神秘学メンズラブシリーズ”nihil”

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第一巻『この幻想が 薔薇色の誇りに なると信じて。』(RoGD Ch.2)

Verse 2-17

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 幼い頃、彼に一人の家庭教師がついた。小学校へ行く代わりに、ジークフリートは彼を師と仰いで勉学に励んだ。無論、その教師は非常に立派な頭を持っていたが、それと同時に非常に低俗な考えも持っていたのである。ジークフリートは早くにそれに気付き、何度もそれを父に訴えたが、父は自身が持つお人好しさで頭を悩ませるだけで対処しようとしなかった。ジークフリートは自らに注がれる視線と、触れられる手に不快感を感じていた。結局、事は起こってしまったのであるが。彼は黙っていた。父も母も彼の様子がおかしいとは微塵も思わなかった。ジークフリートは見事に両親を騙しおおせてしまったのである。



 ある日、ジークフリートは教科書を持って鬱々とした表情で家庭教師のいる部屋に赴く時、父親の呻き声を聞いた。廊下を曲がって、彼は手に抱えていた多くの教材を床に落とす。

「ち、ちうえ?」

 頭を押さえて、血塗れで倒れ伏している父に少年は駆け寄った。隣に棚からなくなっていた花瓶が転がっている。近くには母の生けた真っ赤な薔薇の花束が打ち捨てられていた。

「はやく……かあさんのところに、いきなさい……!」

 自我とは裏腹に、ジークフリートは瞬発的に立ち上がった。この時間、母は自室で編み物をしているか読書に耽っている筈である。広い屋敷を走って走って、ジークフリートは扉を開け放った。

「母さん!」

「駄目よ! ジークフリート!!」

 愕然としたジークフリートの瞳に映っていたものを、彼はその時は理解出来なかった。理解していた事といえば、自分がされた事を、母親が同じ男にされていたという事だけである。



 父の葬式は僅かな人の中で行われた。精神の狂ってしまった母は呼べなかった。喪主はまだ幼いジークフリートが勤め、その手伝いとしてロベルトと、士官学校で父の世話になっていたバスカヴィルが来た。ジークフリートと同い年であったヨハンは、彼を何度も慰めた。葬式の最中、ジークフリートは一度も泣く事がなかった。彼の手に残ったのは、お人好し故に人に金を貸し過ぎた父の莫大な借金と精神崩壊してしまった母と、苦しい思い出のある屋敷、そして全てから逃れられるこの別荘だけである。

 * * *

 太陽が頭を出した。まだ朝の、風のない湖水は辺りの森と前に建つ別荘を鏡のように映し出している。いつの間にか眠っていたレイは、しかし昨日夜が更けるまで友が語ってくれた自らの過去をはっきり覚えていた。カーテンを開けて窓の前に立つジークフリートは、ゆっくりとレイの方へ向く。

「おはよう、レイ。」

 彼の優しい声は、白い半透明のカーテンに紛れて消えていった。



 一つの部屋から美しい音色が聴こえてくる。ラフマニノフのヴォカリーズがヴァイオリンのソロで弾かれていた。鬱々とした高音、優雅なビブラート。眉を寄せて、ジークフリートは自らが生み出す音色を一心に聞きながら弓を動かす。音を聞き止めて、レイが足音を鳴らさずにゆっくりと近くのソファーに座った。音楽とともに呼吸をするジークフリートは、最後の余韻に浸る。弓が弦から離れて、レイは小さく拍手をした。近くにあったすっかり温くなったグラスをジークフリートに渡すと、彼はそれを一気に飲み干す。

「何か楽器は?」

「一つも。」

 弓の松脂を拭く手を止めて、ジークフリートはレイを見た。

「音楽は聴くのか?」

「あんまり……。」

 申し訳ないとばかりに目を伏せて、レイはゆっくりと立ち上がる。まじまじとヴァイオリンを見ながら、ジークフリートの横に立った。

「……特技や趣味は?」

 レイはとうとう押し黙ったまま答えなくなる。五線譜をなぞっていたレイに、ジークフリートはヴァイオリンを片付けて再び問いかけた。

「興味がある事は?その年で楽器を始めるのは難しいだろうが……。」

「ないんだ……すまない。」

 楽譜をジークフリートに渡して、レイはため息をついた。興味は無限大にあったが、ありすぎて手のつけられない状態であった。広く浅く、もしくは深く真剣に物に触れる事が彼には究極的にない。肩を落としたレイにジークフリートは、そういえば、と一つの紙を渡した。

「いつも屋敷でニューイヤーコンサートを開くんだ。良かったら今年来てくれないか。冬休暇が始まった頃に招待状を家に送るから、それまでに返答をくれたら嬉しい。」

 * * *

 湖で釣り、毎日のように森で狩り、二人で料理を作り、時事問題について話し合い、同じベッドで寝る。そんな生活は、まるで星の瞬きのように過ぎ去っていった。荷造りをしていたレイの元に、ジークフリートが神妙な顔をしてやってくる。

「どうしたジークフリート。」

 シャツを畳む手を止めて、レイは振り返る。気付くまで部屋に入らないつもりだったのか、ジークフリートはシガレットを口から抜いて煙を吐くと、ゆっくりとレイの元へ歩いていった。

「……母上にお前を紹介したいんだ。親友として。」

 瞠目するレイを前に、ジークフリートは念を押すように続ける。

「いいか?」

 * * *
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