神秘学メンズラブシリーズ”nihil”

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第三巻『その痩躯から 死が分たれる その時まで。』(RoGD Ch.4)

Verse 2-29

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 少しの間、そこにあったのは拍手ではなくため息と止められた呼吸だった。圧倒的な表現力。それはストラディヴァリウスだから、というものではなくジークフリート一人の手腕による絵画だった。ストラディヴァリウスなど、その助けに過ぎない。だれもが聞き惚れ込み、手を胸に上げて打つ事さえ忘れさせるばかりの余韻だった。コインを投げ入れる一枚さえ、その余韻を乱しにいってしまいそうで叶わない。ジークフリートが腕を下ろし切ると、一つの拍手がその感慨深い沈黙を破った。

「コンダクター!」

 革靴の踵を鳴らしながら、初老の男が一人、仕事鞄を持ってやってくる。楽団が抱える指揮者の一人だ。ジークフリートが懇意であった別の指揮者は現在休暇中らしく、日光へ出かけているという。

「いやぁ、素晴らしい音色だったジークフリート君。君がコンマスになってくれて嬉しいよ。」

「ありがとうございます。短い期間ですが、精一杯務めさせて頂きます。」

 うんうんと頷いて、コンダクターはジークフリートの肩をぽんぽんと叩いて、今回ともに白鳥の湖の演目を演奏する団員達へ向かい合わせた。

「さあ。皆も知っての通り、今回のバレエ学校の依頼、白鳥の湖の楽曲達は彼がコンサートマスターを務めてくれる事になった。既に顔見知りの人もいると思うが、今回初対面の面々もいると思う。ベテランのコンサートマスターだ、色々聞いて知見を深めるように。」

「ジークフリート・フォン・ヴェーラーです。よろしく。」

 先程の芸術的な雰囲気とは打って変わって、各々のポジションについていた楽団員達は口笛を吹いたり声を上げたりとジークフリートを歓迎する和気藹々とした雰囲気になった。

「では、早速練習を始めよう!」

 指揮棒で楽譜台の縁を軽く叩いて、コンダクターは全員に楽器を構えさせた。



 その日の夜、ジークフリートは楽団員と飲みに行くという事で、零は悠樹邸へ久し振りに帰っていた。夕食は零が所望した通りのお好み焼きであった。博人と勇斗がアルバイトで磨いた腕を鉄板の上で披露しては声が上がる。

「やー、そういやこっちに来て鉄板ものっつったらたこ焼きしか食べてなかったからなぁ。」

「これは普通のお好み焼きです。次焼くのが広島版で二枚、その次がもんじゃですね。」

 フィリップ二世は雪だるまと薄い水色の柄が入った箸を器用に閉じたり開いたりしながら、目の前にある鉄板から漂うソースに鼻をひくつかせていた。

「ジークフリート何つったっけ? 白鳥の湖?」

「名門バレエ学校のオケでしょ? 私でもよく聞く場所だったわ。たまに電柱にあるわよね、看板。」

 切り分けられたお好み焼きをそれぞれ取りながら、その場にいないジークフリートの話に花を咲かせた。

「鉄板焼きをするなら久志君達も呼んでくれば良かったねぇ。」

「まあ、突然呼んでもあれですし。」

 相変わらず銀承教の捜査には追われているようで、今の二人は静かに夕食を食べたい事だろう。

「そうそう。で、バレエ学校の近くに用事があったから掲示板を見てきたのよ。」

「律儀なこってい。」

 青海苔をふんだんにふりかけながら、フィリップ二世は理恵の話に合いの手を打つ。

「学校の最年少プリマなんですってね。しかも通ってる学校が巷で有名な超ブルジョワお嬢様学校。」

「名前は。」

 流石、とばかりに理恵はその質問をした清張に向かって箸の先で花丸を描く。

「近衛くぐい。」

 一人を除いてその場の全員が唾を飲んだ。重い沈黙に耐えかねて、フィリップ二世が素早く全員の顔を見回す。

「近衛って誰?」

「首相だ。」

 それはそうなんですが、と博人は首を傾げながら唸った。

「まああん人は色々不運な人だったなあとは思うんですが、そんな事は終わった話なので置いといてっすよ。もしかして咲口先輩達に言ったほうがいいすかね?」

「まあ報告は私がしたわ。でも近衛って案外いる名前なのよ、東條もだけど。だからあまり表立っては行動出来ないって言ってたわ。」

 お好み焼きにかぶりつく零は、清張の顔を伺った。ただ顎を動かすだけでいつもの仏頂面を構えている。

「いや二条城の条ならいますけどね確かに……。」

「んなこと言ったら大川なんてもっといるだろ。」

 まあ問題は、と継子は勇斗の手におたふくソースを握らせながら続けた。

「そもそもこの時系列では戦犯でない人間だのに、その彼らが何故出しゃばっているか? だねぇ。」

「それは確かに……。ドイツは裁判ありましたけど、日本じゃありませんでしたからね、今回。」

 いよいよ増して面倒臭くなってきたとばかりに、フィリップ二世は二枚目のお好み焼きに手をつけた。ナチスの話であればとことん乗っかる事が出来るが、大日本帝国となると話は別である。

