空を泳ぐ金魚

空-kuu-

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第29話 春樹の使命

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 どれくらいの時間そうしていただろうか。柚希が去ってから、僕はじっと、彼女が七海に宛てた白い封筒を眺めていた。
 柚希は、どんな想いで七海と向き合っていたのだろう。どんな想いで、この手紙を書いたのだろう。
 彼女は強い。ぼくなんかより、よほど……強い。

 家に帰っても、僕は、すぐには自分の部屋に向かわなかった。
 夕食の間も、母の心配そうな視線を感じながら、ただ黙々と、味のしないご飯を口に運んだ。
 でも、いつもとは何かが違っていた。
 僕のポケットの中にある白い封筒が、僕の凍りついていた心を、微かにだが溶かそうとしているのを感じていた。
 夜。
 机の上にある、電気スタンドの白い光だけが、僕の部屋を、ぼんやりと照らしている。
 この手紙を読むのが怖い。だけど、向き合うことができたなら、もしかすると僕の気持ちも変わるのかも知れない。
 意を決して、ポケットから封筒を取り出した。
 『七海へ』
 涙で滲んだ、柚希の文字。
 僕はゆっくりと、その封を開いた。

 中から出てきたのは、一枚のくしゃくしゃになった便箋。
 そこには、思いの丈をすべて書きなぐったような、乱暴な、しかし、一文字一文字に心がこもった、柚希の言葉が並んでいた。
 そのあちこちに涙が落ちて、インクが、青い、悲しい花のように滲んでしまった跡があった。
「何が、あたしは泣かないって決めたのだよ。柚希、そう言えるようになるまで、お前はどれだけ泣いたんだよ。僕は、まだ……」

『七海へ。
 ばか。七海ちゃんのばか。
 なんで、いなくなっちゃうんだよ。あたしを、一人にして。
 いや、一人じゃないや。七海ちゃんのせいで、あたしの大事な、大事な親友が石ころみたいになっちゃったじゃんか。
 覚えてる? 屋上で、おにぎり食べたこと。七海ちゃん、小さいんだから、あんな大きなおにぎり口に入るわけないじゃん。鼻のところにご飯つけながら、嬉しそうにあたしの顔を見て、おにぎりを口に押し付けてきたこと。
 覚えてる? りんご飴。口の周りべとべとにして、小さな子供みたいだったこと。
 覚えてる? あたしが金魚すくいに失敗した時、ばかにしたように笑ったこと。
 あたしは、全部、全部覚えてるよ。
 七海ちゃんが、あたしにくれた、全部。
 会いたいよ。
 会って、文句言いたいよ。
 寂しいよ、七海ちゃん。
 あんたのせいで、あたしも、あたしの親友も泣き虫になっちゃったじゃん。
 責任、取ってよね。ばか』

 僕は、手紙を読み終えた。
 気づけば、僕の頬を熱い滴が、何週間ぶりかに伝っていた。
 柚希の、七海に対する気持ちが、痛いほど分かってしまったから。
 自分の悲劇を嘆く、自己憐憫の涙なんかではない。
 僕と同じ、いや、僕以上に深い悲しみを、たった一人で、その、快活な笑顔の下に隠し続けていた、たった一人の親友のための涙だった。
 僕は、声を殺して泣いた。
 柚希、ごめん。
 ごめん。お前を一人に苦しい想いをさせて、悲しみを共有してやれなくて、ごめん。

