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第三巻『その痩躯から 死が分たれる その時まで。』(RoGD Ch.4)
Verse 2-41
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束の間の休息だった。短い拍手の中で、ジークフリートは綿密に書き込まれた楽譜を閉じた。
「コンマス?」
「楽譜はいらない。」
全部覚えた、とばかりに隣席に目配せをするが、そうではないとばかりに首を振られる。彼女の楽譜は既に楽譜台にある。しかし、そこに書かれているのは彼女の指針で合って、ジークフリートのものではない。
「大丈夫だ。」
微笑んで、ジークフリートは指揮棒が構えられると共にヴァイオリンを構える。
(聞いてくれるか、零。僕の長かったお前への恋の苦しみを。)
目を閉じて、指揮棒が振り上げられて空を切る音が来るまで待つ。長く苦しみを表現した。あと一曲だ。
(そして、決別しよう。)
帝國での長い後悔の日々を捨てる為に。
指揮棒が空を切った。ささやかな弦楽の伴奏はオデットをロットバルトから庇う白鳥達だ。悲しげな情景はオデットと王子。ただ二人で支え合って、二人は戦う術さえ持たない。陰鬱な伴奏が弦楽を飲み込む。飛び去っていく白鳥達のように、羽ばたく弦楽の旋律は、やがて力強い吹奏楽に飲み込まれた。その旋律は魔王であり、そして姫と王子の死だ。もうどこにも羽ばたけない翼を動かしながら、甲高い旋律が雲一つない宵の空を舞っていく。オデットは白鳥のまま、ロットバルトの勝ち誇った旋律の中で、ジークフリートは溺れていく。そして、闇は晴れて、ただ太陽だけが、湖面を輝かせた。いかなる死と悲劇の日にも、陽の光は注ぐ。
「零。」
劇場に明かりが灯る。周囲はだれも彼もが立ち上がって、頭の上で拍手を打っていた。清張の声で漸く零は、白鳥の湖という観劇の世界から引き戻されたのである。
「ジーク!」
声を上げて、零は慌てて立ち上がって雨嵐のような拍手に加わる。壇上に上がっているのは、まだダンサー達だけだ。やがて指揮者とコンサートマスターも出てくる事だろう。その時を待ちわびて、零は涙で輝く瞳で舞台を見つめた。
「Bravo.」
ジークフリートはハッと顔を上げた。その声は聞いた事がある。眠りに誘うようなバスの声音。
「大丈夫ですか?」
指揮者に肩を揺すられ、ジークフリートは壇上に上がるように手を差し出された。慌てて立ち上がり、ヴァイオリンを持ったまま青白い光を放つ壇上へ急ぐ。
「ジークフリートさん!」
白鳥のくぐいの横を通り過ぎる時、そう名前を呼ばれた。しかし、彼は見向きもせずに観客席を見つめる。早く零の顔が見たかった。同じ高さの地面で話がしたかった。コンマスと共に、逸る気持ちで観客に頭を下げる。もう一度、今度は大きな花束を抱えさせられた。幕が降りていく。その寸前に零の姿を見つける。疲れ果てて上手く動かなかった表情筋が漸く緩む。
(ちゃんと、聞いてくれていたのか……。)
安堵で今にも倒れそうだった。その気配を察して指揮者が肩を叩く。倒れるのなら幕が降り切った後でなければならない。目の端に映る幕の裾が、漸く舞台の床につく。
「コンダクター、ありがとうございます。」
「よく弾き切ってくれた。礼を言うよ。」
暖かなハグを交わして、ジークフリートはごちゃごちゃになった頭を整理する。抱えていた花束に漸く気付いた。カードを見れば、零からのものだった。
『俺のアポロンが奏でる情景に祝福を。』
ジークフリートは口元を押さえた。湖を彷彿とさせる淡い青の薔薇が、腕の中で咲き乱れている。
(零……!)
