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第30話 陽翔の正体
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季節は巡っていた。
あれほど、僕の心を灰色に染め上げた物悲しい秋は、いつの間にかその姿を消し、世界は冬の、澄み切った静かな光に包まれていた。
僕の部屋の窓からは、吐く息さえも白く凍りつくような、冷たい空気が流れ込んでくる。
体は、手は冷たくかじかんでいる。でも不思議と、心の寒さは感じなかった。
僕の心の中心には、柚希が再び灯してくれた、決して消えることのない、温かい火が燃えていたから。
あの日以来、僕は必死に書いていた。
机の上には、新しい真っ白なノートが、何冊も積み重ねられている。七海のお楽しみノート、屋上で撮った三人で撮った記念写真、柚希が渡してくれた、涙で滲んだ手紙。それらが、僕の机の上に、きれいに並べられている。朝起きてから、学校に行く前、帰ってきてから……。この温かい思い出たちを前に、心の整理をすることが、僕の日課となっていた。
来る日も来る日も、僕はただ、ひたすらに書き続けていたんだ。
学校から帰るとすぐに机に向かい、インクがなくなるまでペンを走らせる。
それは僕にとって、もう、痛みを伴う苦しい作業ではなかった。
むしろそれは、祈りに近かった。
一行一行、言葉を紡ぐたびに、僕の中で止まっていたはずのあの夏が、再び色鮮やかに蘇ってくる。
彼女の、笑い声が聞こえる。
彼女の、怒った顔が目に浮かぶ。
彼女のあの、最後の笑顔が、僕の胸を締め付ける。
僕は彼女と、もう一度僕たちの夏を生き直していたのだ。
その日も僕は、物語の執筆に没頭していた。
ペンが紙の上を滑るさらさらという音だけが、静まり返った部屋に響いている。
ふと、僕は気配を感じた。
それは、空気の流れの変化というような、些細なものだった。
でも、なぜか分からないけれど確信していた。
僕は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、窓の方を見た。
そこに、少年が座っていた。
僕の部屋の、窓枠に。
僕の前で一度も、姿を見せなかった彼が。
月光と同じ色をした銀色の髪。
水面のように静かな瞳。
佐久間陽翔が、そこに座っていた。
冬の冷たく澄み切った光が、彼の輪郭を淡く、青白く照らし出している。
彼はまるで、冬の結晶そのものが人の形になったかのようだった。
「……君が、陽翔くんか」
僕の口からこぼれたのは、驚きの言葉ではなかった。
それは、ずっとどこかで会うことが分かっていた古い友人に再会した時のような、ごく自然な確認の言葉だった。
陽翔は、静かに頷いた。
僕が、驚かなかったのには理由があった。
知っていたのだ。彼が、何者なのかまでは分からなかったけれど、彼という存在が、確かに、七海のすぐ傍にいたことを。
あの日、柚希から受け取った手紙と一緒に、僕はもう一度、七海のお楽しみノートを、開いていた。
最後の数ページ。そこには、夏祭りを心待ちにする、彼女の独白のような文章が綴られていた。
そして、その中にこんな一節があったのだ。
『最近、時々、不思議な気配を感じる。病室の窓のところに、静かに、男の子が座っているような気がするの。夢なのかな。でも、怖くない。その子はただ、静かに、私の話を聞いてくれているみたい。……もしかしたら、私の物語の、最初の読み手になってくれる天使様なのかも』
その記述を見つけた時、全てを悟った。
陽翔は、七海が最後に出会った友達だったのだ。
「春樹くん……君の物語、読ませてもらったよ。七海との約束だからね」
陽翔が、僕の机の上に積み重ねられたノートの山を見ながら、静かに言った。
「素晴らしい、物語だ」
