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第1話 運命の出会い
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彩凪藩の空気が玻璃のように澄み渡り、山々の木々が最後の生命を燃やすかのように深紅や黄金に染まる秋たけなわの頃であった。藩主・天城輝政より下った密命を胸に、若き藩士である橘環は、彩凪藩の北東、天然の要害として聳え立つ暁峰連山の奥深くへと分け入っていた。その峻険な山容は、隣国・墨染藩との自然国境をなし、両藩の緊張を孕む地でもある。今回の任務は、この国境付近の地理を詳細に調査し、墨染藩による不審な動きの有無を探ること。その成否は、今後の彩凪藩の安危にも関わるやもしれぬ重いものであった。供として従うのは、忠実な若党の弥助ただ一人。環が、その身軽さと口の堅さを買っている男だった。
足裏に感じる落ち葉の感触は、カサリと乾いた音を立て、山道には独特の湿った土と朽ち葉の匂いが満ちていた。見上げれば、幾重にも重なる紅葉が天蓋となり、木漏れ日が金色の矢となって降り注ぐ。その息を呑むほどの絢爛な美しさとは裏腹に、一歩国境線に近づけば、そこはいつ墨染の草――密偵や斥候――が息を潜めて現れるやも知れぬ、肌を刺すような緊張が支配する地であった。環は五感を研ぎ澄ませ、獣の気配、風の音、遠くで鳴く鳥の声にも注意を払いながら、慎重に足を進めた。
「若様、この暁峰連山の紅葉は、まさに天下一品でやすねぇ。城下の紅葉も綺麗ですが、やはり本場は格別です」
弥助が、努めて明るい声で環の背に話しかける。いつもの軽口で、この重苦しい空気を少しでも和らげようという彼なりの気遣いかもしれなかった。
「ですが、どうにも落ち着きやせん。親父が昔、この山で一番恐ろしいのは獣よりも山に潜む人だって言ってやした。この辺りじゃ、でかい熊が出たって話も聞きましたが、若様は熊より人が怖いなんてこと、ありやすかい?」
弥助の言葉に、環は無言で首を横に振った。彼が本当に恐れるものは、熊でも人でもない。だが、それを口にする必要はなかった。右肩に疼くように残る古傷のことを弥助は知らない。環はただ短く、「油断するな。弥助、お前のその軽口が命取りになるぞ」とだけ応じた。その涼やかな目元は、常に周囲の僅かな変化も見逃さぬよう、獣のように鋭く注がれていた。朴訥とした横顔には、二十四という若さに似合わぬ深い落ち着きと、武士としての厳格さが刻まれていた。
しばらく進んだところで、環の足がぴたりと止まった。鋭い視線が、木々の合間、墨染藩側へと向けられる。
「弥助、あれを見ろ。煙だ」
環が指さす先には、ごく微かだが、木々の梢の上に、細く立ち昇る煙が見えた。炊事の煙にしては乾いており、何かを焼却しているような、焦げ臭い匂いすら風に乗って届く。
「本当でやすね……。まさか、墨染の奴らがこんな山奥で何をしてるんでやすかね?」
弥助も声を潜める。さらに、道なき道を進む環の足元には、真新しい獣道とは明らかに異なる、複数の人間の手によって踏み固められたような痕跡が残されていた。それは墨染領へと続いているように見えた。
「墨染の連中……何かを探っているのか、あるいは、新たな砦でも築こうというのか……」
環の口調に、微かな険を帯びる。彼は懐から丁寧に折り畳まれた絵図面を取り出し、煙の位置と道の痕跡を、正確かつ迅速に書き加えた。緊張が、目の前の壮麗な紅葉の美しさを覆い隠すように、二人の間に重く垂れ込めてきた。
詳細な調査を終え、陽が西の稜線に隠れようとする頃、二人は帰路についていた。山間の天候は猫の目のように変わりやすい。先ほどまで紺碧に晴れ渡っていた空はにわかに鉛色に翳り、谷間から湧き出るようにして、乳白色の濃い霧が音もなく立ち込め始めた。あっという間に数歩先の視界すら奪われ、気づけば二人は慣れたはずの山道を見失っていた。
「わ、若様……こいつはちとまずいんじゃ。日が暮れちまいますぜ。それに、この霧、なんだか気味が悪いでやす……」
弥助が不安げな声を震わせる。彼の声も、霧に吸い込まれて輪郭を失っていくようだ。環は立ち止まり、腰の刀に手をかけながら、霧の切れ間を縫うようにして周囲の地形を冷静に観察していた。焦りは禁物だ。しかし、このままでは夜を山中で明かすことになる。それは、墨染藩との国境に近いこの場所では、あまりにも危険な選択だった。
その時だった。
