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第一章 人魚の鱗は海へ還る
1 出会い
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******************
鍵は扉を開くもの
扉は世界を繋ぐもの
世界は過去であり未来であり
ここでありそこであり
あなたでありわたしである
海の果てへ至る鍵
地の底に堕ちる鍵
空の彼方へ導く鍵
三つの鍵は扉を探し
扉は鍵を待っている
さあ、鍵穴へ差し込め
その先の世界は光か闇か
扉を開けた者だけが知るだろう
******************
「お待たせいたしました!」
壁に反響した声は、この三百人でいっぱいになる会場には、大きすぎるほどだ。
「さぁさぁ!いよいよ本日の目玉商品の登場です!」
壇上の大げさな仕草の男に、「おぉ~」と注目が集まる。場の温度が、一、二度上がったかの熱狂ぶりだ。
肩を露わにした女が二人、台車を押して現れる。
大きな布が掛けられたそれは、二人が進むたびに、ちゃぷん、ちゃぷん、と水音を鳴らしていた。中央まで来ると、焦らしもせずすぐに布が取り払われる。
「おぉ~!!」
会場の期待に満ちた声を受けて、司会者はさらに興奮を煽るように声を張り上げる。
「ご~らんください!この姿!今や見たことがあるという方も少ないでしょう!」
太陽が届かない地下であるのに、ランプの暑さだけではない、ギラギラとした熱が上がっていく。
「それも!珍しいでしょう!?オスです!オス!これまでに捕獲されたと記録があるのは、みんなメスばかり!世界初のオスの捕獲例ですよ!」
「確かに……」「珍しいのか?」「やっぱりメスの方が……」
ざわざわと賛否が巻き起こるが、それを承知のように「うん、うん」と首を縦に振り、「しかし皆様!」もう一度注目を集める。
大きな丸い水槽に梯子をかけ、水の中に手を突っ込む。中にいたその俯いた顔を無理やり上げさせた。
「ご覧ください!この顔!メスにも勝るとも劣らない美貌!それに!!何と言っても若い!この肌、おそらくまだ十代ですよ!」
無遠慮な視線と、壇上の明かりにさらされて、彼は顔を歪ませる。しかし会場はその顔に興奮を煽られる。
「まるで海のような青い髪!遠くの皆様は、残念ながら見えないかもしれませんが、瞳の色も、まるでサファイアのよう!そして虹色の鱗!最高級の人魚です!!」
捉えられた手から逃れようと、身体を捻った拍子に、水が跳ねる。鱗が明かりに反射し、腰まである青い髪が、水槽に広がった。
興奮は最高潮に達する。
「さぁさぁ!さっそく始めましょう!それでは金貨五十枚から!」
天井知らずに数字は上がっていく。
水中から外を見る目は、絶望に沈んでいった。
******
「……金貨二千五百枚、ね」
舞台裏は会場の熱気を知らず、薄暗い闇に冷めた声が落ちた。
「何とも、醜いものだ」
独り言にしては大きな声。低く地を這うような響きだ。
「おい!早くしろ!」
せっつく声に、男はのんびりと答えて、壇上からはけて来た台車を受け取る。
「これで終わりだ。すぐに商品の受け渡しが始まる。準備しろ」
「はい、はい」
軽い返事を返された男は、眉間にしわを寄せたが、結局小言は控えた。この男は、今回のオークションのためだけに雇われたと聞いていた。
基本的に外部の人間など雇わない。何せあまり大っぴらにはできない秘密の競売だ。王族貴族も参加しているらしいから、口の堅い人間でないといけない。商品は高額なものばかりだから、信用できる人間でないといけない。
しかし今回は特別だ。
ここ何十年も海に引きこもって姿を見せなかった人魚。それが偶然にも海賊の手にかかり、巡り巡ってこの競売にかけられることになったのだ。
しかしここに着いた時すでに、人魚は弱っていた。さもありなん。人魚の扱い方を知っている人間など、いなかったのだから。
