神秘学メンズラブシリーズ”nihil”

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第三巻『その痩躯から 死が分たれる その時まで。』(RoGD Ch.4)

Verse 2-31

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 ほんの少しだけくぐいと王子役に休憩を取って貰い、ダンサーとオーケストラ達の混合の稽古つけが始まった。オデットがロットバルトによって白鳥に変えられるシーン、ジークフリート王子が二十一歳の誕生日を迎えるシーン、この二つの序章とも言える幕は早々に終わった。重要なのは、オデットとジークフリート王子が出会う場面からである。楽譜棚から楽譜が下げられる。作品二十番第一楽章、『情景』と名付けられたこの曲こそ、白鳥の湖という演目の曲としての主役、そしてある意味では全てと言っても過言ではない。ここでオーケストラが観客を聞き入らせる事が出来なくてはいけないのだ。ジークフリートはその頭という大役があった。指揮者が指揮棒を振ると、まずふっと湖が現れるように弦楽の刻みが入る。その後に入るオーボエのソロが、ジークフリートのヴァイオリンソロになっていた。ここではダンサーは踊らない。まだステージは幕が引かれたままで、観客達を湖へ誘う。夜の湖面の煌めきを背後のハープが表すと言うのなら、メロディーラインは周囲の暗き森、月の明かりだ。そしてなにより、それはオデットの苦しみと悲哀の象徴である。ジークフリートは目を閉じて眉を寄せる。弓を持つ腕は恐る恐る引かれ、弦を押さえる指は恐る恐る線の上へ降りる。オデットの恐怖は、音色だけでは到底表しきれない。その恐さは指先から、演奏者の体から表現するものだ。そして様々な楽器が、聴衆が、その旋律によって黒い森の獣道に誘われ、白鳥の湖の舞台である壮大で大きな湖へ向かう。全ての始まりと終わりの場所。オデットが白鳥になり、王子と共に死へ向かう場所へ。



 しかしすごいよなぁ、と振付師がくぐいへ叱責する様をみながら、ジークフリートの背後に座っているパートメンバーは呟いた。

「ヴァイオリン弾いてても、お前の腕は弓だ、なんて言われないよ。」

 水を飲んで一息、今はオーケストラの出番はなかったが、全体的にもっと楽しく弾くように、と言われた。今の場面は王子の求婚相手を探す舞踏会である。前の悲劇的な曲調に少し後ろ髪を引かれ過ぎたのである。

「それ私は言われた事あります……。」

「なんかごめん。」

 現在目の前で繰り広げられているのはオディールのダンスに関する事項だった。もっと情熱的に、と振付師は熱弁する。

「あ、ジークフリートさん。ソロ良かったと思いますよ。」

「ありがとう。でもあれはまだまだ荒削りだな。」

 しかし、確かに道は開けた。ジークフリートも少し満足げに頷く。これで曇っていた視界の霧が晴れたような気がした。



 その日の合わせを終えて、ジークフリートはまだ片付けに残っていた楽団員達に別れの挨拶を告げて学院を後にした。もうその頃は残っている人もまばらであった。というのは、先程までジークフリートはずっとテーマのソロの部分を練習していたのである。残ってくれていたのはその伴奏のパートの人々だった。

(まだ分からん……。)

 ファイリングした楽譜を覗き込みながら、ジークフリートは唸る。まだ足りない部分があるが、一体自分の演奏のなにが足りないのか分からなかった。指揮者からもつい先に筆舌に尽くし難いと言われたジークフリートのヴァイオリンソロが、しかし彼の出す最善の音色でない事は自身が百も承知だった。悩み抜いて歩いていると。前面に思い衝撃を受けた。後ろに危うく倒れ込みそうになったところを踏み止まって、慌ててファイルを眼前からどかした。

「すまない!すっかり前方不注意で――」

「すみません!私もすっかり脚がふらついてて……。」

 お怪我は、と上げた顔はすっかり舞台用の厚化粧を落としてあどけない、中学生相応の少女の顔だった。

「君は……えっと。」

「くぐいです、近衛くぐい。……ジークフリートさん、でしたよね。」

 そうだ、とジークフリートは先程交わした握手を再び求めた。くぐいは、今度ははにかみ笑顔でそれに応える。

「ジークフリートさん。……お名前ぴったりですね。」

「えっ。あ……あぁ、そうか。」

 オデットを愛した王子の名前、それをジークフリートと言った。すっかり疲れている彼女にぶつかってしまったジークフリートは罪悪感に駆られた。外はもうすっかり暗い。中学生が出歩く時間ではないが、ジークフリートも早々に家に帰って零が初めて作ってくれた夕食を堪能したかった。零の事だ、先に夕食を食べずに待ちくたびれているに違いない。

