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第35話 想い出は風の中
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あれから半年が経ち、僕たちは中学生になった。
まだ、少しだけ身体に馴染んでいない、ブレザーの制服。
僕は、少しだけ声が低くなり、柚希は、少しだけ髪が伸びて、後ろで一つに束ねるようになった。
僕たちの身長も少しだけ伸びたけれど、まだ、制服の方が大きくて、袖をまくらないと指先が隠れてしまう。
その、ぶかぶかな感じが、僕たちがまだ、子供と大人の、曖昧な境界線の上に立っていることを示しているようだった。
僕たちは、違うクラスになった。
潮見ヶ丘中学校、一年二組、神谷春樹。一年四組、月村柚希。
小学校の時のように、毎日、隣で授業を受けることはなくなった。
でも、僕たちの関係は、何も変わってはいないんだ。
昼休み。
僕たちはいつも、中学校の屋上で、一緒にお弁当を食べていた。
最初こそ、クラスメイトに関係を茶化されたこともあったが、僕たちはそんなこと気にもかけなかった。
いつからか、そういった声もなくなり、周りからすると、僕と柚希は二人で一人のセットに思われているようだ。
中学校の屋上は、小学校の屋上よりもずっと広くて、そして、ずっと高かった。
金網のフェンスも、小学校の時のものより、ずっと高くて、頑丈で、僕たちを守るというよりも、むしろ、僕たちを、この窮屈な現実の檻の中に閉じ込めているかのようだった。
でも、僕たちにとって、屋上は特別な場所だった。
僕たちの、始まりの場所。
そして、この高い位置にある屋上は、空に一番近付いたようで、七海に……一番近付いたようで、僕たちはこの場所が気に入っていた。
「うわ、見てよハル。あんた、また卵焼き焦がしたでしょ。真っ黒じゃない」
柚希が僕のお弁当を覗き込んで、からかうように笑う。
「……うるさいな。これは、わざとだ。香ばしさを出すための高等技術なんだよ」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、その高等技術と、あたしの完璧な唐揚げ交換してあげようか?」
「……ぜひ、お願いします」
僕たちは、顔を見合わせて笑った。
そうだ。僕たちの関係は、もう、昔のように危うく揺らぐことはない。
僕たちは、ただ隣にいる。
それが、当たり前のように。
多くを語らなくても、僕たちは同じ痛みと、同じ光を分ち合った、かけがえのない親友だったから。
お弁当を食べながら、僕たちはいつも他愛のない話をする。
入学して入った部活のこと。
ちょっと、怖い数学の先生のこと。
次の、テストの範囲のこと。
僕たちは、毎日、毎日、ただくだらない日常の話をしている。
彼女の名前を、口にするわけではなかった。彼女の思い出に浸っているわけではなかった。
でも、彼女はいつも、僕たちのすぐ傍にいた。
僕が、少しだけ上手になった卵焼きの中に。
柚希が時々見せる、ふとした優しい表情の中に。
そして、僕たちがこうして一緒に笑い合っている、この時間そのものの中に。
七海はいつも、そこにいた。
お弁当を食べ終わると、僕たちはいつものように、フェンスに寄りかかって空を見上げた。
この、新しい屋上からは、僕たちが生まれ育った、潮見ヶ丘の街並みが一望できた。
僕たちが六年間通った、潮見ヶ丘小学校の校舎も見える。
あの夏の日、僕たちが駆け抜けた坂道も。
そして、その向こうには、夏祭りの花火が上がった川が、きらきらと光っていた。
僕たちの、夏の全てがそこにあった。
そして、その全ての景色の上に、あの夏と何も変わらない、どこまでも続く青い空が、頭上に広がっていた。
僕は今、僕自身の物語を書いている。
それはまだ、始まったばかりの拙い物語だ。
誰にも見せることのできない、荒々しい文章の物語だ。
でも、僕はもう、ペンを置いたりはしない。
僕は生きて、笑って、そして、時々泣いて。その全てを書き留めていく。
空の上で僕の物語を心待ちにしてくれている、七海に届けるために。
僕は、隣にいる柚希の横顔を見た。
そして、僕たちの全てを見守ってくれている、この大きな、大きな空を見上げた。
僕たちの物語は、まだ始まったばかりなのだ。
その時だった。
ふと、空気が変わった。
それまで、僕たちの頬を優しく撫でていた穏やかな風が、ぴたりと止んだのだ。
世界が、一瞬だけ呼吸を止めたかのように。
奇妙な静寂。
そして、次の瞬間。
ごおおおおおおっ。
突風。