そこで雇われたのがこの男だった。
どこの紹介かは知らないが、なぜか人魚の扱いに詳しい男。この男の指導により、人魚は何とか死なずにこの日を迎えられた。
飄々とした男を、以前からの従業員は煙たがっていたが、五人がかりで持ち上げるあの水槽を一人で持てる力もあって、上の人間には重宝されていた。
人魚の水槽には再び布が掛けられ、外の景色を遮断している。
「これ、先に外に運んでもいいですか?」
コンコンと水槽を叩きながら言う男に、代金を受け取る責任者は、少し考えてから「いいだろう」と答える。本来なら代金と交換に商品を渡すところだが、こんな重くて大きな物を、ちょろまかすことはできないだろうと許可する。
これが今回一番の高額がついた。競り落とした人物はこの国の有力貴族だ。あの興奮した様子と、巷の噂の人物評によれば、真っ先に……。
「ちょ、ちょっと、困ります!」
「ええぃ!どけ!!俺が買ったんだぞ!俺の!おぉ!これだ!!」
台車を押していた男を押しのけ、布を力任せに剥ぎ取ると、水槽を抱き締めんばかりに顔を近づけ、「人魚!人魚!」と唾を飛ばす。
「お客様、困ります!受け渡しはここでは……」
その貴族は、競り落としたその足でここまで来てしまったようだった。まだ舞台では司会者が締めのあいさつをしている。
「ええぃ!うるさいぞ!さっさと金を受け取れ」
後ろからついて来た護衛らしき屈強な男が、有無を言わせず革袋を差し出してくる。
責任者の男は心の中でため息をついたが、こんな金持ちに慣れてしまっていたので、これ以上反論もせずそれを受け取った。
「……ありがとうございました」
貴族は聞いてもいない。勝手に梯子を持ち出して水槽にかけている。
「ほら!顔を見せろ!」
手を無理やり掴んで水から引き揚げ、「おおぅ!いいぞいいぞ!」一人で騒いでいる。
早く出て行ってほしいとばかりに、「お客様、ここでは……外に運びますから……」と話しかける男の背後から、腕がにゅっと出てきた。
人魚の腕を掴んでいる貴族の肩を引き寄せるのは、あの人魚に詳しい男だった。
「何をっ……」
無礼な手に声を荒げようとした貴族は、その男の鋭い目をまともに見てしまい、動きが止まる。しかしその剣呑な空気は一瞬で霧散し、さっきまでの飄々とした態度で、
「旦那様、手をお離しください」
薄笑いを浮かべている。
「な、何だ?お前は!」
「私は人魚の専門家でございます」
「専門家、だと?」
さっき一瞬気圧されたことを自分に誤魔化すように、尊大な態度を取り戻して、梯子に登った自分と視線が変わらない男を睨みつける。
しかし男は全く意に介さず、貴族の手を示して、「離してください」もう一度言う。
「人魚は体温が低い。無闇に触ると、火傷させてしまいますよ」
貴族は自分が握っている人魚の腕が、その男の言うように赤くなっていることに気づく。
「ちっ!これでは触ることもできんではないか!」
苛立たしげに人魚の腕を振り放す。人魚はその腕を庇うように胸に抱えて、身を守るように体を丸くする。
「手袋でもはめれば大丈夫でございますよ」
貴族はイライラと梯子を降り、「それではつまらん」とぶつぶつ言いながら水槽の周りを歩き回っている。これ以上機嫌を損ねる前にと、従業員は「馬車まで運ばせましょう」と人魚専門家に台車を任せて、貴族を促した。
まだぶつぶつと文句を垂れ流す貴族を引き連れて、男は先を行く。外に出ると、すでに日は傾いて西日が眩しかった。
貴族が乗ってきた馬車には、大きな水槽は入りそうもなかったので、オークション側の貨物用の大きな荷台の馬車を用意してあった。
台車をここまで押してきた男は、水がいっぱいの水槽を一人で難なく持ち上げ馬車に積む。
「お前、亜種か……」
貴族の男は差別の色を隠そうともしない。男はそれには答えずに「物は相談なんですがね」積んだ水槽をポンポンと叩きながら切り出す。
「私を雇いませんかね」
