神秘学メンズラブシリーズ”nihil”

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第三巻『その痩躯から 死が分たれる その時まで。』(RoGD Ch.4)

Verse 2-37

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 愛車から降りて、零は二度目の学院を眺めた。今はまだ夕方だ。夕方とはいえ、十一月ともなるとなかなかに肌寒く、太陽の輝きによってもたらされる橙色もどこか褪せていた。

「じゃあ、ここで待ってるから。」

 防音室の扉と向かい合う壁にもたれて、零はジークフリートを送り出した。ジークフリートはまるで前線へ赴く兵士のように一度頷くと、防音室の硬いドアノブを動かした。

「……。えっと、久し振りだな。」

 ドアの隙間から漏れていた曲がやむ。ちょうどフィナーレを練習しているようだった。最高潮のところで入ってしまい、ジークフリートは少し申し訳なさそうに立ち竦んだ。団員達の目が揃ってキラリと輝く。

「ジークフリートさん!」

「コンマス! もう大丈夫なんですか!?」

「皆心配してたんだよ、オケ団員はね!」

 団員達は楽器を下ろして我先にと立ち上がり、ファーストヴァイオリンのメンバーとあってはわらわらとジークフリートを囲いに来た。

「公演、出れますか?」

「ああ。その決心はした。だから、今日ここまで来たんだ。」

 パートメンバーがわっと顔を輝かせて声を上げた。コンマスが不在ではオーケストラの団員は無論不安になる。主席奏者がいなくなったという事になるファーストヴァイオリンは殊更に。

「ジークフリートさん。」

 囲っていた群衆が、まるでモーセが海を割るが如く左右へ分かれていく。

「コンダクター……。」

「貴方が復帰を考えてくれて本当に良かった。本当に、私は感謝しか出来ない。」

 かつて懇意にした指揮者は、紳士的にゆっくりと手を出した。

「私の指揮の下で、貴方が再びヴァイオリンを弾いてくれるのを心待ちにしてました。」

 その手を取って、ジークフリートは握り返す。

「僕も、貴方の下でならこの楽団で、僕の白鳥の湖を弾きたいと思いました。短いですが、よろしくお願い致します。」

 コンダクターはにっこりと微笑む。この微笑みは信頼に足るものだと、ジークフリートは確信を抱いた。



 すぐに各主席奏者が指揮者の下に集められ、それ以外のメンバーは休憩に入った。

「成程、コンマスの言う事は一理ありますね。」

 ジークフリートはこの間得た一つの答え、ヴァイオリンだけでは決してできないオデットとオディールの表現を彼らに話した。

「しかしコンマスだけオデットは気が重い。ファーストヴァイオリンでオデットを表現したほうがいいのでは?」

「僕もそう考えたんだ。ただ、今回の白鳥の湖はバッドエンド版。そうすると、やはりオデットは僕一人で、今にも消そうな儚さを表現できると思わないか?」

 それは確かに、とオーボエの首席奏者は口元に手を当てて、パイプ椅子の背もたれに背を預けた。読んでいた楽譜を机において、指揮者はジークフリートに向き合う。

「ジークフリートさん。もし貴方がそう分けて弾きたいのであれば、貴方自身は、オデットであると共にジークフリート王子でなければなりません。」

「オデットであると共に、王子もですか……?」

 指揮者は頷く。

「オデットと一緒に死ぬのは誰ですか? オデットとともにロットバルトに立ち向かおうとしたのは? オデットの隣には常にジークフリート王子の存在がいます。貴方はそれを表現しなくてはならない。貴方のヴァイオリンは悲しいだけではなく、オデットを包み込み、寄り添う王子の抱擁でもなくては。」

 王子の抱擁、とジークフリートは呟いた。

「……さて、難しい話はまた今度にして、今日はセレモニーの式次第と招待券を配ろうと思って皆さんを呼んだんです。誰か家族や彼女彼氏を連れてくる人はいますか?」

 多分足りると思うんですが、と指揮者は苦笑しながら招待状の入った封筒を逆さまにする。ばらばらと予想以上に出てきた招待状が数枚、床に落ちる。

「僕、二枚でお願いします。」

 招待券を二枚もらって、ジークフリートは枚数を確認する。

「あのジークフリートさんが二枚を所望ですか!?」

「だれ連れてくるか楽しみだなぁ。」

 からかわれながら、ジークフリートは肩を竦めてチケットをファイリングする。今から胸が高鳴っていた。零をセレモニーに連れていったら、一体どんな反応をされるのだろうか。

「そうだ、ジークフリートさん。もう一つお話があるんですよ。」

 各々チケットを貰って席を立って行くのを眺めていたジークフリートは、隣にいた指揮者が机に乗り出したのを見て視線を向けた。

「イントロダクションと、フィナーレにもあるオーボエのソロ、ヴァイオリンにしてはどうかと彼から申し出がありました。いかがですか。」

 手のひらが向けられた先では、オーボエの首席奏者がジークフリートに向かって手を降ってウインクしていた。

「それは、またどうして僕が。彼の見せ場でしょう?」

「貴方のソロに感動してるんですよ。そしてなにより、これは客観的な評価として、貴方はあのテーマにあまりにも熱心だ。病的にね。その全てを、最後に出そうと思いませんか。」

 コンダクター、とジークフリートは少し虚無を含めた声で呟いた。

「これ以上、これ以上僕に重荷を担えと?」

「背負いきれないと言うのであれば提案を降りていただいて構いません。ですが、私も、団員達も皆、フィナーレのメロディを貴方に先導して欲しいと思っていますよ。」

 唾を飲み込んで、真摯な灰色の瞳を見返す。ジークフリートは瞬き一つ出来なかった。指揮者は続ける。

「私は、前任のように貴方にそういう気は一切抱いていません。だが、貴方の音色には昔も今も惚れていますよ。」

「コンダクター……。それは……それは、自分が好かれると伝えられるよりももっと苦しい言葉ですよ。」

 知っているとも、とコンダクターは慈愛の笑みを浮かべた。一度、机の上に組まれた指揮者の長い指を一瞥して、ジークフリートは再び彼の顔を見た。

「分かりました。引き受けます。弾き切って、魅せます。」

「おぉ、やってくれますか。それは、とても嬉しい。」

 慈愛が歓喜に変わる。ジークフリートも、誠実に頷いた。

 * * *
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