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第9話 不思議少女タナット
しおりを挟む孤児院の庭で子供たちに挨拶をして、さっそく体術を教えようと思ったのだがそれどころではなくなってしまった。
子供たちがネコに群がっている。
数人の子供たちが束になってネコを捕まえようと飛び掛かった。ネコはギリギリのタイミングで横に飛んで子供たちから逃れる。それを数回繰り返した後、子供たちは次の作戦に出た。もっと大勢でネコを円形に囲み、逃げ道を消して一度に飛び掛る。ネコはこれには参ったとひっくり返って子供たちに捕まった。
今はもうきゃっきゃ言う子供たちにいじくり回されて、ネコは力なくナーナー鳴いている。すっかり子供たちはネコに夢中だ。
まさかネコがこんなに子供たちの相手が上手いとは思わなかった。ネコがその気になれば子供たちなんかに捕まるわけがない。囲まれたって、ネコはジャンプするだけで4、5メートルは跳べるのだから余裕で逃げ切れたはずだ。それなのにネコは役者顔負けの演技力で危機を演じ、捕らえられていた。
おかげで俺はこの有様だ。俺の相手をしてくれるのはエドガー・ケイン少年十歳のたった一人だけだ。エドガー少年は伝染病で両親を亡くし、数週間前に孤児院に来たばかりらしい。強くなって冒険者になり、いっぱいお金を稼ぎたいと真面目に体術の訓練に付き合ってくれていた。
一対一ということもあって、付きっ切りで教えているのだが、エドガー少年の飲み込みはすこぶる早い。パンチ、キック、防御の基礎だけではなく、間接の取り方から投げ技まで教えてしまった。彼はきっと強くなるだろう。
そんなこんなで、太陽は東の空に傾いて夕方になると、子供たちを俺に託してどこかに行っていたアレイナさんが戻ってきた。
「それでは夕飯にしましょう。今日はサンドイッチを用意したのでここで食べましょう。さぁ、みんなも準備を手伝って」
『はーい』と子供たちは元気に返事をする。
「すいません。アゼルさんには呼んできて欲しい子がいるんです。孤児院のE室の一番の奥のベッドの上に座っている子がいると思うので、お願いします。おそらく話しかけても反応は示さないので、抱き上げて連れてきてください」
「わかりました」
返事をして孤児院に入った。廊下の両脇にいくつも部屋が並んでいる。Eと記されたドアを開くと、部屋の中には二列に三つずつのベッドが並んでいた。その一番奥の、向かって左側のベッドに一人の少女がたたずんでいる。
靴を脱いで部屋に入る。少女はベッドの上に座っていた。エドガーと同じ、十歳くらいの少女だ。ただ虚空を見上げている。いや、何も虚空すらも見てはいないのかもしれない。ただ目を開いているだけだ。
その表情には何もない。絶望すらない。
俺はこの表情を知っていた。見たことがあった。それは前世で優羽がネネ、雨咲美音々と出会った日のことだった。
あの日、俺は寮の部屋を出るのがいつもより五分くらい遅かった。部屋を出ようとしたとき、好物のヨーグルトの賞味期限が切れていることを思い出し、食べてから出たので遅くなった。
そして本部に行く途中で、異能力者狩りに襲われていたネネを助けた。ネネにはかすり傷一つなかった。しかしネネの母がネネを守って死んだ。
ネネはそのとき俺に言った。焦点の合わない目で、俺よりずっと遠くを見つめながら言った。「後、二十秒早ければ、ママは助かったのに……」
その言葉に俺は絶望した。ヨーグルトなんて食べなければよかった。いつもどおりの時間に家を出ればよかったのだ。後悔と共に涙が溢れた。
ネネを抱きしめて謝った。「ごめん……ごめんなさい。間に合わなかった。助けられなかった。全部、俺のせいだ」
そんな俺の謝罪もネネには届かなかった。ネネはただ虚空を見上げていた。
それも仕方がなかった。後に聞いた話では、そのときネネは時間を巻き戻す力を使っていた。その力は強大だが制約がある。巻き戻せる時間は五秒で、リロードに五秒必要なのだ。だからネネは母が死ぬ瞬間の五秒を何百回、何千回とやり直し続けた。
そしてネネは、たった十歳の少女はその数だけ自分の母が殺される瞬間を目撃したのだ。
それも全部、俺が間に合わなかったせいだ。
今、目の前にいる孤児の少女が浮かべる表情はあのときのネネに似ていた。絶望さえ磨耗して、心すら失ってしまったような顔だ。
しかしよく見てみると、似ているのは表情だけではない。黒く長い透きとおった髪に、まるで人形のような整った顔立ち、ネネに良く似た薄幸の美少女だった。
そういえば、この少女の名前を聞いていなかった。
だから……
「ネネ」
そう呼びかけてみる。もちろん反応はない。もっと大きな声でもう一度だけ呼びかけてみる。
少女はゆっくりと首を動かし、俺のほうを見た。
表情は変わらない。それなのに、何故か一瞬、少女の瞳に光が灯ったような気がした。
そして少女はベッドからぴょんと飛び降り、パタパタと走って俺のところまでやってくると、俺の足にぎゅっとしがみつき、足の甲の上に座った。表情は無表情のままだ。
「夕ご飯だって。ほら、みんなのところに行こう」