「何だと……?」
いきなりの言葉に、貴族は鼻で笑おうとしたが、続いた言葉に少し考える。
「人魚の世話係、ですよ。いやね、旦那様、人魚のことなんて詳しくないでしょう。せっかくの高い買い物が、明日には死んでいた、なんて、ね……」
自尊心の強い貴族は、自分が無知などと認めたくはなかったが、確かに、と思う。何せ有り金はたいたと言ってもいいほどの値段だ。しかしこれが何を食べるのかさえ、見当もつかなかった。
それにこの男はさっき見たように力もある。亜種など気持ちが悪いが、護衛としても使えるかもしれない。
などと考え、「いいだろう」と返事をした。
男は「ここでの私の仕事は終わったので」と、そのまま人魚の馬車に乗り込んだ。
貴族も、人魚から片時も離れたくないとばがりに、自分の居心地のいい馬車ではなく、同じく人魚の傍に陣取った。
馬車二台と護衛が乗った馬が二頭、連れ立って港へ向かう。
「何と美しい……ひっひっひっ……人魚が手に入るとは……どうしようかのう。触れないとなると……いや、わざと火傷を作ってやるのも、おもしろかろう。それとも……おい!」
ガラスにくっついていた顔が剥がれると、貴族の脂ぎった跡が残っている。
「人魚は水からは出せんのか!?」
唾を飛ばしながらの問いに、男は薄笑いを保ったまま「無理ですね」きっぱり言う。
「人魚はその名の通り、半分魚なんです。鱗が水から出てしまうと、呼吸できませんよ」
「何だと!?つまらん!……いや、下半身が水に浸かっていればいいのだろう?!それなら……」
貴族は下卑た顔で、人魚の上半身を舐め回すように見る。
「ひっひ……それならやり方もある」
そんな貴族の様子に、人魚はますます縮みあがった。両手で自らを抱き締め、現実から逃避するように目も瞑っている。それをおもしろがって、貴族は近寄り「ひっひっひ!楽しみにしておれ!今に俺を『ご主人様』と呼び、すり寄るように躾けてやるわ!」
(ふぅ……それは無理だな)心の中だけでそう言い、男は貼り付けていた薄笑いを消し去った。馬車が走った時間を考え、そろそろいいか、と狭い馬車の中で立ち上がる。
そして赤い線が走った。
ドサッ……!
「へ……?」
貴族の顔に、水滴が飛んだ。それを拭って目の前にかざすと、「ひっひぃ!」血だ。共に馬車に乗っていた使用人が倒れ、血だまりができている。
貴族はもう声も出ない。それもそのはず、さっき雇ったばかりの男に、首を絞められ足が宙に浮いた。
「……ひとつ、聞きたい」
目の前の顔は、先ほどまでとはまるで別人だった。のっぺりとした、特に印象に残らない作りだと思っていたのに、今や──鋭い目つきに見下した色が浮かぶ。酷薄な笑みが、背筋をぞくっと震わせ、恐怖は過ぎると快楽を連れてくることを知った。
貴族は初めて、狩られる獲物となった。
「お前は、この人魚の命に金貨二千五百枚の値段をつけたな。自分の命にはいくらつける?」
質問をしていながら、答えなど求めていない。まるで神が人の失敗を許すように、微笑んだ。そして首を捻る。貴族はうめき声ひとつ上げず、血も一滴も流さずに、静かにその命を終えた。
「……俺なら例え同じだけもらっても、お前を助けない。むしろ……お前の顔をこれで二度と見なくて済むなら、俺が金を払ったっていいさ」
目の前を飛び回っていたハエを追い払ったかのような、清々しささえ感じる声だった。
「さて……と」
男は懐から小指ほどの大きさの筒を取り出し、息を吹き込む。普通の人間には聞こえない笛だ。人魚にも何をしているのか見当もつかなかった。
人魚にとってこの出来事は、助けてもらったと手放しで喜べるものではなかった。悪夢の主人公がいつの間にか交代してしまったかの、現実感のなさ。目の前の男は、圧倒的な存在感を放ち、主役を奪い取った。
「お前、名前は?」
呆然とする人魚の傍に、向かい合って腰を落としながら聞く。「名前、あるだろう?」反応がないことは分かっていたように、
