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第一話

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 中林なかばやしおさむはイライラしていた。

 黒い画面を表示したままうんともすんとも言わないパソコンを目の前に、手を組んでどうにかいらだちを表に出さないよう必死で耐えていた。

 今週はまったくもってついてない。月曜日の夜、帰宅途中で倒れ救急車で運ばれ、退院できたのは火曜日の午後。
 倒れた原因は理にとって思いもよらないことで、いまだに信じられない。考えれば考えるほどいらだちが募るばかりで、昨夜はほとんど眠れなかった。
 起き抜けの寝不足の顔はいつもよりさらに理の顔を白くしていた。

「くそっ!」

 悪態を付いても顔色が戻るわけではないが、声を出さなければ気が済まなかった。
 ノリの効いたシャツにネイビーの夏用のスーツを羽織る。少し長い横分けにした前髪を額から払いのけ、眼鏡をかけた。
 度の入っていない眼鏡は、理にとっての結界だ。
 鏡に映る姿を見てようやくいつもの自分に戻れたような気がして溜息をつくと、理はいつもよりさらに三十分早く出社した。
 丸一日欠勤したおかげで、仕事が溜まっていることは明白だった。だから、早く出社して遅れを取り戻そうと思ったのである。

 にもかかわらず、社用パソコンがフリーズしたのだ。強制終了を試してみたものの、起動してもすぐにまたフリーズしてしまう。何が問題なのか、さっぱりわからない。
 定時までの一時間格闘したところで理は自力で修復するのを諦め、情報システム部に連絡した。

 理が勤めるEDGEエッジは、社員数五百人弱の雑貨を取り扱う商社だ。
 三十二歳になった理は去年から、営業二課で二十人ほどの部下を持つ課長に昇進した。海外からの買い付けを専門とする一課とは違い、二課は国内で生産されている雑貨を専門としている。そのせいか、海外を飛び回る華やかな一課とは違い、二課は落ち着いてのんびりとした雰囲気だった。

 その分、売上は大きく溝を開けられていた。
 元来負けず嫌いの理は課長になってから一課に負けまいと、必死だった。おかげで成績は微増ながらも右肩あがりだ。
 もちろん、いまどき無理難題なノルマを課すわけでも、パワハラや不正をさせているわけでもない。過度な接待もご法度だ。
 理は全員の仕事をすべて把握している。すべてだ。それは彼らが毎日提出する報告書に目を通し、問題点があれば解決できるようアドバイスをし、足りない資料があれば理が集めた。
 社内での無駄な雑務は理が処理し、彼らには取引先だけに集中できるようサポートし、売上を伸ばしていったのである。

 そのために毎朝三十分早く出社していた。
 課員からよく思われていないのは知っている。それはそうだろう。毎日の報告書に、定時前に出社している上司。プレッシャーになっているのは理解している。
 理の顔を見るなりみな、顔を顰めてこそこそと席につく。

「今朝の課長、一段と緊張感があるな」
「昨日欠勤したばかりだって言うのにまた人形みたいな顔だぜ……」

 聞こえてるぞ、と言いたくなるのを社内で能面と噂される顔からさらに表情を消して抑えた。彼らにどう思われようと、理は自分を変える気はないし、その必要もないと思っている。

 営業は、成績が命。課の成績をあげるためなら、嫌われようが煙たがられようが、理は理の仕事をするだけだ。
 動かないパソコンにも、部下たちのそわそわした気配にもイライラしながら、情シスが来るのを今か今かと待ちわびていた。

 急いでくれと頼んだのに、やってきたのは連絡から一時間後。
 悪びれもなく現れたのはパーマなのか天然なのか、緩くうねる肩まで伸びた長い髪に、やたら背の高い男だった。あと少しで180センチを超える予定だった理より、五センチ以上高いように見える。
 真夏でもスーツ姿の営業マンとは違い、淡い紫色の花柄のアロハシャツにチノパンといった浮ついた姿は、いかにも内勤らしい。
 身長から服装までなにもかもが理の神経を逆なでするような男は、腑抜けた顔で笑い、聞いてもいないのに名を名乗り、社内なのに名刺まで渡してきた。

「おはようございます。情シスの外山とやま伊織いおりです。何でも屋なんでいつでも呼んでくださいね」
「営業の中林だ」
「うわっ、デスクめっちゃきれいですね」
「いいから早く直してくれっ! 時間がないんだっ」

 癖で名刺を受け取り丁寧にしまい、名乗られた手前、理も律儀に名乗ってしまった。このわずかな時間も惜しいというのに何を悠長な……。慌ててせかす理に対し、伊織はのんびりとした様子で理のデスクに座るとパソコンを立ち上げた。
 案の定、パソコンはすぐさまフリーズした。強制終了を何度か繰り返してフリーズするという作業は、理だって試したのである。
 最終的に伊織はブルーの画面を表示させると、ふむと頷いて傍らに立つ理に向き直った。

「ウィルスに感染してるぽいっすねぇ。社用ですけど、エッチなサイトでも見ました?」
「そんなことするわけがないだろうっ! 馬鹿なこと言ってないで早くしろっ」
「はいはーい。ネットワークからは切ってあるんで、俺のパソコンと繋いで修復プログラムインストールしますねー。一時間くらいかかりますね」
「そんなに掛るのか? なら代わりのパソコンを用意してくれ」
「あいにくこれしかなくて」

 といって理のパソコンと繋げたノートパソコンを掲げた。
 すでに定時から一時間は過ぎてそれからさらに一時間。せめてこれから取引先へ向かう部下たちの分だけでも報告書を見たいというのに……。

「はぁ……。仕方ない、倉庫の整理でもしてくる。その間に直しておいてくれ」
「はいはい。あ、今日暑いですから飲み物を持って行ったほうがいいですよ! いってらっしゃーい」

 理は、仕方なく地下の倉庫へと向かった。途中で自販機の前を通り過ぎて、足を止めた。
 別に、伊織に言われたからではない。倉庫は空調の効きが悪く、窓もない。昨日退院したばかりだから、体調管理には気を付けるべきだ。
 心の内で言い訳をすると、麦茶のボタンを押した。

 地下倉庫は雑然としていて、ホコリっぽい空気で充満していた。
 こういう部屋は苦手だ。
 小児喘息だった理のために、実家は毎日ハウスキーパーが丁寧に掃除をしていた。ひとり暮らしをはじめてからは、前の住人のシミの残る薄汚れたカーペットに毎日掃除機をかけている。
 マスクを持ってくるべきだったと後悔した。
 過去の資料をまとめたバインダーは、積み上げられ、乱雑に並べられていた。いくつかの資料は脇に置かれたデスクの上にそのまま放置されている。

「くそがっ! 何で元あった場所に戻さないんだっ!」

 これまでのうっぷんを晴らすように、フロアで出したらパワハラで訴えられかねないほどの大きな声で悪態を付く。

「はあ……やるか」

 声を出して落ち着いた理は、種別ごとに並べなおす単調の作業の中、昨日医師に言われたことを思い出していた。
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