風花の契り~落葉舞う、君の肩越しに~

空-kuu-

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第27話 変わり果てた藩

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 龍哭峡の激流にその身を投じてから、三年の歳月が流れた。

 当初、墨染の計画は、小夜との婚礼の混乱に乗じ、松平義明城門を開かせ、電撃的に彩凪城を内部から制圧するというものだった。しかし、環によってその密書が奪われた以上、墨染藩と義明は、計画が彩凪藩上層部に露見している可能性を考慮せざるを得なくなってしまった。もし計画が露見していれば、城門で待ち伏せされ、侵攻部隊が壊滅するリスクさえ出てくる。また、実行部隊の要であった影狼が環にやられ、朧も深手を負ったことにより、墨染藩の誇る特殊戦力は大きく減退した。黒曜頼胤は、力押し一辺倒の愚将ではなく、冷徹な策略家である。リスクの高い賭けを嫌う彼にとって、前提の崩れた計画を無理に続行するのは得策ではない。大規模な軍事行動は、他の隣接する藩を刺激し、介入を招く危険性も孕んでいることから、頼胤は、短期決戦から長期戦へと戦略を切り替えたのだった。 松平義明を支援し、彩凪藩を内側から腐敗させ、国力が完全に疲弊しきったところで、最小限の力で、より確実に刈り取る方が賢明だと判断したのです。この三年間は、墨染にとって彩凪藩を熟柿が落ちるように、内側から腐らせるための期間だったのだ。

 一方で、義明も同様に焦っていた。義明にとって最大の恐怖は、環が奪った密書の行方だった。もし、橘右京などの抵抗勢力がそれを切り札として持っていれば、自分が婚儀を強行した瞬間に、それを大義名分として反乱を起こされる可能性がある。誰が、どこまで知っているのか分からない。この疑心暗鬼が、彼の行動にブレーキをかけていた。また、楓と月白神官長は、この三年間、水面下で必死の抵抗を続けていた。彼らは、神社の持つ宗教的権威を最大限に利用し、「天啓の巫女の婚儀には、古式に則った長い準備期間と、吉兆となる天象が必要不可欠」「先の天災で乱れた龍神の気を鎮めるため、巫女は全ての俗世から離れ、祈りに専念せねばならない」といった理由を並べ立て、婚儀を巧妙に引き延ばしてきたのだ。義明も、『生き神様』である巫女を無理に扱えば、民衆の反感を買いかねないため、この神聖な言い分を完全に無視することはできなかった。墨染藩同様に、義明もまた、計画を変更せざるを得なかったのだ。
 
 一方で、橘環は生きながらえていた。あの絶望的な状況の中、奇跡的に命脈を繋ぐことができたのは、偏に忘れ雪の里の者たちのおかげであった。龍哭峡のはるか下流で、川岸に打ち上げられていた環を、里の猟師が発見したのだ。その傷はあまりに深く、誰もがその死を覚悟したが、里の長である源爺の献身的な看護と、里に伝わる秘薬の数々が、彼を再び死の淵から引き戻した。
 しかし、その代償は大きかった。最初の半年は、寝たきりのまま意識さえ戻らず、その後も、体中の傷が完全に癒えるまでには、さらに一年以上の時を要した。墨染藩の追手を警戒し、環は外界との接触を完全に断ち、忘れ雪の里に身を隠した。その長い療養期間は、彼にとって肉体を回復させるだけの時間ではなかった。源爺との手合わせでは、環の怒りを込めた剣を、源爺が木の枝一本で軽くいなし、「怒りでは、真の強さには届かぬ。風になれ、水になれ、環よ」と諭された。環は、里に伝わる古武術を学んだ。獣の動きを模し、自然の理と一体となるその技は、奇しくも影狼のそれと源流を同じくしながら、殺すためではなく、守り、生きるためのものであった。そして、薬草学の深い知識をその身に宿していった。彼は、墨染で記憶した密書の内容を何度も反芻しては、湧き上がる怒りを源爺の教えで制御しようと葛藤した。その葛藤こそが、彼の剣を、そして彼の魂を、より深くそして強く鍛え上げていた。
 鏡に映る自分の姿は、三年前とはまるで別人のようであった。日に焼け、精悍さを増した顔には、影狼との死闘で負った傷が、左の眉から頬にかけて、痛々しくも力強い一本の線を描いている。かつての若武者然とした危うさは影を潜め、その瞳には、多くの死線を超えてきた者だけが持つ、深い落ち着きと静かだが消えることのない闘志の炎が宿っていた。

