神秘学メンズラブシリーズ”nihil”

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第二巻『[人間]の業は 人の傲慢で 贖われる。』(RoGD Ch.3)

Verse 1-10

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 夕食とシャワーを終えてベッドに潜り込んだが、ジャンの目はまだ冴えていた。アナスタシアとの会話の後、殆ど無意識を漂っている。アナスタシアはジャンを労って、なにも言わないで紅茶を片付けに行ったようで、夕食に呼ばれた頃にはジャンの前にはいなかった。

(聖書とかはそんなに直接的に書いてないのか……。)

 今まで自分が信じていた世界を突き崩されたようで、ジャンの心には虚無が残っている。暫くベッドの中で身じろぎを繰り返していると、隣のベッドですでに睡眠に勤しんでいたはずのアルフレッドが声をかけてきた。

「眠れない?」

「ちょっとね……。」

 仰向けになって天井の大きな格子柄を見つめる。アルフレッドは感慨深そうな息を吐いて、ジャンの方へ体を向けた。

「他の人に話したら少しは気が楽になるかもよ。」

 次はジャンが深々とため息を吐く番だった。確かにアルフレッドの言う通りである。ジャンは唇が重くて少しの間黙っていた。

「……アナスタシアから、色々話を聞いたんだ。それで、俺が今まで信じてたキリスト教の話は全部が全部そのまんまじゃないっていう事を知った。だから、今まで自分が信じて歩いてきた道が、突然壊れちゃったような気がして。」

 疲れ切ったようなため息は宙に浮いて消えていく。アルフレッドはその話を聞くと、仰向けになって頭の後ろで手を組んだ。

「そっかー。んーでも、別にジャンが信じてた事全部が全部、違ってたわけじゃないよ。」

 首だけを巡らせてアルフレッドへ視線を送ると、アルフレッドはその紺碧の瞳に笑いかけた。

「キリスト教の教えにあるように、この世界には[神]様も[天使]もいるよ。エデンの園だってある。今日やったみたいに、[天使]には白い翼があるし。」

 そういえば、とジャンは再び天井を見上げた。

「世界にある全ての宗教を否定するような事は、この世界の神様はしないよ。」



 アルフレッドのその声はジャンの傷んだ心に染み渡るほど優しく温かい。ジャンは弾んだ声で小さく頷いた。

 灯火がじじっという音を立てる。開いた扉から入ってくる夜風によって、一瞬ぐらりとそれは揺られた。開かれた瞳は、仄暗い寝室の中でアイスブルーの光をたたえている。

「……。」

 フィリップは驚いて起き上がった。頭には傷み一つ走る事はなく、しかし記憶はいまいち霞んでいる。

(どこだ?まさか、また俺が気絶してる間に戦争が終わったなんてこたねぇだろうな……。)

 あまりの外の静けさと澄んだ外気に、フィリップは首を傾げた。風に踊るカーテンを開けると、外は雪が降りながらも雲ひとつない夜空であった。

「んだここ……。」

 イタリアでよく見る中庭つきの住居であった。フィリップの目の前には、月明かりに照らされた広い中庭が広がっている。服はいつの間にか清潔な青いチュニックに変わっていて、フィリップは頭をひねりながら三階の部屋から中庭の床に飛び降りた。

(実は俺は別に死んでなくて、まだフィリップ善良公のまま生存してて現在イタリアで休暇中……?)

 目の前にあるのは、クリスマスツリーでよく使われる巨大なモミの木だ。

(んなアホな話あるか。俺はちゃんと死んだ記憶があるんだ。それに、イタリアならこんな白っぽい建物はそうそうない。ギリシャ地方じゃあるまいし。)

 降り立った床は白い花崗岩でできていた。人の気配を確認して、フィリップは涼しい庭のベンチに座った。偽物の帝國から去る直前、突然流れてきた記憶を思い出す。そう、あの時彼には、フランスの国王、フィリップ二世としての人格、フィリップ二世としての物の考え方、記憶、矜持。その全てが彼の目の前に一つの映画を見せられた。

「おや、起きるのが早いのは良い事だ。」

 朗らかで優しい声が背後から漂ってきて、フィリップは背後に飛びすさりながら声のした方へ振り返った。ダークブロンドが夜風にたなびいている。柔和な微笑みは一切のいざこざを知らなさそうで、しかし男の王たる威厳は全く損なわれてはいない。

「だれだお前……。」

 いつものように腕を振ってナイフを手に持とうとしたが、肝心の彼の獲物は今どこにもなかった。無意識に戦闘態勢に入っていた頭と体の力を抜く。

「始祖相手に、だれだお前、とは随分と肝が座っている。さすが尊厳王というべきか……いや、そもそも顔も合わせた事がないのに、私を知っていてはかえって不自然か。」

 ボソボソと独り言を紡ぐ男に眉間を寄せたところで、感慨深い表情をかもし出していた男は再び微笑んだ。

「私の名前はユーグ・カペー。」

「突然フランス王朝の始祖の名前を名乗りだすたぁ、お前。何様のつもりだ?」

 フィリップとてブルゴーニュ公としての矜持を失ったわけではない。見ず知らずの他人がフランスの王を名乗れば訝しむのは当たり前の事である。

「成る程、実に強か。そして聞いていた通りのチビ。」

「人が気にしてる事を……。もういい。お前もフランス王だっていうなら、俺は天国だろうと煉獄だろうと、死後の世界に来た事になる。つまり、俺は死んだわけだ。それで?あんたは俺のナビゲーターか何かか?」

