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第13話 里長の操言士と初めての恋情
2.魂の涙(下)
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(だってきっと、あの人たちにも何かがあると思うから)
理由が、背景が、感情が、過去が――こちらの知らない何かが、行動の裏にあるかもしれない。自分ではどうしようもできないものを抱えているかもしれない。表面だけを見て決めつけることはしたくない。それは紀更自身がこれまでにされてきて、とても嫌なことだったからだ。紀更自身が自分の意志で「特別な操言士」になったわけではないように、彼らにだって自分ではままならないことがあるかもしれない。
もちろん、だからといって操言士を誘拐したり都市部を襲ったり、王黎を狙っていい理由にはならない。ムクトルのような犠牲者を出した彼らの行為を、決して許しはしない。
(どうしてピラーオルドの人たちはあんなことをするの。どうしてオリジーアが憎いの。なぜ操言士が憎いの)
彼らを一人の人間として見て、それぞれの思いを知ることはできないだろうか。ピラーオルドだから、敵だから、傷つけ合ってもいい――そんな悲しい思考で停止したくない。なぜ彼らがピラーオルドという組織を形成し、闇の子を狙い、操言士を攫っているのか。その中心にいる闇神様とは何なのか。彼らのことを知りたい。
紀更は椅子から立ち上がると、エレノアから託されたローベルの横笛をショルダーバッグの中から取り出した。
音の街ラフーアに生まれ育った操言士ローベル。何か理由があって、オリジーアを裏切ることを決めた青年。その理由は何だったのだろう。ピラーオルドに所属しながらも肌身離さず持っていたこの横笛には、彼のどんな思いがあるのだろう。
(裸のままじゃかわいそう……裁縫道具があればいいのに)
横笛を持ったまま、紀更は室内を見回した。すると丸テーブルの上に、大きめの裁縫箱とベージュ色のコットン生地が音もなく出現した。始海の塔の主の心遣いだろう。
「あ……ありがとうございます」
いるかどうかもわからない主に感謝を述べて、紀更は椅子に座った。コットン生地を広げ、その上に横笛を置いてサイズを測る。ローベルの横笛を入れる笛袋を作ってあげようと思ったのだ。
(裁縫は久しぶりね。できるかしら)
呉服屋「つむぎ」を営む両親は、生地や装飾小物を売るだけでなく、縫製や仕立てもよく行っていた。紀更もたまに手伝っていたので、裁縫の基礎は身に付いているつもりだ。
(生地を輪にして、入り口は紐で縛ればいいかな)
頭の中に完成図をイメージしながら、作る手順を考える。
この横笛はどうしたらいいだろうか。次にローベルと会った時に返せばいいだろうか。だがローベルと会うということは、おそらくピラーオルドと戦闘になるということだ。とてもではないが返す機会などないだろう。
(ピラーオルドと戦闘になったら、私はまた……)
紅雷に命じなければならないだろう。その爪で、その力で、相手の身体を引き裂けと。怪魔にそうするように人間に対しても容赦なく。
それが嫌なら、紀更自身がピラーオルドを攻撃するしかない。そうしなければ、こちらがやられる。ローベルもアンジャリもライオスも、こちらを傷つけることを躊躇しなかった。やらなければ、紀更自身かほかの仲間が傷つくのだ。
(ローベルさん……)
生地を裁断する手をもくもくと動かしながら、頭は別のことを考える。
ピラーオルドをなんとかしたい。彼らの蛮行を止めて、国の未来を守りたい。しかしそれは、ローベルたち個人を積極的に傷つけたいということではない。それに、ピラーオルドのことを知りたい。王黎を狙う理由や、人間じゃなくなりかけているという闇神様の目的。彼らは何がきっかけで、何を目指しているのか。
(神様……初代操言士)
それが彼らにどう関係しているのだろう。
かつて神様は自分の力を人間に授けた。それはなぜ? 何のために?