ふいに、霧の向こうから、澄んだ音が響いてきた。それは、人の気配を遠ざけるような獣の咆哮ではなく、か細くも清らかな、風に乗って運ばれてくるような音色。寂寥感を帯びた横笛のようでもあり、あるいは無数の小さな玻璃の鈴が触れ合って奏でるような、どこか神聖な響きでもあった。
「……この音は」
環は、その不思議な音に強く引き寄せられるのを感じた。それは、迷子の子供を導く母親の声のように、彼の心の琴線に触れた。弥助も戸惑いの表情を浮かべたが、環が無言で音のする方角へ歩き出したのを見て、慌ててその後を追った。
霧はなおも深く、まるで二人を現世から幽世へと誘うかのようだ。音のする方角へと、木の根や岩に足を取られぬよう慎重に進むうち、不意に霧が薄れ、目の前がぱっと明るく開けた。
そこは、夕陽の最後の光を一身に浴びて、山全体が燃え立つかのように輝く紅葉に囲まれた、小さな盆地状の空間だった。長い風雪に耐え、苔生した古びた鳥居が、夕闇の迫る森閑とした中に、厳かな佇まいを見せている。鳥居にかけられた注連縄は新しく、明らかに人の手が入り、掃き清められた境内らしき空間が広がっていた。
そして、環の目は、その空間の中心に釘付けになった。
鳥居をくぐった先の開けた場所で、白い小袖に鮮やかな緋色の袴をまとった一人の巫女が、一心に神楽舞の稽古に打ち込んでいた。長く艶やかな黒髪が、舞の動きに合わせてしなやかに宙を舞い、白い項をちらりと覗かせる。夕陽の茜光が彼女の輪郭を黄金色に縁取り、その舞の一つ一つの所作は、まるで古の物語から抜け出してきたかのように優美であり、同時に神聖な気迫に満ちていた。環は息をすることも忘れ、ただ呆然と、その光景に見入っていた。俗世の騒がしさとは無縁の、清浄な空気がそこには満ちていた。
突如、一陣の風が境内を吹き抜けた。風は木々を揺らし、紅葉の葉がはらはらと、赤い雪のように舞い落ちる。その中の一枚、ひときわ鮮やかな真紅の楓の葉が、まるで意思を持つかのように宙をひらりと舞い、舞を続ける巫女の白い肩に、そっと舞い降りた。
環の脳裏に、鮮烈な映像として焼き付けられる。彼の心臓が、ドクンと大きく跳ねる。
時間が、止まった。
世界から一切の音が消え、風の音も、弥助の息遣いもない。ただ、目の前の光景だけが彼の意識の全てを支配した。
舞を止めた巫女もまた、不意の闖入者の存在に気づいたのだろう。驚きに美しい目を見開いたまま、環の方をじっと見つめ返していた。その瞳は、森の奥の泉に湧く泉ように深く澄み、射るような強さも秘めていた。深い森の奥、夕陽に紅葉が染まる神社の境内で、二人の若者の視線が、永い時を超えて惹きつけられるように運命的に交差した。
足裏に感じる落ち葉の感触は、カサリと乾いた音を立て、山道には独特の湿った土と朽ち葉の匂いが満ちていた。見上げれば、幾重にも重なる紅葉が天蓋となり、木漏れ日が金色の矢となって降り注ぐ。その息を呑むほどの絢爛な美しさとは裏腹に、一歩国境線に近づけば、そこはいつ墨染の草――密偵や斥候――が息を潜めて現れるやも知れぬ、肌を刺すような緊張が支配する地であった。環は五感を研ぎ澄ませ、獣の気配、風の音、遠くで鳴く鳥の声にも注意を払いながら、慎重に足を進めた。
「若様、この暁峰連山の紅葉は、まさに天下一品でやすねぇ。城下の紅葉も綺麗ですが、やはり本場は格別です」
弥助が、努めて明るい声で環の背に話しかける。いつもの軽口で、この重苦しい空気を少しでも和らげようという彼なりの気遣いかもしれなかった。
「ですが、どうにも落ち着きやせん。親父が昔、この山で一番恐ろしいのは獣よりも山に潜む人だって言ってやした。この辺りじゃ、でかい熊が出たって話も聞きましたが、若様は熊より人が怖いなんてこと、ありやすかい?」
弥助の言葉に、環は無言で首を横に振った。彼が本当に恐れるものは、熊でも人でもない。だが、それを口にする必要はなかった。右肩に疼くように残る古傷のことを弥助は知らない。環はただ短く、「油断するな。弥助、お前のその軽口が命取りになるぞ」とだけ応じた。その涼やかな目元は、常に周囲の僅かな変化も見逃さぬよう、獣のように鋭く注がれていた。朴訥とした横顔には、二十四という若さに似合わぬ深い落ち着きと、武士としての厳格さが刻まれていた。
しばらく進んだところで、環の足がぴたりと止まった。鋭い視線が、木々の合間、墨染藩側へと向けられる。
「弥助、あれを見ろ。煙だ」