 指を差せば、ユーグは更に笑みを深めて満足したような顔になった。

「取り敢えず今日は休みなさい。説明は追って明日。ここにも朝、昼、夜の決まりはあるからね。お前が飛び出して来たあそこが、今日からお前の私室だ。壁紙を変えるなり、ベッドを変えるなり、好きにしなさい。」

 まるで親のような口調でそう告げると、ユーグは踵を返してゆっくりと庭から出て行った。

 * * *

 朝起きれば、相変わらずの雪模様に関わらず空は晴天であった。帝國にいた頃よりも酷く近くに感じられる太陽は、しかし全く暑くなく、快適な温度であった。

「おはよう、ございます。」

 フィリップが珍しく素直に丁寧語を発したのは、ひとえに目の前の光景に驚かされたからであった。ダイニングルームの表示に従って歩いて行けば、床に敷き詰められた臙脂のカーペットの上で文化的交流が盛んに行われていた。画家が、彫刻家が、文芸家が、音楽家が、学者が、青を基調とした装束を纏った人々と沢山の言葉を交わしていた。目の前で繰り広げられる光景に唖然とした。更に言えば、交わされる言葉の中には、必要以上に彼の聞き知った名前も聞く事ができた。ミケランジェロ、ラファエッロ、ベルニーニ、デューラー、ダンテ、デュマ、ユゴーなど、巨匠の中の巨匠の名前である。

「おはようフィリップ。私達の食堂はあちらだ。先に席についていなさい。」

 いかにフランドル派のパトロンを務めたフィリップとは言え、目の前で繰り広げられる廊下の交流には流石に胃が縮んだ。ユーグの計らいにたじろいだ返事を返して、会釈を交わしながら、フィリップは漸く一番奥の食堂に辿り着いた。食事の準備はまだ終わっていない。顔をフードで隠したチュニック姿の使用人らしきなにかがせっせとスープやサラダを盛りつけては机に配置している。

「全く、今日くらいよしてくれても——。おや?先客が……。」

 ダークオークで作られた扉を開ける音がして、フィリップは振り返った。長い豊かな金髪を綺麗に巻いた男が、銀髪の日に焼けた男とともに入室してくる。

「おはようございます、お祖父様。あ、いえ。フィリップ様。ルイと申します。」

「お、おう。」

 銀髪の男はそう名乗って、深々と頭を下げた。金髪の男も同様に軽く会釈をする。

「食事はまだのようですね。」

「私達は朝早いですから……。フィリップ様もよろしければ座って待っていてください。」

 ユーグと形は違うとはいえ、二人も上質そうなビロードで作られた青いチュニックを着ていた。肩口には金の百合の刺繍が入っている。勧められるがままに椅子に座って、フィリップは二人の談笑に耳を傾けていた。今日という日くらいは芸術家達も遠慮というものを知ってほしいものだ、とか、この間だれにどんな品を依頼した、とか、先日出版されたこの本の批評がどうだ、とか、他愛ない軽い口振りであまりに教養のある密な内容である。肘をついてぼんやりと外を見れば、雪は降り止む様子も見せずに地に降り注ぎ、室内に意識を戻せばいつの間にか一つを残して全ての席が埋まっていた。

「はぁ、遅くなりました。さて、若干時間が押しましたが朝食にしましょう。」

 やがて静かになった廊下からユーグが入ってきて、朝食は彼の柏手とともに始まった。



 全員が食べ終わったとともにダイニングルームから段々と人が出ていって、行くあても特にないフィリップはユーグとともにその場に残っていた。

「本日は屋敷の案内でもしようかと思っていたのだが、急用が入ったのでそちらに足を運んでもらおう。フィリップ、起きて一日とはいえ懐かしい顔ぶれだ。行ってきなさい。」

 ユーグのその言葉が合図とばかりに、屋敷の玄関口から車の音が聞こえた。言われるがままにするしかないフィリップは、立ち上がって部屋を出ようとする。

「……そうだ、一つ聞きたい事がある。」

「どうぞ。」

 フレーバーティーを口にしたユーグに、フィリップは続けた。

「俺はあの、青いローブ着なくていいのか?」

 朝方サイドテーブルに置いてあった服は、現代風の、黒いタートルネックとジーパン、皮のジャンパーである。どれも着やすくそれなりの値段はしそうであったが、先程ダイニングルームに集まった人々は、例外なくチュニックを纏っていた。絹、ベロア、ビロード、その他生地と形の違いはあれど真っ青で、金の百合の紋章が入った最高級品である。

「お前はこれから沢山動かなくてはいかんだろうから、暫くそれで。」

 特にその答えに不服はなく、フィリップは鼻を鳴らしてダイニングルームを後にした。

 黒い車は屋敷から別の地区に入った。まさにギリシャと思わせる風景が車窓の向こうで流れて行く。終始フィリップはなにも喋る事はなく、運転席のだれかも喋る事はなかった。目的地に着いたところで、運転手はフィリップが座っていた後部座席のドアを開けた。

「うわぁお、こりゃでけぇ。」

 見紛う事なき、形はヴィクトリア様式の大邸宅である。一体何人の使用人が住んでいるのか、フィリップには想像もつかなかった。

 車の音がして、アルフレッドと共同の自室でゆったりと過ごしていたジャンは窓を見た。黒い高級車が一台、ロマノフ邸の前に止まっている。

(誰だろう、あんまり人来ないのに……。)

 運転手が後部座席を開けると、そこから出てきたのはよく見知った影であった。

「フィリップ! フィリップじゃん!!」

 たまらずにガラス窓を上げて、ジャンは外に身を乗り出した。近くのソファーで本を読みふけっていたアルフレッドも、その声で思わず顔を上げる。

「フィリップ?もう復活したの?」

「行こうアル! 間違いなくフィリップだよ!」
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