神様の力をもらった初代操言士は、その後をどうやって生きたのだろう。その力をひたすら人々のために役立てたのだろうか。
(周りの人には、どんな風に思われたのかしら)
後天的に操言の力を宿した「特別な操言士」である紀更が、好奇や揶揄、あるいは侮蔑や嫉妬のような視線を好き勝手に向けられたように、初代操言士も人々に好き勝手に思われたかもしれない。
(神様から力を授かって、どんな気持ちだったの)
紀更は生地を合わせ、縫い代を確認する。裁縫箱の中から待ち針を取り出し、生地を止める。それから針に糸を通して、ゆっくりと縫い始めた。
(ユルゲンさんはそろそろ起きるかしら)
王黎を狙った馬龍の攻撃。王黎をかばったためにその攻撃をもろに食らい、クロナガミミギツネの姿になってしまったユルゲン。
ヒューマがあえて自らヒューマであると名乗り出ないように、メヒュラもまた、あえて自らメヒュラであると名乗り出ることはない。しかしユルゲンは王黎の言うとおり、メヒュラであると申告していなかったわけではなく、自分のことをメヒュラであると少しも自覚していなかったように見える。
メヒュラは親から子への遺伝だ。だが、ユルゲンの実の両親は早くに亡くなっている。だから彼は、自分がメヒュラであることを知らなかったのだろうか。ユルゲンの育ての親で傭兵でもあるというメルゲントの彼の養父母に訊けば、何か仔細がわかるだろうか。
(思えば、出会ってからずっと近くにいるのね)
王黎と共に訪れた、水の村レイト。そこに出現したキヴィネとの戦闘にユルゲンが加勢してくれてから、なんだかんだ彼とはずっと一緒にいる気がする。王都滞在時はつかず離れずではあったが、紅雷と一緒に実家に来てくれたこともあったし、ユルゲンはずっと傍にいてくれた。そして、旅に出る二人の操言士、王黎と紀更の護衛依頼を引き受けたユルゲン。ピラーオルドに狙われる護衛対象を身を挺してかばった結果、彼は動物型になってしまい、丸一日以上経ってもまだ意識が戻らない。
ただの仕事で、なぜそこまでできるのだろうか。ユルゲンは傭兵で命を張るのが当たり前の生き方で、だから恐れることなどないのだろうか。自分が傷つくことも相手を傷つけることも。紀更が恐れて踏み出せなかった〝あと一歩〟は、ユルゲンにはないのだろうか。王都で安穏と暮らしてきた紀更と違って、ユルゲンは傭兵として危険と隣り合わせの時間を多く過ごしてきたから、今さら恐れることなどないというのだろうか。
(ユルゲンさん……)
自分とはあまりにも違う人。戦闘に、戦場に、慣れている傭兵。
彼はこれまで、どんな風に生きてきたのだろう。何を見て何を感じて、誰と出会ってどんな言葉を交わしてきたのだろう。
(誰かを……)
別の生き物のように淡々と縫い進めていた紀更の手元がふと止まった。
自分より十一年も長く生きてきた、彼のこれまでを思う。
自分の命の危険も顧みずに誰かの身を挺してかばったことが、過去にあるのだろうか。守ってやる、と耳元でささやいて、誰かを抱きしめたことがあるのだろうか。
――紀更。
鮮やかな青い瞳で見つめて、そんな風に確かめるように誰かの名前を呼んだことがあるのだろうか。
(私じゃない、誰かを?)
ふと、紀更の胸が痛む。ぎゅうっ、と心臓が絞られているような感覚だ。
(このまま、もしもユルゲンさんが目を覚まさなかったら……)
紀更の瞳がうつろになる。
ユルゲンはきっとそのうち目覚めるだろう。どこかでそう楽観していた。けれど、もしもこのままずっと寝たきりだったら? 馬龍の攻撃の狙いがそれだったら? 息はしていても意識が戻ることはない。話すことも笑うことも、動くことも戦うことも、もう何もできないとしたら? クロナガミミギツネの姿のまま、寝台から動くことがなかったら? この世界から彼がいなくなってしまったら――。
(――いやっ!)
