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第28話 主従の絆
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右京の屋敷の一室で、叔父と甥は、三年というあまりにも長い空白を埋めるように言葉を交わしていた。環が弥助の安否を問うと、右京は静かに頷き、まずは環が最も知りたいであろう、一人の巫女の消息について、重い口を開いた。
「小夜殿は……ご無事では、おありだ。じゃが……この話は、楓殿が命懸けで知らせてくれたことなのじゃが……」
右京の言葉は、そこで一度途切れた。彼の話によれば、数年前の天災の後、小夜はその心身を著しく疲弊させ、さらに松平義明からの執拗な圧力を受け続けた結果、神社の裏手、禁足地とされる森の奥にある『静寂の洞』に、その身を移したのだという。陽の光も届かぬその岩屋で、食事は日に一度、義明の息のかかった巫女が運ぶのみ。誰とも言葉を交わすことを許されず、ただ藩の安寧を祈ることのみを強いられている。表向きは、心身の浄化と深い祈りのためとされているが、その実態は、義明が彼女を誰の目にも触れさせぬよう囲い込み、その心を支配するための、巧妙な軟禁状態に他ならなかった。楓が監視の目をかいくぐり、一度だけ洞に近づいた時、中から聞こえてきたのは、厳かな祈りの言葉ではなく、ただ、か細く環の名を呼ぶ悲痛な声だったという。
「そして環よ、心して聞け。義明は近々、その小夜殿を無理やり正室として迎え、盛大な婚礼の儀式を執り行おうとしておる」
右京の言葉に、環の全身を、静かだが激しい怒りが貫いた。
「婚礼だと? 小夜殿は、神に仕える身のはず! それに、藩が混乱しているこの時勢にですか!」
「今の彩凪で、そのような理屈は通じん。義明の魂胆はただ一つ。天啓の巫女を妻とすることで、自らの権威を神聖なものへと高め、民衆からの絶対的な支持を得ることじゃ。病に倒れた輝政様に代わり、天に選ばれた新たな支配者は自分であると、天下に示すための壮大な政治劇よ。儀式の中で、小夜殿に無理やり神託を下させ、松平の世を寿(ことほ)ぐ言葉を言わせるつもりらしいわ。もし従わねば、民衆の前で彼女を偽りの巫女として断罪することも厭わぬだろう……。そのために、あの子の心も、体も、そしてその魂までも、生贄にしようとしておるのだ……」
環は、強く拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、血が滲む。彼の脳裏に、三年前の記憶が鮮やかに蘇った。それは、まだ藩が平穏であった頃、神社の境内で見かけた小夜の横顔。あの時、風切り笛を渡した自分に、彼女は尋ねた。「この笛を吹けば、環様が来てくださるのですね」と。そして自分は、確かに答えたのだ。「ああ、必ず」と。その約束を守れなかった三年間、彼女はずっと、自分を呼び続けていたのかもしれない。
儚くも美しい思い出。桜と紅葉、出会いに始まり別れに終わる。この二つが同時に存在する桜紅葉という言葉が、小夜との美しくも儚い関係そのものを象徴しているかのようだった。
「あの時、気づくべきだったのかもしれない。我らの運命が、美しいだけでは終わらぬことを」
彼の後悔と、それでもなお消えることのない想いが、張り裂けるような痛みに変わった。
その日の夜、右京の手引きで、環は清澄ヶ原の外れにある寂れた水車小屋で、弥助と再会を果たした。弥助は、頭巾で顔を隠した環の姿を認めると、最初は幽霊でも見るかのように目を丸くし、次の瞬間、その瞳の奥にある光と顔に刻まれた傷跡から、それが紛れもなく生き別れた主君であると気づいた。
「わ、若様!」
掠れた声を上げた。彼は、環に駆け寄ると、三歳の子供のように、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、その体に泣きついた。
「若様ぁ! 生きて……生きていてくださったんでやすね! 俺は……俺は、もう、二度と会えねえかと……」
「弥助……苦労をかけたな。お前も、無事で何よりだ」
