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第26話 空っぽの座席
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金魚が、死んだ。
夏休みが終わる、数日前の朝だった。
教室の後ろに置かれた小さな水槽。水草の間で、夏祭りの夜にすくい上げた赤い金魚は、静かに横たわっていた。
それは、とても穏やかな死だった。
苦しんだ様子もなく、ただ、その鮮やかだった赤色を少しだけ白く褪せさせて、眠るように動かなくなっていた。
この金魚は、七海の証だった。
七海が、「この子が生きている限り、私も、ここにちゃんと、いるってことにするの」と言った、七海の存在そのものだった。
あの夜、彼女が僕に託した、あまりにも重い約束。
僕は夏休みの間、一日も欠かさず学校に通い、その、小さな命を守り続けた。餌をやり、水を替え、そして、ただ健気に泳ぐ姿を見つめ続けた。
そうしていれば、僕たちの夏が永遠に続いていくとでも信じているかのように。
でも、夏は終わる。
そして、命も終わる。
僕は、動かなくなった小さな骸を、誰にも何も言わずに網ですくい上げた。そして、自宅の庭の、紫陽花の花が一番きれいに見える場所に、小さな穴を掘って、そっと埋めてやった。
長い、長い夏休みが明けた。
九月一日。潮見ヶ丘小学校、五年一組の教室。
窓から差し込む太陽の光は、もう、肌を焼くような暴力的な熱を帯びてはいなかった。少しだけ角度を変え、柔らかく、どこか物悲しい黄金色をしていた。鳴り響いていたはずの蝉の声は影を潜め、いつの間にか、りん、りんという、涼やかな虫の音に変わりつつあった。
季節は、僕の許可もなしに、勝手に秋へと移り変わっていた。
教室の中は、異様なほど静かだった。
夏休み明けの、独特の浮き足立ったような、賑やかな喧騒はどこにもなかった。誰もが、何か重たいものを背負っているかのように、口数少なく自分の席に座っている。
そして誰もが、意識的に、いや、無意識な本能的なものだったのかもしれない。教室の一点から、目を逸らしていた。
窓際の、後ろから二番目の席。
僕の左斜め前の、その席。
七海の机と椅子だけが、ぽつんと空いていた。
夏の間、あれほど僕たちの笑い声の中心にあった、あの場所が。
今は、ぽっかりと口を開けた空洞のように静まり返っている。
夏休みの宿題も、新しい教科書も、何も置かれていない、がらんとした机の上。そこに、初秋の優しい日差しが当たり、小さな埃がきらきらと、魂の抜け殻のように舞っているのが見えた。
空っぽの席。
それは、この教室にいる全ての人間に対して、一つの、どうしようもない残酷な現実を、何よりも雄弁に物語っていた。
やがて始業のチャイムが鳴り、村井先生が教室に入ってきた。
先生の顔は、いつもと同じように穏やかだったけれど、その目の奥には深い悲しみの色が、澱のように沈んでいた。
「……はい、皆さん、おはようございます」
朝の会。
先生は教壇に立ち、一度ゆっくりと、僕たち一人ひとりの顔を見渡した。
そして一呼吸置くと、教室の一番後ろにいる僕の耳にもはっきりと届く凛とした声で、静かに告げた。
「夏休みの間に、悲しい、お知らせがありました。……ご存知の人も、いると思いますが……」
教室の空気が張り詰める。
何人かの女子生徒が、口元を手で押さえた。
「天野、七海さんは……夏祭りの夜、お空へ、旅立ちました」
ひっく、と。
どこかで、誰かが嗚咽を漏らす声がした。
それを合図に、あちこちから鼻をすする小さな音が聞こえ始めた。
でも、誰も大声で泣き叫んだりはしなかった。
ただ誰もが、下を向いて、自分の机の木目を見つめて、その、あまりにも重すぎる現実の言葉を、自分の心の中にゆっくりと、ゆっくりと沈めていっているようだった。
僕も、下を向いていた。
でも、涙は一滴も出なかった。
僕の心は、何も感じなかった。
まるで、分厚い氷の壁に覆われてしまったかのようだ。
先生の言葉は、その壁に、こん、と当たって、何の音も立てずに滑り落ちていくだけだった。
僕の時間は止まっていた。
クラスのみんなにとっては、夏休みは終わり、二学期が始まったことだろう。
でも、僕の時間だけは。
夏祭りの夜。
花火の轟音と光の中で。
僕の腕の中で、彼女が、笑顔のまま、静かに意識を失ったあの瞬間から……。
一秒も、一秒たりとも進んでいなかったのだ。
今も僕の耳の奥では、大きな黄金色の花火の音が鳴り響いている。
僕の肩には、今も彼女の小さな頭の、温かくて、そして、絶望的に軽かった、はっきりとした重みが残っている。
図書館で一緒に過ごした時間。
病室のキッチンで分け合った、いびつなおにぎり。
屋上で撮った、三人の記念写真。
宝物だったはずの夏の思い出が、今は鋭く、僕の心の一番奥深くを、これでもかというぐらいに抉り取っている。
息をするだけで、痛い。
何も、考えられない。
何も、感じない。
ペンを握ることさえできない。
僕の物語は、あの夜、彼女と一緒に終わってしまったのだから。
僕はただ、がらんとした抜け殻になって、この、秋の光が差し込む教室に座っているだけだった。
