。



 クレインとジェイの出現で二人きりの時間は減ったが、仲間の気配はそれまで漂っていた悲壮感のようなものを吹き飛ばし、館はにわかに生気を取り戻した。

 主にクレインとユエがああでもない・こうでもないと話し合い、カイトが助言アドバイスを挟み、ジェイはたまにポツリとひと言。
 四人で出かけることもあったし、クレインがユエを連れ出してカイト抜きで話を聞いてくれることもあった。


 どうやらヘロン以外にも予定変更が続いて、アイビスはヘイレンを手伝うために海へ残り、人魚への伝言はメイと商会が分担することになり、そのため教会へはラーク一人で行くことになったらしい。
 それからフェザントとアスカも、アルケーの加工にドワーフの力が必要になるかもしれないからと、研究者への協力依頼も兼ねることとなり、予定より到着が遅れそうだとクレインから教えられる。


「なんか知らないけどヘイレンが一番動揺しててさ。頼りないからアイビスが手伝ってやることにしたんだよ」

 クレインから予定変更の理由を聞かされて、ユエはぽろっと謝ってしまう。
「ごめんね、本当はおれが人魚のところへ説明に行ったほうがいいのに……それにフェザントとアスカも、カイトが一緒のほうが安心だったよね……」

 するとクレインは「いいって、甘やかさなくて」とよくわからない慰めをくれる。

「え、甘やかす?」
「できることはやらせればいいってこと」
「でも、効率を考えると……」
「そりゃあ、ユエやカイトのほうが話は早いけど、でも別に早ければいいってもんじゃないでしょ。ユエが故郷に戻ったら戻ったで余計な騒ぎになりそうだし」
「う……確かに」
「それに商会としては人魚の信頼を得られるいい機会チャンスかもだし、アスカだってこれを機に国と関係修復できるかもだし」


 ユエはなるほどと思い、手伝えない罪悪感が少しだけ軽くなる。

 けれど──「そう頼ってばかりじゃダメだから。俺たちも今から慣れとかないと。カイトがいなくなることに」
 クレインが己にも言い聞かせるようにつぶやいたひと言が、代わりにずしりとのしかかる。


 失言に気づいたクレインが慌てて「いやっ、いなくなるっていっても数年っ……っていうか、そうならないようにいろいろ考えてるんだからっ!」と言ってくれたが、うまく表情を取り繕えた自信がユエにはない。


***



 ユエは最近夜になると、一日はこんなに短かっただろうかと時間の流れの早さを感じる。一日が、一時間が、一分一秒が惜しい。そして、怖い。

 その怖さを紛らわすように、毎夜カイトの体温を求めた。抱き合っている間だけは時間を意識しないでいられた。


 もう、互いのからだに知らない場所などないくらい。ユエは自分のからだが変わっていくのを感じる。抱かれることに慣れ、快楽は深まるばかりで、果てた先から次を求めてしまう。


 その夜も、ユエは一度目の絶頂を噛み締めながら、何かに追い立てられるように「もう一回」とカイトの腕を掴んだ。

「ちょっと休憩しよう」
「やだ、はやく……!」
「ユエ、」
「だって、カイト、まだでしょう?」
「俺はいいから」
「やっ、カイトも……!」

 ゆったり背中を撫でるカイトをユエが押し切って、すぐに抽送が再開される。

 ユエはもう、後ろだけで何度も達することができる。今も「うっ……ふ、ぅんンっ……!」泣き声に似た嬌声が喉から漏れて、射精とは違う、からだの内側に溜まっていくような悦楽に襲われる。

 ユエとっては二度目でも、カイトはまだ一度も──。

「んん……カイトも、出して……」
 ユエの中はカイトをぎゅっと締めつけたが、それを振り切るように剛直は勢いよく抜け出していく。

「あ、え……?」内側を埋めていた充溢がなくなった直後、お腹の上に熱いものが降り注がれる。
 白く濁ったそれを指ですくったユエは──「うっ……うぅ」

「……あ?」
 カイトの口から間の抜けた音が溢れた。それも当然だろう。性交直後の恋人の目から、大粒の涙がポロポロと流れ出しているのだから。

「お、おい、どうした?ユエ、なにか嫌だったか?」
 こんなに動揺したカイトは見たことがないというくらい、声も表情も手振りも慌てている。

「な……」
「ああ、言ってみろ」
「なか……」
「うん、なんだ?」
「なか……に、出して、ほしかった……」
「そ……れだけ、か?」
「なのに、外に出しちゃう、から……っ」
「……ほんとうに、それだけか?」

 カイトは呆れも馬鹿にもせずに、真面目に聞いてくれる。

「ほ、ほんとに、それだけ。じ、じぶんでも、なんでこんなに悲しいのか、わかんない……」
 話しながらも涙は次から次へと溢れ出してきて、ユエは自分を持て余す。

 頭の片隅ではわかっていた。これは『それだけ』ではないと。

 おそらく、今日クレインから改めて突きつけられた『カイトがいなくなる』という事実が、ユエの中で煮詰まってどろどろになって、なぜか今この瞬間に噴き出したのだ。
 けれどユエはそのきっかけを説明したくなかった。

