風花の契り~落葉舞う、君の肩越しに~

空-kuu-

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第31話 忘れ雪の里からの使者

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 橘環と風祭迅――彩凪藩の光と影という二つの流れは、ついに一つの目的のために交わった。彼らは、それぞれの情報を突き合わせ、小夜を救い出し、松平義明の野望を打ち砕くための、緻密で大胆な策を練り上げていた。一方で、弥助はお春と連携し、陽動の要となる商人、三国屋の動きを探り、楓は神官長と共に、神社内部から義明の注意を逸らすための準備を進める。水面下で、反撃の狼煙は、静かに、着実に上がろうとしていた。

 そんなある夜、環が右京の屋敷に用意された隠れ家で、傷だらけの風切り笛を磨いていた時のことだった。弥助が、少し興奮した様子で駆け込んできた。
「若様! 表に、若様を訪ねてきたと名乗る、妙な男が……松平の役人たちの目が、山にまで光るようになっているというのに、平然と……」
 弥助に促され環が向かうと、そこに立っていたのは、忘れ雪の里で何度か顔を合わせたことのある若い猟師であった。彼は、環が里にいた時に熊から助けた少年で、今や逞しい青年の顔つきになっていた。環の姿を認めると、彼の瞳に畏敬の念が浮かんだ。「橘様は、三年前とはまるで別人ですね。あの頃の危ういほどの鋭さは影を潜め、代わりに、山の古木のような、静かで途方もない強さを感じる」
 そう言い、深々と頭を下げた。
「橘様。あの時の御恩、忘れたことはありやせん。このお役目、命に代えても果たします。源爺様からの言伝を預かってまいりました」

 猟師は、懐から一枚の巻物を取り出すと、それを環に差し出した。その巻物からは、源爺自身の命の一部が注ぎ込まれたかのような、重い気が発せられていた。
「これは、源爺様が、ご自身の命を削るようにして書き上げたものだと聞いております。どうかその想い、無駄になさりませぬよう……」
 そして彼は、源爺の魂がその身に乗り移ったかのように、威厳のある、そしてどこか懐かしい口調で語り始めた。
「環よ、よく聞け。お主が墨染の地で刃を交えた、影狼と名乗る男……あやつは、元は我らと同じ忘れ雪の里の者じゃ」
 その言葉に、環は息を呑んだ。影狼との一戦で感じた既視感の正体が、今、明らかにされようとしていた。
「あやつの名は、疾風はやて。里の中でも、百年……いや、二百年に一人の才を持つと謳われた、誇り高き若者じゃった。じゃが、あやつは力を求めすぎた。里の技は自然と共生し、守るためのもの。じゃが疾風は、その力を他者を支配し、超えるためのものと捉えてしもうた。そして、悲劇は起きた……」
 猟師の語る声が、悲しげに震える。疾風には、小雪こゆきという、里で将来を誓い合った娘がいた。彼女は、疾風の行き過ぎた力への渇望を、いつも案じていたという。「疾風の強さは、いつか自分自身を焼き尽くす刃になる」と。ある時、小雪が藩の富を狙う松平家の息のかかった役人たちに目をつけられ、里に伝わる薬草の場所を吐かせようと、非道な拷問の末に命を奪われたのだ。駆けつけた疾風は、その類稀なる力で役人たちを皆殺しにしたが、愛する者を守れなかった絶望と、自らの無力さへの怒りは、彼の心を憎しみの炎で焼き尽くした。彼女の亡骸を抱いて三日三晩、その場を動かなかった。そのときに、疾風の心は死に、代わりに憎しみだけを糧とする、影狼という名の物の怪が生まれたのかもしれない。
「疾風は、より大きな力を求め、里の禁忌である『破壊の型』に手を染めた。そして、我らの制止を振り切って里を捨てたのじゃ。わしは今も悔いておる。もっと早く、疾風の心の闇に気づいてやれていれば……あやつを、ああなる前に止めてやれたやもしれぬ……。環よ、お主にはあやつの魂をも救ってほしいのじゃ。憎しみは、何も生みはせんぞ」
 環が感じた影狼の技への既視感、その理由が、今、悲劇的な過去と共に解明された。環は巻物を開いた。そこには、疾風――影狼が使う技の一つ一つに、『餓狼ノ牙』『黒風ノ舞』といった名が記され、その技の対となる型として、『流水ノ構』『柳ノ受』など、環が里で学んだ技が描かれていた。巻物の最後には、源爺の直筆でこう記されていた。
『環よ。この巻物は、技を記したものではない。疾風の魂の叫びを写した、哀れなものじゃ。やつの闇が深ければ、お主はそれよりも大きな光で応えねばならぬ。忘れるな。お主の剣は、もはやお主一人のものではない。小夜という巫女の祈りと、我ら里の者の願い。そして、お主がこれから出会うであろう、多くの人々の想いを乗せるものだということを』

 源爺の伝言は、それだけでは終わらなかった。猟師は、さらに声を潜め、恐ろしい予言を口にした。
「源爺様は、こうも仰せでした。里に伝わる、風読みの術が告げておる。間もなく、彩凪の地に、大いなる厄災が降りかかる。じゃが、それは天がもたらすものではない。人の欲望が、古の眠りを妨げたことによる、人災じゃ。山の獣たちが騒ぎ、川の魚が姿を消し、夜空には凶星が輝き始めておる……これは、龍神様がお目覚めになる前の、静かな怒りの現れじゃ」
「龍神?」
「はい。木花咲耶神社が建つあの場所は、元は、この地を創ったとされる、大いなる龍神を鎮めるための聖域なのです。龍神様は、この地に恵みをもたらす守り神であると同時に、人の心の穢れを嫌い、怒れば国ごと湖に沈めると言われています。そして、小夜様の一族は、その龍神様の花嫁として、その荒ぶる魂を鎮め、時にはその力を借り受けるための器となることを宿命づけられた特別な血筋。そして、我ら忘れ雪の里の民は、その花嫁を守るための影の番人なのです」
 環の中で、全ての点が、一つの線となって結びついていった。義明の狙いは、やはり小夜の体を、その権威を手に入れることだけではなかった。墨染と手を組み、彼女を器として龍神の力を無理やり引き出し、この世のものならざる、制御不能な兵器として利用しようとしているのだ。
「風読みは、こうも告げております。厄災の中心には、古の龍神の怒りと、それを鎮める巫女の力が渦巻いておる、と。橘様、貴方様が救おうとしておられるのは、もはや、一人の女子おなごではありませぬぞ……」

 猟師が去った後、環は一人巻物を握りしめたまま、静かに瞑想した。影狼は必ず生きている。再戦は、もはや避けられないだろう。だが、今、彼が抱く影狼への感情は、敵意ではなかった。同じ道を歩みかけた者としての痛いほどの共感。そして、それでも道を違えた者として、彼を止めなければならないという剣士としての覚悟。
 小夜の力……それは、天啓などという生易しいものではなかった。彼女はそのか細い身に、神の領域に触れるほどの巨大で、そして危険な力を秘めている。
(小夜殿を、ただの娘に戻してやりたい。たとえ、この世の理に背くことになったとしても……)
 彼女を一人の女性として取り戻すこと、そして彼女を器という過酷な宿命から解放すること。それが、環の新たな決意となった。
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