環は、その肩を強く叩いた。弥助は、環の変わってしまった雰囲気に気づき、「若様……一体、どんなご苦労を……」と言葉を詰まらせる。環もまた、弥助がただの若者から、苦労を知る男の顔つきになっていることに、自分が不在だった時間の重さを改めて感じていた。
落ち着きを取り戻した弥助は、環が不在だったこの三年の間に、藩で起こった出来事を、彼の視点から詳しく語り始めた。
「お春ちゃんがいなきゃ、俺はとっくに心を折られてやした。あいつ、口では心配ばかり言いやがるけど、誰よりも若様と小夜様のこと、そして俺のことを信じてくれてるんで」
弥助は、父の手記を真似て作った自身の調査記録を環に差し出した。そこには、三国屋の動き、義明派の武士たちの名前などが、稚拙ながらも必死に記録されていた。
「一度だけ、三国屋の荷に紛れて、松平の屋敷に忍び込もうとしたんでさ。でも、屋敷の警備は想像以上で……俺の腕じゃ、若様みてえに、音もなく潜り込むなんて真似はできやせんでした」
彼は、悔しそうに付け加えた。
環は、その調査記録に目を通すと、彼の頭にそっと手を置いた。
「大したものだ、弥助。これは、どんな密書にも劣らぬ、お前の忠義の証だ。お前はよくやってくれた。お前の働きは、決して無駄ではない」
環の心からの言葉に、弥助は再び顔を上げた。
弥助の話と、自分が墨染で掴んだ情報を合わせ、環の中で全ての点が線として繋がった。義明の婚礼は、単に権威付けという意味だけではない。それは、侵攻計画の総仕上げであり、小夜の力を墨染へ引き渡すための最終段階なのだ。
環の心は静かに、しかし燃えるように定まった。小夜を救い出す。そして、義明の野望を、その背後にある墨染との繋がりを完全に断ち切る。
「婚礼の儀、それこそが奴らの油断が生まれる最大の好機。そして、我らが反撃する絶好の機会となる。弥助、お前の集めた情報がそのための鍵だ。お前の役目は、お春殿と協力し、三国屋の動きをさらに詳しく探ること。奴らの目をそちらへ引きつける陽動を仕掛けることだ」
環の計画は、感情的なものではなく、冷静な分析に基づいていた。弥助は、自分に与えられた重要な役割に、身の引き締まる思いで頷いた。
懐から、三年もの間肌身離さず持っていた紅葉のお守りを取り出した。それを見つめながら、強く誓った。
「小夜殿、もう少しだけ、耐えてくれ。必ず迎えに行く」
主従は、共に戦う戦友として、闇に覆われた故郷の空を見上げ、静かに頷き合った。運命の歯車が、今、再び大きく動き出そうとしていた。
「小夜殿は……ご無事では、おありだ。じゃが……この話は、楓殿が命懸けで知らせてくれたことなのじゃが……」
右京の言葉は、そこで一度途切れた。彼の話によれば、数年前の天災の後、小夜はその心身を著しく疲弊させ、さらに松平義明からの執拗な圧力を受け続けた結果、神社の裏手、禁足地とされる森の奥にある『静寂の洞』に、その身を移したのだという。陽の光も届かぬその岩屋で、食事は日に一度、義明の息のかかった巫女が運ぶのみ。誰とも言葉を交わすことを許されず、ただ藩の安寧を祈ることのみを強いられている。表向きは、心身の浄化と深い祈りのためとされているが、その実態は、義明が彼女を誰の目にも触れさせぬよう囲い込み、その心を支配するための、巧妙な軟禁状態に他ならなかった。楓が監視の目をかいくぐり、一度だけ洞に近づいた時、中から聞こえてきたのは、厳かな祈りの言葉ではなく、ただ、か細く環の名を呼ぶ悲痛な声だったという。
「そして環よ、心して聞け。義明は近々、その小夜殿を無理やり正室として迎え、盛大な婚礼の儀式を執り行おうとしておる」
右京の言葉に、環の全身を、静かだが激しい怒りが貫いた。
「婚礼だと? 小夜殿は、神に仕える身のはず! それに、藩が混乱しているこの時勢にですか!」
「今の彩凪で、そのような理屈は通じん。義明の魂胆はただ一つ。天啓の巫女を妻とすることで、自らの権威を神聖なものへと高め、民衆からの絶対的な支持を得ることじゃ。病に倒れた輝政様に代わり、天に選ばれた新たな支配者は自分であると、天下に示すための壮大な政治劇よ。儀式の中で、小夜殿に無理やり神託を下させ、松平の世を寿(ことほ)ぐ言葉を言わせるつもりらしいわ。もし従わねば、民衆の前で彼女を偽りの巫女として断罪することも厭わぬだろう……。そのために、あの子の心も、体も、そしてその魂までも、生贄にしようとしておるのだ……」