その日、初めて吹いた、春の一番強い風。
力強い生命の息吹そのものが、僕たちに、真正面から叩きつけられた。
僕の制服が、ばたばたと激しくはためく。
柚希が、「うわっ」と声を上げて、伸びた髪を手で押さえた。
僕は、思わず目を細めた。
風が、歌っていた。叫んでいた。
その轟音の中に、たくさんの音が混じり合っていた。
冬の間に固く閉ざされていた蕾がこじ開けられる音。
土の中で眠っていた虫たちが目覚める音。
遠い遠い、潮見ヶ丘の海が奏でる潮騒の音。
そして、僕の耳の奥。僕の心の、一番深い場所で、風の轟音の中から、一つの声が浮かび上がってきた。
それは、幻聴だったのかもしれない。
僕の願望が聴かせた、夢のようなものだったのかもしれない。
でも、僕には、はっきりと聞こえたのだ。
懐かしい、懐かしいあの少女の、鈴の鳴るような、少しだけいたずらっぽい、あの声が。
――ねえ、春樹くん。聞こえる? 私の声。
僕は、はっと息をのんだ。
心臓が高鳴った。
周りを見渡す。
でも、もちろんそこに彼女の姿はない。
分かっている。
彼女は、もういない。
でも、彼女はいるのだ。
この風の中に。
この光の中に。
この、僕たちが生きている世界の、その全ての中に。
彼女は、世界そのものと一つになったのだ。
僕は誰に言うでもなく、ただ、空に向かって、僕たちの全てを見守ってくれている、あの、青い空の海に向かって、穏やかに、そして、力強く、一度だけこくりと頷いた。
――ああ、聞こえるよ。七海。
ちゃんと、聞こえているよ。
君の声も。君が僕たちを見守っていることも。
僕たちはちゃんと気付いているよ。僕たちは、大丈夫だよ。
ちゃんと、前を向いて歩いているよ。
だから、安心して見ていてくれ。
僕の、僕と柚希の新しい物語を。
隣で柚希が、僕の不思議な仕草に気づいたようだった。
彼女は、何も聞かなかった。
ただ、僕と同じようにそっと空を見上げて、太陽のような笑顔で、穏やかに微笑んでいた。
彼女にも、きっと届いていたのだ。
同じ、風の声が。
同じ、光のメッセージが。
やがて、春一番の強い風は過ぎ去っていった。
後にはまた、穏やかで、優しい、春の午後の空気が戻ってきた。
でも、それまでとは何かが違っていた。
風が過ぎ去った後のその空気は、前よりもずっと澄み切って、温かく感じられた。
僕たちは、ただ黙って微笑みながら、どこまでも青い空に思いを馳せていた。
まだ、少しだけ身体に馴染んでいない、ブレザーの制服。
僕は、少しだけ声が低くなり、柚希は、少しだけ髪が伸びて、後ろで一つに束ねるようになった。
僕たちの身長も少しだけ伸びたけれど、まだ、制服の方が大きくて、袖をまくらないと指先が隠れてしまう。
その、ぶかぶかな感じが、僕たちがまだ、子供と大人の、曖昧な境界線の上に立っていることを示しているようだった。
僕たちは、違うクラスになった。
潮見ヶ丘中学校、一年二組、神谷春樹。一年四組、月村柚希。
小学校の時のように、毎日、隣で授業を受けることはなくなった。
でも、僕たちの関係は、何も変わってはいないんだ。
昼休み。
僕たちはいつも、中学校の屋上で、一緒にお弁当を食べていた。
最初こそ、クラスメイトに関係を茶化されたこともあったが、僕たちはそんなこと気にもかけなかった。
いつからか、そういった声もなくなり、周りからすると、僕と柚希は二人で一人のセットに思われているようだ。
中学校の屋上は、小学校の屋上よりもずっと広くて、そして、ずっと高かった。
金網のフェンスも、小学校の時のものより、ずっと高くて、頑丈で、僕たちを守るというよりも、むしろ、僕たちを、この窮屈な現実の檻の中に閉じ込めているかのようだった。
でも、僕たちにとって、屋上は特別な場所だった。
僕たちの、始まりの場所。
そして、この高い位置にある屋上は、空に一番近付いたようで、七海に……一番近付いたようで、僕たちはこの場所が気に入っていた。
「うわ、見てよハル。あんた、また卵焼き焦がしたでしょ。真っ黒じゃない」
柚希が僕のお弁当を覗き込んで、からかうように笑う。
「……うるさいな。これは、わざとだ。香ばしさを出すための高等技術なんだよ」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、その高等技術と、あたしの完璧な唐揚げ交換してあげようか?」
「……ぜひ、お願いします」
僕たちは、顔を見合わせて笑った。
そうだ。僕たちの関係は、もう、昔のように危うく揺らぐことはない。
僕たちは、ただ隣にいる。
それが、当たり前のように。