「そうだなえっと……良かったら飲み物を奢るんだが。ぶつかったお詫びに。」

 たまたま目に入った自動販売機を指差すと、くぐいは少し恥ずかしげに俯いた。

「そ、そんな。私は大丈夫なので。」

 それでは、とくぐいはそのまま走って廊下から学院の建物の外へ出て行ってしまった。一体どこにそんなエネルギーがあるのかと思いつつ歩き始めると、たまたま自動販売機近くの死角のベンチに座っていたらしい同僚が後ろから肩を叩いてきた。

「よっ、プリマと感動的な出会い?」

「いや、たまたまぶつかっただけなんだが。」

 肩越しに顔を覗き込まれて、ジークフリートは団員の顔を二度見する。

「あの子さ、他の人が練習してる時にずっとジークフリートさんの顔見てたんだけど、コンマス気付いてないでずっと楽譜睨みつけてたよな。」

「本当か?」

 うんうん、と頷かれたジークフリートは再びくぐいが走っていった方向に視線を送った。

 * * *

 初の合わせから数週間後。一日中合わせる事も多くなり、オーケストラもダンサーも連日学院の大稽古場を訪れていた。

「白鳥はそこまで突っかからなかったが、オディールになってからやっぱりブツブツと止められるな。」

「そうですね。正直ソロを頼まれたジークフリートさんより荷が勝ち過ぎてると思います。」

 そんなにか、とジークフリートは心の中でずっこける。現在はオディールの誘惑の場面である。一体何回そこで止められたか覚えられたものではない。

「この間肘鉄したにしては酷い事を言いますけど、二次性徴を迎えている途中と言う事は、二次性徴を迎え切った女性よりも体が魅力的でない事を意味するんです。だから、くぐいさんは普通のオディール以上に男性に対して魅力的でなくてはいけないと私は勝手に思ってます。」

「それってもしかして性別超越しろって言ってない?」

 ところどころからペットボトルのキャップを開ける音が、水を飲み干す音が聞こえる。

「まあ間違ってないと思いますよ。彼女がオデットとオディールを勝ち取ったと言う証拠を示すのであれば、女性さえ魅了出来ないとって思います。」

 厳しいねぇ、とジークフリートの横から声がする。

「確かに。彼女のオディールはまだまだハツラツとした陽気さと自信に満ちた態度がないな。」

「はい。まだまだオデットと演じ分けられてないんだと思います。この間から明るさがないと注意を受けた我々も同じですが。」

 ジークフリートはその言葉を聞いてはっとした。先程、まだ自分が荒削りだと思った部分、足りないと思った部分はそこにあるのではないだろうか。

「オディールはロットバルトの娘だからねぇ。」

「かといってロットバルトの傲慢さだけでは足りませんよね。やはりオディールには彼の娘かつオデットと真反対の性格を見せてもらわないと……ジークフリートさん?」

 慌てて譜面台に置いたメモ帳に、ジークフリートは愛用の万年筆で走り書きを施す。オデットとオディールの対比、それを念頭に置かなければいくら悲痛に弾いてもオデットには近付けない。その悲痛さはただの悲しさだ。オデットの兼ね備える悲哀ではないのだ。

「それは、面白いですね。」

「いい参考になった、ありがとう。」

 しかし、これを弾き分けるには一つの問題がある。くぐいがオディールを見せてくれないのであれば、ジークフリートにはオディールを知る由がないのだ。



「映像見ればいいってわけじゃないし、今から他の白鳥の湖を観に行くにはきついですよねぇ。」

「身近にオディールを踊ってくれる人がいればいいんですけどね。」

 流石にバレエダンサーの知り合いはいなかった。いや、いないといえば嘘になるのだが、踊れるとして全員ロシア連邦に定住している。

「まあ、そこは頑張る……。」

 前髪を掻き上げながら、ジークフリートは何度か首を捻った。
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