 そして、三年目の秋。里に立ち寄った旅の商人から、「彩凪藩は、松平様のおかげで今は平穏を取り戻したそうだ。近々、松平義明様と木花咲耶の巫女様のご婚儀も執り行われるとか。まことに、めでたいことですな」という、表向きの情報を耳にした時、環はついに帰還する決意を固めた。偽りの平穏という言葉の裏にある歪んだ真実を、彼は確かめねばならなかった。そして、けりをつけなければならない。
 源爺は、環の凍りついた表情を見て、静かに頷いた。
「……環、行く時が来たようじゃな」
 別れの際、源爺は「環よ、おぬしの剣はもう迷うてはおらぬな。じゃが、忘れるな。真の強さとは、怒りや憎しみの中にはないぞ」と最後の教えを授け、その肩を強く叩いた。里の者たちもまた、彼に新しい山着や、保存食、そして里で調合した最高の傷薬を手渡しながら、彼の旅の安全を祈ってくれた。彼らは環にとって、第二の家族となっていた。

 忘れ雪の里から、秘密の山道を通って数日。環は、ついに生まれ故郷である清澄ヶ原の町並みを、丘の上から見下ろしていた。しかし、彼の目に映ったのは、記憶の中にある活気に満ちた美しい故郷の姿ではなかった。
 三年前の天災の爪痕は、一見すると癒え、町並みは再建されている。だが、その風景は無機質で、冷たいものに感じられた。
「これでは……まるで墨染めのようではないか……」
 かつて子供たちが遊んでいた広場には、松平家の権威を示す巨大な石碑が建てられている。町の至る所に、高札が立てられ、『不穏な噂を流す者を厳罰に処す』という文字が民衆を威圧していた。かつて顔見知りだった商人に声をかけようとすると、相手は松平家の役人を恐れて、環に気づかないふりをして足早に去っていった。
 市場を歩けば、その変化はさらに顕著であった。彩凪藩の誇るべき特産品である綾錦織の店の主人は、死んだような目をしている。
「もはや、手間暇をかけて本物を作る意味などない。どうせ松平様を通じて、安値でどこぞへ流されるだけだ。正宗様が生きておられたら、こんなことには……」
 そう言って嘆いた。職人たちの魂が殺されていた。以前、弥助が口にしていた「松平義明が墨染藩と繋がっている」という噂話が、今、悪夢のような現実となって目の前に広がっていた。

 環は人目を忍び、裏道を使いながら、叔父である橘右京の屋敷へと向かった。門を叩くと、出てきた老僕が頭巾で顔を隠した環の姿を見て、訝しげな表情を浮かべた。環が、静かに「某です」とだけ告げると、老僕は目を見開き、腰を抜かさんばかりに驚き、震える声で奥へと駆け込んでいった。
 やがて、現れた右京は、環の姿を認めると、その場に崩れ落ちそうになった。三年の間に、彼の髪は真っ白になり、その背中は心労で小さく丸まっている。
「環! 環なのか! 生きて……生きておったか……」
 右京は、環に駆け寄ると、老いも体面も忘れ、ただ子供のように声を上げて泣きながら、その体を強く抱きしめた。環の顔の傷に触れ、「よくぞ……これほどの傷を負いながら……」と嗚咽する。環も、老いさらばえた叔父の姿に、自分が不在だった三年という時間の重さを改めて痛感させられた。
 屋敷の奥へと通され、人払いをした後、環は記憶を頼りに書き留めておいた密書の写しを右京に差し出した。右京は、その内容を読んで絶句し、怒りに震えた。
「これほどの証拠がありながら……!」
 しかし、すぐにその肩を落とした。
「だが、今の我らにはこれを突きつけても、逆に偽造の罪で処断されるだけだ……」
 右京は涙を拭って、この三年の間に彩凪藩に起こったことを、重い口調で語り始めた。藩主輝政様は病に伏せ、名ばかりの存在となっていること。藩政は、完全に松平玄蕃、義明親子が掌握し、逆らう者は謎の不審死を遂げていること。そして、環自身は、公式には『遠い地で病死した』と発表されていること。
 小夜の縁談については、月白神官長と楓の尽力により、延期となっていることを。
「あの日、天災を鎮めるための儀式を行うという名目で、縁談は延期された。それ以外の理由もいろいろと付けて先延ばししておるようだが……。じゃが、それは時間稼ぎに過ぎぬ。義明は、今もあの子を諦めておらぬ。婚儀の日は、間もなくだと聞く……」
 苦渋に満ちた表情で語った。そして、甥の身を案じ、本音を漏らした。
「環よ……いっそ、このままどこか遠い国へ逃げてはくれぬか。お前まで失いたくない」。
 しかし、環は静かに首を横に振った。
「叔父上、ご心配には及びません。某はもはや、以前の橘環ではございませぬ。この三年多くを学びました。力だけで推し量る愚は犯しませぬ。ですが、悪を放置するつもりもございません」
 若さゆえの激情ではなく、深い覚悟と、静かな闘志が宿っていた。右京は、甥がもはや自分の手には負えない、大きな運命を背負った存在であることを悟った。
「策はあります。ですが、そのためにはまず、味方となる者たちと繋がらねばなりませぬ。叔父上、弥助は今どこに?」
 環の問いは、淀みきった彩凪藩の空気に、新たな、そして激しい波乱を呼び起こす引き金となる。
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