空っぽの席を、見つめながら。
僕もまた、空っぽの存在になってしまったのだ。
夏休みが終わる、数日前の朝だった。
教室の後ろに置かれた小さな水槽。水草の間で、夏祭りの夜にすくい上げた赤い金魚は、静かに横たわっていた。
それは、とても穏やかな死だった。
苦しんだ様子もなく、ただ、その鮮やかだった赤色を少しだけ白く褪せさせて、眠るように動かなくなっていた。
この金魚は、七海の証だった。
七海が、「この子が生きている限り、私も、ここにちゃんと、いるってことにするの」と言った、七海の存在そのものだった。
あの夜、彼女が僕に託した、あまりにも重い約束。
僕は夏休みの間、一日も欠かさず学校に通い、その、小さな命を守り続けた。餌をやり、水を替え、そして、ただ健気に泳ぐ姿を見つめ続けた。
そうしていれば、僕たちの夏が永遠に続いていくとでも信じているかのように。
でも、夏は終わる。
そして、命も終わる。
僕は、動かなくなった小さな骸を、誰にも何も言わずに網ですくい上げた。そして、自宅の庭の、紫陽花の花が一番きれいに見える場所に、小さな穴を掘って、そっと埋めてやった。
長い、長い夏休みが明けた。
九月一日。潮見ヶ丘小学校、五年一組の教室。
窓から差し込む太陽の光は、もう、肌を焼くような暴力的な熱を帯びてはいなかった。少しだけ角度を変え、柔らかく、どこか物悲しい黄金色をしていた。鳴り響いていたはずの蝉の声は影を潜め、いつの間にか、りん、りんという、涼やかな虫の音に変わりつつあった。
季節は、僕の許可もなしに、勝手に秋へと移り変わっていた。
教室の中は、異様なほど静かだった。
夏休み明けの、独特の浮き足立ったような、賑やかな喧騒はどこにもなかった。誰もが、何か重たいものを背負っているかのように、口数少なく自分の席に座っている。
そして誰もが、意識的に、いや、無意識な本能的なものだったのかもしれない。教室の一点から、目を逸らしていた。
窓際の、後ろから二番目の席。
僕の左斜め前の、その席。
七海の机と椅子だけが、ぽつんと空いていた。
夏の間、あれほど僕たちの笑い声の中心にあった、あの場所が。
今は、ぽっかりと口を開けた空洞のように静まり返っている。
夏休みの宿題も、新しい教科書も、何も置かれていない、がらんとした机の上。そこに、初秋の優しい日差しが当たり、小さな埃がきらきらと、魂の抜け殻のように舞っているのが見えた。
空っぽの席。
それは、この教室にいる全ての人間に対して、一つの、どうしようもない残酷な現実を、何よりも雄弁に物語っていた。
やがて始業のチャイムが鳴り、村井先生が教室に入ってきた。
先生の顔は、いつもと同じように穏やかだったけれど、その目の奥には深い悲しみの色が、澱のように沈んでいた。
「……はい、皆さん、おはようございます」
朝の会。
先生は教壇に立ち、一度ゆっくりと、僕たち一人ひとりの顔を見渡した。
そして一呼吸置くと、教室の一番後ろにいる僕の耳にもはっきりと届く凛とした声で、静かに告げた。
「夏休みの間に、悲しい、お知らせがありました。……ご存知の人も、いると思いますが……」
教室の空気が張り詰める。
何人かの女子生徒が、口元を手で押さえた。
「天野、七海さんは……夏祭りの夜、お空へ、旅立ちました」
ひっく、と。
どこかで、誰かが嗚咽を漏らす声がした。
それを合図に、あちこちから鼻をすする小さな音が聞こえ始めた。
でも、誰も大声で泣き叫んだりはしなかった。
ただ誰もが、下を向いて、自分の机の木目を見つめて、その、あまりにも重すぎる現実の言葉を、自分の心の中にゆっくりと、ゆっくりと沈めていっているようだった。
僕も、下を向いていた。
でも、涙は一滴も出なかった。
僕の心は、何も感じなかった。
まるで、分厚い氷の壁に覆われてしまったかのようだ。
先生の言葉は、その壁に、こん、と当たって、何の音も立てずに滑り落ちていくだけだった。
僕の時間は止まっていた。
クラスのみんなにとっては、夏休みは終わり、二学期が始まったことだろう。
でも、僕の時間だけは。
夏祭りの夜。
花火の轟音と光の中で。
僕の腕の中で、彼女が、笑顔のまま、静かに意識を失ったあの瞬間から……。
一秒も、一秒たりとも進んでいなかったのだ。
今も僕の耳の奥では、大きな黄金色の花火の音が鳴り響いている。
僕の肩には、今も彼女の小さな頭の、温かくて、そして、絶望的に軽かった、はっきりとした重みが残っている。
図書館で一緒に過ごした時間。
病室のキッチンで分け合った、いびつなおにぎり。
屋上で撮った、三人の記念写真。
宝物だったはずの夏の思い出が、今は鋭く、僕の心の一番奥深くを、これでもかというぐらいに抉り取っている。
息をするだけで、痛い。
何も、考えられない。
何も、感じない。
ペンを握ることさえできない。
僕の物語は、あの夜、彼女と一緒に終わってしまったのだから。
僕はただ、がらんとした抜け殻になって、この、秋の光が差し込む教室に座っているだけだった。
空っぽの席を、見つめながら。
僕もまた、空っぽの存在になってしまったのだ。
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