多くを語らなくても、僕たちは同じ痛みと、同じ光を分ち合った、かけがえのない親友だったから。
お弁当を食べながら、僕たちはいつも他愛のない話をする。
入学して入った部活のこと。
ちょっと、怖い数学の先生のこと。
次の、テストの範囲のこと。
僕たちは、毎日、毎日、ただくだらない日常の話をしている。
彼女の名前を、口にするわけではなかった。彼女の思い出に浸っているわけではなかった。
でも、彼女はいつも、僕たちのすぐ傍にいた。
僕が、少しだけ上手になった卵焼きの中に。
柚希が時々見せる、ふとした優しい表情の中に。
そして、僕たちがこうして一緒に笑い合っている、この時間そのものの中に。
七海はいつも、そこにいた。
お弁当を食べ終わると、僕たちはいつものように、フェンスに寄りかかって空を見上げた。
この、新しい屋上からは、僕たちが生まれ育った、潮見ヶ丘の街並みが一望できた。
僕たちが六年間通った、潮見ヶ丘小学校の校舎も見える。
あの夏の日、僕たちが駆け抜けた坂道も。
そして、その向こうには、夏祭りの花火が上がった川が、きらきらと光っていた。
僕たちの、夏の全てがそこにあった。
そして、その全ての景色の上に、あの夏と何も変わらない、どこまでも続く青い空が、頭上に広がっていた。
僕は今、僕自身の物語を書いている。
それはまだ、始まったばかりの拙い物語だ。
誰にも見せることのできない、荒々しい文章の物語だ。
でも、僕はもう、ペンを置いたりはしない。
僕は生きて、笑って、そして、時々泣いて。その全てを書き留めていく。
空の上で僕の物語を心待ちにしてくれている、七海に届けるために。
僕は、隣にいる柚希の横顔を見た。
そして、僕たちの全てを見守ってくれている、この大きな、大きな空を見上げた。
僕たちの物語は、まだ始まったばかりなのだ。
その時だった。
ふと、空気が変わった。
それまで、僕たちの頬を優しく撫でていた穏やかな風が、ぴたりと止んだのだ。
世界が、一瞬だけ呼吸を止めたかのように。
奇妙な静寂。
そして、次の瞬間。
ごおおおおおおっ。
突風。
その日、初めて吹いた、春の一番強い風。
力強い生命の息吹そのものが、僕たちに、真正面から叩きつけられた。
僕の制服が、ばたばたと激しくはためく。
柚希が、「うわっ」と声を上げて、伸びた髪を手で押さえた。
僕は、思わず目を細めた。
風が、歌っていた。叫んでいた。
その轟音の中に、たくさんの音が混じり合っていた。
冬の間に固く閉ざされていた蕾がこじ開けられる音。
土の中で眠っていた虫たちが目覚める音。
遠い遠い、潮見ヶ丘の海が奏でる潮騒の音。
そして、僕の耳の奥。僕の心の、一番深い場所で、風の轟音の中から、一つの声が浮かび上がってきた。
それは、幻聴だったのかもしれない。
僕の願望が聴かせた、夢のようなものだったのかもしれない。
でも、僕には、はっきりと聞こえたのだ。
懐かしい、懐かしいあの少女の、鈴の鳴るような、少しだけいたずらっぽい、あの声が。
――ねえ、春樹くん。聞こえる? 私の声。
僕は、はっと息をのんだ。
心臓が高鳴った。
周りを見渡す。
でも、もちろんそこに彼女の姿はない。
分かっている。
彼女は、もういない。
でも、彼女はいるのだ。
この風の中に。
この光の中に。
この、僕たちが生きている世界の、その全ての中に。
彼女は、世界そのものと一つになったのだ。
僕は誰に言うでもなく、ただ、空に向かって、僕たちの全てを見守ってくれている、あの、青い空の海に向かって、穏やかに、そして、力強く、一度だけこくりと頷いた。
――ああ、聞こえるよ。七海。
ちゃんと、聞こえているよ。
君の声も。君が僕たちを見守っていることも。
僕たちはちゃんと気付いているよ。僕たちは、大丈夫だよ。
ちゃんと、前を向いて歩いているよ。
だから、安心して見ていてくれ。
僕の、僕と柚希の新しい物語を。
隣で柚希が、僕の不思議な仕草に気づいたようだった。
彼女は、何も聞かなかった。
ただ、僕と同じようにそっと空を見上げて、太陽のような笑顔で、穏やかに微笑んでいた。
彼女にも、きっと届いていたのだ。
同じ、風の声が。
同じ、光のメッセージが。
やがて、春一番の強い風は過ぎ去っていった。
後にはまた、穏やかで、優しい、春の午後の空気が戻ってきた。
でも、それまでとは何かが違っていた。
風が過ぎ去った後のその空気は、前よりもずっと澄み切って、温かく感じられた。
僕たちは、ただ黙って微笑みながら、どこまでも青い空に思いを馳せていた。
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