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第31話 はじまりの場所
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僕は、最後の一文を書き終えた。
そして、その文の最後に、ゆっくりと、祈るように句点を打った。
小さな黒い点が、僕たちの、長くて短かった夏の、そして、天野七海という一人の少女の、物語の終わりを告げていた。
いや、違う。
終わり、なんかじゃない。終わらせちゃ、いけないんだ。
この物語の完成が、彼女の永遠の始まりだ。
僕の部屋を満たしていた、物語の完成までの一年ちょっとの間、ずっと僕を見守ってくれていた、静かで優しい気配が、ふっと、温かい風のように消えていくのを感じた。
『ありがとう』
声にならない声が、僕の心に響いた気がした。陽翔くん。君が繋いでくれた記憶の繭は、今、確かに、この言葉の船へと編み込まれたよ。机の上のノートの山がずしりと重みを増し、それ自体が、一つの生命の息吹を宿しているように感じた。
「こちらこそありがとうだよ、陽翔くん」
季節は、また冬を越え、春の柔らかな気配が、すぐそこまでやってきていた。
ずっと考えていた。僕は、物語を書き上げたノートの一番上に新しい一枚の紙を置き、その中央に、ゆっくりと、確かな意志を込めて、タイトルを書き記した。
『空を泳ぐ金魚』
僕の、僕たちの物語が、ついに完成した。
僕は、受話器を取った。
そして、たった一人、この物語の最初の読者になるべき人間の番号を押した。
「……もしもし」
電話の向こうから、少しだけぶっきらぼうな、でも、僕が世界で一番信頼している声がした。
「柚希? ……僕だ」
「……ハル。どうしたの、改まって」
「終わったんだ」
僕は、それだけを言った。
それだけで、彼女には、全てが伝わった。
電話の向こうで、柚希が息をのむのが分かった。
「……会えるか? 病院の……屋上で」
「……うん。すぐ行く」
彼女は、何も聞かなかった。
僕たちはもう、多くの言葉を必要としなかったから。
僕たちは、始まりの場所へと、向かった。
潮見ヶ丘総合病院。
独特の消毒液の匂い。静まり返った廊下。そして、僕たちをあの夏の日へと運んでいくエレベーター。
あの夏、僕は、焦燥感と絶望感に駆られて、この廊下を走った。
でも、今の僕の足取りは静かで、どこまでも穏やかだった。
エレベーターが、僕たちを、空へと近づけていく。
屋上の、重い鉄の扉を開ける。
キィと懐かしい音がして、僕たちの目の前に、早春の空が広がった。
空はどこまでも青く、澄み渡っていた。
フェンスの金属は、まだ冷たいけれど、その向こうに見える木々の枝先は、確かに、新しい命の色をしていた。ここが、僕たちの始まりの場所。
「七海、君はあの頃と変わらないだろうけど、僕たちは……あれから少しだけ変わったよ」
あの夏から、少しだけ背が伸びた。声も低くなった。
どうしようもないほどの喪失感は消えない。でも、その喪失を乗り越えるための、強さは心に宿すことができた。
風が、僕たちの頬を撫でる。
それはまだ、少しだけ冬の名残を含んだ冷たい風だったけれど、その風の中には、確かに命が芽吹いていく、新しい生命の匂いが混じっていた。
七海が大好きだった、風の匂いだ。
僕は、抱えてきたノートの束を柚希に差し出した。
「……最初の読者は、柚希。お前じゃなきゃ、ダメなんだ」
柚希は何も言わずに、ずっしりと重いノートの束を受け取った。
生まれたばかりの赤子でも抱くかのように、その腕の中にそっと抱きしめた。
彼女は、七海がいつも寄りかかっていた、フェンスの同じ場所に、ゆっくりと背中を預けた。
そして、一枚、また一枚と、僕が紡いだ物語を、噛みしめるように読み進めていった。
僕は何も言わずに、ただ、少しだけ離れた場所から、彼女の横顔を見つめていた。
彼女の表情が、めまぐるしく変わっていく。
スイカのシーンでは、ふふ、と、小さく吹き出す。
僕が、金魚すくいに悪戦苦闘するシーンでは、「へたくそ」と唇が動いたのが見えた。
そして……。
夏祭りの、あの、最後の夜のページに差し掛かった時だった。
彼女の肩が、小さく震え始めた。