「違うよ、陽翔くん。これは、僕の物語じゃない。……彼女の、物語だ」
僕は答えた。
「そうだね。……だけど、君の物語でもある」
陽翔は、静かに微笑んだ。
「君は、一体何者なんだ?」
僕はずっと、心の奥底でくすぶり続けていた問いを投げかけた。
陽翔は、ゆっくりと窓の外の、冬の裸の木々を見つめながら、その真実を語り始めた。
「僕は、七海の忘れられたくないという強い願いさ。彼女の強い想いから生み出されたのが僕というわけだ。言ってみれば、彼女が作った幻想だよ」
彼の声は、冬の空気のように、どこまでも澄み切っていた。
「そして、春樹くんの、彼女の物語を書くという、揺るぎない決意そのものでもあるんだ。七海のノートを読んだ君は、僕の存在を知った。そこで生まれた君の願いが、僕を今形づくっているんだ」
陽翔は、僕の目をまっすぐに見つめ返した。
「君たちの、あまりにも強くて純粋な想いが、夏祭りの夜交差したんだよ。そして、奇跡のように、一つの形を編み上げた。……僕はいわば、その想いが紡いだ、記憶の繭のようなものなんだ」
想いが生んだ奇跡。
それは、どんな超常現象よりも、ずっと、僕の心にすとんと落ちてきた。
「僕は、七海の全ての記憶の容れ物だった。彼女が生きてきた十一年間の、全ての喜びも、悲しみも、その全てを、一時的に預かるための繭だったんだ。……君も、感じていたはずだ。物語を書いている時に。君が、決して知らないはずの、彼女の、幼い頃の記憶。僕と出会う前の、柚希ちゃんとの他愛のない会話。その断片が、誰かに囁かれるかのように、君の頭の中に浮かんできたことがあったはずだよ」
僕は、息をのんだ。
確かにあった。何度も、何度も。
「七海の記憶は、君が物語を書き進めることで、僕という繭の中から、君の言葉という美しい糸になって紡ぎ出されていく。君が思い出せないはずの彼女の記憶や、君も柚希ちゃんも知らない、彼女だけの秘密の想い。その全てが、僕を通して、君のペン先に届けられている」
「じゃあ……君は」
僕が言いかけると、陽翔は静かに頷いた。
「君が物語を完成させるとき。彼女の全ての記憶が、君の、その、言葉の糸に乗り移った時。……僕の役目は、終わるんだ。空になった繭は、静かに消えていくだけだ」
「消える、のか……?」
「僕は架け橋なんだよ、春樹くん。川の向こう岸に、大切なものを渡すためのね。橋は、渡り終えれば役目を終える。それでいいんだ。僕の目的は、この世界に存在することじゃない。……繋ぐこと、だから」
陽翔はそう言うと、窓枠からふわりと降り立った。
そして、僕の前に立つと、深々と頭を下げた。
「ありがとう、春樹くん。君は、僕が出会った中で最高の語り部だ。七海が君を選んだこと、間違いじゃなかったんだろう」
語り部。
その古く、神聖な響きを持つ言葉。
「どうか、彼女の物語を、最後まで、最後まで書き上げてほしい。ただ、起きたことを書くだけじゃないんだ。彼女が何を感じていたのか。あの、最後の笑顔の奥にあった、本当の意味を。……それを書けるのは、君だけだ。春樹くん、君しかいないんだよ。それが僕の、そして、何よりも彼女の、たった一つの願いだ」
陽翔はそう言って、優しく、そして、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
彼の身体が、少しずつ透き通っていく。
窓の外で、はらはらと白い雪が舞い始めていた。
彼は冬の光の粒子の中へと、溶けていくように、静かに消えていった。
部屋には再び、僕一人だけが残された。
でも、僕の心は一人ではなかった。
僕の中には七海がいる。柚希がいる。そして、陽翔の想いがある。
僕が書いているこの物語は、ただの思い出話なんかじゃなかった。
一つの魂を、その記憶を、永遠にこの世界に繋ぎとめるための、神聖な儀式だったのだ。
僕はペンを握り直した。