環が指さす先には、ごく微かだが、木々の梢の上に、細く立ち昇る煙が見えた。炊事の煙にしては乾いており、何かを焼却しているような、焦げ臭い匂いすら風に乗って届く。
「本当でやすね……。まさか、墨染の奴らがこんな山奥で何をしてるんでやすかね?」
弥助も声を潜める。さらに、道なき道を進む環の足元には、真新しい獣道とは明らかに異なる、複数の人間の手によって踏み固められたような痕跡が残されていた。それは墨染領へと続いているように見えた。
「墨染の連中……何かを探っているのか、あるいは、新たな砦でも築こうというのか……」
環の口調に、微かな険を帯びる。彼は懐から丁寧に折り畳まれた絵図面を取り出し、煙の位置と道の痕跡を、正確かつ迅速に書き加えた。緊張が、目の前の壮麗な紅葉の美しさを覆い隠すように、二人の間に重く垂れ込めてきた。
詳細な調査を終え、陽が西の稜線に隠れようとする頃、二人は帰路についていた。山間の天候は猫の目のように変わりやすい。先ほどまで紺碧に晴れ渡っていた空はにわかに鉛色に翳り、谷間から湧き出るようにして、乳白色の濃い霧が音もなく立ち込め始めた。あっという間に数歩先の視界すら奪われ、気づけば二人は慣れたはずの山道を見失っていた。
「わ、若様……こいつはちとまずいんじゃ。日が暮れちまいますぜ。それに、この霧、なんだか気味が悪いでやす……」
弥助が不安げな声を震わせる。彼の声も、霧に吸い込まれて輪郭を失っていくようだ。環は立ち止まり、腰の刀に手をかけながら、霧の切れ間を縫うようにして周囲の地形を冷静に観察していた。焦りは禁物だ。しかし、このままでは夜を山中で明かすことになる。それは、墨染藩との国境に近いこの場所では、あまりにも危険な選択だった。
その時だった。
ふいに、霧の向こうから、澄んだ音が響いてきた。それは、人の気配を遠ざけるような獣の咆哮ではなく、か細くも清らかな、風に乗って運ばれてくるような音色。寂寥感を帯びた横笛のようでもあり、あるいは無数の小さな玻璃の鈴が触れ合って奏でるような、どこか神聖な響きでもあった。
「……この音は」
環は、その不思議な音に強く引き寄せられるのを感じた。それは、迷子の子供を導く母親の声のように、彼の心の琴線に触れた。弥助も戸惑いの表情を浮かべたが、環が無言で音のする方角へ歩き出したのを見て、慌ててその後を追った。
霧はなおも深く、まるで二人を現世から幽世へと誘うかのようだ。音のする方角へと、木の根や岩に足を取られぬよう慎重に進むうち、不意に霧が薄れ、目の前がぱっと明るく開けた。
そこは、夕陽の最後の光を一身に浴びて、山全体が燃え立つかのように輝く紅葉に囲まれた、小さな盆地状の空間だった。長い風雪に耐え、苔生した古びた鳥居が、夕闇の迫る森閑とした中に、厳かな佇まいを見せている。鳥居にかけられた注連縄は新しく、明らかに人の手が入り、掃き清められた境内らしき空間が広がっていた。
そして、環の目は、その空間の中心に釘付けになった。
鳥居をくぐった先の開けた場所で、白い小袖に鮮やかな緋色の袴をまとった一人の巫女が、一心に神楽舞の稽古に打ち込んでいた。長く艶やかな黒髪が、舞の動きに合わせてしなやかに宙を舞い、白い項をちらりと覗かせる。夕陽の茜光が彼女の輪郭を黄金色に縁取り、その舞の一つ一つの所作は、まるで古の物語から抜け出してきたかのように優美であり、同時に神聖な気迫に満ちていた。環は息をすることも忘れ、ただ呆然と、その光景に見入っていた。俗世の騒がしさとは無縁の、清浄な空気がそこには満ちていた。
突如、一陣の風が境内を吹き抜けた。風は木々を揺らし、紅葉の葉がはらはらと、赤い雪のように舞い落ちる。その中の一枚、ひときわ鮮やかな真紅の楓の葉が、まるで意思を持つかのように宙をひらりと舞い、舞を続ける巫女の白い肩に、そっと舞い降りた。
環の脳裏に、鮮烈な映像として焼き付けられる。彼の心臓が、ドクンと大きく跳ねる。
時間が、止まった。
世界から一切の音が消え、風の音も、弥助の息遣いもない。ただ、目の前の光景だけが彼の意識の全てを支配した。
舞を止めた巫女もまた、不意の闖入者の存在に気づいたのだろう。驚きに美しい目を見開いたまま、環の方をじっと見つめ返していた。その瞳は、森の奥の泉に湧く泉ように深く澄み、射るような強さも秘めていた。深い森の奥、夕陽に紅葉が染まる神社の境内で、二人の若者の視線が、永い時を超えて惹きつけられるように運命的に交差した。
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