ぽろ、ぽろ、と。
その、大きな瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちていく。
その涙は、ノートに書かれた文字を、少しだけ滲ませた。
でも、その涙の意味は、僕には分かっている。秋の日の、絶望に満ちた涙と同じではないと。
悲しくて、でも、どうしようもなく温かくて、そして、愛おしさに満ち溢れた、優しい、優しい涙だ。
やがて彼女は、最後の一枚を読み終えた。
でも、すぐに顔を上げなかった。
ただ、その物語の束を、ぎゅっと胸に抱きしめて、ゆっくりと空を見上げた。
僕も、何も言わなかった。
この静かな余韻が、七海に思いを馳せる時間が、僕たちには必要だったんだ。
どれくらいの、時間が経っただろう。
彼女は、ゆっくりと僕の方を振り返った。
その顔は涙でぐしゃぐしゃだったけれど、今まで見たこともないくらい晴れやかで、そして、美しい笑顔だった。
彼女は、微笑んで言った。
その言葉は、僕の、この長く苦しい旅に対する、唯一の答えだった。
「……うん。七海ちゃん、ここにいるね。この中に、ちゃんと生きてる」
その一言を聞いた瞬間、僕の肩から、最後の重荷が、すうっと消えてなくなった。
ああ……僕は、間違っていなかったんだ。
僕は、ちゃんと約束を守ることができたんだ。
僕たちはもう、それ以上言葉を交わすことはなかった。
ただ二人、並んでフェンスに寄りかかり、あの夏の日と同じ空を見上げていた。
僕たちの関係は、言葉ではもう、表すことはできなかった。
僕たちは、一つの夏を共に戦い抜いた、かけがえのない関係なのだから。
そして、これからもずっと、七海という物語を、共に語り継いでいく同志なのだ。
僕たちの間を、春の風がそっと吹き抜けていく。
七海が大好きだった、風の匂いがした。そして、彼女からの「ありがとう」という声が、聞こえたような気がした。
空はどこまでも青く、僕たちの未来のように、どこまでも続いていた。
あの夏に止まってしまった、僕たちの物語は終わった。
そしてここからは、僕たちの新しい物語が始まっていく。
僕たちはただ、静かに、遠く過ぎ去っていくあのひと夏に、想いを馳せていた。
そして、その文の最後に、ゆっくりと、祈るように句点を打った。
小さな黒い点が、僕たちの、長くて短かった夏の、そして、天野七海という一人の少女の、物語の終わりを告げていた。
いや、違う。
終わり、なんかじゃない。終わらせちゃ、いけないんだ。
この物語の完成が、彼女の永遠の始まりだ。
僕の部屋を満たしていた、物語の完成までの一年ちょっとの間、ずっと僕を見守ってくれていた、静かで優しい気配が、ふっと、温かい風のように消えていくのを感じた。
『ありがとう』
声にならない声が、僕の心に響いた気がした。陽翔くん。君が繋いでくれた記憶の繭は、今、確かに、この言葉の船へと編み込まれたよ。机の上のノートの山がずしりと重みを増し、それ自体が、一つの生命の息吹を宿しているように感じた。
「こちらこそありがとうだよ、陽翔くん」
季節は、また冬を越え、春の柔らかな気配が、すぐそこまでやってきていた。
ずっと考えていた。僕は、物語を書き上げたノートの一番上に新しい一枚の紙を置き、その中央に、ゆっくりと、確かな意志を込めて、タイトルを書き記した。
『空を泳ぐ金魚』
僕の、僕たちの物語が、ついに完成した。
僕は、受話器を取った。
そして、たった一人、この物語の最初の読者になるべき人間の番号を押した。
「……もしもし」
電話の向こうから、少しだけぶっきらぼうな、でも、僕が世界で一番信頼している声がした。
「柚希? ……僕だ」
「……ハル。どうしたの、改まって」
「終わったんだ」
僕は、それだけを言った。
それだけで、彼女には、全てが伝わった。
電話の向こうで、柚希が息をのむのが分かった。
「……会えるか? 病院の……屋上で」
「……うん。すぐ行く」
彼女は、何も聞かなかった。
僕たちはもう、多くの言葉を必要としなかったから。
僕たちは、始まりの場所へと、向かった。
潮見ヶ丘総合病院。
独特の消毒液の匂い。静まり返った廊下。そして、僕たちをあの夏の日へと運んでいくエレベーター。