袖にはけるダンサー達を押しのけて、ジークフリートは花束を持ったまま廊下を走る。階段を一段飛ばしで降り、自分専用の楽屋の扉に向かう。
「ジーク!!」
「零!!」
左手に抱いていた薔薇の花束はそのまま、ジークフリートは同じように観客席から駆けてきた零の体を右腕で抱き寄せる。
「零、ありがとう。愛してる。愛してるよ零。」
芳しい薔薇とバニラの香水を首元から吸い上げて、ジークフリートはその首筋に顔を埋めた。
「分かった。分かったから楽屋に入って休もう。喉カラカラでしょ?」
労わるように背中を撫でて、零はジークフリートを楽屋に入れる。その背後にいるくぐいなど、気にも留めない。
「座ってて。水どれ?」
「一リットルがテーブルの上に。……花束で埋まってるかも。」
丸いテーブルの上をがさごそと漁る音を聞きながら、ジークフリートはソファーに座る。紙コップに注がれたスポーツドリンクを渡され、一気にあおる。
「この後小さなパーティがあるんだ。」
もう一杯と注がれ、ジークフリートは零の腰を引いて隣に座らせる。
「でも、その前にこの熱を冷ましてくれ。零。」
「いいけど、ソファーで?」
頷くや否や、ジークフリートは零の赤い唇を奪ってクッションだらけのソファーに押し倒す。
「ジーク。」
タイを解いたジークフリートの髪の毛が少し乱れて額が出る。
「俺も愛してるよ。」
微笑む零に、ジークフリートも満足げにその頬を撫でる。
* * *
「コンマス?」
「楽譜はいらない。」
全部覚えた、とばかりに隣席に目配せをするが、そうではないとばかりに首を振られる。彼女の楽譜は既に楽譜台にある。しかし、そこに書かれているのは彼女の指針で合って、ジークフリートのものではない。
「大丈夫だ。」
微笑んで、ジークフリートは指揮棒が構えられると共にヴァイオリンを構える。
(聞いてくれるか、零。僕の長かったお前への恋の苦しみを。)
目を閉じて、指揮棒が振り上げられて空を切る音が来るまで待つ。長く苦しみを表現した。あと一曲だ。
(そして、決別しよう。)
帝國での長い後悔の日々を捨てる為に。
指揮棒が空を切った。ささやかな弦楽の伴奏はオデットをロットバルトから庇う白鳥達だ。悲しげな情景はオデットと王子。ただ二人で支え合って、二人は戦う術さえ持たない。陰鬱な伴奏が弦楽を飲み込む。飛び去っていく白鳥達のように、羽ばたく弦楽の旋律は、やがて力強い吹奏楽に飲み込まれた。その旋律は魔王であり、そして姫と王子の死だ。もうどこにも羽ばたけない翼を動かしながら、甲高い旋律が雲一つない宵の空を舞っていく。オデットは白鳥のまま、ロットバルトの勝ち誇った旋律の中で、ジークフリートは溺れていく。そして、闇は晴れて、ただ太陽だけが、湖面を輝かせた。いかなる死と悲劇の日にも、陽の光は注ぐ。
「零。」
劇場に明かりが灯る。周囲はだれも彼もが立ち上がって、頭の上で拍手を打っていた。清張の声で漸く零は、白鳥の湖という観劇の世界から引き戻されたのである。
「ジーク!」
声を上げて、零は慌てて立ち上がって雨嵐のような拍手に加わる。壇上に上がっているのは、まだダンサー達だけだ。やがて指揮者とコンサートマスターも出てくる事だろう。その時を待ちわびて、零は涙で輝く瞳で舞台を見つめた。
「Bravo.」
ジークフリートはハッと顔を上げた。その声は聞いた事がある。眠りに誘うようなバスの声音。
「大丈夫ですか?」
指揮者に肩を揺すられ、ジークフリートは壇上に上がるように手を差し出された。慌てて立ち上がり、ヴァイオリンを持ったまま青白い光を放つ壇上へ急ぐ。
「ジークフリートさん!」
白鳥のくぐいの横を通り過ぎる時、そう名前を呼ばれた。しかし、彼は見向きもせずに観客席を見つめる。早く零の顔が見たかった。同じ高さの地面で話がしたかった。コンマスと共に、逸る気持ちで観客に頭を下げる。もう一度、今度は大きな花束を抱えさせられた。幕が降りていく。その寸前に零の姿を見つける。疲れ果てて上手く動かなかった表情筋が漸く緩む。
(ちゃんと、聞いてくれていたのか……。)
安堵で今にも倒れそうだった。その気配を察して指揮者が肩を叩く。倒れるのなら幕が降り切った後でなければならない。目の端に映る幕の裾が、漸く舞台の床につく。
「コンダクター、ありがとうございます。」
「よく弾き切ってくれた。礼を言うよ。」
暖かなハグを交わして、ジークフリートはごちゃごちゃになった頭を整理する。抱えていた花束に漸く気付いた。カードを見れば、零からのものだった。
『俺のアポロンが奏でる情景に祝福を。』
ジークフリートは口元を押さえた。湖を彷彿とさせる淡い青の薔薇が、腕の中で咲き乱れている。
(零……!)
袖にはけるダンサー達を押しのけて、ジークフリートは花束を持ったまま廊下を走る。階段を一段飛ばしで降り、自分専用の楽屋の扉に向かう。
「ジーク!!」
「零!!」
左手に抱いていた薔薇の花束はそのまま、ジークフリートは同じように観客席から駆けてきた零の体を右腕で抱き寄せる。
「零、ありがとう。愛してる。愛してるよ零。」
芳しい薔薇とバニラの香水を首元から吸い上げて、ジークフリートはその首筋に顔を埋めた。
「分かった。分かったから楽屋に入って休もう。喉カラカラでしょ?」
労わるように背中を撫でて、零はジークフリートを楽屋に入れる。その背後にいるくぐいなど、気にも留めない。
「座ってて。水どれ?」
「一リットルがテーブルの上に。……花束で埋まってるかも。」
丸いテーブルの上をがさごそと漁る音を聞きながら、ジークフリートはソファーに座る。紙コップに注がれたスポーツドリンクを渡され、一気にあおる。
「この後小さなパーティがあるんだ。」
もう一杯と注がれ、ジークフリートは零の腰を引いて隣に座らせる。
「でも、その前にこの熱を冷ましてくれ。零。」
「いいけど、ソファーで?」
頷くや否や、ジークフリートは零の赤い唇を奪ってクッションだらけのソファーに押し倒す。
「ジーク。」
タイを解いたジークフリートの髪の毛が少し乱れて額が出る。
「俺も愛してるよ。」
微笑む零に、ジークフリートも満足げにその頬を撫でる。
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