そう言って、足から少女をはがそうと試みるがはがれない。
これはちょっとおかしい。本気ではがそうと試みても少女はびくともしない。全力を出しても少女の指一本動かすことができない。
そこに悪意はないが、教会の暴力を振るえなくするという力が働いてでもいるのだろうか。
もう俺にはどうすることもできないので、このまま足に少女をくっつけて庭に向かった。
「ええっ!? タナット? 何をしているの?」
この少女の名前はタナットというようだ。この有様にアレイナさんは驚いている。何故だろう、俺が炎の鳥を作ったときより驚いている気がする。
「なんかくっついて離れないんです」
「ほら、ご迷惑だから離れなさい」
アレイナさんもタナットをはがそうと試みるが、やっぱりびくともしない。
「これが教会の暴力を振るえなくする力ですか?」
「あ、いや……違います。これはこの子が特別なだけです」
そう言って、アレイナさんはタナットの説明を始めた。
「タナットは一年ほど前に、教会の隅で座っているのを私が見つけました。誰が声を掛けても一切反応がなく、保護者などもみつからなかったので、そのまま孤児院で保護しています。タナットという名前も孤児院で付けた名前です。そしてこのタナットには不思議なところがあります。まずタナットはあまり食事や水分を取りません。二日ほど何も食べないことなどはよくあることですが、体調を崩したことはありません。それにこの一年、成長は見られません。それどころか私たちは彼女の爪や髪の毛を切ったこともないのです」
足の上に座っているタナットの頭を撫でて、髪の毛に触れてみる。さらさらとした綺麗な髪だ。特に変なところはない。
「タナットの謎はそれだけではありません。タナットは不思議な力に守られています。一度、私が子供たちに教会の外で魔法を教えていたときのことです。一人の男の子が魔法を暴発させてしまい、その魔法はタナットにあたりました。しかし彼女には傷一つありませんでした。他にもあります。それこそ今の状況のように、誰でも彼女の意に沿わないことは強制できません。私たちは彼女に無理矢理、食事をとらせることも、その足から引き剥がすこともできないのです。牧師の中にはタナットは神の御使いではないかという者もいます」
「どうして神の御使いなんですか?」
「タナットを守っている力は教会を守っている力に似ています。それに神が地上から去った後、神の御使いが様々な地で人々を救ったという伝承があります。その御使いは黒い髪の女性だったとされているのです。それでもこんなに小さな子ではなかったと思いますけどね。しかしそれにしても、どうしてくっついているのでしょう」
結局その後も、タナットはくっついたままだった。
諦めてそのままご飯だ。庭の芝生の上に座ってみんなで仲良くサンドイッチを食べる。
タナットはあぐらをかいて座っている俺の足の上に座っている。相変わらず無表情のままだが、俺がサンドイッチを手渡すと受け取って食べてくれた。
ネコも子供たちからわけてもらったサンドイッチを食べている。ネコは肉や魚の方が好きではあるが、野菜もパンも普通に食べる。
やっぱりネコは人気者で子供たちはみんなネコのまわりで食べている。ネコに寄りかかる子や、ネコのしっぽを弄っている子もいる。
俺を師匠と呼び慕ってくれていたエドガー少年も今ではもうネコの虜で、ネコに自分のぶんのサンドイッチを食べさせて喜んでいる。
そして夜。寝る時間なのだが問題は解決していない。
俺は孤児院の空いたベッドで寝ることになった。使っていない六人部屋が三つあったので、一室まるごと俺とタナットとネコで使っていいらしい。ネコは俺のベッドの横にいつものタオルを敷いて、すでに丸くなっている。
俺は今、十七歳なのでまぁぎりぎり子供だし、孤児院の子供部屋で寝るのは全然いいだろう。ただいまだにタナットがくっついたままなのだ。
何をやってもタナットは離れない。しかしわかったこともある。ご飯のときもそうだったのだが、声に出して俺がお願いすれば言うことを聞いてくれる。座りたいから、足から離れてといえば、言うことを聞いてくれる。しかし完全に俺から離れるわけじゃない。常に俺のどこかを掴んでいる状況なのだ。
もうどうしようもない。アレイナさんからもタナットの望むようにしてあげてと頼まれているので一緒に寝るしかない。
「タナット、俺は寝るよ」
そう言って、俺はベッドの上に横になる。タナットはベッドの上に座って、俺の服の裾を握り締めている。
ずっとこのままでいるつもりなのだろうか。それはよくない気がする。
「タナットも一緒に寝よう」
そう話しかけると、タナットは俺の横で寝転がり、横から抱きついてきた。
まぁ、もう眠いしこのままでいいだろう。問題の解決はまた明日でいい。
ぎゅっと抱きついているタナット頭を優しく撫でながら、思う。
この少女は何を考えて、何を想っているのだろう。少女が何者であるかよりずっとそのことが知りたいと思った。
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