「口は利けるだろ?ちなみに俺の名前はカイトだ、よろしく。安心しろ。別に俺はお前に危害を加える気はない。ただ……」
一人で話を進める。
「お前に仕事を手伝ってほしいだけだ」
「……て……つだ……」
予想外の言葉に、ようやく人魚が動いた。ぼやけていた焦点が男に合う。カイトと名乗った男は、オークション会場とも、貴族を殺した時とも違う、いたずらを考えているような子どもっぽい笑顔をしていた。
「そう。お前にしかできない仕事だ」
「……しごと」
水の中の声は、まだ感情が乗っていない。しかしカイトは気にもせず、
「ま、詳しくは逃げてからだな。もうすぐ──」
カイトは言葉を切って、外の音に耳を澄ます。今度は馬車の外から、さっきと同じ笛が響いた。だが馬車の御者も護衛も、馬にも聞こえていないのか、外の様子は変わりない。
「……早いな」
カイトは呟くと、素早く立ち上がって水槽を押さえる。
「揺れるぞ」
その言葉とほぼ同時に、前の馬車が急停車し、馬の鳴き声と人の怒号が入り乱れた。しかしそれも十五秒ほど。車輪の音も消えた、静かな時間。
「カイト!」
打ち破ったのは、馬車の入口を塞いでいた布をまくり上げた男だった。ちょうと西日が差し込み、中からはその顔は見えない。
しかしカイトは声だけでそれが誰か分かっていた。
「アイビス、首尾は?」
「予定通り。少し移動する」
互いに言葉少なに、ゆっくりと馬車が移動を始める。馬車と護衛の死体を、街道からは見えないように森の中に手早く隠す。動いているのは五人。物言わぬ体が、馬車の中を含めて六人だった。
「カイト!」
「すげぇ!」
馬車の布を完全に取り払い、中を覗き込む二人を制し、カイトはアイビスから大きな革袋を受け取る。
「感想は後だ。さっさとずらかるぞ」
袋に水槽の水を入れると、「狭くて悪いが我慢しろ」人魚に入るよう促す。人魚は袋とカイトの顔を見比べて、躊躇したが結局従った。
カイトはそれを軽々と担ぎ上げ、片手で押さえたまま馬に乗る。六頭の馬は街道を駆けだした。
鍵は扉を開くもの
扉は世界を繋ぐもの
世界は過去であり未来であり
ここでありそこであり
あなたでありわたしである
海の果てへ至る鍵
地の底に堕ちる鍵
空の彼方へ導く鍵
三つの鍵は扉を探し
扉は鍵を待っている
さあ、鍵穴へ差し込め
その先の世界は光か闇か
扉を開けた者だけが知るだろう
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「お待たせいたしました!」
壁に反響した声は、この三百人でいっぱいになる会場には、大きすぎるほどだ。
「さぁさぁ!いよいよ本日の目玉商品の登場です!」
壇上の大げさな仕草の男に、「おぉ~」と注目が集まる。場の温度が、一、二度上がったかの熱狂ぶりだ。
肩を露わにした女が二人、台車を押して現れる。
大きな布が掛けられたそれは、二人が進むたびに、ちゃぷん、ちゃぷん、と水音を鳴らしていた。中央まで来ると、焦らしもせずすぐに布が取り払われる。
「おぉ~!!」
会場の期待に満ちた声を受けて、司会者はさらに興奮を煽るように声を張り上げる。
「ご~らんください!この姿!今や見たことがあるという方も少ないでしょう!」
太陽が届かない地下であるのに、ランプの暑さだけではない、ギラギラとした熱が上がっていく。
「それも!珍しいでしょう!?オスです!オス!これまでに捕獲されたと記録があるのは、みんなメスばかり!世界初のオスの捕獲例ですよ!」
「確かに……」「珍しいのか?」「やっぱりメスの方が……」
ざわざわと賛否が巻き起こるが、それを承知のように「うん、うん」と首を縦に振り、「しかし皆様!」もう一度注目を集める。
大きな丸い水槽に梯子をかけ、水の中に手を突っ込む。中にいたその俯いた顔を無理やり上げさせた。
「ご覧ください!この顔!メスにも勝るとも劣らない美貌!それに!!何と言っても若い!この肌、おそらくまだ十代ですよ!」