想像しただけで、張り裂けそうなほどに胸が痛くなる。鋭い冷たさで全身が包まれたようで、背中には不安と恐怖が稲妻のように走り、肌という肌の毛穴が収縮し、頭の中は真っ白だ。まるでこの世界に自分一人しかいないような、そんな孤独を感じる。ここには王黎も紅雷も、エリックもルーカスもいる。王都には両親がいて、友人がいる。決して孤独ではないはずなのに、世界中から疎外されたような心許なさが胸に沁みる。
(私、ひとり……独りはいやなの)
何かが足りない。満たされない。
心の中にぽっかりと穴が開き、すべてがそこへ落ちていって何も残らない。
何もないことで胸が痛む。なぜか憶えのあるこの痛み。ふいに去来する寂寥。
――胸が痛くなったんだ。急に……どうしようもなく、ふいに。
音の街ラフーアでユルゲンはそう語った。ああ、わかる、と思った。紀更にも憶えのある感覚だった。
(以前はぼんやりとしてた。でも今は……)
痛みの発端がはっきりとわかる。
(ユルゲンさんがいなくなったら、私はとても寂しい)
背の高い屈強な体躯が、その黒髪が、普段は仏頂面なのに笑うと少し油断して少年のようになる青い瞳が、もしもいなくなってしまったら。
そう考えると、胸が痛くて仕方がない。張り裂けそうなほどだ。だからそうならないように、彼をどうにかして自分の近くにとどめておきたいと願ってしまう。
(一緒にいたい……)
ずっと、ずっと。
隣にいたい。隣にいてほしい。
傍にいたい。傍にいてほしい。
それは願望で、欲望で、そして要求だ。
それらの根底にある自分のこの感情。いつの頃から胸に秘めていた気持ちの名前は――。
(お願い……起きて、ユルゲンさん。でないと……)
あなたがいないと、私は独りなの。
どんなにほかの人がいても、あなたがいてくれないと。
胸が痛んで仕方がない。寂しくて悲しくて、痛くてどうしようもない。
こんな私を見つけてほしい。気付いてほしい。大丈夫だ、って言ってほしい。
(だって、私は……)
「きさら、さま」
リネンがこすれる音がして、紅雷がもぞもぞと動く。寝台から起き上がって紀更に近寄ったその姿は、久しぶりに人型をしていた。
「紅雷っ」
紀更は縫いかけの生地と針をテーブルに置いて立ち上がる。そして紅雷の腕や頭にそっとふれて、その無事を確かめた。
「大丈夫? もう起きて平気なの? 痛いところとか、ないの?」
「んー、はい。あたしはへーき……でも、紀更様が泣いてる」
「私?」
紀更は自分の目元を手の指でなぞった。だが、涙はこぼれていない。当然、視界も涙でぼやけてはいない。
「ううん……泣いていないわ」
「んーと、紀更様のね、心……魂が泣いてました」
紅雷は寝ぼけているのか、瞼が重そうで話す速度もゆっくりだ。
「だいじょーぶ。紀更様、大丈夫ですよー」
紅雷は紀更の身体を両手でぎゅっと抱きしめた。人のぬくもりをとても近くに感じて、紀更は妙に安心する。
「一人じゃないから、だいじょーぶ」
「紅雷……」
どうしてわかるのだろう。
なぜ紅雷には、紀更の不安な気持ちがわかるのだろう。
紅雷が人の気持ちに敏いから? それとも、紀更が紅雷の操言士で、紅雷が紀更の言従士だから? 本人たちの意識しないところで何かが伝わってしまうのだろうか。
「ねえ、紅雷。お腹はすいてない?」
紀更はゆっくりと紅雷の腕をほどき、やさしく問いかけた。すると紅雷の意識は完全に覚醒したらしく、重そうに閉じていた瞼が開いて今様色の瞳に光が宿った。
「すきました! 超ペコペコ!」
「ふふっ、そうよね。広間に行こうか」
紀更は紅雷を連れ出そうとしたが、紅雷の服がンディフ墓地での戦闘の激しさを表すように破れており、土汚れも残っていることに気が付いた。
「でも、ご飯の前にお風呂ね」
「えぇ~。ご飯が先でいいですよ~」
「さっぱりしてからの方が美味しく食べられるわよ」