環は、強く拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、血が滲む。彼の脳裏に、三年前の記憶が鮮やかに蘇った。それは、まだ藩が平穏であった頃、神社の境内で見かけた小夜の横顔。あの時、風切り笛を渡した自分に、彼女は尋ねた。「この笛を吹けば、環様が来てくださるのですね」と。そして自分は、確かに答えたのだ。「ああ、必ず」と。その約束を守れなかった三年間、彼女はずっと、自分を呼び続けていたのかもしれない。
儚くも美しい思い出。桜と紅葉、出会いに始まり別れに終わる。この二つが同時に存在する桜紅葉という言葉が、小夜との美しくも儚い関係そのものを象徴しているかのようだった。
「あの時、気づくべきだったのかもしれない。我らの運命が、美しいだけでは終わらぬことを」
彼の後悔と、それでもなお消えることのない想いが、張り裂けるような痛みに変わった。
その日の夜、右京の手引きで、環は清澄ヶ原の外れにある寂れた水車小屋で、弥助と再会を果たした。弥助は、頭巾で顔を隠した環の姿を認めると、最初は幽霊でも見るかのように目を丸くし、次の瞬間、その瞳の奥にある光と顔に刻まれた傷跡から、それが紛れもなく生き別れた主君であると気づいた。
「わ、若様!」
掠れた声を上げた。彼は、環に駆け寄ると、三歳の子供のように、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、その体に泣きついた。
「若様ぁ! 生きて……生きていてくださったんでやすね! 俺は……俺は、もう、二度と会えねえかと……」
「弥助……苦労をかけたな。お前も、無事で何よりだ」
環は、その肩を強く叩いた。弥助は、環の変わってしまった雰囲気に気づき、「若様……一体、どんなご苦労を……」と言葉を詰まらせる。環もまた、弥助がただの若者から、苦労を知る男の顔つきになっていることに、自分が不在だった時間の重さを改めて感じていた。
落ち着きを取り戻した弥助は、環が不在だったこの三年の間に、藩で起こった出来事を、彼の視点から詳しく語り始めた。
「お春ちゃんがいなきゃ、俺はとっくに心を折られてやした。あいつ、口では心配ばかり言いやがるけど、誰よりも若様と小夜様のこと、そして俺のことを信じてくれてるんで」
弥助は、父の手記を真似て作った自身の調査記録を環に差し出した。そこには、三国屋の動き、義明派の武士たちの名前などが、稚拙ながらも必死に記録されていた。
「一度だけ、三国屋の荷に紛れて、松平の屋敷に忍び込もうとしたんでさ。でも、屋敷の警備は想像以上で……俺の腕じゃ、若様みてえに、音もなく潜り込むなんて真似はできやせんでした」
彼は、悔しそうに付け加えた。
環は、その調査記録に目を通すと、彼の頭にそっと手を置いた。
「大したものだ、弥助。これは、どんな密書にも劣らぬ、お前の忠義の証だ。お前はよくやってくれた。お前の働きは、決して無駄ではない」
環の心からの言葉に、弥助は再び顔を上げた。
弥助の話と、自分が墨染で掴んだ情報を合わせ、環の中で全ての点が線として繋がった。義明の婚礼は、単に権威付けという意味だけではない。それは、侵攻計画の総仕上げであり、小夜の力を墨染へ引き渡すための最終段階なのだ。
環の心は静かに、しかし燃えるように定まった。小夜を救い出す。そして、義明の野望を、その背後にある墨染との繋がりを完全に断ち切る。
「婚礼の儀、それこそが奴らの油断が生まれる最大の好機。そして、我らが反撃する絶好の機会となる。弥助、お前の集めた情報がそのための鍵だ。お前の役目は、お春殿と協力し、三国屋の動きをさらに詳しく探ること。奴らの目をそちらへ引きつける陽動を仕掛けることだ」
環の計画は、感情的なものではなく、冷静な分析に基づいていた。弥助は、自分に与えられた重要な役割に、身の引き締まる思いで頷いた。
懐から、三年もの間肌身離さず持っていた紅葉のお守りを取り出した。それを見つめながら、強く誓った。
「小夜殿、もう少しだけ、耐えてくれ。必ず迎えに行く」
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