無遠慮な視線と、壇上の明かりにさらされて、彼は顔を歪ませる。しかし会場はその顔に興奮を煽られる。
「まるで海のような青い髪!遠くの皆様は、残念ながら見えないかもしれませんが、瞳の色も、まるでサファイアのよう!そして虹色の鱗!最高級の人魚です!!」
捉えられた手から逃れようと、身体を捻った拍子に、水が跳ねる。鱗が明かりに反射し、腰まである青い髪が、水槽に広がった。
興奮は最高潮に達する。
「さぁさぁ!さっそく始めましょう!それでは金貨五十枚から!」
天井知らずに数字は上がっていく。
水中から外を見る目は、絶望に沈んでいった。
******
「……金貨二千五百枚、ね」
舞台裏は会場の熱気を知らず、薄暗い闇に冷めた声が落ちた。
「何とも、醜いものだ」
独り言にしては大きな声。低く地を這うような響きだ。
「おい!早くしろ!」
せっつく声に、男はのんびりと答えて、壇上からはけて来た台車を受け取る。
「これで終わりだ。すぐに商品の受け渡しが始まる。準備しろ」
「はい、はい」
軽い返事を返された男は、眉間にしわを寄せたが、結局小言は控えた。この男は、今回のオークションのためだけに雇われたと聞いていた。
基本的に外部の人間など雇わない。何せあまり大っぴらにはできない秘密の競売だ。王族貴族も参加しているらしいから、口の堅い人間でないといけない。商品は高額なものばかりだから、信用できる人間でないといけない。
しかし今回は特別だ。
ここ何十年も海に引きこもって姿を見せなかった人魚。それが偶然にも海賊の手にかかり、巡り巡ってこの競売にかけられることになったのだ。
しかしここに着いた時すでに、人魚は弱っていた。さもありなん。人魚の扱い方を知っている人間など、いなかったのだから。
そこで雇われたのがこの男だった。
どこの紹介かは知らないが、なぜか人魚の扱いに詳しい男。この男の指導により、人魚は何とか死なずにこの日を迎えられた。
飄々とした男を、以前からの従業員は煙たがっていたが、五人がかりで持ち上げるあの水槽を一人で持てる力もあって、上の人間には重宝されていた。
人魚の水槽には再び布が掛けられ、外の景色を遮断している。
「これ、先に外に運んでもいいですか?」
コンコンと水槽を叩きながら言う男に、代金を受け取る責任者は、少し考えてから「いいだろう」と答える。本来なら代金と交換に商品を渡すところだが、こんな重くて大きな物を、ちょろまかすことはできないだろうと許可する。
これが今回一番の高額がついた。競り落とした人物はこの国の有力貴族だ。あの興奮した様子と、巷の噂の人物評によれば、真っ先に……。
「ちょ、ちょっと、困ります!」
「ええぃ!どけ!!俺が買ったんだぞ!俺の!おぉ!これだ!!」
台車を押していた男を押しのけ、布を力任せに剥ぎ取ると、水槽を抱き締めんばかりに顔を近づけ、「人魚!人魚!」と唾を飛ばす。
「お客様、困ります!受け渡しはここでは……」
その貴族は、競り落としたその足でここまで来てしまったようだった。まだ舞台では司会者が締めのあいさつをしている。
「ええぃ!うるさいぞ!さっさと金を受け取れ」
後ろからついて来た護衛らしき屈強な男が、有無を言わせず革袋を差し出してくる。
責任者の男は心の中でため息をついたが、こんな金持ちに慣れてしまっていたので、これ以上反論もせずそれを受け取った。
「……ありがとうございました」
貴族は聞いてもいない。勝手に梯子を持ち出して水槽にかけている。
「ほら!顔を見せろ!」
手を無理やり掴んで水から引き揚げ、「おおぅ!いいぞいいぞ!」一人で騒いでいる。
早く出て行ってほしいとばかりに、「お客様、ここでは……外に運びますから……」と話しかける男の背後から、腕がにゅっと出てきた。
人魚の腕を掴んでいる貴族の肩を引き寄せるのは、あの人魚に詳しい男だった。
「何をっ……」
