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第二話
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「中林さん。あなたはSubDropで意識を失い倒れたんです」
「は? SubDropってどういうことですか? 俺にはダイナミクスはないはずですが……。まさか俺がSub?」
その言葉に老齢の医師は首を縦に振り、理は信じられないと顔を覆った。
「ダイナミクスについてはご存じですか?」
「えぇ……。両親どちらもDomでしたから」
ダイナミクス、それは男女という性別とは異なるもう一つの性だ。
支配者たるDomと被支配者のSub。発現するのは人口の一割だといわれる第二の性。専門の検査機関に依頼をすれば、第二性の有無を調べることもできる。しかしほとんどの人は思春期までになにかしらのきっかけで判明することが多く、わざわざ検査をする人間は稀だ。
遺伝的な要素もなく大多数の人は、自分の第二性を知らずに生きている。
理はこれまで誰かに支配されたいと思ったことは、一度もない。実の親にすら従わされた記憶はない。
つまり、第二性はUsualだと思って生きてきたのである。
「どちらも? それはまた珍しいですね。子どものころにご両親や他の人からCommandを受けたことは?」
「ないですね。いや、ないと思うだけ、ですが……」
裸一貫ではじめた運送会社を経営する父と、生粋のお嬢様である母。母の実家の伝手を欲した父と、父の財産目当ての母。双方の利害の一致のみで結ばれた夫婦だった。
その両親は、六歳離れた長男、卓をかわいがる一方、病弱な理には無関心だった。
物心つく頃には忙しない両親を煩わせたくなくて、ひどく大人びた子どもに育っていた。そんな理に「世話が掛からなくて助かるわ」と言ったのは毎日のように着飾って出掛ける母だった。
学生時代は教師受けもよく、叱責されることはなかった。むしろ友人や後輩の面倒を任されることが多かった。
誰もやりがたらない学級委員を率先し、文化祭や体育祭では盛り上がる彼らを横目に地味な裏方作業に徹した。
卒業式では「中林がいてくれて先生も助かったよ」と教師から感謝さされた。
自分のことは自分で、人に迷惑をかけることを嫌う理は、頼られることはあっても頼ることも、誰かに従う必要もなかった。
彼らの望みを先回りして動く操り手のいない操り人形、それが理だった。
「なるほど。それで耐性のなかったところに一方的で強力なGlareを浴びて倒れたと」
「犯罪じゃなかったでしたっけ?」
「意図的なものであれば。警察に連絡します? 相手を調べられると思いますが」
「いや、そこまでは……」
「現時点では後遺症や体調不良はなさそうですが、念のため一か月後、再診しますので――」
警察沙汰になれば、会社に迷惑が掛かる。それは避けたい。ただでさえ、入院で仕事に穴を開けたのだ。今後、Subであることでさらなる面倒が起きるとも限らない。
理の体調管理が原因で仕事が滞ることなど、許されない。
退院までの間、カウンセラーが話しているときも理は気がそぞろだった。
自分が誰かに支配される? 冗談じゃない。
いつだって自分の力で生きてきたのだ。これからだってそれは変わらない、変えられない。
Subだからといって他人に自分を明け渡すなんて、ありえない。Domのパートナーを作れ? 冗談じゃない。くそくらえだ。
そんなものは、必要ないんだ。
「終わりましたよー、中林さん」
突然声を掛けられて、ようやくそこに人がいることに気付いた。目にうるさい花柄のシャツに、チノパン姿に長い髪。大きな体をだらりと壁にもたれかけるようにして立った伊織の姿に、理は驚き、時計を見た。倉庫に来てから一時間をとうに過ぎていた。
「遅かったじゃないか」