このペン先には、僕の、そして、みんなの全ての想いが宿っている。
物語の続きを書き始めた。
彼女の物語の最後の一行まで、必ず辿り着くために。
あれほど、僕の心を灰色に染め上げた物悲しい秋は、いつの間にかその姿を消し、世界は冬の、澄み切った静かな光に包まれていた。
僕の部屋の窓からは、吐く息さえも白く凍りつくような、冷たい空気が流れ込んでくる。
体は、手は冷たくかじかんでいる。でも不思議と、心の寒さは感じなかった。
僕の心の中心には、柚希が再び灯してくれた、決して消えることのない、温かい火が燃えていたから。
あの日以来、僕は必死に書いていた。
机の上には、新しい真っ白なノートが、何冊も積み重ねられている。七海のお楽しみノート、屋上で撮った三人で撮った記念写真、柚希が渡してくれた、涙で滲んだ手紙。それらが、僕の机の上に、きれいに並べられている。朝起きてから、学校に行く前、帰ってきてから……。この温かい思い出たちを前に、心の整理をすることが、僕の日課となっていた。
来る日も来る日も、僕はただ、ひたすらに書き続けていたんだ。
学校から帰るとすぐに机に向かい、インクがなくなるまでペンを走らせる。
それは僕にとって、もう、痛みを伴う苦しい作業ではなかった。
むしろそれは、祈りに近かった。
一行一行、言葉を紡ぐたびに、僕の中で止まっていたはずのあの夏が、再び色鮮やかに蘇ってくる。
彼女の、笑い声が聞こえる。
彼女の、怒った顔が目に浮かぶ。
彼女のあの、最後の笑顔が、僕の胸を締め付ける。
僕は彼女と、もう一度僕たちの夏を生き直していたのだ。
その日も僕は、物語の執筆に没頭していた。
ペンが紙の上を滑るさらさらという音だけが、静まり返った部屋に響いている。
ふと、僕は気配を感じた。
それは、空気の流れの変化というような、些細なものだった。
でも、なぜか分からないけれど確信していた。
僕は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、窓の方を見た。
そこに、少年が座っていた。
僕の部屋の、窓枠に。
僕の前で一度も、姿を見せなかった彼が。
月光と同じ色をした銀色の髪。
水面のように静かな瞳。
佐久間陽翔が、そこに座っていた。
冬の冷たく澄み切った光が、彼の輪郭を淡く、青白く照らし出している。
彼はまるで、冬の結晶そのものが人の形になったかのようだった。
「……君が、陽翔くんか」
僕の口からこぼれたのは、驚きの言葉ではなかった。
それは、ずっとどこかで会うことが分かっていた古い友人に再会した時のような、ごく自然な確認の言葉だった。
陽翔は、静かに頷いた。
僕が、驚かなかったのには理由があった。
知っていたのだ。彼が、何者なのかまでは分からなかったけれど、彼という存在が、確かに、七海のすぐ傍にいたことを。
あの日、柚希から受け取った手紙と一緒に、僕はもう一度、七海のお楽しみノートを、開いていた。
最後の数ページ。そこには、夏祭りを心待ちにする、彼女の独白のような文章が綴られていた。
そして、その中にこんな一節があったのだ。
『最近、時々、不思議な気配を感じる。病室の窓のところに、静かに、男の子が座っているような気がするの。夢なのかな。でも、怖くない。その子はただ、静かに、私の話を聞いてくれているみたい。……もしかしたら、私の物語の、最初の読み手になってくれる天使様なのかも』
その記述を見つけた時、全てを悟った。
陽翔は、七海が最後に出会った友達だったのだ。
「春樹くん……君の物語、読ませてもらったよ。七海との約束だからね」
陽翔が、僕の机の上に積み重ねられたノートの山を見ながら、静かに言った。
「素晴らしい、物語だ」
「違うよ、陽翔くん。これは、僕の物語じゃない。……彼女の、物語だ」
僕は答えた。
「そうだね。……だけど、君の物語でもある」
陽翔は、静かに微笑んだ。