無礼な手に声を荒げようとした貴族は、その男の鋭い目をまともに見てしまい、動きが止まる。しかしその剣呑な空気は一瞬で霧散し、さっきまでの飄々とした態度で、
「旦那様、手をお離しください」
薄笑いを浮かべている。
「な、何だ?お前は!」
「私は人魚の専門家でございます」
「専門家、だと?」
さっき一瞬気圧されたことを自分に誤魔化すように、尊大な態度を取り戻して、梯子に登った自分と視線が変わらない男を睨みつける。
しかし男は全く意に介さず、貴族の手を示して、「離してください」もう一度言う。
「人魚は体温が低い。無闇に触ると、火傷させてしまいますよ」
貴族は自分が握っている人魚の腕が、その男の言うように赤くなっていることに気づく。
「ちっ!これでは触ることもできんではないか!」
苛立たしげに人魚の腕を振り放す。人魚はその腕を庇うように胸に抱えて、身を守るように体を丸くする。
「手袋でもはめれば大丈夫でございますよ」
貴族はイライラと梯子を降り、「それではつまらん」とぶつぶつ言いながら水槽の周りを歩き回っている。これ以上機嫌を損ねる前にと、従業員は「馬車まで運ばせましょう」と人魚専門家に台車を任せて、貴族を促した。
まだぶつぶつと文句を垂れ流す貴族を引き連れて、男は先を行く。外に出ると、すでに日は傾いて西日が眩しかった。
貴族が乗ってきた馬車には、大きな水槽は入りそうもなかったので、オークション側の貨物用の大きな荷台の馬車を用意してあった。
台車をここまで押してきた男は、水がいっぱいの水槽を一人で難なく持ち上げ馬車に積む。
「お前、亜種か……」
貴族の男は差別の色を隠そうともしない。男はそれには答えずに「物は相談なんですがね」積んだ水槽をポンポンと叩きながら切り出す。
「私を雇いませんかね」
「何だと……?」
いきなりの言葉に、貴族は鼻で笑おうとしたが、続いた言葉に少し考える。
「人魚の世話係、ですよ。いやね、旦那様、人魚のことなんて詳しくないでしょう。せっかくの高い買い物が、明日には死んでいた、なんて、ね……」
自尊心の強い貴族は、自分が無知などと認めたくはなかったが、確かに、と思う。何せ有り金はたいたと言ってもいいほどの値段だ。しかしこれが何を食べるのかさえ、見当もつかなかった。
それにこの男はさっき見たように力もある。亜種など気持ちが悪いが、護衛としても使えるかもしれない。
などと考え、「いいだろう」と返事をした。
男は「ここでの私の仕事は終わったので」と、そのまま人魚の馬車に乗り込んだ。
貴族も、人魚から片時も離れたくないとばがりに、自分の居心地のいい馬車ではなく、同じく人魚の傍に陣取った。
馬車二台と護衛が乗った馬が二頭、連れ立って港へ向かう。
「何と美しい……ひっひっひっ……人魚が手に入るとは……どうしようかのう。触れないとなると……いや、わざと火傷を作ってやるのも、おもしろかろう。それとも……おい!」
ガラスにくっついていた顔が剥がれると、貴族の脂ぎった跡が残っている。
「人魚は水からは出せんのか!?」
唾を飛ばしながらの問いに、男は薄笑いを保ったまま「無理ですね」きっぱり言う。
「人魚はその名の通り、半分魚なんです。鱗が水から出てしまうと、呼吸できませんよ」
「何だと!?つまらん!……いや、下半身が水に浸かっていればいいのだろう?!それなら……」
貴族は下卑た顔で、人魚の上半身を舐め回すように見る。
「ひっひ……それならやり方もある」
そんな貴族の様子に、人魚はますます縮みあがった。両手で自らを抱き締め、現実から逃避するように目も瞑っている。それをおもしろがって、貴族は近寄り「ひっひっひ!楽しみにしておれ!今に俺を『ご主人様』と呼び、すり寄るように躾けてやるわ!」
(ふぅ……それは無理だな)心の中だけでそう言い、男は貼り付けていた薄笑いを消し去った。馬車が走った時間を考え、そろそろいいか、と狭い馬車の中で立ち上がる。
そして赤い線が走った。
ドサッ……!