紀更は幼子に言い聞かせるような口調で笑う。それから客室を出て中央広間を経由し、浴場へつながるドアへと紅雷を引っ張っていった。
◆◇◆◇◆
理由が、背景が、感情が、過去が――こちらの知らない何かが、行動の裏にあるかもしれない。自分ではどうしようもできないものを抱えているかもしれない。表面だけを見て決めつけることはしたくない。それは紀更自身がこれまでにされてきて、とても嫌なことだったからだ。紀更自身が自分の意志で「特別な操言士」になったわけではないように、彼らにだって自分ではままならないことがあるかもしれない。
もちろん、だからといって操言士を誘拐したり都市部を襲ったり、王黎を狙っていい理由にはならない。ムクトルのような犠牲者を出した彼らの行為を、決して許しはしない。
(どうしてピラーオルドの人たちはあんなことをするの。どうしてオリジーアが憎いの。なぜ操言士が憎いの)
彼らを一人の人間として見て、それぞれの思いを知ることはできないだろうか。ピラーオルドだから、敵だから、傷つけ合ってもいい――そんな悲しい思考で停止したくない。なぜ彼らがピラーオルドという組織を形成し、闇の子を狙い、操言士を攫っているのか。その中心にいる闇神様とは何なのか。彼らのことを知りたい。
紀更は椅子から立ち上がると、エレノアから託されたローベルの横笛をショルダーバッグの中から取り出した。
音の街ラフーアに生まれ育った操言士ローベル。何か理由があって、オリジーアを裏切ることを決めた青年。その理由は何だったのだろう。ピラーオルドに所属しながらも肌身離さず持っていたこの横笛には、彼のどんな思いがあるのだろう。
(裸のままじゃかわいそう……裁縫道具があればいいのに)
横笛を持ったまま、紀更は室内を見回した。すると丸テーブルの上に、大きめの裁縫箱とベージュ色のコットン生地が音もなく出現した。始海の塔の主の心遣いだろう。
「あ……ありがとうございます」
いるかどうかもわからない主に感謝を述べて、紀更は椅子に座った。コットン生地を広げ、その上に横笛を置いてサイズを測る。ローベルの横笛を入れる笛袋を作ってあげようと思ったのだ。
(裁縫は久しぶりね。できるかしら)
呉服屋「つむぎ」を営む両親は、生地や装飾小物を売るだけでなく、縫製や仕立てもよく行っていた。紀更もたまに手伝っていたので、裁縫の基礎は身に付いているつもりだ。
(生地を輪にして、入り口は紐で縛ればいいかな)
頭の中に完成図をイメージしながら、作る手順を考える。
この横笛はどうしたらいいだろうか。次にローベルと会った時に返せばいいだろうか。だがローベルと会うということは、おそらくピラーオルドと戦闘になるということだ。とてもではないが返す機会などないだろう。
(ピラーオルドと戦闘になったら、私はまた……)
紅雷に命じなければならないだろう。その爪で、その力で、相手の身体を引き裂けと。怪魔にそうするように人間に対しても容赦なく。
それが嫌なら、紀更自身がピラーオルドを攻撃するしかない。そうしなければ、こちらがやられる。ローベルもアンジャリもライオスも、こちらを傷つけることを躊躇しなかった。やらなければ、紀更自身かほかの仲間が傷つくのだ。
(ローベルさん……)
生地を裁断する手をもくもくと動かしながら、頭は別のことを考える。
ピラーオルドをなんとかしたい。彼らの蛮行を止めて、国の未来を守りたい。しかしそれは、ローベルたち個人を積極的に傷つけたいということではない。それに、ピラーオルドのことを知りたい。王黎を狙う理由や、人間じゃなくなりかけているという闇神様の目的。彼らは何がきっかけで、何を目指しているのか。
(神様……初代操言士)
それが彼らにどう関係しているのだろう。
かつて神様は自分の力を人間に授けた。それはなぜ? 何のために?