「十分ほど前にも声を掛けたんですけどねぇ。なにか考え事をされてたみたいで」
待たされたわりに怒る様子もなく、へらりと笑う姿に理はくっと喉を詰まらせた。理が迷惑をかけたのに彼を責めるようなことを言ってしまった。
「……待たせたなら悪かったな」
「とんでもない。営業部きってのやり手と言われる中林さんの憂い顔を見られて光栄です!」
憂い顔ってどんな顔だ。しかもそれを見て嬉しいだなんて、意味が分からない。
「それにしても、ここ本当に暑いですねぇ。ちゃんと水分摂りました? あ、飲んでないじゃないですか。ほら、飲んで」
デスクに置いたままのペットボトルには水滴がついていた。伊織はその水滴を拭い、キャップを開けた。
わざわざそこまでしなくても……。そう思いながら受け取り、口をつける。思ってた以上に喉が渇いていたようで、そのままぐびぐびと半分ほどを一気に飲み干していた。
「大丈夫ですか? 顔赤くなってますけど? 熱中症ですかね」
「いや、大丈夫だ。暑いだけで……」
「そうですか? 少し休んだほうがよさそう。ほら、座って」
座る? いや、たださえ時間を浪費しているのに、そんな暇はない。
なのに、気付くとデスクの前に置かれた椅子に座っていた。
「二課のみなさん、もう全員外出されたんで慌てて戻らなくても平気ですって」
「いや、でも……」
すぐにでも戻らなければ。なのに身体は椅子にすっかり張り付いたように動けない。
座っている理の前に立つ伊織が、様子をうかがうように理を覗き込むとその手が伸びてきた。
「あ、眼鏡。汚れてる」
「ちょっと! 外山さんっ!」
さえぎる間もなく伊織の手で理の眼鏡がすっと外される。
「あれ? これ度が入ってないんですねぇ」
そう言いながら伊織はシャツの裾で眼鏡を拭きはじめてしまった。
「いいから、返してくれっ! もう本当に戻らないと」
「すぐ終わりますって。ほら、ね? きれいになった」
倒れたせいか、この淀んだ空気のせいか。
「じゃあもうひとくちだけ飲んで。そしたら戻りましょう」
そうだ、暑さのせいだ。
この理由のわからない顔のほてりも、まとまらない思考も、思うように動かない身体も……。
「は? SubDropってどういうことですか? 俺にはダイナミクスはないはずですが……。まさか俺がSub?」
その言葉に老齢の医師は首を縦に振り、理は信じられないと顔を覆った。
「ダイナミクスについてはご存じですか?」
「えぇ……。両親どちらもDomでしたから」
ダイナミクス、それは男女という性別とは異なるもう一つの性だ。
支配者たるDomと被支配者のSub。発現するのは人口の一割だといわれる第二の性。専門の検査機関に依頼をすれば、第二性の有無を調べることもできる。しかしほとんどの人は思春期までになにかしらのきっかけで判明することが多く、わざわざ検査をする人間は稀だ。
遺伝的な要素もなく大多数の人は、自分の第二性を知らずに生きている。
理はこれまで誰かに支配されたいと思ったことは、一度もない。実の親にすら従わされた記憶はない。
つまり、第二性はUsualだと思って生きてきたのである。
「どちらも? それはまた珍しいですね。子どものころにご両親や他の人からCommandを受けたことは?」
「ないですね。いや、ないと思うだけ、ですが……」
裸一貫ではじめた運送会社を経営する父と、生粋のお嬢様である母。母の実家の伝手を欲した父と、父の財産目当ての母。双方の利害の一致のみで結ばれた夫婦だった。
その両親は、六歳離れた長男、卓をかわいがる一方、病弱な理には無関心だった。
物心つく頃には忙しない両親を煩わせたくなくて、ひどく大人びた子どもに育っていた。そんな理に「世話が掛からなくて助かるわ」と言ったのは毎日のように着飾って出掛ける母だった。
学生時代は教師受けもよく、叱責されることはなかった。むしろ友人や後輩の面倒を任されることが多かった。
