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第二部 四章

第四十二話 波の音

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「ミーミル様、行ってしまいましたね……」
「二人だけで大丈夫だろうか……」

 パークスとアベルはミーミルが消えた森の奥を見つめていた。

 かなりおざなりな待機命令だったが、一応は皇帝命令である。
 動く訳にはいかなかった。

「人質が心配だな。もし逃げられでもしたら……」
「現神の森に潜伏されるとかなり厄介ですね」

 現神の森が思っているより安全だという事は分かったが、それでも危険なのは変わりない。
 ジェノサイドに会う事は稀だとしても、シドのような魔物が群れを成して存在しているのは間違いなかった。
 あの時は亜人種達の力を借りたから、簡単に倒せたが実際にはもっと苦戦していたはずだ。
 怪我人だけでなく死人がでていてもおかしくなかった。

 そんな場所に潜伏されると、かなり状況が悪化する。
 パークスとアベルが村まで連れてきている人数では手が回らない。

「なら外で待機している部隊を森へ移動させよう。もし潜伏されたなら、人海戦術で当たる。やはり数で当たるべきだ」

 パークスは少し考えてから、アベルに提案した。

「いいのですか? 大事になります」

 大人数で動けば、もう後戻りはできない。
 レガリアやジオだけでなく、マキシウスにも知られるだろう。

 パークスが亜人種と出会っている事が公になる。
 個人的な関係は終わり、公的な関係になってしまう。

 
「……もう大事になっている。それに、皇帝の耳に入った時点で、皆に知られる事だった。それが、ほんの僅かに早まっただけさ」


 パークスは少し寂しそうな表情をしながらも、はっきりと言った。

「副長に連絡をする。少し待っていてくれ」

 パークスは結線石を取り出し、一瞬だけ躊躇ってから、ぐっと握りしめた。

 亜人種との交流が公に知られれば、今までのようにネーネ族の村へ気軽に来る事はできなくなるだろう。
 もしかしたら、今日が最後の訪問になるかもしれない。

『パークス様、どうされましたか?』
「緊急事態だ。ネーネ族の村に部隊を移動させて欲しい」

 結線石が少しの間、沈黙した。

『――それは……本当に、よろしいのですか?』
「頼む」
『了解しました。すぐに向かいます』 


 それを分かっていて、パークスは決断を下した。

 
「正しい決断だと思います」

 ミョルドは、そんなパークスに笑いかける。
 もちろんミョルドも、今後はパークスと会い辛くなる事は理解していた。
 しかしその悲しみを押し込め、パークスを肯定する事を選んだ。
 