 その話はクレインと二人きりの時に出た話題のため、涙に別の理由があることをカイトは推測できないはずだが、髪を撫でる手はすべてを承知しているように優しい。


「……カイト、」「ああ」「次はちゃんとなかに、」「ああ、わかった」
 ユエはあくまでそれで押し切って、カイトも追及はしなかった。

 からだの内側に染み入るような熱を感じた時、あんなに悲しかったのがウソのように、ユエは幸福に耽溺した。


***



 それから何度も、ユエは同じ発作に襲われることになった。
 よくわからないきっかけから、いきなり悲しくなって泣いてしまうという発作だ。

 たいていはカイトと二人きりの夜に起きることが多かったが、その日はクレインとジェイも合わせた四人での話し合いの場で、突然──。


 命題は『鍵を使わないと仮定した場合に、相殺するエネルギーをどこから調達するか』、それに対してユエが『から開けられないか』という妙案を思いついた。
 外の世界に生き残っていると思われる純血、彼らの力を借りて外から相殺するという、画期的な考えだ。

 しかしそのためには外の世界と連絡をつけなければならない。
 妖精の笛のような何か『音』で意思疎通できないか、いや、そもそもウィノは外には絶対に出られないと言っていただろうか、もしかして何か抜け道があったり──話が盛り上がってきたところへ、カイトから助言が送られた。

「箱庭からの脱出が不可能であることは、ウィノにすでに確認してある」
「不可能?絶対に?」
「何百年か前に、実際に試してみた妖精がいたそうだ。風が狂っているという知識を前提にすれば、抜けられるんじゃないか、と」
「突破できそう、だけど……無理だったんだ?」
「その人物は墜落死したらしい。妖精が、だ。飛ぶという感覚を狂わされて、飛び方がわからなくなってしまったとか」
「飛び方が、わからなく……?」
「狂った風の中飛ぶという感覚は、人間に置き換えると、地面がどこにあるかわからない中歩くようなものなんじゃないか」
「平衡感覚が狂う、みたいな?」
「おそらく」

「うーん……やっぱり脱出は無理かぁ。じゃあ、音でっていうのは?」
「それはウィノに聞いてみないとわからないな」

 主にカイトとクレインのやり取りで結論が出て、今日はここまでかなと話を締めようとしたクレインが、振り向きざまに「ええ?!」とギョッとした声を上げたことで、ユエは自分の異変に気づいた。


 ぽたぽたと落ちた涙が吸い込まれ、服が色を変えている。
 自覚したとたん、「ふっ……うぅ……っ」嗚咽が漏れた。すぐにカイトの手が頭を引き寄せて、涙の吸い取り先を変えてくれる。

「え、どうしたの?大丈夫?」と心配するクレインの声が耳には届いているが、「大丈夫」と返す余裕はない。


 次に周りが見えるようになった時は、カイトに抱っこされて寝室のベッドの上で、ぐっしょりと服が濡れるほどの水分を放出した後だった。

 カイトはこの時も「どうした?」と理由を尋ねることなく、ユエが落ち着くまでずっと髪を撫でていてくれた。


***



 次の日になって、クレインからこっそり「俺とジェイ、少しの間どこか行ってようか?」と気遣われたが、ユエは「いてほしい」と頼んだ。それは本音だ。


 クレインがわざと恋人の時間を邪魔するように振る舞うのは、心配からだということは伝わっている。カイトとユエ、二人きりの世界に閉じこもっている状態は不健全だと思っているのだろう。

 そしてユエも、あのカイトの破滅願望を聞いたコテージでの閉じた世界を思い出して、危なっかしいという自覚はある。
 だから、他人の目は今こそ必要だと感じていた。


「クレイン、聞いてくれる?」
「ん、もちろん」
「きのう、悲しかったのはね、たぶん……カイトが準備してるって感じたからだ。いなくなる準備」


 最近のカイトは話し合いの場ですごく無口だった。ユエとクレインが話し合う様子を見守って、意見を求められた時だけ助言をくれる。
 それがユエには、自分がいなくなることを想定して、カイト不在の話し合いを仲間たちに慣れさせようとしているように映ったのだ。


 もちろんユエも、事前に準備することは必要だし大切だとわかってはいる。
 だから誰も責められない。責める相手がいないから、行き場のない感情が涙となって溢れるのだ。


 クレインもただ相槌を打って話を聞いてくれた。
 聞いてくれるだけでよかったし、聞いてくれる相手がいてよかったけれど、それですぐにユエの心理状態が落ち着くという、即効性の薬にはならなかった。



******


 アンナ・リーリア団の新演目の評判がベレン領にも届く頃、ラークとウィノが到着した。
 二人は教会への使者を務めた後、教会の手伝いとして勢力圏内の国々への説明にも同行し、東方諸国に広く真実を知らしめてきてくれた。