神様の力をもらった初代操言士は、その後をどうやって生きたのだろう。その力をひたすら人々のために役立てたのだろうか。
(周りの人には、どんな風に思われたのかしら)
後天的に操言の力を宿した「特別な操言士」である紀更が、好奇や揶揄、あるいは侮蔑や嫉妬のような視線を好き勝手に向けられたように、初代操言士も人々に好き勝手に思われたかもしれない。
(神様から力を授かって、どんな気持ちだったの)
紀更は生地を合わせ、縫い代を確認する。裁縫箱の中から待ち針を取り出し、生地を止める。それから針に糸を通して、ゆっくりと縫い始めた。
(ユルゲンさんはそろそろ起きるかしら)
王黎を狙った馬龍の攻撃。王黎をかばったためにその攻撃をもろに食らい、クロナガミミギツネの姿になってしまったユルゲン。
ヒューマがあえて自らヒューマであると名乗り出ないように、メヒュラもまた、あえて自らメヒュラであると名乗り出ることはない。しかしユルゲンは王黎の言うとおり、メヒュラであると申告していなかったわけではなく、自分のことをメヒュラであると少しも自覚していなかったように見える。
メヒュラは親から子への遺伝だ。だが、ユルゲンの実の両親は早くに亡くなっている。だから彼は、自分がメヒュラであることを知らなかったのだろうか。ユルゲンの育ての親で傭兵でもあるというメルゲントの彼の養父母に訊けば、何か仔細がわかるだろうか。
(思えば、出会ってからずっと近くにいるのね)
王黎と共に訪れた、水の村レイト。そこに出現したキヴィネとの戦闘にユルゲンが加勢してくれてから、なんだかんだ彼とはずっと一緒にいる気がする。王都滞在時はつかず離れずではあったが、紅雷と一緒に実家に来てくれたこともあったし、ユルゲンはずっと傍にいてくれた。そして、旅に出る二人の操言士、王黎と紀更の護衛依頼を引き受けたユルゲン。ピラーオルドに狙われる護衛対象を身を挺してかばった結果、彼は動物型になってしまい、丸一日以上経ってもまだ意識が戻らない。
ただの仕事で、なぜそこまでできるのだろうか。ユルゲンは傭兵で命を張るのが当たり前の生き方で、だから恐れることなどないのだろうか。自分が傷つくことも相手を傷つけることも。紀更が恐れて踏み出せなかった〝あと一歩〟は、ユルゲンにはないのだろうか。王都で安穏と暮らしてきた紀更と違って、ユルゲンは傭兵として危険と隣り合わせの時間を多く過ごしてきたから、今さら恐れることなどないというのだろうか。
(ユルゲンさん……)
自分とはあまりにも違う人。戦闘に、戦場に、慣れている傭兵。
彼はこれまで、どんな風に生きてきたのだろう。何を見て何を感じて、誰と出会ってどんな言葉を交わしてきたのだろう。
(誰かを……)
別の生き物のように淡々と縫い進めていた紀更の手元がふと止まった。
自分より十一年も長く生きてきた、彼のこれまでを思う。
自分の命の危険も顧みずに誰かの身を挺してかばったことが、過去にあるのだろうか。守ってやる、と耳元でささやいて、誰かを抱きしめたことがあるのだろうか。
――紀更。
鮮やかな青い瞳で見つめて、そんな風に確かめるように誰かの名前を呼んだことがあるのだろうか。
(私じゃない、誰かを?)
ふと、紀更の胸が痛む。ぎゅうっ、と心臓が絞られているような感覚だ。
(このまま、もしもユルゲンさんが目を覚まさなかったら……)
紀更の瞳がうつろになる。
ユルゲンはきっとそのうち目覚めるだろう。どこかでそう楽観していた。けれど、もしもこのままずっと寝たきりだったら? 馬龍の攻撃の狙いがそれだったら? 息はしていても意識が戻ることはない。話すことも笑うことも、動くことも戦うことも、もう何もできないとしたら? クロナガミミギツネの姿のまま、寝台から動くことがなかったら? この世界から彼がいなくなってしまったら――。
(――いやっ!)