 そうして少しの間、パークスは結線石で会話をしてから、接続を切る。
 一息をつくと、パークスは言った。

「――すぐに来るそうだ」
「はい。分かりました」

 パークスの言葉に、ミョルドは深く頷いた。
 
「……下で部隊を待ちましょう」

 アベルは二人に、そう声をかける事しかできなかった。

「そうですね――」

 と言いかけたミョルドが耳をピクピクと動かしてから顔をしかめる。

「どうかしたのか、ミョルド」

 その変化にイカルガがいち早く気づいた。

「――?」

 首を傾げるミョルド。
 聞いた事のない音がミョルドの耳に届いていた。
 
「た、大変!」
 
 部屋の中にいきなりニニャが飛び込んで来た。

「ニニャ、いきなりどうしたんだ」
「なんだか森の様子が変なの! とりあえずラートラが見に行ってくれてて……」
「森の様子が――?」

 イカルガは眉をひそめると、家の外に出る。
 一見すると、外の様子に変化はない。

 しかしイカルガは周囲の空気が、いつもと違う事に気づいた。
 張り詰めるような、ピリピリとした空気。

 強力な魔物――例えばジェノサイドに出会った時に感じた事がある空気だ。

「どうかしましたか?」

 アベルやパークス、ミョルドも表に出てくる。

「何か嫌な予感がする」
「……」

 アベルは辺りを見渡しながら、深呼吸をする。

 空気が重い。
 この感覚をアベルは知っていた。
 帝国兵士ならば、誰もが何度か感じた事があるだろう。

「どうして……戦場の空気が」
「戦場の空気?」

 パークスだけが、森の異変に気付けていない。
 恐らく、これは死を身近に感じた事がある人間だけが分かる。
 パークスは戦場に出た事が、まだ無かったのだ。
 
「何の音でしょう。ざぁーっと、低い音がします」
 
 耳のいいミョルドは、より明確に異変を感じ取っていた。
 ただ生まれてこの方、聞いた事の無い音のせいで、上手く言い表せない。

 もしミョルドが森から出て、一度でも海を見た事があったならば。




 ――それは『波の音』だ、と表現できただろう。
 


 
「シドが村に向かってきてる!!」
 
 村にラートラの声が響いた。
 様子を見に行っていたラートラが村に戻ってきたのだ。

 だがラートラの声は警告の声――というより悲鳴に近い響きだった。

 
 イカルガは不思議に思う。


 シドは危険な生物ではあるが、対処さえ間違わなければ問題なく倒せる相手である。
 先日、シドの群れに襲われた事があったが、あれも時間をかければ掃討できていた。
 群れに遭遇する事は滅多にないが、遭遇する可能性はゼロではない。

 過去に何度か村がシドに襲われた事もある。
 だが大きな被害を出さず、撃退できたのだ。

 その最大の理由は、シドが高所に移動できない事にある。
 シドは、その分厚い甲殻ゆえに木を登れないのだ。
 いざとなれば、木の上に逃れればシドは手を出せなくなる。

 後は発射してくる酸にだけ気をつければいい。
 それも木の上で生活する亜人種には、造作もなく回避できる速度であった。

 
 それなのに、あのラートラの焦燥した様子は一体――。

 
「戦える者は武器を取れ! 戦えない者は高台に上がれ!」

 イカルガは、いつも通りに村全体に届く声で呼びかける。
 
 まずはシドの数を把握せねばならない。

 少数なら問題はないが、多ければ骨が折れる。
 ラートラの様子からして、もしかしたら数え切れない程の数がいるのかもしれない。

 最悪、村を放棄する決断も必要になる。
 
 上空からならば、相手の数も簡単に把握できるだろう。
 敵の戦力を見極め、作戦を組み立てるのがイカルガの重要な仕事であった。

 そうやって、いつも通りにイカルガは空に飛んだ。

 
「イカルガ!! 空は駄目だ!!!!」


 飛びあがったイカルガに向かって、ラートラが声の限りに叫んだ。

 何を――。
 
 と思った所でイカルガの耳に、耳障りな羽音が届いた。

 

――――――――――――――
 
 
 
 現神の実は百年周期で実をつける。
 その実を食べて、現神触『神護者』と現神触『骸』は生まれた。
 
 だが、 その二つが生まれたのは、最近の話ではない。
 正確な年月は分からないが、少なくとも何百年という年月を経ている。
 それならば現神の実は、神護者が生まれてからも、数多くの実をつけたはずなのだ。


 では、その実はどこにいったのだろうか。

 
 実を分けて食べる事で、神護者は六人生まれた。
 六等分された実を食べただけで、圧倒的な力が手に入った。

 
 では、もし実をもっと細かく刻んで、多くの者に与えたらどうだろう。


 仮に六等分ではなく、百等分した実を与えたら。
 それでも圧倒的な力は手に入らないが、強力な力は手に入るのではないか。

 そして、それをコントロールできるとすれば――。

 ジェノサイドを呼び寄せたように特殊な音色で、自由にコントロールできるとするならば。



 



――――――――――――――




 イカルガの目の前にはシドがいた。
 羽を広げ、小刻みに動かしながら。
 自重で絶対に飛べないはずの、空を飛んでいた。



 そのシドは銀色だった。
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