「君は、一体何者なんだ?」
僕はずっと、心の奥底でくすぶり続けていた問いを投げかけた。
陽翔は、ゆっくりと窓の外の、冬の裸の木々を見つめながら、その真実を語り始めた。
「僕は、七海の忘れられたくないという強い願いさ。彼女の強い想いから生み出されたのが僕というわけだ。言ってみれば、彼女が作った幻想だよ」
彼の声は、冬の空気のように、どこまでも澄み切っていた。
「そして、春樹くんの、彼女の物語を書くという、揺るぎない決意そのものでもあるんだ。七海のノートを読んだ君は、僕の存在を知った。そこで生まれた君の願いが、僕を今形づくっているんだ」
陽翔は、僕の目をまっすぐに見つめ返した。
「君たちの、あまりにも強くて純粋な想いが、夏祭りの夜交差したんだよ。そして、奇跡のように、一つの形を編み上げた。……僕はいわば、その想いが紡いだ、記憶の繭のようなものなんだ」
想いが生んだ奇跡。
それは、どんな超常現象よりも、ずっと、僕の心にすとんと落ちてきた。
「僕は、七海の全ての記憶の容れ物だった。彼女が生きてきた十一年間の、全ての喜びも、悲しみも、その全てを、一時的に預かるための繭だったんだ。……君も、感じていたはずだ。物語を書いている時に。君が、決して知らないはずの、彼女の、幼い頃の記憶。僕と出会う前の、柚希ちゃんとの他愛のない会話。その断片が、誰かに囁かれるかのように、君の頭の中に浮かんできたことがあったはずだよ」
僕は、息をのんだ。
確かにあった。何度も、何度も。
「七海の記憶は、君が物語を書き進めることで、僕という繭の中から、君の言葉という美しい糸になって紡ぎ出されていく。君が思い出せないはずの彼女の記憶や、君も柚希ちゃんも知らない、彼女だけの秘密の想い。その全てが、僕を通して、君のペン先に届けられている」
「じゃあ……君は」
僕が言いかけると、陽翔は静かに頷いた。
「君が物語を完成させるとき。彼女の全ての記憶が、君の、その、言葉の糸に乗り移った時。……僕の役目は、終わるんだ。空になった繭は、静かに消えていくだけだ」
「消える、のか……?」
「僕は架け橋なんだよ、春樹くん。川の向こう岸に、大切なものを渡すためのね。橋は、渡り終えれば役目を終える。それでいいんだ。僕の目的は、この世界に存在することじゃない。……繋ぐこと、だから」
陽翔はそう言うと、窓枠からふわりと降り立った。
そして、僕の前に立つと、深々と頭を下げた。
「ありがとう、春樹くん。君は、僕が出会った中で最高の語り部だ。七海が君を選んだこと、間違いじゃなかったんだろう」
語り部。
その古く、神聖な響きを持つ言葉。
「どうか、彼女の物語を、最後まで、最後まで書き上げてほしい。ただ、起きたことを書くだけじゃないんだ。彼女が何を感じていたのか。あの、最後の笑顔の奥にあった、本当の意味を。……それを書けるのは、君だけだ。春樹くん、君しかいないんだよ。それが僕の、そして、何よりも彼女の、たった一つの願いだ」
陽翔はそう言って、優しく、そして、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
彼の身体が、少しずつ透き通っていく。
窓の外で、はらはらと白い雪が舞い始めていた。
彼は冬の光の粒子の中へと、溶けていくように、静かに消えていった。
部屋には再び、僕一人だけが残された。
でも、僕の心は一人ではなかった。
僕の中には七海がいる。柚希がいる。そして、陽翔の想いがある。
僕が書いているこの物語は、ただの思い出話なんかじゃなかった。
一つの魂を、その記憶を、永遠にこの世界に繋ぎとめるための、神聖な儀式だったのだ。
僕はペンを握り直した。
このペン先には、僕の、そして、みんなの全ての想いが宿っている。
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