「へ……?」
貴族の顔に、水滴が飛んだ。それを拭って目の前にかざすと、「ひっひぃ!」血だ。共に馬車に乗っていた使用人が倒れ、血だまりができている。
貴族はもう声も出ない。それもそのはず、さっき雇ったばかりの男に、首を絞められ足が宙に浮いた。
「……ひとつ、聞きたい」
目の前の顔は、先ほどまでとはまるで別人だった。のっぺりとした、特に印象に残らない作りだと思っていたのに、今や──鋭い目つきに見下した色が浮かぶ。酷薄な笑みが、背筋をぞくっと震わせ、恐怖は過ぎると快楽を連れてくることを知った。
貴族は初めて、狩られる獲物となった。
「お前は、この人魚の命に金貨二千五百枚の値段をつけたな。自分の命にはいくらつける?」
質問をしていながら、答えなど求めていない。まるで神が人の失敗を許すように、微笑んだ。そして首を捻る。貴族はうめき声ひとつ上げず、血も一滴も流さずに、静かにその命を終えた。
「……俺なら例え同じだけもらっても、お前を助けない。むしろ……お前の顔をこれで二度と見なくて済むなら、俺が金を払ったっていいさ」
目の前を飛び回っていたハエを追い払ったかのような、清々しささえ感じる声だった。
「さて……と」
男は懐から小指ほどの大きさの筒を取り出し、息を吹き込む。普通の人間には聞こえない笛だ。人魚にも何をしているのか見当もつかなかった。
人魚にとってこの出来事は、助けてもらったと手放しで喜べるものではなかった。悪夢の主人公がいつの間にか交代してしまったかの、現実感のなさ。目の前の男は、圧倒的な存在感を放ち、主役を奪い取った。
「お前、名前は?」
呆然とする人魚の傍に、向かい合って腰を落としながら聞く。「名前、あるだろう?」反応がないことは分かっていたように、
「口は利けるだろ?ちなみに俺の名前はカイトだ、よろしく。安心しろ。別に俺はお前に危害を加える気はない。ただ……」
一人で話を進める。
「お前に仕事を手伝ってほしいだけだ」
「……て……つだ……」
予想外の言葉に、ようやく人魚が動いた。ぼやけていた焦点が男に合う。カイトと名乗った男は、オークション会場とも、貴族を殺した時とも違う、いたずらを考えているような子どもっぽい笑顔をしていた。
「そう。お前にしかできない仕事だ」
「……しごと」
水の中の声は、まだ感情が乗っていない。しかしカイトは気にもせず、
「ま、詳しくは逃げてからだな。もうすぐ──」
カイトは言葉を切って、外の音に耳を澄ます。今度は馬車の外から、さっきと同じ笛が響いた。だが馬車の御者も護衛も、馬にも聞こえていないのか、外の様子は変わりない。
「……早いな」
カイトは呟くと、素早く立ち上がって水槽を押さえる。
「揺れるぞ」
その言葉とほぼ同時に、前の馬車が急停車し、馬の鳴き声と人の怒号が入り乱れた。しかしそれも十五秒ほど。車輪の音も消えた、静かな時間。
「カイト!」
打ち破ったのは、馬車の入口を塞いでいた布をまくり上げた男だった。ちょうと西日が差し込み、中からはその顔は見えない。
しかしカイトは声だけでそれが誰か分かっていた。
「アイビス、首尾は?」
「予定通り。少し移動する」
互いに言葉少なに、ゆっくりと馬車が移動を始める。馬車と護衛の死体を、街道からは見えないように森の中に手早く隠す。動いているのは五人。物言わぬ体が、馬車の中を含めて六人だった。
「カイト!」
「すげぇ!」
馬車の布を完全に取り払い、中を覗き込む二人を制し、カイトはアイビスから大きな革袋を受け取る。
「感想は後だ。さっさとずらかるぞ」
袋に水槽の水を入れると、「狭くて悪いが我慢しろ」人魚に入るよう促す。人魚は袋とカイトの顔を見比べて、躊躇したが結局従った。
カイトはそれを軽々と担ぎ上げ、片手で押さえたまま馬に乗る。六頭の馬は街道を駆けだした。
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