 さらにドワーフ王国にも足を延ばして、一番の難敵を任されたフェザントとアスカを助けてきたらしい。


「王様との話し合いは思ってたより簡単に終わったんだけど、予想外の方向でもめて……」
「ドワーフ王国はもう、鍵を開けた後の利益や権力争いに焦点を向けている。ドワーフの鍵はドワーフ全体の財産だから管理は国がするだとか、鍵を開けるなら王の目の前でやれだとか、大山脈の支配権はどうなるだとか」

 用意周到なのか楽観的なのかよくわからないドワーフの思考に振り回されて、二人は心底疲れたという顔をしている。
 国王個人が話がわかる人物だったため、何とかまとまったという具合だ。アスカをそのまま監禁してしまえという暴論をガツンと叩き落とし、一行を対等な協力者として扱ってくれた。

 そして有益な情報をもたらしてくれたお礼として、アルケーの研究者の紹介や国が持つ資料を閲覧する権利を与えてくれ、フェザントとアスカはそれを整理してからこちらへ向かう予定とのこと。


 メーディセインを出る時にカイトが思い描いていた状況とはかなり違ってきているが、それは悪い方向ではなくいい意味での予定変更だった。


 そしてウィノの到着により、準備は佳境へと入る。


 まずは封印されたままの妖精たちを復活させること。
 ガレノス医師が事前に指示しておいてくれた手順通りに、妖精たちのからだを再生の水に移すと、無理やり切り離された肉体はゆっくりと本来の位置へ戻っていく。

 再生の水の中には、最終的に十一人の妖精が浮かんだ。しかし全員が五体満足とはいかない。手や足がすでに失われている者や、妖精の象徴である羽をなくした者もいる。

 封印状態だったために痛みを感じなかっただろうことだけは唯一の救いだ。
 ただ、もしかしたら起こしたとたんに痛みが一気に襲って来ないとも限らないため、起こす時は慎重に、すぐに痛み止めを打てるように用意して、とガレノス医師からは忠告を受けていた。


 そのためウィノが最初のひとりを起こす様子を、周囲は異様な緊張感を持って見つめた。
 十一人の中でもっともケガの程度が軽そうなその人物を、ウィノは「……エルゥ?」と名前を呼びながら再生の水から出す。

 二人目の妖精はしばらくの間、夢と現実の狭間を彷徨うような虚ろな目をしていた。それでも心配していたような激しい痛みは感じなかったようで、覚醒はゆっくり静かに進み、からだと心が整うまで数日を要した。

 そうしてエルゥは何とか無事に復帰することができたが、見た目には治っているように見えても切断されたという事実をからだは忘れていないようで、後遺症は残っていた。時折、突然、鈍い痛みが襲うのだという。

 それを鑑みて、ウィノは起こす兄弟を厳選した。五人を起こすにとどめ、ケガが重い者たちはもうしばらく再生の水で養生してもらうことにしたのだ。


 六人になった妖精は、兄弟だけで数日の間話し合いを続けた。それだけの時間がかかったのには訳がある。カイトを救うために協力を請うウィノに、他の五人がなかなか理解を示さなかったためだ。

 特に、三つの鍵を統合するという案には強固な反対があった。たったひとりの人間のために鍵を作り変えることなど許されない、鍵は人類共通の財産なのだから、と。


 その意見を聞いてユエも、自分のモノのように思っていた鍵について改めて考えさせられる。
 ユエが鍵の所有者でいられるのは、今はこの箱庭の中に人魚の鍵を使える純血がひとりしか存在しないため。

 それがもし──外の世界にまだたくさんの純血が生きていた場合、鍵の所有権はどうなる?
 彼らが人間になることを望んだ場合、それを無視して鍵を作り変えることを優先できる?
 もし統合した鍵から純血を人間にするという機能が失われてしまったら?


 ここへきて新たな不安が芽を出し、すっかり涙腺が緩くなったユエはカイトに泣きついた。
 けれどそれくらいはカイトもウィノも想定済みだったらしく、「大丈夫だ」と二人がかりで安心させてくれる。


 ウィノが兄弟を説得した言葉は、そのままユエにも響いた。

「鍵はむしろ作り変えた方がいい。同じ過ちを繰り返さないためにも、世界を変えるほどの大きな力を蓄積できないように。その過程で救える命があるなら、それは歓迎すべきこと」

「もしその結果、鍵の能力が変わってしまったとしても、新たな方法を編み出せばいい」

「わたしにとってカイトは、世界のためなら犠牲になってもいいような『ひとりの人間』ではない。彼を死なせたくない」

「個人的な意見だけでなく、カイトは世界にとっても必要な人材。箱庭の中の主要な人物や国に真実を信じてもらうことができたのは、彼の人望や交友関係によるもの」

「命を救うだけでなく、鍵を開けた後の混乱期にカイトがいてくれると心強いから、できれば封印しない方法を見つけたい」


 ウィノの熱弁の末妖精たちは、世界を救うことだけでなく、カイトを救うことも全面的に協力してくれることとなった。


 今度ユエの目から流れたのは、感謝からくる熱い涙だった。


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