誰もやりがたらない学級委員を率先し、文化祭や体育祭では盛り上がる彼らを横目に地味な裏方作業に徹した。
卒業式では「中林がいてくれて先生も助かったよ」と教師から感謝さされた。
自分のことは自分で、人に迷惑をかけることを嫌う理は、頼られることはあっても頼ることも、誰かに従う必要もなかった。
彼らの望みを先回りして動く操り手のいない操り人形、それが理だった。
「なるほど。それで耐性のなかったところに一方的で強力なGlareを浴びて倒れたと」
「犯罪じゃなかったでしたっけ?」
「意図的なものであれば。警察に連絡します? 相手を調べられると思いますが」
「いや、そこまでは……」
「現時点では後遺症や体調不良はなさそうですが、念のため一か月後、再診しますので――」
警察沙汰になれば、会社に迷惑が掛かる。それは避けたい。ただでさえ、入院で仕事に穴を開けたのだ。今後、Subであることでさらなる面倒が起きるとも限らない。
理の体調管理が原因で仕事が滞ることなど、許されない。
退院までの間、カウンセラーが話しているときも理は気がそぞろだった。
自分が誰かに支配される? 冗談じゃない。
いつだって自分の力で生きてきたのだ。これからだってそれは変わらない、変えられない。
Subだからといって他人に自分を明け渡すなんて、ありえない。Domのパートナーを作れ? 冗談じゃない。くそくらえだ。
そんなものは、必要ないんだ。
「終わりましたよー、中林さん」
突然声を掛けられて、ようやくそこに人がいることに気付いた。目にうるさい花柄のシャツに、チノパン姿に長い髪。大きな体をだらりと壁にもたれかけるようにして立った伊織の姿に、理は驚き、時計を見た。倉庫に来てから一時間をとうに過ぎていた。
「遅かったじゃないか」
「十分ほど前にも声を掛けたんですけどねぇ。なにか考え事をされてたみたいで」
待たされたわりに怒る様子もなく、へらりと笑う姿に理はくっと喉を詰まらせた。理が迷惑をかけたのに彼を責めるようなことを言ってしまった。
「……待たせたなら悪かったな」
「とんでもない。営業部きってのやり手と言われる中林さんの憂い顔を見られて光栄です!」
憂い顔ってどんな顔だ。しかもそれを見て嬉しいだなんて、意味が分からない。
「それにしても、ここ本当に暑いですねぇ。ちゃんと水分摂りました? あ、飲んでないじゃないですか。ほら、飲んで」
デスクに置いたままのペットボトルには水滴がついていた。伊織はその水滴を拭い、キャップを開けた。
わざわざそこまでしなくても……。そう思いながら受け取り、口をつける。思ってた以上に喉が渇いていたようで、そのままぐびぐびと半分ほどを一気に飲み干していた。
「大丈夫ですか? 顔赤くなってますけど? 熱中症ですかね」
「いや、大丈夫だ。暑いだけで……」
「そうですか? 少し休んだほうがよさそう。ほら、座って」
座る? いや、たださえ時間を浪費しているのに、そんな暇はない。
なのに、気付くとデスクの前に置かれた椅子に座っていた。
「二課のみなさん、もう全員外出されたんで慌てて戻らなくても平気ですって」
「いや、でも……」
すぐにでも戻らなければ。なのに身体は椅子にすっかり張り付いたように動けない。
座っている理の前に立つ伊織が、様子をうかがうように理を覗き込むとその手が伸びてきた。
「あ、眼鏡。汚れてる」
「ちょっと! 外山さんっ!」
さえぎる間もなく伊織の手で理の眼鏡がすっと外される。
「あれ? これ度が入ってないんですねぇ」
そう言いながら伊織はシャツの裾で眼鏡を拭きはじめてしまった。
「いいから、返してくれっ! もう本当に戻らないと」
「すぐ終わりますって。ほら、ね? きれいになった」
倒れたせいか、この淀んだ空気のせいか。
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