あの夏、僕は、焦燥感と絶望感に駆られて、この廊下を走った。
でも、今の僕の足取りは静かで、どこまでも穏やかだった。
エレベーターが、僕たちを、空へと近づけていく。
屋上の、重い鉄の扉を開ける。
キィと懐かしい音がして、僕たちの目の前に、早春の空が広がった。
空はどこまでも青く、澄み渡っていた。
フェンスの金属は、まだ冷たいけれど、その向こうに見える木々の枝先は、確かに、新しい命の色をしていた。ここが、僕たちの始まりの場所。
「七海、君はあの頃と変わらないだろうけど、僕たちは……あれから少しだけ変わったよ」
あの夏から、少しだけ背が伸びた。声も低くなった。
どうしようもないほどの喪失感は消えない。でも、その喪失を乗り越えるための、強さは心に宿すことができた。
風が、僕たちの頬を撫でる。
それはまだ、少しだけ冬の名残を含んだ冷たい風だったけれど、その風の中には、確かに命が芽吹いていく、新しい生命の匂いが混じっていた。
七海が大好きだった、風の匂いだ。
僕は、抱えてきたノートの束を柚希に差し出した。
「……最初の読者は、柚希。お前じゃなきゃ、ダメなんだ」
柚希は何も言わずに、ずっしりと重いノートの束を受け取った。
生まれたばかりの赤子でも抱くかのように、その腕の中にそっと抱きしめた。
彼女は、七海がいつも寄りかかっていた、フェンスの同じ場所に、ゆっくりと背中を預けた。
そして、一枚、また一枚と、僕が紡いだ物語を、噛みしめるように読み進めていった。
僕は何も言わずに、ただ、少しだけ離れた場所から、彼女の横顔を見つめていた。
彼女の表情が、めまぐるしく変わっていく。
スイカのシーンでは、ふふ、と、小さく吹き出す。
僕が、金魚すくいに悪戦苦闘するシーンでは、「へたくそ」と唇が動いたのが見えた。
そして……。
夏祭りの、あの、最後の夜のページに差し掛かった時だった。
彼女の肩が、小さく震え始めた。
ぽろ、ぽろ、と。
その、大きな瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちていく。
その涙は、ノートに書かれた文字を、少しだけ滲ませた。
でも、その涙の意味は、僕には分かっている。秋の日の、絶望に満ちた涙と同じではないと。
悲しくて、でも、どうしようもなく温かくて、そして、愛おしさに満ち溢れた、優しい、優しい涙だ。
やがて彼女は、最後の一枚を読み終えた。
でも、すぐに顔を上げなかった。
ただ、その物語の束を、ぎゅっと胸に抱きしめて、ゆっくりと空を見上げた。
僕も、何も言わなかった。
この静かな余韻が、七海に思いを馳せる時間が、僕たちには必要だったんだ。
どれくらいの、時間が経っただろう。
彼女は、ゆっくりと僕の方を振り返った。
その顔は涙でぐしゃぐしゃだったけれど、今まで見たこともないくらい晴れやかで、そして、美しい笑顔だった。
彼女は、微笑んで言った。
その言葉は、僕の、この長く苦しい旅に対する、唯一の答えだった。
「……うん。七海ちゃん、ここにいるね。この中に、ちゃんと生きてる」
その一言を聞いた瞬間、僕の肩から、最後の重荷が、すうっと消えてなくなった。
ああ……僕は、間違っていなかったんだ。
僕は、ちゃんと約束を守ることができたんだ。
僕たちはもう、それ以上言葉を交わすことはなかった。
ただ二人、並んでフェンスに寄りかかり、あの夏の日と同じ空を見上げていた。
僕たちの関係は、言葉ではもう、表すことはできなかった。
僕たちは、一つの夏を共に戦い抜いた、かけがえのない関係なのだから。
そして、これからもずっと、七海という物語を、共に語り継いでいく同志なのだ。
僕たちの間を、春の風がそっと吹き抜けていく。
七海が大好きだった、風の匂いがした。そして、彼女からの「ありがとう」という声が、聞こえたような気がした。
空はどこまでも青く、僕たちの未来のように、どこまでも続いていた。
あの夏に止まってしまった、僕たちの物語は終わった。
そしてここからは、僕たちの新しい物語が始まっていく。
僕たちはただ、静かに、遠く過ぎ去っていくあのひと夏に、想いを馳せていた。
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