「零、さっきから箸動いてないわよ。」

「なあフィリップ。咲口さんが見てたデータベースってどっち?」

 横に並んでいた理恵とフィリップ二世がほぼ同時に零の方へ顔を向けた。

「どういう意味だ?」

「大川周明のデータベースどっち?」

 零の目の前にはいつの間にか空中投影ディスプレイの青い輝きが浮かんでいた。理恵が片眉を上げている中、フィリップ二世は箸を皿に渡して零の座布団に近寄る。

「違う、咲口がアクセスしたのは大川照子のデータベースだ。」

 フィリップ二世は検索欄にその名前を入れて一件だけ出てきた検索結果をタップした。

「ここから家系図に行って、これだな。」

「ちょっと待ってて。」

 指し示された名前をタップして、零はその経歴を見る。

「やっぱり。あの人の親戚の大川周明は東京裁判に出てるほうだよ。」

「は? どういう事よそれ。」

 慌てて理恵も零とフィリップ二世の間に割って入る。

「そんなのおかしいじゃない、あの時系列は切られてるんじゃないの?」

「なんかもうよく分からなくなってきた。」

 お好み焼きがー、っと嘆く博人を見て、継子が三人の輪を切った。

「ご飯の時はちゃんとご飯を食べるんだよ。その話はまた後にしなさい。」

 まるで小学生低学年のような、はーい、という声をあげて、二人はすごすごと夕食の席に戻り、零はディスプレイを閉じた。

「やはり別の線から探すべきですかね。」

 ひっくり返したお好み焼きの上に、おたふくソースが縦横無尽に駆け巡る。

「今俺が知っている中で名前に関する同例は二人しかいない。そのバレリーナと――」

 口に入っていた小さなお好み焼きのかけらを飲み込み、清張はソースが伸ばされていく様を見つめる。

「東條兄妹だ。」

 * * *

 それから暫く間、零が洋館に帰るとヴァイオリンの音色がよく聞こえてきた。零が聞き知ったチャイコフスキーの名曲ばかりだ。

「調子はどう?」

「なかなか上手くいってるぞ。今度一回合わせるんだ。」

 夕食時のジークフリートは特別機嫌がいい。ここ最近、[シシャ]としての役回りが多く、あまりヴァイオリンに触れていられなかったのもあるのだろう。久し振りにヴァイオリンに接しているジークフリートは、まるで水を得た魚のようだった。

「ただ、今回の白鳥の湖は少し難しいな。」

「そうなのか……。」

 今回の、と言うからには白鳥の湖そのものは別段難しくないのだろう。トマトチキンカレーを掬って、ジークフリートは唸る。

「実は今回の白鳥の湖の『情景』、最初が僕のソロなんだ。同じメロディー全部。その……初めてだからちょっと練習が捗らない。」

「難しいのか? ソロ。」

 スプーンを咥えてジークフリートは首を横に振った。

「弾く事に関しては難しくない。ただ、前例もなかなかないもんだから表現の幅が……指揮者から君の好きなように弾いてみてくれ、と言われて。ちょっと困ってるんだ。」

 ジークフリートくらいの腕になると、どうやら今回の楽団の中に彼へアドバイスしてくれる人間もあまりいなさそうだった。最近夜に繰り返し同じ曲を聴いていたのはそのせいだったか、と零は一人で納得した。

「チャイコフスキー先生に聞いてみるのは? 天界にいるよ。」

「いや、それは駄目だろ……。いやなんか……駄目だろ。」

 カンニングした気分になるんだ、とジークフリートは口元をウェットティッシュで拭うついでに顔を覆った。

「その、実は今度の合わせで出来ればそのソロも合わせたいって言うもんだから今ちょっと切羽が詰まってるんだ……。」

 大きくため息をついて、肩を落とす。これは所謂スランプというやつでは、と零は肘をついてジークフリートを見つめる。

「良いインスピレーションとかがあればいいんだろうがな。まあ、取り敢えず明日プリマの踊りを見て考えるさ。」

 再びため息を吐いて、ジークフリートは器に残っていたカレーを全て平らげた。

 * * *
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