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その頃、諜報員の身に起きた出来事

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 日が沈みつつあった。
 茜色に染まるロゼリア王国首都の東部地区。一件の宿屋には3日前から若い男女の客が泊まっていた。行商人の夫婦という身分で同じ部屋をとった彼らに店主は特に不審も抱かず、せいぜい若い男女ならよくある音や声が漏れて他の客に迷惑をかけないことを願うくらいだった。
 3日間、何も問題は起きなかった。受付の真上にある2人の部屋からは稀に椅子を引くなど生活音しか生まれず、従業員と顔を合わせた際も挨拶する理想的で退屈な客だ。
 だが、その印象を覆す事が起きた。

「ぐおおおおおっ!」

 真上の部屋から男の悲鳴が上がった。

「な、なんだ!?」

 店主は若夫婦に凄まじい喧嘩でも起きたかと急いで駆けつけた。
 扉を何度も叩いて呼びかける。

「おい!大丈夫か!?」

 刃傷沙汰だけは勘弁してくれと店主は祈る。
 血で部屋が汚れると掃除が大変だ。
 扉が開き、髪を後ろで束ねた若い妻が現れた。ナーシャという名前を店主は思い出す。

「すみません。夫がベッドの角に足をぶつけてしまったんです」

 苦笑する妻は一歩下がって足を押さえている夫を見せた。
 背中を向けてしゃがみ込む夫は体がぷるぷると震えている。 

「それだけか?すごい悲鳴だったぞ」
「ふふふ、痛みに凄く弱い人なんです。大げさで困りますよね」
「す、すまねえ!迷惑かけちまったな!」

 夫は背を向けたまま言った。

「ご迷惑をおかけしました。些少ですがこれを……」

 ナーシャはチップを渡し、店主は今までの素行の良さから今回は大目に見ようと思った。
 どんな客にも欠点はあると思いながら。
 
 足音が遠ざかったのを確認し、ナーシャの表情は苦笑から氷のような冷たいものに変わった。
 連れの男に歩み寄ると声をひそめて聞いた。

「引き下がってくれてよかった。もうちょっとで殺すところだったわ。目の調子はどう、タッカー?」
「クソ……駄目だ……魔眼が使えないどころか何も見えなくなってやがる……」

 タッカーと呼ばれた男は片目を塞ぎ、白く濁ったもう片方の目をぱちぱちと開閉する。
 そこに生じる激痛で彼は脂汗を浮かべていた。

「痛いのはわかるけど、悲鳴まで上げる事ないじゃない。拷問対策訓練は受けたでしょう?」
「うるせえ。いきなりだったんだ。お前が音を遮断してりゃよかっただろ」
「はいはい」

 苦痛が滲むタッカーの愚痴を彼女は聞き流した。
 部屋の音を遮断する魔術や魔法具は盗聴を防ぐために使用されるが、一切音がないのも不気味であるし、外で生じる音も内側に聞こえなくなる欠点がある。ノックや声に応じない客人を店側が怪しむ可能性があり、ここでは使わない。最初から2人で決めた事だった。

「ぐううっ、痛みが引かねえ。薬をくれ」
「少しだけよ」

 ナーシャは荷物から出した小瓶を彼に与えた。
 青い液体と光が目に注がれ、しばらくすると舌打ちが聞こえた。

「最悪だ。痛みはマシになったが、何も見えねえ」
「本当に?よほど強い魔術をくらったのね。タッカー、その目で直前まで視えたことを教えなさい。過不足なくありのままを」

 ナーシャは彼の妻という演技をやめて立場が上の同僚として命じた。
 タッカーとナーシャ。二人は獅子国とも呼ばれるガルド帝国の諜報員である。顔も名前も偽っており、当初の任務はこの街で起こる将軍のクーデターを見届けることだった。ロザリア王国の政治と経済の崩壊。戦争の誘発。近隣国への打撃。それらは最終的に帝国の利益になる。そう判断した帝国は数か月前からひっそりと将軍のクーデター計画を促進していた。本人さえ自覚していないクーデター促進計画は無事に実を結んだ……はずだった。
 2人は王たちが処刑される所を見に行かなかった。クーデターはすでに完了し、処刑など後掃除に過ぎない。他国の諜報員がいれば声や挙動を覚えられる。タッカーの遠視魔術さえ使わなかった。しかし、そのせいで2人は女神という突飛な乱入者を目撃し損ねてしまい、強く後悔することになる。
 その話を聞いてから2人は街中の噂をかき集めて本国に報告し、女神が直々に救ったという王女3姉妹を監視するように命じられた。つい先ほどまでタッカーは自身が持つ希少な遠視魔術を使ってヒースリールを覗いている最中だった。

「ヒースリールは部屋で3人とお茶を飲み始めた。変わったことはしてない。密談ってわけでもなく楽しそうにしてたよ。俺が混ざりたいくらいにな」
「無駄口はやめて」
「ちっ。そしたら3人の前で何かが光ったんだ。3人ともそっちを見た」
「どんな光?まぶしいくらい?色や形は?」
「白い光だ。形や大きさはわからない。ぱっと光ったんだよ。そしたらいきなり俺の魔術が弾かれて、目が焼けるように痛んだ。そしてこのザマだ」

 タッカーの片方の眼球は医学的にも魔術的にも機能を失っていた。
 二人は知らない。エーレインが使用する防御障壁は攻撃の意思を持った者やその意思の籠った物体を妨害し、場合によっては反撃する。魔術による覗き見も攻撃の一種とみなされることに。

「魔術的透視や遠視を防ぐ方法はあるけど使用者に反撃してくるなんて……こんな魔術師、帝国にもいないわよ。神殿に所属する魔術師じゃないなら噂の女神様の力かしら?断定するのは危険だけど」
「くそ、くそ、くそ……俺が魔眼の習得にどれだけ苦労したと思ってんだ……」

 タッカーの無事な方の目に憎悪と復讐の炎が揺らぐのがナーシャにはわかった。

(遠視魔術を習得するには才能だけじゃなく血の滲むような鍛錬と膨大な時間が必要……それはわかるけど、任務を忘れないでよ?ああ、でもこの感情を上手く操れば次の任務に使えるかしら?)

 彼女は本国から次に来るだろう命令を推測してそう考えた。
 タッカーの監視魔術への強烈な反撃。それを報告すれば本国の対応は大きく分けて3通りしかない。交渉か攻撃か撤退だ。1番目は適切な人材を3姉妹と引き合わせる必要があり、時間がかかる。3番目は最も消極的で帝国の方針としてあり得ない。ならば足取りが付かない捨て駒を使ってさらに3姉妹に手を出し、背後にいるであろう女神と呼ばれる存在の行動指針や能力限界を探るという2番目の命令が下る可能性が高い。

(正確にいえば攻撃して情報収集し、相手の実力次第では交渉に移るでしょうね。タッカー、あなたの魔眼はおそらくもう使えない。それ以外に大きな長所がないし、何より相手側に存在を知られた可能性があるから消えてもらわないと。そこそこ長い付き合いだったわ。さようなら)

 彼女は内心でタッカーに別れを告げた。
 ナーシャは彼と5年以上コンビを組み、体の関係もあった。しかしそれらは感情に流されやすいタッカーを操って任務に役立てるための演技。必要ならいつでも切り捨てる冷たく細い関係だった。
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