 涙が枯れ果てた後。
 僕の心は、不思議なほど落ち着いていた。
 そして、一つの燃えるような決意が芽生えていた。
 立ち上がると、机の前に立った。一番下にある深い引き出し。この引き出しをじっと見る。
 僕が、僕の心を閉じこめた場所。
 鍵は、ない。
 あの日、窓から投げ捨ててしまったから。もう、開くことなんてないと思っていたから
 僕は、引き出しの取っ手に指をかけた。
 そして、ありったけの力を込めて引いた。
 びくともしない。
 だが、僕は諦めなかった。
「うぉぉぉぉっ!」
 僕は、自分でも気付かないうちに叫んでいた。
 声にならない、獣のような叫び声を上げながら。
 何度も何度も、僕自身が作った心の扉を引き続けた。
 バキッ! メキメキッ!
 鈍い破壊音と共に、安っぽい引き出しが、木片を撒き散らしながら壊れた。
 開かれた、暗い闇の中へと手を伸ばした。
 そして、取り出した。
 少しだけ、埃をかぶった、二冊のノート。
 七海のお楽しみノート。
 そして、空白のまま時が止まっていた、僕の、七海の物語を書き連ねるノート。
 その二冊の埃を、自分のシャツの袖で優しく拭ってやった。長い眠りから、目覚めさせるように。

 僕は、お楽しみノートの最後のページを開いた。
 七海が運ばれた後の夕暮れの教室で、僕が見てしまった、彼女の最後で、最大の願いが書かれている。
 『⑧ みんなに忘れられないでいたい』
 その、震えたか細い文字が、今の僕には、はっきりと彼女の声で聞こえた。
 そして、脳裏に蘇る。
 夏祭りの夜の、花火の光に照らし出された、彼女の笑顔。
 「わたし、この夏、一番生きてたよ」
 そうだ。
 そうだったんだ。
 彼女の最後の願いは、悲しい懇願なんかじゃなかった。僕や柚希に、悲しんで、そこで立ち止まって自分のことを思い出して欲しかったわけじゃないんだ。
 僕への、最後の、そして、最も重要なミッションだったんだ。
 彼女の最後の言葉は、僕が、これから書くべき物語のテーマそのものだったんだ。
 悲しい物語じゃない。
 一人の少女が、誰よりも、この一瞬を輝かしく、美しく、全力で生きたという希望の物語だ。
 悲しみに打ちひしがれて沈黙すること。それは、彼女の、最後に勝ち取った勝利の言葉を、僕自身が否定することに他ならない。
 そして、僕は思い出した。七海の日記に書かれていた、不思議な少年、陽翔くんのことを。彼は、七海の話によると、読み手として、七海の物語の結末を見届けると約束してくれたそうだ。僕は彼にも、最高の物語を届けなければならない。

 僕は、ペンを握った。
 あの日以来、握るだけでなく、見るだけで気持ちが悪くなっていたペンが、今は不思議なほど軽く、そして、しっくりと僕の、指に馴染んでいた。
 もう迷わない。
 もう逃げない。
 僕は、黒いノートではない、新しい真っ白なノートの、最初のページを開いた。
「七海の物語を始めるなら、輝く様な真っ白のノートじゃないとな……」
 これは、僕の独りよがりな詩なんかじゃない。
 これは、天野七海という、一人の愛らしい少女が、この世界に、確かに生きていたということを示す、たった一つの真実の物語だ。
 僕は、深く、深く息を吸った。
 そして、真っ白な世界の始まりのページに、ゆっくりと、力強く、僕たちの物語となる最初の一行を書き出した。

――彼女は、風のように現れた。

 その一行を、書き終えた瞬間。
 僕の胸の奥で凍りついていた何かが、じわっと溶けていくのを感じた。
 まだ、悲しい。七海がいなくなって、悲しくないわけがない。
 まだ、辛い。心の中がぐちゃぐちゃで、何も整理できていない。
 でも、僕はもう、空っぽな存在じゃなくなった。
 どんなに悲しくても、どんなに辛くても、僕にはやるべきことがあるんだ。
 僕には、彼女のために書くべき物語があるんだ。
 その気高い目的が、僕の空っぽだった身体の中に、再び、温かい火を灯してくれた。
 窓の外の紅葉が、夕日に照らされて燃えるように赤いのが見えた。
「ああ、世界はこんなにきれいだったのか」
 止まっていた時が、今、動き出した。
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