想像しただけで、張り裂けそうなほどに胸が痛くなる。鋭い冷たさで全身が包まれたようで、背中には不安と恐怖が稲妻のように走り、肌という肌の毛穴が収縮し、頭の中は真っ白だ。まるでこの世界に自分一人しかいないような、そんな孤独を感じる。ここには王黎も紅雷も、エリックもルーカスもいる。王都には両親がいて、友人がいる。決して孤独ではないはずなのに、世界中から疎外されたような心許なさが胸に沁みる。
(私、ひとり……独りはいやなの)
何かが足りない。満たされない。
心の中にぽっかりと穴が開き、すべてがそこへ落ちていって何も残らない。
何もないことで胸が痛む。なぜか憶えのあるこの痛み。ふいに去来する寂寥。
――胸が痛くなったんだ。急に……どうしようもなく、ふいに。
音の街ラフーアでユルゲンはそう語った。ああ、わかる、と思った。紀更にも憶えのある感覚だった。
(以前はぼんやりとしてた。でも今は……)
痛みの発端がはっきりとわかる。
(ユルゲンさんがいなくなったら、私はとても寂しい)
背の高い屈強な体躯が、その黒髪が、普段は仏頂面なのに笑うと少し油断して少年のようになる青い瞳が、もしもいなくなってしまったら。
そう考えると、胸が痛くて仕方がない。張り裂けそうなほどだ。だからそうならないように、彼をどうにかして自分の近くにとどめておきたいと願ってしまう。
(一緒にいたい……)
ずっと、ずっと。
隣にいたい。隣にいてほしい。
傍にいたい。傍にいてほしい。
それは願望で、欲望で、そして要求だ。
それらの根底にある自分のこの感情。いつの頃から胸に秘めていた気持ちの名前は――。
(お願い……起きて、ユルゲンさん。でないと……)
あなたがいないと、私は独りなの。
どんなにほかの人がいても、あなたがいてくれないと。
胸が痛んで仕方がない。寂しくて悲しくて、痛くてどうしようもない。
こんな私を見つけてほしい。気付いてほしい。大丈夫だ、って言ってほしい。
(だって、私は……)
「きさら、さま」
リネンがこすれる音がして、紅雷がもぞもぞと動く。寝台から起き上がって紀更に近寄ったその姿は、久しぶりに人型をしていた。
「紅雷っ」
紀更は縫いかけの生地と針をテーブルに置いて立ち上がる。そして紅雷の腕や頭にそっとふれて、その無事を確かめた。
「大丈夫? もう起きて平気なの? 痛いところとか、ないの?」
「んー、はい。あたしはへーき……でも、紀更様が泣いてる」
「私?」
紀更は自分の目元を手の指でなぞった。だが、涙はこぼれていない。当然、視界も涙でぼやけてはいない。
「ううん……泣いていないわ」
「んーと、紀更様のね、心……魂が泣いてました」
紅雷は寝ぼけているのか、瞼が重そうで話す速度もゆっくりだ。
「だいじょーぶ。紀更様、大丈夫ですよー」
紅雷は紀更の身体を両手でぎゅっと抱きしめた。人のぬくもりをとても近くに感じて、紀更は妙に安心する。
「一人じゃないから、だいじょーぶ」
「紅雷……」
どうしてわかるのだろう。
なぜ紅雷には、紀更の不安な気持ちがわかるのだろう。
紅雷が人の気持ちに敏いから? それとも、紀更が紅雷の操言士で、紅雷が紀更の言従士だから? 本人たちの意識しないところで何かが伝わってしまうのだろうか。
「ねえ、紅雷。お腹はすいてない?」
紀更はゆっくりと紅雷の腕をほどき、やさしく問いかけた。すると紅雷の意識は完全に覚醒したらしく、重そうに閉じていた瞼が開いて今様色の瞳に光が宿った。
「すきました! 超ペコペコ!」
「ふふっ、そうよね。広間に行こうか」
紀更は紅雷を連れ出そうとしたが、紅雷の服がンディフ墓地での戦闘の激しさを表すように破れており、土汚れも残っていることに気が付いた。
「でも、ご飯の前にお風呂ね」
「えぇ~。ご飯が先でいいですよ~」
「さっぱりしてからの方が美味しく食べられるわよ」
紀更は幼子に言い聞かせるような口調で笑う。それから客室を出て中央広間を経由し、浴場へつながるドアへと紅雷を引っ張っていった。
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